151.オーギュスティーヌの提案
オーギュスティーヌに連れられ町へと繰り出したリリ達は、彼女お勧めという店へ案内されることとなった。
朝食を食べながらでも話を聞かせて欲しいという彼女に対し、お預けを食らわなければ何でもいいとリリは快く頷く。
そんなリリをまた気に入ったらしい。オーギュスティーヌは、
「最近の若い連中は何かっちゃあうだうだ言ってねぇ。話が長くていけない。年寄りは気も余生も短いんだから」
と、冗談交じりに軽く笑った。
彼女らが目的の店のドアを潜ると、まだ朝早くのためか客は一人もいなかった。
しかし店内には非常に良い香りが広がっており、誰かのお腹がまるで耐えられないと訴えるようにきゅるるぅと鳴き始める。
「さあ、何でも頼みな。アタシが連れてきたんだからね。遠慮はいらないよ」
赤面したリリにオーギュスティーヌはからからと笑いながらテーブルにつく。そして彼らの遠慮を解きほぐすように、おどけて片目をパチリと瞑った。
「そっちのアンタも好きなだけ頼んでもいいからね」
「いえ、僕は――」
「若いのに奢るのもアタシの数少ない楽しみの一つでね。老い先短いババアの娯楽を奪うんじゃあないよ。野暮ってもんさ」
護衛という名目を掲げ一緒に付いてきたカーク。彼に対してもオーギュスティーヌは目を細め悪戯っぽく笑った。
粗暴にも思える素振りのオーギュスティーヌ。しかし彼女の後進に対する姿勢はいつも厳しくも優しい。
そんな彼女を慕う者は多く、伯爵もまたそのうちの一人だ。それを知るが故に、伯爵家の者は皆、余計に彼女に口出しできないのであるが。
「じゃあ、私はこれを! あっ、えーっと、やっぱりこれ! ……は止めて――」
「ハッハッハ! もう全部頼んじまいな! おーい、セサル! こっちに来な!」
壁に掛けられたメニュー表を見ながら迷うリリを見て、オーギュスティーヌは哄笑しながら店の奥にいた店長に声をかける。
「あいつの料理は美味いからきっと食べられるさ。もし残っちまってもうちの連中に食わせちまうから、気にせず好きに頼みな!」
そして、彼女はそう言って白い歯を見せた。
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「アンタ馬鹿かい?」
「はむはむっ……んむっ!?」
オーギュスティーヌは冗談でもなく、本当に馬鹿を見るような目でリリをじっとりと見据えた。
その視線を受けたリリは、んぐんぐと抗議をしようとするが、口に詰まった食事が邪魔をして言葉になっていない。
オーギュスティーヌは呆れた様子でコップを差し出す。それを両手で受け取ったリリは、水を一口飲みこんでから、はぁと大きく息をついた。
「あのねぇ……あの師団長もそうだけど、アンタもアンタだよ。魔法陣を反転させる手法なんて今まで誰も考えつかなかった新しい手法だし、魔法陣をわざと失敗する手法なんて……ありゃあ魔法陣学の革命さ。それを無償で公開するなんて馬鹿のやることさね」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ、全く」
面白くもなさそうに頬杖をついて、オーギュスティーヌは盛大に溜息を吐く。
「まあアンタが魔法陣を学んでから日が浅いってのは分かった。だけどね、アンタの考えたことは正しく、魔法陣に携わってきた者達の人生を大きく変えることになるはずだよ。日陰者の人生に煌々と日が差すくらいには、ね」
魔法陣学。それは既に廃れてしまった学問であり、その言葉を知る者など殆どいない、超どマイナーな学問である。
それ故に修めようなどと言う酔狂な者はこの王国内には殆どいなかった。
魔法陣学が廃れてしまった理由はいくつもある。
大きな理由としては、まず魔法陣が魔法の発動により破壊、劣化する消耗品であり、効率が悪すぎること。
壊れないものもあるにはある。だがそれは下位魔法レベルの非攻撃魔法に限る話で、トイレや水道などの、ごくごく簡単なインフラにしか使用できていなかった。
また、既知の魔法を発動する技術しかないため、魔法を使える人間にその場で使わせた方が効果的なケースが大半だった。
少なくとも、消耗品を持って行ってまで魔法を使わなければならない、という状況は殆ど無かった。
他にも、魔法陣の定着にその魔法を使える者が必要であることも、人気のない一因でもある。
当然だろう。魔法が使えるのに、なぜ魔法陣をわざわざ作らなければならないのか。そんな面倒なことを買って出る者はいない。それが現実だった。
「だけどね――」
オーギュスティーヌの眼がギラリと光る。その鋭い眼差しに、リリもカークもビクッと体が反応した。
しかしそれらの、日の目を見ない理由の根幹を成す大きな問題が魔法陣にはあった。それは魔法陣の解析が全く進んでいない、と言う如何ともしがたいものだった。
魔法陣は精霊文字と呼ばれる、”文字のように見える何か”を陣のように描くことによって作り上げられる魔法発動体である。
分かっているのは、たったそれだけ。
精霊文字は本当に文字なのか? 文字の意味は何なのか? なぜ精霊文字と呼ばれるのか? 描かれる陣の形には意味があるのか? いつ誰が作ったものなのか?
それらの意味すら全く分からず、現状はただ既知の魔法陣を刻むのみ。
数百年もの間、その学問は停滞の一途を辿るだけだった。
精霊文字が本当に文字であり、その文字によって紡がれる内容が言葉であるのなら。その内容が理解できるのなら。
更に発展できる可能性は十分にあると、そう考えた人間は勿論少なくない。
だが今日まで解析できたという報告が成されていない事からも、その結果は推して知るべし。結局魔法陣学は埃を被ったままで、細々とした役割を果たし続けるだけだった。
オーギュスティーヌも己の知識を深めるため、そしてほんの少しの興味があって、魔法陣学を修めてはいた。
しかしその内容は既存の魔法陣の描き方講習のような非常に浅いもので、その根幹にかすりもしない内容に多弁な彼女すら呆れ果て、本を投げてしまうような有様だった。
しかしである。今回エイクは炸裂弾を作るにあたって、”着火”をベースに火を噴く魔法陣を作り上げた。
そう。”火を噴きだす着火”を作り上げたのだ。
”着火”は何かに着火するだけの魔法であって、火を噴きだす魔法ではない。
つまり効果は小さくとも、”既存の魔法の中には無い魔法”を作り上げたのである。
この事実を知り、実際に目にもしたオーギュスティーヌ。彼女はエイクにあの手法を聞いてより今日までずっと、体中の血が沸き立つような高揚感を抱き続けていた。
もしこの手法が公開され、王国――いや、大陸中の魔法陣学者が目にしたらどうなるか。
歴史に名を連ねんと血で血を争う、群雄割拠の大戦となるのは火を見るよりも明らかだった。
だというのにだ。
「この魔法陣をわざと失敗する手法で、もしかしたら精霊文字の解析が進むかもしれない。それがどれだけの偉業となるか。アンタには分かるかい?」
「偉業なんですか?」
「……これだよ」
目の前の発案者はよく分からないという様子で、ぽやんと首を傾げている。
教える方も教える方なら学ぶ方も学ぶ方であったかと、オーギュスティーヌは痛む頭に顔をしかめた。
余談だが、大海嘯を抑えた翌日、オーギュスティーヌはすぐにエイク達に会うため城へと足を運んでいた。
しかしそこにはもう目的の人物はおらず、ただあったのは伯爵に宛てたエイクからの手紙のみだった。
キレそうになりながらその内容を伯爵に聞けば、その中の一文に、炸裂弾に使用した魔法陣は好きにして良いと記されていたそうで、
「何を考えているんだあの馬鹿タレは!」
――と、伯爵を驚かせるほど叫んでしまった婆さんであった。
脳の血管へのダメージが心配である。
「あ、あの~……。ちょっと、いいですか?」
そんな時、恐る恐るという様子で手を上げる者がいた。
「僕、それ聞いちゃってもいい感じです? なんか、嫌~な予感がするんですけど」
カークは顔を引きつらせながらオーギュスティーヌの顔を見た。それに対するオーギュスティーヌはと言えば、
「アンタの方が良く分かってるみたいじゃないか」
「ですよね~……」
「この店に誰もいない時点で気付きな。今日はアタシが貸し切りにしてるんだよ。ぬかったね坊や」
と、その予想が間違いでないことを口にし、ちゃらんぽらん師弟へのいら立ち紛れに、ケケケと悪魔のように笑った。いや、悪魔そのものだったのかもしれない。顔が特に。
話を始めてからしばらく経つというのに、店には誰も入ってこない。その状況にカークも不穏なものを感じてはいたのだ。
だが、気付いた時には既に遅かった。面倒ごとに巻き込まれてしまったと、カークは引きつったような笑顔を浮かべた。
「黙ってりゃいいだけさね。そうしたら悪いようにはしないよ」
「はぁ……悪い予感ばっかり的中するんだよな、僕。分かりましたよ。僕にとっても、誰に話したところで益はない話ですし、誰にも話しませんよ……」
「素直な奴は好きだよ。もしこれが漏れでもしたら、相当やばいことになりそうだからねぇ」
「やばいこと、ですか?」
カークとの会話にリリが不思議そうな声を上げたため、オーギュスティーヌは、そうだよ、とまたリリへと視線を向けた。
「アンタの示したものは、きっと燃えカスみたいに――いや、燃えた事も無いだろうからただのカスだねぇ。そのカスだった魔法陣学にとって途轍もない燃料になるだろうね。だけどね、こいつはちょっとばかし大きすぎる燃料だ。一端火にくべちまったら最後、収拾がつかなくなっちまう。だからその前にある程度の指針を示してやった方がいい」
「指針……ですか?」
リリの呟くような声に、オーギュスティーヌは小さく頷く。
「まずある程度、研究した結果をつけて世に出すんだよ。わざと失敗したら新しい魔法陣ができました! ……なんて言うだけ言って放りだしたら、きっと馬鹿やらかす奴らも大勢いるはずさ。でもそういう奴らに限って、被害が大きくなると失敗したのはお前のせいだとか言って難癖付けてくるだろうからね。それが個人なら張り倒して終わりだけど、国単位だったらちょいと不味い」
王国の北にあるサーディルナ聖王国。そして南のルルレイア帝国。お題目さえあれば、どちらも平気でやばいことをやりそうな国である。
さらに、南のルルレイア帝国はこの王国をも取り込まんとする不穏な国だ。かこつけて難癖をつけるなど、平気でやりそうである。
オーギュスティーヌの懸念は当然だろう。しかしそんな情勢が分からないリリは、違うところに首を傾げた。
「私の住んでいる所まで来るんでしょうか? それだとちょっと困りますね」
言われてみれば、リリの故郷はドゥルガ山にある青龍族の集落である。
前人未踏のドゥルガ山の、しかも龍人族の住まう場所にまでクレームをつけに来る酔狂な者がいるだろうか。
「あー……どうだろうね。来るかもしれないねぇ」
一瞬そう思ってしまったオーギュスティーヌだったが、まあ今はどうでも良いかと適当にスルーした。
「だから、その研究結果がまとまるまで他言無用にしておきな。余計な諍いに巻き込まれたくはないだろう?」
「それはそうですけど。でも私、研究するような時間はないですよ?」
「そこさね!」
オーギュスティーヌはピッとリリの鼻先に人差し指を向ける。
「そこで相談があるんだけどね。その研究、アタシらにやらせて貰えないかい? 勿論アンタ主導の研究ってことで進めるし、誰にも情報を漏らさないことを誓う。ただ欲を言えば、公開をする際にアタシらの名前も端っこのほうに載せて貰いたいね。ああ、アタシの名前は別にかまやしないんだ。でも、門弟共の努力は報われて欲しいんだよ。ババアのお節介だって笑ってくれてもいい」
ふっと優しい表情で笑いカップを口に運ぶと、乱暴にグビリと飲み干すオーギュスティーヌ。それを見たカークは、彼女を優しい人だと感じた。
あんな風に擦れたような口調をしているが、きっと素直じゃないだけなのだろうな、と。そう思った。
そしてそう思ったからこそ、リリュール様ならきっとそれをお見通しで、いいですよ、とあっけらかんと言うだろうなと苦笑する。だからほんの軽い気持ちで、カークはその表情を横目で盗み見たのだ。
しかし――予想外にも真剣な表情をしていたリリに、ゾクリ、とカークの背筋に冷たいものが走った。
「オーギュスティーヌさん」
先ほどまでの柔らかい口調とは異なり、抑揚の抑えられたそれにオーギュスティーヌも顔を固くする。
「私、人族の方と関わるまで良く知らなかったんですけど。人族の方って結構軽々しく信じて欲しいって言いますよね? 私、それでセントベルでは痛い目を見てしまって。ああ、人族と龍人族はやっぱり違うんだなって、そう思ったんです」
リリはセントベルで水鏡乃杖を盗まれた時のことを思い出す。
あの時も、信じてくれよー、と言う青年の軽い言葉に騙されてしまい、青龍族の秘宝たる杖を盗まれてしまった。
エイク達のことは不思議と信じる気になれ、そしてその気持ちは間違いでなかったと確信しているリリだったが、しかしそんな体験もあって、人族を信じるということに関しては以前よりも懐疑的になっていた。
「先ほど”誓う”と仰いましたが、本当に信じても良いのでしょうか? 私達龍人族にとって誓いというのは、あなた方が思っているよりもずっと重い意味があるんです。それこそ、命を天秤にかけるのと同じほどの意味が」
リリにとってオーギュスティーヌの提案は、別段大した内容で無いものだった。
人族の利権が絡む事象などはっきり言って理解が出来ず、研究など好きにやれば良いではないかという思いしか抱かなかった。
しかし、”誓う”という言葉をオーギュスティーヌは発した。それは場合によっては龍人族の誇りに抵触する看過できないものだった。
常にのんびりとしたリリであっても、人族に不信感を抱き始めた今、聞き流して目をつぶるなど到底あり得ない言葉だった。
リリの龍眼が放つ眼光にオーギュスティーヌの肌も泡立つ。隣に座るカークですら寒気を覚えるほどにリリから放たれる威圧は凄まじく、店内を冷たく包み込んでいた。
直接の相手でない自分ですらこうなのだ。目の前に座るオーギュスティーヌは一体どれほどの威圧を受けているのだろうか。
カークはそろりと目を向ける。だがそこに座るオーギュスティーヌも、老いたりとは言えただの婆さんではなかった。
「……この老い先短いババアの首くらいだったらいくらでも持っていきな。安いもんだよ、こんなのは」
リリの双眸を見つめ、その威圧を全身で受け止めながら、彼女はそうはっきりと言い放った。
オーギュスティーヌにとって日の目を見ない魔法陣事業というのは、単に老後の暇つぶしでしかなかった。
しかし彼女と共に働く門弟達はそうではない。町の人々に必要とされていると信じ、そんな大成しない仕事でも真面目にコツコツと働いてきたのだ。
そんな彼らの愚直さに、なんとか報いてやりたいと常々思っていたオーギュスティーヌは、これを逃したらもう機は無いと確信していた。
なら、残り少ない自分の人生など賭けても惜しくはない。そう本心から思っていた。
副長として、オーギュスティーヌは長い間ハルツハイム騎士団に籍を置いた人間だ。それ故騎士団には、それはもう沢山の教え子達がいた。
子供のいない彼女には、共に領で暮らし、青二才のころから丁寧に叩き上げた彼らの存在は、我が子のように可愛く思える存在であり、そして自慢だった。
しかし五年前の王都奪還戦において、教え子達の殆どが帰らぬ人となってしまった。この事実は、引退した身の彼女の心を大きく蝕んだ。
さらに二年前のシュレンツィア襲撃が彼女にダメ押しの一撃を加えた。
快活だった彼女は急速に老け込み、その闊達さを消してしまう。それは日を追うごとに顕著に表れ、周囲の目には、彼女の心がまるで生きることを止めてしまったかのようにすら見えていた。
このまま消えゆくかと思われたオーギュスティーヌの灯。
しかし。ある一言が彼女の心に再び火をつけることとなる。
――お前達の大切なものは――お前達の手で守れッ!!
年を理由に一線を引いたオーギュスティーヌ。しかし老いさらばえた自分にも、まだできることがあるのではないのか。
周囲の熱に浮かされたのか。はたまた燻ぶっていた火種が再び燃え始めたのか。
その言葉に奮起させられた彼女は、再び往年の輝きを取り戻す。
何かを理由に引くという後ろ向きな選択肢は、もはや彼女の心の中のどこにも、塵ほども存在していなかった。
「――分かりました」
ふ、と体が軽くなるような錯覚を覚える。見れば、目の前の少女はいつの間にかたおやかに笑っていた。
「ではその研究、全面的にお任せします。勿論オーギュスティーヌさんの名前も出して貰って構いませんよ」
くすりと悪戯っぽく笑うリリ。そんな表情を見て、やっぱり龍人族てのはおっかないもんなんだねぇと思いながら、オーギュスティーヌは疲れたように背もたれに体を預けた。
普段から饒舌なオーギュスティーヌ。しかし今は苦笑いを浮かべるのが精一杯。
今の疲弊した精神に、軽口を叩くだけの胆力はもう残っていなかった。
ちなみに。
店主はリリの威圧に当てられて、店の奥で泡を吹いていたそうな。
合掌。




