147.ここからまた二人で
開かれた窓から柔らかな風が吹いてくる。花瓶に生けられた花達が風を受け、まるで話をするようにゆらゆらと静かに揺れていた。
そよそよと撫でるような風が、ベッドに横たわる青年の髪を優しく揺らしている。しかし彼は安らかな顔で目を閉じ、穏やかな寝息を立てるだけで、目を覚ます様子が全く見られなかった。
物音一つしない静かな部屋。そこに、コンコンコン、とドアをノックする音が響く。
そしてしばらく間をおいた後、一人の青年が部屋に入ってきた。
「サイラス? 起きて――ない、か」
サイラスの親友であるウォードは、彼が倒れてから毎日、こうして彼の見舞いに来ていた。
期待するように声をかけながら入ってくるが、しかし彼の様子を見てそれも尻すぼみになり、最後にはしゅんと眉尻を下げる。
彼が倒れてからというもの、ウォードはいつもこんな調子だった。
突如発生した大海嘯をシュレンツィアで迎え撃ち、奇跡的に撃退してから、今日でもう四日が経過していた。
大海嘯がシュレンツィアに残した爪痕は非常に大きい。しかしそれ以上に、あの戦いを切っ掛けに人々が得たものは大きかった。
二年前、魔族達の奇襲を受け、シュレンツィアに住む沢山の人間が死んだ。
武器を持つもの、持たざる者、その区別もなく大勢の人間が死んだ。
その凄惨な事実を受け止めきれず、土の勇者を迫害することで傷を舐めあっていた住人達。だがこの大海嘯によって彼らは一丸となり、脅威に立ち向かう気概をその内に得た。
後ろ向きな思考が消え去った町は以前よりも活気に溢れており、町人達は明るい声を張り上げ復興作業に従事し、冒険者や傭兵、騎士達らもかつてない程意欲的となっていた。
ウォード自身にも大きな変化があった。
今の彼はローブの下にレザーアーマーを装備するという軽戦士のような姿で、背中には神剣”地女神の抱擁”の姿もあった。
戦うことを嫌い、恐れ、拒否し続けていたウォード。気弱でいつも一歩引いたところがある彼は、自分よりサイラスのほうが勇者に相応しいと考え、彼に神剣を譲っていた。
しかしサイラスが自分を守るため、己の命を賭けて戦う姿をその目で見たことを切っ掛けに、彼は土の勇者として立つ覚悟を決める。
自分のために親友を失うなど、彼にとっては自分の身を引き裂かれる以上の苦痛でしかなかったのだ。
そうして彼は勇者としての一歩を踏み出す。しかし今まで魔法使いとして活動していた彼は、剣の振り方すら知らなかった。
神剣の能力で、剣士として戦えるだけの力を与えられてはいる。しかし、急に与えられた不可解な力に頼ることに不安を感じた彼は、恥を承知で冒険者ギルドに剣の指南の依頼を出した。
いつものように馬鹿にされるだろうと思ったが、それも覚悟の上だった。だが。
意外なことに、先輩冒険者の多くが無償で彼の面倒を見ても良いと手を上げてくれたのだった。
その冒険者らは皆、サイラスを散々馬鹿にしていた者達だった。しかし自分達の行動を顧みて悔い、未だ意識を取り戻さない彼のために、何かしたいと悶々としていた者達だった。
彼らはまだウォードが本当の勇者であることを知らない。しかし、ウォードがサイラスの親友であることは知っていた。
疫病神と一緒にいる馬鹿な男と嘲笑ったこともある。そんな彼が困っている姿を見て、何もせずにいられなかったのだ。
彼らの気持ちを受け止め、剣士として新しい一歩を踏み出したウォード。多くの冒険者らもまた、彼ら自身の新しい一歩を踏み出していた。
皆が皆、新しい道を歩み始めている。
だというのに。
その切っ掛けを作った主要人物と言ってもいい男、サイラスは、未だに目を覚ますことなく眠りについたままだった。
Aランクの怪物であるオークキングを相手に限界を超えて戦い、辛うじて命を拾えたものの、文字通り精魂尽き果てたサイラス。
エイク、そして伯爵家から生命の秘薬を提供され傷はある程度癒えたが、あまりにも受けたダメージが大きく、血も流しすぎた。体がまだ休息を欲しているのだ。
医師の診断では、彼が回復するまで一か月を要すると言われている。ウォードもそれを承知してはいるが、しかしそれはそれであり、心配なものは心配なのだ。
柔らかい風を浴びながら眠るサイラス。彼を見るウォードの瞳は、このままずっと起きないのではないかという不安に揺れていた。
そんな時のことだった。
「ん……」
ピクリ、とサイラスの瞼が震えた。
「う……?」
ゆるゆると開いていくサイラスの瞼。それを見たウォードの双眸は、目が零れ落ちそうなほどに大きく見開かれる。
「サイラスッ!!」
今まで物音一つしなかった静かな部屋に、歓喜と驚愕、そして安堵という様々な感情がごちゃ混ぜになった、今にも泣き出しそうな声が大きく響いた。
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「そうか……。終わったんだな」
目を覚ましたサイラスは、自分が気を失った後どうなったのかと、ウォードへと身を乗り出した。
彼が覚えているのは、退避しようというウォード達を説得し、エイクとオークキングの戦いを目に焼き付けた後までだ。
オーク達は倒せたのか。大海嘯はどうなったのか。絵は無事だったのか。そして、町は無事に守られたのか。
焦る気持ちそのままに、彼はウォードへ質問を投げつけた。
サイラスを治療させるため退避したウォードは、終盤の状況を自分の目で見ていない。しかし人伝に話は聞いており、ある程度は知っていた。
サイラスの質問に答えるには時間がかかりそうだ。そう思ったウォードは、部屋の隅に避けていた椅子を引き寄せ、そこに座って話を始めた。
一つ一つ丁寧に、彼の質問に答えていく。最後に大海嘯を無事に撃退出来たと話を結ぶと、それを聞いたサイラスは長い溜息をつき、そこでやっと力ませていた体を弛緩させた。
「そうか。やったんだな」
「うん」
「そうか……」
サイラスは何を思うのか、息を吐き出すようにそう言うと、静かに口を噤んだ。
あの後自分が死んだものと思ったのか。それとも大海嘯の終焉を自分の目で見られなかったことが悔しいのか。
長い付き合いのウォードにも彼の抱く気持ちが分からず、どうしようかとあれこれ考えを巡らせる。
そして思い出した。彼が目覚めた時、まず最初に言わなければいけない言葉がある、ということを。
あっと声をあげながら、ウォードは慌てて立ち上がった。
「サイラス、ごめん!」
「へっ?」
勢いよく頭を下げるウォード。急すぎたからか、頭を下げられたサイラスは何か分からず気の抜けたような声を出した。
だがウォードはそれに構わず、頭を深々と下げたまま彼に謝罪を続ける。
「僕のせいでこんなことに……! 本当に、本当にごめん!」
「ウォード……」
「最初から、君に押し付けずに僕がちゃんとしていれば良かったんだ! こんなことになるなんて分かっていたら、僕は――!」
「もういいぜ、ウォード」
悲痛な声で謝罪を続けるウォード。そんな彼にサイラスは笑って声をかける。
「お前が無事なら、それでいいさ」
「サイラス……っ」
その優しい声色にウォードは息を飲む。上げた顔に、涙がつぅと流れた。
それを見てサイラスは困ったように笑う。思えば彼は、ウォードが謝るといつもこんな顔をしていた。
いつもいつも、自分は彼に守られてきた。ウォードは改めてそれを強く実感し、言葉に詰まる。
「ごめん、サイラス……! ありがとう……っ!」
少しの間をおいてウォードの口から出てきたのは、彼が自分を案じてくれていたことに対する感謝。そして、そんな彼の気持ちを蔑ろにしていた自分の、愚かさへの謝罪だった。
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「そうだ、君に預かり物があったんだ」
「預かり物?」
「うん」
ボロボロに泣き出したウォードを宥めたサイラス。まだ痛む体をベッドに沈め息を吐いていると、思い出したようにウォードが懐から何かを取り出した。
「これは?」
「見てみなよ。あ、僕は中を見てないから」
それは一通の手紙だった。
サイラスは、見ても気にしねぇよ、と笑いながら手紙を受け取ると、右手だけで開き始める。
「あ、そっか、左腕……。僕が開こうか?」
「心配すんなって。広げるくらい片手でできるよ」
あの時の戦いで、サイラスは左腕の粉砕骨折という、戦士としては致命的な怪我を負っていた。
本来であればもう、戦うことなどできない体になっていたはずだった。しかし伯爵家から提供された二等級の生命の秘薬によって、骨にヒビが入っている程度にまで回復していた。
ただ、それでも流石にサイラスの左腕は未だに包帯で巻かれ、固定されている。
彼は動かせる右手だけで綺麗に畳まれたそれを広げると、手紙に書かれていた差出人の名前を確認する。そして目を見開いた。
「おっさん……」
それは、エイクからの手紙だった。
ぽつりと一言溢すと、サイラスは口を閉ざして手紙に目を通し始める。その眼差しは意外にも真剣なものだった。
手紙の書き出しは、サイラスの目が覚める前にシュレンツィアを離れなければならないためこうして手紙を残すという、意外にも丁寧な文調で始まっていた。
似合わない文句に可笑しさを感じながら、彼は手紙を読み進めていく。しかし手紙の最後に差し掛かると、彼の表情が硬くなる。
そこにはこう記されていた。
友のために命を投げ出せる覚悟は尊いと思う。だが、自分の命を大切にできない者が、誰かを本当の意味で守り、大切にできるとは俺は思わない。
お前の命の重さを、お前自身に知って欲しいと俺は思う。
命の重さを知り、そしてもっと強くなれ。お前ならそれができると、俺は信じる――と。
「……サイラス?」
様子がおかしいサイラスに、ウォードが問うように声をかける。しかし彼の耳には届いていないようで、手紙に目を落としたまま口を真一文字に結んでいた。
サイラスにとって大人の男と言うのは、昔から恐怖の象徴だった。
父には虐待され、顔も知らない人間にも嘲笑され、仮初の勇者となってからは多くの人間に罵倒される毎日。
気にしない風を装い平然としていたが、それはただの虚勢であり、内心はいつ暴力に訴えられるのかと常に怯えていた。
エイクと知り合った切っ掛けも、ほんの気まぐれだった。
低ランクの冒険者が身の程を知らず魔窟に挑もうとする姿に、何も死ぬことはないだろうと思った。それだけだった。
しかしそんな些細な行動から、大人の男に生まれて初めて、彼は好感を抱いた。
その男はサイラスに、大人の男特有の、粗雑だが、それでいて心地よく感じる温かさを見せてくれた。どうしてか、サイラスはそんな彼に否応もなく惹かれてしまっていた。
そしていつしか思うようになった。
男のように強くなりたい。そして、認めてもらいたい、と。
「もっと……っ! 強く、なりてぇ……っ!」
サイラスは泣いていた。いつかの泣き虫だった頃のように、しゃくりあげて泣いていた。
胸に去来するのは熱すぎるほどの温かさ。今までに感じたことのない優しさに、彼は溢れる涙を止めることができないでいた。
親友であるウォードに対しても、自分の命すらかけなければ見捨てられるのではないか。そう深層心理で怯えていたサイラス。
土の勇者を肩代わりしたのには、そんな理由があった。しかし己の実力に限界を感じ始めていた彼は、代役を果たせず自分が倒れた後のことを考え、自分の身を盾に本来の勇者を鍛えようとし始めていた。
彼にとって自分の命は軽かった。
自分という存在は誰かを守るためにある。強さとはそのための手段。
だがそれは誇りや優しさなどではなく、ただ自分を必要として欲しい、見捨てないで欲しいという、孤独に苛まれた懇願でしかなかった。
だというのに。この手紙には、何の見返りもなく、何の打算もなく、ただ彼の身を案じてくれる男の心があった。
そんな男が言う。
価値など無いと思っていた自分の命がずっと重いものなのだと。
そして、サイラスならもっと強くなれると。信じる、と言い切ってくれた。
「誰にも……負けねぇ、くらい、に……っ! もっと強く……っ! 強くなりてぇ……っ!」
次に会った時には、強くなった自分を見てもらいたい。
男の言う強さを得て、それを認めてもらいたい。
サイラスは生まれて初めて、自分のためだけに強くなりたいと心から思った。
「……そうだね。僕も強くなる。絶対に強くなってみせる」
珍しく力強い口調でそう言うと、ウォードはぐっと拳を突き出す。
サイラスも袖で乱暴に涙を拭うと、合わせるように拳を突き出した。
「二人で頑張ろう、サイラス」
「おう……っ!」
小さな頃から一緒だった二人。新たな道もまた二人で。
固い絆で結ばれている二人は、気持ちを新たに未来へと伸びる道へと歩き出す。
二人の目に映るその道は、今までのような暗澹たるものではない。
暖かな光に包まれた、確かな希望へと伸びる道だった。
これにて第三章は終わりです。いかがでしたでしょうか。
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