150.ババア降臨
「今日は良い出発日和ではないか! なあカーク君!」
「オディロンさん、テンション高いですね~……」
久々にふかふかのベッドで眠ることのできたオディロンは非常に上機嫌であった。
彼は窓の外から見える太陽にも似た、曇り一つない笑顔を浮かべており、その鎧も日光を反射して鬱陶しいほどにキラキラと輝いている。
旅の間、よく眠れず朝の機嫌が悪いことが多いオディロンだったが、しかしよく眠れたら眠れたでまたこの騒ぎだ。
どうしようとウザったいことには変わりないのかと、カークは自分の感情を誤魔化すように一人額を揉んでいた。
白龍族の追手が迫っている事を伝えんがためにエイクを追っているカーク。彼は誰が自分の助けになるか、誰が自分の邪魔になるかを、慎重に見極める必要に迫られていた。
オディロンは当然後者だ。そしてリリもまた当然エイクの敵となる可能性が高い。
彼は慎重に慎重を重ね、彼らに対し、自分の立場やエイクへの感情をここまでひた隠しにしてきた。
ところがである。意外なことに、道中でリリがエイクに対して見せる表情は、彼が予想していたものとは一八〇度異なるものだった。
白龍族からの依頼を受けたリリなら、真偽はともかくエイクが白龍族を排斥しようと動いていた、という話があると知っているはずである。ならわずかでも猜疑心を抱いても良かろうはずが、なぜなのか。
困惑しながらも自分の任務を果すため、その態度が取り繕われたものなのか、はたまた否かを早急に見定めんとしていたカーク。
幸いにも昨日絶好の機会が訪れ、フィリーネとの会話の中、人知れずカークは珍しく頭をフル回転させたのだ。
果してその結果は――
(リリュール様は味方になってくれるかもしれない。全面的に信じるにはまだ情報が足りないけど、何にせよまずはオディロンさんを撒かないと)
リリの抱くエイクに対する感情は良いものだ。
そう考えるに至ったカークは、まだ味方と断定できないにしても彼女にアプローチをして、もう少し情報を引き出そうと試みることにした。
となればオディロンがすこぶる邪魔である。
この隣のやけに鬱陶しい騎士を撒く算段をどうにかしてつけられないか。そう考えながら、カークはオディロンと肩を並べ、リリに割り当てられた部屋へと足を向かわせていた。
一方そんなことは全く知らないリリ。
「昨日のご飯、美味しかったなぁ……。今朝のご飯は何だろう?」
彼女は少し前に起床し、部屋で一人身支度を整えているところだった。
カークの思惑など知る由もなく、いそいそと髪を梳かしながら、呑気にムフフと含み笑いを浮かべていた。
実はリリにとって、シュレンツィアは初めて訪れる町ではなかった。
シュレンツィアはリリの故郷であるドゥルガ山から、最も近い場所にある人族の町だ。
そう、ここはリリが故郷を出てから初めて訪れた人族の町だったのだ。
故郷を飛び出して山を降り、山裾に広がる森を抜けたリリは、遠くに見える城壁に導かれるようにこの町へとやってきた。
ただ、町へ入る際は門衛に顔を見せなければいけないが、青龍族であるリリはそれが出来なかった。
そのためこっそりと――良心の呵責はあったがそれ以上の好奇心に負けて――闇に紛れて入り込むことにしたのだが。
そこで見た光景に、リリは人族と青龍族との間にある隔たりを見せつけられると共に、今まで生きてきた中で最も強い感銘を受ける事になったのだった。
岩肌がむき出しの薄暗い洞窟の中に住み、外へ出ても雪で白一色という、彩色に乏しい故郷。
しかし、その肌を貫くような寒さの中にある静謐な風情がリリは好きだった。
朝方には大気中の細氷が美しくひらひらと踊り、日中には陽の光を浴びて白い雪原が宝石を散りばめたように輝く。
身を貫くような寒さの中にある美しい輝きが、まるで辛い状況でも暖かな絆で繋がっている自分達の事のようにも思え、故郷の事が本当に大好きだった。
それがいざ山を降りてみればどうだろう。夜だというのにあちらこちらに明かりが灯り、大通りに沿って町の中央へと赴けば、屋台に群がる大勢の人間の活気に当てられ頬がかっと熱くなるほどだ。
人々は手に持つ飲み物――後でこれがエールという飲み物だと知った。苦くて飲めなかった――を賑やかに歓談しながら飲み干し、さも美味しそうに声を漏らす。
そんな姿にリリの喉もつられてゴクリと鳴ってしまった。
故郷のような厳しさも静けさも無い、色彩に溢れた人族の営み。それはリリには未知の体験であった。
そして、まだ年若いリリがそれに夢中になってしまったのは無理もなかったのだろう。その日からリリの屋台巡りが幕を開けたのだった。
人族の持っている金などないリリは、予定通り故郷から持ってきた薬草などのめぼしいものを売り払って金を作り、屋台へと走った。
そしてそれから一週間を費やし、多種多様な料理に感嘆の声を上げ続け、大いに楽しんでしまったのである。そう。”しまった”のである。
金のなる木がこの世に在りもしなければ、空から金が降ってくるような事も起きるはずがない。
精を出しすぎた結果、道半ばで金欠になってしまい、自分の過去の行いに頭を抱え途方に暮れることになってしまったのだった。
しかしそれがもとであの四人と会うことになったのだから、縁とは分からないものである。
さて、そんな衝撃的な経験をしたリリの頭には、一つの大変重要な事柄が刻まれることになる。
それは、”人族のご飯は凄く美味しい!”だった。
故郷には調味料の類など、深い雪の下からごく稀に見つかる香草程度しかない。胡椒や油はもってのほかで、塩すらも無かった。
小麦粉も無ければ青果もない。あるのは狩ってくる魔物の肉と、魔物から採れた血、洞窟の奥深くで栽培している、栄養が足りず木の根のようなヒョロヒョロの野菜。そしてその土の中に潜っている、人差し指と親指で作った円にすっぽり収まる程度の大きさの芋虫。これが全てだった。
そんな環境に置かれた青龍族の調理とは、それらを焼くか煮るかしたものでしかない。つまり食べ物の味はほぼ野生の味だ。
それが当然であるため、美味しいとも不味いとも意識せず、ただ生きるために糧を口に運ぶ。その行為を食事だと思っていたリリには、様々な手法によって作り出される料理というものは、まるで一種の芸術のようにも思えた。
昨日の夕食も、リリにとっては聞いたことのない食材に見たこともない料理で、顔を曇らせながら食べるフィリーネを尻目に、リリは目を輝かせながらそれらを十分に堪能したのだ。
とろけるような笑みを見せるリリに、厳つい顔の伯爵も釣られ、珍しく満面の笑みを見せた程である。
今日の朝食も一体どんなものが出てくるのか。きっと見たことのないものが出てくるのだろう。
楽しみで踊る胸を抑えきれず、リリはふんふんと鼻でリズムを奏でながら、にこやかに頬を緩ませていた。
だがそんな朝の穏やかな空気の中、突如としてそれをぶち破る者が現れた。
「ここかいッ!?」
「ひあぁぁっ!?」
バァンッ! と激しい音を立てドアを開き、何者かが部屋へとずかずかと入り込んできたのだ。
その後ろから「お待ちください!」と慌てた様子の家令のベルナルドも続く。だがそんなベルナルドの様子などどこ吹く風で、部屋に入ってきた闖入者は確かめるように部屋をぐるりと見回すと、椅子に座っていたリリの姿に目を止め、にんまりと笑った。
部屋に入ってきた人物。それは大海嘯の折、エイクに指示され炸裂弾用の魔法陣を作る一団を指揮した、あのオーギュスティーヌ婆さんだった。
少なくとも身元はしっかりしており、悪い人物ではない。ただそんなことを知らない人間からすれば、知らないババアが無断で部屋にズカズカと入ってきたわけである。恐怖を感じるなというほうが難しい。
然もあらん、突然の厳ついババア襲来に、リリもぽかんと口を開き目を丸くしていた。
「ちょっと邪魔するよ!」
だがそんなことなどお構いなし。オーギュスティーヌはリリの前までつかつかと歩くと、その顔に目を向けてにんまりと笑った。
そうこうしている内に、タイミング良く近くまで来ていたオディロンとカークが何事かと部屋に駆け込んでくる。しかし彼らも、リリと、その前に仁王立ちする恐怖の老婆、そしてオロオロと慌てる家令というおかしな状況にどうして良いか分からず、部屋の中で立ちすくみ言葉を失った。
「アンタだね? あの炸裂弾の製作者ってのは! 悪いけど面貸してくれるかい!?」
「え、ええ?」
だが当のオーギュスティーヌはそんな周囲の戸惑いなどまるで気にしていない。炸裂弾の製作者が来ていると知り、珍しく興奮し気が急いていたのだ。
相手の反応など意に返さず、リリにぐいと顔を近づけると、まるで脅すような台詞を口から吐き出す。対するリリはと言えば、当然だが話が全く見えず目を白黒させるばかりだ。
そんなリリの様子と、ともすれば連れ去らんばかりの勢いのオーギュスティーヌに、ベルナルドは焦った様子で二人の間に割って入った。
「オーギュスティーヌ様! お待ちください! リリュール様はまだご支度も整えられていないご様子。朝食もまだ召し上がっておいでになりませんし、お話はその後でも――」
ベルナルドはもう慌てに慌てた。相手はかの青龍姫。礼を失すればハルツハイム家の名が地に落ちてしまうことすらあり得る相手だ。
伯爵からも、くれぐれも丁重にと釘を何本も刺されており、歴史あるハルツハイムに仕える洗練されたメイドや執事達も、普段より気を張っていたくらいなのだ。
だと言うのに、ここで予想外のババア降臨。
伯爵家は大騒ぎになった。
オーギュスティーヌは伯爵に魔法を指南し、ハルツハイムの魔法部隊編成に副騎士団長として大いに貢献した、伯爵ですら頭が上がらない厄介者――いや、大恩人だった。
そう、実は彼女はそんじょそこらの婆さんではない。ハルツハイム家にも頭を垂れさせる、スーパーマジカルお婆ちゃんなのだ。
その実績によって彼女に物申せる者は非常に少ない。だがベルナルドはその胆力と忠心でもって彼女に食ってかかった。
まさに忠臣の鏡と言えよう。部屋の外で様子を伺っていたメイドらは、そんな彼の姿に心を打たれ、口に両手を当てたほどだ。
家令がそこまで言うのだ。普通の人間なら止まったかもしれない。
だが無念なことに、このババアは普通ではなかった。
「時間なんていくらあっても足りゃしないんだよ全く! 棺桶に入ってからどうぞと言われても困るんだよこっちは! あんたリリュールとか言ったかい? 飯くらいいくらでも奢ってやるから、ちょいと話を聞かせてくれないかい?」
「そんな無理を仰らず――!」
「本当ですかっ!? 行きますっ!」
「えぇぇぇっ!?」
リリの事を気遣い、何とかオーギュスティーヌを押し留めようとしたベルナルド。しかし悲しいかな、その当人から元気よく背中から撃たれ、彼はあるまじき素っ頓狂な声を上げてしまった。
逆にオーギュスティーヌは、目を輝かせ跳ねるように立ち上がったリリに、そうこなくっちゃねぇ! と指を鳴らし、ニヤリと口を歪めた。
「身支度はもう済んでるかい? 流石にそのくらいは待たせてもらうよ」
「いえ、今終わったところです! 行きましょう!」
「元気だねぇ。気に入った! アタシはオーギュスティーヌ。オーギュスティーヌ・オーグレーンさね」
「私は――」
部屋に佇む三人の男の事など目に入らないのか、自己紹介をしながら脇を素通りして部屋から出ていく二人。
情けない男衆は困惑の表情を浮かべながら、それを見送ることしかできなかった。
ただ一人を除いては。
「どうやら今日の出立は無理そうだな、カーク君。……うん? カーク君?」
はっと我に帰ったオディロンは、困ったような表情を浮かべ後ろを振り返る。だが既に、そこには誰もいなかった。
ベルナルドも慌てて退室して行ったため、部屋には他に誰の姿もない。虚空に向けて話しかけたオディロンは、ただ一人、ぽつんと立ち尽くすのみだった。




