139.防衛戦 ウォードの決意
「あーっ! 見ろよ! こんなところに貧民がいるぜ!」
「本当だ! 貧民のくせにこんな場所歩いてるんじゃねぇよ!」
僕がまだ赤ん坊の頃の話。父の病気を治すための治療費を用意できなかった僕の母は、借金をしてそれを賄うことにしたそうだ。
結局治療も虚しく父は回復せず亡くなったけど、でもそれは全く意味が無かったわけじゃなかった。
その治療で一年という時間を延命できた父は、最後の力をふり絞って、一枚の絵画を残してくれたんだ。
それは母が寝ている僕の頭を撫でているという、絵画としては割とありきたりなものだったけれど。
でも僕にとっては、記憶にない父の愛情を感じることのできる、世界でたった一つの大切な宝物だった。
「ち、違うよ。僕は貧民なんかじゃないよ」
「うるせー! 借金があれば貧民なんだよ!」
「そうだぞ貧民! 口答えするな!」
その借金はかなりの額で、母は毎日必死に働いて返済しようとしていた。だからいつも食事は野菜くずのスープと固いパンといった内容で、母はすまなそうな顔をしてばかりいたけど、でも僕にとってそれは何の苦にもならなかった。
父の残してくれた絵を見ているだけで、そんな貧しさは気にもならなかったんだ。あの絵は僕を暖かく支えてくれる、父親のような絵だったから。
それなのに。
『貧民! 貧民! 貧民!』
町を歩いていると、いつの頃からか男の子達が集まり、僕を貧民だと揶揄するようになってしまっていた。
僕は貧民なんかじゃない。そう言っても彼らは聞かず、いつも僕を貧民だと囃し立てた。
最初は口だけだった。でも日が経つにつれ、次第に手も出てくるようになった。
母も父も、ただ一生懸命だっただけだ。それなのに、何も知らない奴らが僕達を貧民だと馬鹿にする。
嘲笑する彼らを黙らせることができないことがどうにも悔しくて、僕は小さい頃、よく泣いていた。
その日もまた同じ様に少年達に馬鹿にされ、僕はいつものように悔しくて泣いていた。
僕が泣くと、あいつらは楽しそうに笑いだす。でも、その日はそこからちょっと変わったことがあった。
見たことのない男の子が一目散にこちらに走ってくると、あっという間にその少年達を追い払ってくれたのだ。
なぜかその後むっつりと黙り込んでいたけど、でも助けてくれたのは間違いない。
「あの……ありがと」
涙を拭いながらお礼を言う。するとその子は顔を真っ赤にして、何も言わずに走り去って行ってしまって。
あまりに急すぎて、僕はその背中を見送ることしかできなかったっけ。
何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか。不安になりながら家に帰り、悶々としながら過ごした後、その日の晩に帰ってきた母に訪ねてみた。
すると母は優しく笑って、
「きっとその子はサイラスだね。色々噂は聞くけど……悪い子じゃないのかもしれないね」
そう返してくれ、僕はそこでやっとほっと胸を撫で下ろすことができたんだ。
その日僕はベッドに潜り込み、明日どうやってサイラスに話しかけようかと考えながら眠りについたけれど、胸がドキドキしてしまってなかなか眠れなかったのを今でも覚えている。
サイラスはいつもむっつりとした表情で口数が少ない男の子だった。
最初は何をしても面白くなさそうな顔をしてるなと心配になることもあった。でも付き合いが長くなるうちに、それが彼の普通の表情なんだと気づき、それを受け入れることにした。
僕のせいで喧嘩に巻き込んでしまうのはいつも申し訳なかったけど、でも僕を虐めてくる奴らをバッタバッタと倒していくサイラスは非常に心強い存在で。
僕にとってサイラスという少年は、英雄譚に出てくる英雄のように思えたんだ。
そんなサイラスが今のように明るく変わったのは、忘れもしない。サイラスの父親が亡くなってからだった。
彼は常々、自分の父親のことを悪く罵っていた。彼の言うことは本当にあったのかと信じられない内容のものもあったけど、でも彼がガリガリにやせ細っていて、いつも顔にアザを作っていたのは本当のことだったから、僕は彼の言うことを全面的に信じることにしていた。
そんな彼の父親が死んだ。泥酔した挙句の凍死だったらしい。
死んだことには同情する。でもサイラスを長く虐待し続けていた人だ。死を悼むなんて、僕は冗談でもしてやらなかった。
ただ、問題はサイラスだった。いつものように、ふんと鼻で笑って話を終わらせるかと思っていたら、予想外にもショックを受けたようで、家にこもって出てこなくなってしまったんだ。
心配して何度も家に行ってみても、顔も見せなければ返事もない。いつもの彼らしくない態度に不安を感じた僕は、一週間が過ぎた頃、巡回している騎士さんに事情を話して家の鍵を開けて貰うことにしたんだけど。
ドアの向こうで床に倒れているサイラスを見た後は、正直良く覚えていない。
ただ、母が色々動いてくれたようで、彼が栄養失調で倒れたのだろうと分かって以降、サイラスを説得して家に一緒に住むことになったのは、結果として良かったと思う。
なにせ、それから彼は徐々に明るくなり、今のように快活な性格に変わることになったのだから。
思うに彼の暮らしていた環境が悪すぎて、彼の性格をああして歪めてしまったのだと思う。
親友と一緒に暮らせるのは僕としても楽しく、母も良く笑うようになった。それにしばらくしてサイラスが冒険者に登録し、稼ぎを家に入れてくれるようにもなった。
森の魔物を倒して稼いでいるようで心配していたけれど、いつも明るく声を上げて帰ってくるサイラスに、僕はこんな生活がこれからも続いていくんだろうと、そう嬉しく思っていた。
でも、そんな生活ががらっと変わってしまったのは、忘れもしない二年前。
シュレンツィアが魔族に襲われた日。そして、土の勇者が生まれてしまった、あの日の夜のことだった。
「ウォード! エリザさん! そこに隠れていて下さい!」
剣と盾を構えてサイラスが険しい声を上げる。家の外からは剣戟の音が絶え間なく鳴り響き、人の怒号や悲鳴が轟く、悲惨な戦場と化していた。
魔族が襲ってきたのは本当に突然の事で、避難することもできなかった。
僕と母はガタガタと震えることしかできなかった。だからサイラスが最後の頼りで。
でも、それと同じくらい彼のことが心配だった。母もそうだったんだと思う。
「サイラス君、危険よ。あなたもこっちに隠れて――」
「大丈夫です。俺は新進気鋭、ランクE冒険者のサイラスですよ。魔族なんて畳んでやりますって」
口を開いた母に、そう言ってサイラスは白い歯を見せた。でも、その足が震えているのを僕は見てしまった。
きっと母も分かっていたのだろう。僕を抱く腕に力が入る。
「でも――」
そう僕が口を開いた瞬間のこと。ドアが破壊される程の勢いで開かれ、一つの影が家に飛び込んで来たんだ。
「きゃぁぁぁぁっ!!」
母が金切声を上げる。僕も驚きと恐怖のあまり、目が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
そいつは凶悪な狼の頭をもち、目を殺意にぎらつかせ、人を噛み殺さんばかりに牙をむいている。
恐ろしいその形相に、僕は心の底から震えあがった。
「うわぁぁぁぁっ!!」
サイラスの恐怖に駆られた声が僕の鼓膜を痛いほど振るわせた。
その声の響きで、彼の胸中が手に取るように分かってしまう。だというのに、彼は剣を振りかぶると、果敢にもその魔族へと切りかかっていった。
でも。その魔族は剣を薙ぐようにして彼の攻撃を軽々と打ち払ってしまった。
その力はあまりにも圧倒的で、サイラスはそのまま吹き飛ばされ、後ろのテーブルごともんどりうって床に叩きつけられてしまった。
「サイラス君っ!」
「うわぁぁぁっ!」
彼の頭から赤いドロリとしたものが垂れている。僕と母はそうと分かっても体を動かくこともできず、恐怖にお互いを抱きしめることしかできない。
もう駄目だ。サイラスでも敵わないなんて。
僕はこのとき初めて、死というものの恐怖を感じていた。
走馬灯のように今までの人生が脳裏に蘇る。どんなときも思い出されたのは、母と、そしてサイラスとの思い出ばかりだった。
ぎし、と床をきしませながら魔族が近寄ってくる。
僕はあまりにも恐ろしくて、ギュッと目をつぶった。
「大丈夫だ。俺が、絶対に守ってやる」
暗闇の中、サイラスの声がはっきりと聞こえた。
目を開けると、サイラスの背中が僕の目に飛び込んでくる。いつの間にか、僕達と魔族との間にサイラスが立ちはだかっていた。
「この人達は絶対に殺させねぇ。俺が生きてる限り、絶対にだ!」
サイラスは啖呵を切って、また魔族へ切りかかっていく。目の前の魔族はそれをかわし、叩き伏せ、蹴り飛ばし、殴打する。
それでもサイラスは何度でも立ち上がり魔族へ立ち向かっていく。体にどんなに傷をつけられても、どんなに血を流しても、それでも何度も、何度も、何度も――。
(なんで……なんで僕はこんなに弱いんだ)
ガクガクと震えながら、幼い日の頃のように僕は悔しくて涙を流した。
目の前で親友が命をかけて戦っているというのに。僕はいつも隅で震えるばかりで、彼に頼り切りだった。
(僕に力があれば……サイラスを守れる力さえあれば――!)
サイラスはもう何度になるのか、部屋の壁に叩きつけられうめき声を上げる。
足元もおぼつかずフラフラとよろめくサイラス。それでも彼は剣を握りしめ、盾を構え、魔族を強くにらみつけていた。
次の瞬間。魔族の、彼を見る目の色が変わった。
見ているだけの僕の背筋にすら、ぞくりと冷たいものが走る。僕を抱く母親も小さな悲鳴を上げていた。
その冷たい空気に、否が応でも分かってしまった。
サイラスが殺されてしまう。
彼が殺されてしまう。
そのフレーズが馬鹿みたいに、頭の中で何度も何度も繰り返す。
《あの子が殺されてもいいの?》
(いいわけない! 誰か、誰か助けてくれ!)
あまりの恐怖に僕の頭が変になったのか、幻聴か空耳か、おかしな声が頭に響いてくる。
《なら助けてあげようか?》
(助けてくれ! 僕はどうなってもいい! サイラスを! サイラスを助けてくれ! 誰でもいいから!)
《分かったわ。それなら助けてあげる》
その声は、まるで抑揚のない声で僕の頭に響いていた。
《対価は貴方の人生で、手を打ってあげるわ》
まるで感情を感じさせない冷たい響き。事務的にも聞こえる声の次に僕の耳に飛び込んできたのは、家中に響き渡るほどの轟音だった。
家全体を揺さぶるほどの衝撃に、僕と母は悲鳴を上げながら床に倒れこんだ。
何が起きたのが全く理解できず、床に這いつくばることしかできない。目をぎゅっと閉じ、頭を抱え、ただただその音が止むのを僕は待ち続けた。
それが数秒後だったのか数分後だったのか分からない。ただ、もうもうと立ち込める土煙が晴れたその瞬間僕の目に映ったのは、先ほどまで魔族が立っていた場所に聳える、柱のような太い岩盤だった。
《情けないわね。頼りないけど、貴方は今日から土の勇者よ。精々頑張ることね》
呆然とする僕達の前にパァと光が現れ、その中から輝く剣が姿を現す。
その剣はふわりと浮かび僕の前まで来ると、手に取れとばかりにその場で停止した。
このとき、僕の頭は混乱の極みで。何が何やら全く理解できなくて。
その後どうなったのかなんて、全く覚えていなかった。
僕が気が付いた時には、もう魔族はシュレンツィアから撤退し、町から脅威が去った後だった。
かなりの怪我を負っていたサイラスも、包帯をあちこちに巻いていたけど、命に別状はなかったらしい。
思わず泣きついてしまった僕に、彼はアザだらけの顔を向けて、困ったように唸っていた。
「なぁウォード。あれ、何なんだ?」
しばらくしてから、サイラスがそう不思議そうに聞いてきた。彼の視線を追うと、その先には一振りの剣があった。
起きたばかりで頭が働かない僕は、何だったかな、なんて思っていたけど。突然冷めた声が僕の頭に響いてきて、冷や水を浴びせられたように一気に目が覚めた。
《ずっと貴方達を守ってあげていたのに随分なことね。まあどうでもいいけど》
「え――?」
「ん? どうしたウォード」
思わず声が漏れてしまった僕を、サイラスは不思議そうに見ながら声をかけてきた。
もしかして、あの剣の言うことが聞こえないのだろうか。そう考えた僕の想像は間違っていなかった。
《私の声が聞こえるのは土の勇者の貴方だけよ。ちなみに、貴方の考えてることは私には分かるから、わざわざ声を上げなくても良いわ》
ふん、と鼻で笑うかのような口調で説明してくる剣。
声だけなら女の子のようだけど、なんだか冷たい感じで少し苦手に感じた。
《一応女よ。剣だけど。でも好きで神剣やってるわけじゃないわ。……色々あるのよ》
(は、はぁ……)
《私は”地女神の抱擁”って呼ばれているわ。……間違ってもクソ地女神なんて呼ぶんじゃないわよ。呼ぶならエンブレイスにしなさい》
一人で目を白黒としている僕を、サイラスは不思議そうに見ている。
別に秘密にする必要も感じられなかった僕は、サイラスには全て話してしまうことにした。
「サイラス……。僕、勇者になんかなりたくないよ……。弱いし、臆病だし。僕にはできっこないよ」
《ちょっと。私は貴方の望みを聞く代わりに勇者に選定したのよ? 話が違うじゃない》
エンブレイスさんはそう言うけど、でも僕なんかよりもサイラスのほうが絶対似合うはずだ。
強いし、頼りになるし、カッコいいし。何より僕の自慢の英雄なんだから。
どうして僕が勇者なんて。無理に決まってる。
「……分かった。そういうことなら俺に任せとけ」
「あ、ありがとう! サイラス!」
サイラスは妙に神妙な顔でそう言ってくれた。
エンブレイスさんはまだごちゃごちゃ言っていたけど、でも彼女もきっとサイラスのことを認めてくれるはずだ。僕なんかよりもずっとサイラスのほうが相応しいって。
そんなことを考えつつ、またサイラスに厄介ごとを頼んでしまった後ろめたさを覚えながら、僕は彼の申し出をありがたく受けたんだ。
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「ウォード……早く逃げろ。ウォード……! ウォードーッ!!」
思えばいつもそうだった。勇気がないから。力がないから。
何かと言い訳をして、結局サイラスに頼ってばかりいた。
「馬鹿! 早く逃げるんだよ! サイラスの気持ちを無駄にする気か!?」
町の皆にサイラスが罵倒されているのも知っていた。
でも、僕も彼の友達だからって、サイラスほどじゃないけど白い目で見られていた。嘲笑されたり、叩かれたり、絵を破り捨てられたこともある。
この扱いがもっと酷くなるんだ。そう考えるととても勇気が出なくて、結局サイラスに背負わせてしまっていた。
「ウ”オ”オ”オ”オ”オ”ォォォォーーッ!!!」
僕だって力があればと無いものねだりをして。サイラスに甘えてばかりいた。
でも僕は。僕にとって一番大切なのは――
「サイラス……」
僕のたった一人の英雄。
たった一人の親友の君が。
「サイラス……ッ!」
僕にとってはどんなものよりも、何よりも大切なんだッ!!
「うわぁぁぁぁっ! サイラスーーーッ!!」
誰かの腕を乱暴に振り払い、僕は前へと駆け出した。
目の前にいるのは、未だかつて見たことも無い、とてつもなく巨大な怪物。
僕が行ったところできっと一瞬で殺されてしまうだろう。
だけど。
僕とオークキングとの距離は瞬く間に縮んでいく。
先ほどまでどうしようもなく震えていたはずの両足は、不思議と今、震えていなかった。




