138.防衛戦 サイラスの覚悟
「ウ”オ”オ”オ”オ”オ”ォォォォーーッ!!!」
聳えるように立つオークキングが、何度目かの咆哮を上げた。
ぶわりと右手を掲げると、空気を殴り飛ばすかの如く大剣を振り下ろす。噛り付くように盾を構えているサイラスは、今度もまたその攻撃を全身で受け、大きく揺れた。
何度も何度も大剣の攻撃を受ける彼の体は振り子のように左右に振れ、その度に舞い上がる血しぶきが周囲を赤く染め上げていた。
既にサイラスの意識は朦朧としており、攻撃をその身に受けていないのは奇跡に近かった。
しかし当の本人は今、そんなことを考える余裕は微塵も無く、ただただ倒れまいと必死に踏ん張り続けるだけだった。
ただ血を流しすぎたせいか、自分がこんな目にあっている理由が徐々に分からなくなってきたサイラスは、危機的状況だというのにも関わらず、なぜだろうとぼんやり考え始めていた。
そして、自分が今置かれているその状況にかつて覚えがあったサイラスは、それがいつの事だったのかを、過去の記憶を手繰り寄せるかのように思い出し始めていた。
(ああ、そうだ。あれは――)
彼はそうして思い出し始める。在りし日の、幼き日の自分の事を。
それは彼が思い出したくもない悪夢の日々だった。
「何だその目はぁっ!」
「うぐぅっ!」
鋭い拳が頬を殴打し、彼は部屋の隅へと殴り飛ばされた。
すぐにサイラスは身を守るように体を丸くする。すると今度は蹴りが何度も浴びせられ、その度に暴言も上から飛んできた。
「ケッ! 忌々しいガキだっ!」
「う、うぅっ……」
サイラスの背中を何度も蹴りつけた男は、最後にもう一度強く蹴りつけると、悪態をつきながらその場を離れドカリと椅子に座る。
そして乱暴に酒をグビグビと煽ると、コップをテーブルに叩きつけるように置き、またいつものように愚痴を言い始めた。
「なんで浮気してこさえたクソ女のガキを、俺が面倒みなきゃならねぇんだよクソッ」
その男が言うには、サイラスはその男の子供ではないらしい。しかし実際のところ、彼の妻が浮気をし始めたのは彼が酒浸りとなった一年前からであって、サイラスは紛うことなく彼の息子であった。
しかし事実かどうかなど、その男にとってはすこぶるどうでも良いことで。彼にとって重要なことは、己のいら立ちをどうにかして晴らしてやろうというその一点だけだった。
それ故に、その男は今日もまたサイラスに暴力を振るう。たった三歳の子供に向かって、手加減などせず拳を振り下ろす。
何を言おうが言うまいが、しようがしまいが、その男には関係がない。毎晩必ず、サイラスは殴る蹴るの暴行を受けることを強いられた。
そしてそれが、サイラスの変わらない日常だった。
気の済むまで酒を飲んだ男は、部屋の隅で痛みに耐えうずくまるサイラスに目もくれず、寝室へ千鳥足で消えて行った。
サイラスは顔を伏せたまま息を殺して父親が去るのを待った後、ふらつく体を何とか動かして、先ほどまで父親がついていたテーブルにつく。そこには父親の食い散らかした残飯がわずかに残っていた。
サイラスは皿へと手を伸ばし、無言でそれを口へと運ぶ。サイラスの食事はいつも父親の食い散らかした残り物だった。
父親は朝は全て平らげ、昼は外で食べてくる。
そのため、サイラスの食事は夕食の残り。いつもそれだけだった。
血の味がするそれを、彼は懸命に口へと運ぶ。
ずきずきと痛み熱を持つ頬をさすりながら、そして記憶に残ってもいない母親のことを思い、ぽろぽろと静かに涙を流しながら。
それでも生きるために、彼は少ない食事を一欠片も無駄にしないように丁寧に口へと運ぶ。
体はやせ細りガリガリで、同年代の子供よりも小さく、虚弱だった。笑おうが泣こうが殴られるため、いつしか表情にも乏しくなった。
人としての幸せを享受できない小さな命は、それでもただ死にたくないと願いながら、逃れようもない過酷な環境に必死に抗い毎日を過ごす。
それがサイラスの脳裏に強く残る、幼き日の記憶だった。
物心が付く前に母親に捨てられ、父親には毎日殴られていたサイラスは、いつも孤独だった。
毎日のように殴られるせいでサイラスは常に顔のどこかに青タンを作っており、さらに常に目を赤く泣き腫らしていて、その見た目から近所の子供の間では”泣き虫サイラス”などと呼ばれていた。
あの家の子には関わるなと親に言い含められているようで、直接サイラスに絡んでくる子供は一人もいなかった。だからそのあだ名のことを、サイラス自身は毛の先ほども気にしてはいなかった。
しかし誰かと話すことも笑うこともせず、遠くから痛々しい見た目を晒すだけのサイラスは、近所の子供達にとっては未知の生物に等しく、それがまた彼の孤独を一層強める結果になってしまっていた。
生まれてからずっと孤独に生きていたサイラス。そんな彼の人生に変化が起きたのは、サイラスが七歳となった時のことだった。
いつものように顔に青タンを作っているサイラスが無気力に窓の外を眺めていると、数人の子供が一人の子供を取り囲み、何やら騒いでいるのが見えた。
最初はサイラスも特に何を思うでもなく、ただただぼんやりと眺めていただけだった。
しかしそれが二日、三日、四日と続いて起きると、サイラスの胸に初めて、何やら熱いものが湧き上がるのを感じるようになった。
その時彼はそれが何なのか分からなかった。しかし泣く一人の少年を数人の少年が取り囲みはやし立てるのを見ていると、サイラスはもういてもたってもいられなくなり、家を飛び出しその渦中へと飛び込んで行ったのだ。
「何やってる!」
「げっ! 泣き虫サイラスだ!」
「やべぇ! 逃げろ!」
サイラスが声をかけると、少年たちは蜘蛛の子を散らすようにあっという間にいなくなってしまう。その場に残ったのは泣いている少年ただ一人だけだった。
胸に湧く感情に抗いきれず勢いで声をかけたサイラスだったが、しかし今まで同年代の子供と話した経験は絶無である。
どうしようか考えるも答えが出るはずもなく、何を話せばいいのか分からなくなったサイラスは、その場に俯いて立ち尽くすことしかできなかった。
しばらく二人の間には無言の空間が生まれることとなる。そしてそれを破ったのはサイラスではなく、泣いていた少年だった。
「あの……ありがと」
かけられた言葉は、生まれて初めて嘲笑や侮蔑を含まない、優しい言葉だった。
急に顔が熱くなるのを感じたサイラスは、どうしてか覚えた焦りもあり、何も言わずに踵を返すと走って家に飛び込んでしまった。
(……ありがと、だって)
そんな言葉をかけられたことが無いサイラスは、どうして良いか分からず、熱くなる顔を抑えながら膝を抱え丸くなった。
置き去りにされた少年は突然の事にびっくりしたことだろう。しかしその時のサイラスの頭には、あの少年を置き去りにした事などあっという間に消え去り、彼にかけられた言葉だけがずっとぐるぐると渦巻き続けていた。
その日もまた父親には殴られたが、不思議と痛みをあまり感じなかった気がした。
翌日、その少年が今度は一人でサイラスの家の近くまでやってきて、窓から覗くサイラスに手を振ってきた。
どうして良いか分からずモジモジとするサイラスに、その少年は意を決したような顔をして、頬を赤く染めながら近くまで歩いてくると、こう口を開いた。
「昨日は、ありがと。あの……僕、ウォード。君は?」
「……サ、サイラス」
これがサイラスとウォードの初めての出会いだった。
ウォードはその頃から引っ込み思案で、更に家が借金にまみれているということもあり、同年代の子供にからかわれることがよくよくあった。
他人に覚えのない悪意を向けられる者同士シンパシーを感じたのか、ウォードとサイラスの仲は直ぐに良くなり、頻繁につるむようになっていった。
そうするとよく目に付くようになるのが、ウォードへの虐めだ。そしてサイラスはこれに対して、臆することもなく果敢に立ち向かって行った。
幼いころから父親に殴られ続けていたサイラスは、子供相手の喧嘩には滅法強かった。
大人が本気で殴りつける痛みに長年耐えてきたのだ。同年代の少年に手をあげられようと、サイラスにとってはどうということもなく、ウォードがからかわれている所に行っては悪童たちをなぎ倒していたため、いつしか”泣き虫”のあだ名は訂正され、”きかん坊”へと変貌を遂げていた。
「ごめんね、サイラス。僕のせいで……」
「別にいいよ。あいつらに何て言われようが俺には関係ないし」
事実、サイラスにはどうでも良いことだった。ウォードを虐める人間に何と思われようと、何と言われようと、彼にとって大切だったのは友人のウォードのことだけだった。
彼が”きかん坊”のあだ名をつけられてから、ウォードに対する虐めも減った。サイラスにとっては良いことばかりで、むしろ嬉しく思っていたほどだ。
すまなそうに眉を下げるウォードに対し、サイラスは鼻で笑って見せる。いつも無気力に他人を眺めていた少年は、もうそこにはいなくなっていた。
ウォードとそんな関係を続けて六年が経ち、サイラスが十三歳となった年のこと。
幼年期は不自然なほどやせ細っていたサイラスだったが、ウォードと親しくなってからは彼の母親が可愛がってくれたこともあって、年相応の体つきへと変わっていた。
この頃になると、サイラスも父親の理不尽な暴力に無抵抗に耐えるということも無くなっており、それが面白くない父親は次第に家に帰らなくなっていった。
サイラスにとって父親は、長年自分を苦しめていた忌むべき相手でしかない。血の繋がった親とは言え情などあろうはずもなく、顔を見せないことに対して清々するとばかりに思っていた。
しかし、思いもよらない出来事は突然にやってきた。
とある冬の日のこと。路地で父親が冷たくなっているのを発見されたと騎士団から伝えられたサイラスは、あまりに突然のことで頭が真っ白になった。
本人確認のためと言われ詰所まで騎士に同行したものの、既に動かなくなった父親の顔を見て何も言葉が出なかったほどだ。
自分でもなぜか分からなかった。
何度くたばれと思ったかも知れない相手が死んだだけだ。それなのに、なぜこんなにも胸にぽっかりと穴が空いたような虚無感に襲われているのだろう。
何もする気が起きず、彼は家に引きこもった。ウォードが心配して何度も訪ねてくれたが、しかし相手をする気も全く起きず、返事をすることもしなかった。
そして、何日もそんな生活をしていたサイラスはついに倒れ意識を失ってしまった。
次に目を覚ました時、彼はどこかの家のベッドに横たわっていた。体を起こして見てみれば、築何十年かと思わせるほどに朽ちた様子の部屋に、似つかわしくない絵画が壁に一枚。
その絵画は以前友人に見せてもらったことのある、一人の女性が愛おしそうに、一人の眠っている少年を撫でているもので。
見覚えのあるそれに、サイラスは直ぐにウォードの部屋だと気づいた。
と、それとほぼ同時に廊下と隔てるドアが開けられ、部屋の主が入ってくる。彼はサイラスと視線がかち合うと、目を見開き声を上げた。
「――サイラスッ!」
ウォードはベッドへとかけてくると、サイラスの手を強く握りしめる。
「心配したんだよ……! 心配したんだ、僕は!」
「ごめん」
胸がぎゅうと締め付けられる感覚に戸惑いを覚えるサイラス。それが何なのか、その時の彼には分からなかった。
なぜ何も言ってくれなかったのか責めるウォードに、サイラスはただただ頭を下げて返した。
珍しく何を言っても殊勝な態度を取るサイラスに、ウォードも次第に何も言えなくなってしまう。徐々に会話が途切れ、ついには部屋には沈黙が落ちてしまった。
どうして、なぜ、と言われても、謝る以外できなかったのは、サイラス自身自分の感情が理解できず、答えなど持っていなかったからだ。
今も自分の胸に去来するこの感情が分からず困惑の極みで、まともに会話ができる状態ではなかった事も大きかった。
しかしこの時彼が倒れたことで、以前から考えていたあることを話そうと、ウォードは口火を開くタイミングを伺っていて。
それが今だと判断した彼はかつての幼き日の頃と同様に、二人の間に落ちた沈黙を、意を決して払いのけた。
「お父さんが亡くなって、ショックだったのは分かるよ。サイラスのお父さんがどんな人だったかは僕も知ってるけど、でも家族だったんだ。仕方ないよ」
「そんなんじゃない」
眉を八の字にして言うウォードに、ぶっきらぼうに返すサイラス。頭では確かにそう思っている。しかし、なぜだかしくりと胸が痛んだ。
「サイラス……。ここで、一緒に暮らさない?」
「――え?」
突然の予期せぬ誘いにサイラスは目を丸くする。
こんなボロ家だけど、と言いにくそうにしながらも、ウォードは頬を赤くしながら笑った。
「ぼ、僕達、もう、か、家族みたいなものだと思うんだ。サイラスも、その、これから大変だと思うし。お母さんも良いって言ってくれたんだ。だから、どうかな? これから一緒に――」
照れながら話すウォードを呆然と見ているうちに、何か胸に熱いものが込み上げ心を満たしていく。
いつしかサイラスの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「サ、サイラス!?」
「大丈夫。大丈夫だ、ウォード」
幼いころに母親に見捨てられ、唯一の家族は父親だけだった。その父親にも先立たれ天涯孤独の身となったことで、たった一人、この世界から切り離されたかのように思っていた。
誰からも嘲笑され、誰からも罵倒され、誰にも頼りにされず、誰にも顧みられない。
そう無意識に思い込んでいたのに。
「ありがとう、ウォード」
そんな彼を家族と呼んでくれた人がいた。それが、今まで満たされることのなかった彼の、孤独に苛まれ冷え切った心を満たしてくれた。
この時泣き虫と呼ばれた男は、生まれて初めて一人の人間として涙を流した。
そしてサイラスはこの時心から誓った。
自分を救ってくれた彼を、どんなことがあろうとも助けようと。どんなことがあろうとも守り抜こうと。
それがどんな困難なことであろうとも。
それがどんな結果を招こうとも。
そしてそれが、例え自分を犠牲とするものだったとしても。
――サイラス……。僕、勇者になんかなりたくないよ……。
彼を傷つける何者からも、絶対に守り抜いてみせる。
二年前のこの時、サイラスは己の命を賭ける覚悟を決めた。
「大丈夫だ。大丈夫だウォード。俺が守ってやる。最後まで絶対に――」
朦朧としたままサイラスは必死に足掻く。大切なものを守るために。
己の死と向き合いながら、しかし最後の時までその誓いを胸に抱き続けて。
「ウォード……早く逃げろ……。ウォード……! ウォードーッ!!」
彼の命を賭けた最後の願いが、二人の家路に悲痛に響いていた。




