137.防衛戦 オークの王
「はっ! はっ! はっ!」
町の南西へと続く道を、力の限り走る青年が一人いた。よれよれのローブを着て萎びた杖を握る、そのウォードと呼ばれる青年は、痩せた体に鞭を打つようにして、石畳をよろけそうになりながら懸命に走っていた。
その道はまったく整備されておらず、ガタガタのでこぼこ。通り自体もうねっており、全力で走るには全く適していない見すぼらしい有様だ。
しかしそんな悪路をわき目も降らず、必死に走り続けるウォード。そこまで必死になりながらボロボロの住宅街を抜け目指すのは唯の一つ。彼の住む家だった。
先ほど南西の城壁が崩れた様子を目にした時、彼の頭に浮かんだのは、家に置いてきた、ある物の安否だった。
それは昨日、避難の際に持ち出そうとしたものの、結局家に置いてきた大切な物だ。
非常に迷ったが、いつものように誰かに破り捨てられるかもしれないという不安があったし、戦場が南門と西門だと聞いていたため、最終的に大丈夫かなと思ってしまったのだ。
しかし今になって、やはり持ち出すべきだったと彼は激しい後悔に駆られていた。そして気づけば、この整備も碌にされていない石畳を蹴っている。
何が彼をそう駆り立てるのか。それを知るのはこの町では本人とその母親、そして彼の親友であるサイラスの三人だけだっただろう。
「はっ! はっ! はっ!」
あらん限りの力をふり絞り懸命に走るウォード。この朽ちた住宅街の住人達は皆城に避難しており、必死に駆ける彼の姿に目を向ける者は誰もいない。
自分の心臓がバクバクと騒々しく音を立てていることを、頭の片隅にいる冷静な自分が聞いているのをウォードは感じていた。
なぜ僕はこんなにも必死なのだろうと、その自分が問いかけてくる。息は絶え絶え、心臓ははちきれんばかりに躍動しており、今にも口から飛び出そうだ。
皆が町に押し寄せるオーク達と必死に戦っているというのに、僕はなぜこんなところを走っているのだろうと、冷静な自分が見つめてくる。
それは分かっている。分かっているけれど、でも――
自問自答しながらも、しかし自分の心が示す方向へと。彼の足は止まる気配を一切見せることなく、ただただ真っすぐに突き進んでいた。
「はっ! はっ! はっ!」
勢いを緩めることなく通りを駆けるウォード。見慣れた通りを走り抜け、もう目的地は目の前となっていた。
例え傾きかけのボロ家とはいえ慣れ親しんだ自分の家だ。その近くまで来たことで安堵を覚えたからか、自然と彼の頬が緩む。しかし。
彼は必死になりすぎて肝心な事を忘れていた。南西の城壁を崩したのが一体何者だったのかということを。何がこちらへ足を向けているのかということを。
「――うっ!?」
それの姿が目に映ったその瞬間、彼の足は急にピタリと動かなくなってしまう。
まるで足の裏に吸盤でも付いてしまったかのように、彼は一ミリたりとも足を浮かすことができなくなっていた。
彼の目に映ったのは、二百メートル以上離れていても巨大だと理解できる生物。
目の前に建つ家屋の影にすっぽりと隠れていたそれが、彼の目の前にのっそりとその姿を現す。
踏み出された足をズンと地に突けば、ウォードの体へ振動が伝わる。
目の前のそれが、歩くだけで地を揺るがすほどの重量を誇っているということが、望む望まないに関わらず、はっきりと理解できてしまった。
目の前の家屋と同じほどの大きさを持つ、その怪物と言うに相応しい怪物は、前方に蹂躙すべき人間の姿を確認するや否や、だらしなく下げていた口元をにんまりと愉悦に歪めた。
そして口を大きく開くと、
「ウ”オ”オ”オ”オ”オ”ォォォォーーッ!!!」
己の気の高ぶりを、咆哮と共に猛然とぶつけてきたのだ。
「―――っ!」
ウォードにとって、今まで相対した最も強い敵と言えば、オーク魔窟第二階層に生息するオークウォリアーだった。
ランクCの怪物、オークウォリアーは、熟練の冒険者でも油断すれば命を落としかねない相手である。
オークすら恐れるウォードにとって、そんな相手が生息する第二階層へ立ち入ったあの二週間前の記憶は、今でも恐怖という感情で塗りつぶされていた。
だが目の前の相手は、そんな敵すら遥かに凌駕する怪物だ。
そんな相手から暴力的な闘気を全身に叩きつけられたウォード。全身が総毛立ち、ガクガクと振るえ、ボロボロと涙がこぼれ始める。
逃げなければいけないというのに、未だに足は地面にピッタリと張り付き動いてくれない。今の彼はさながら、断頭台にかけられ、刃が落ちることを待つことしかできない罪人のようだった。
咆哮を一つ上げたオークキングは、目の前の獲物が逃げないことに満足そうに目を細めると、足音を立てながら悠然と歩いてきた。
逃げるなら逃げてみろと言わんばかりの太々しい態度。だがウォードは泣きながら震えるだけで、その場から逃げようとはしない。
刈り取るには容易いと判断したのか、オークキングはぴたりとその場で足を止める。
「ウ”オ”オ”オ”オ”オ”ォォォォーーッ!!!」
そして咆哮をまた一つ上げると、石畳をまくりあげるほどの勢いで地を蹴り、一足飛びで彼へと飛び掛かって行った。
「う、うわぁぁぁぁぁあーーッ!!」
逃げることもできず、ただただ声をふり絞りウォードは悲鳴を上げる。敵が人間であれば少しは躊躇したのかもしれない。
しかし今目の前にいるのは人間とはかけ離れた生物だった。その行為に果してどれだけの意味があっただろうか。
二百メートルの距離は一瞬でゼロとなる。
小山にも思える巨大な怪物は、三メートルを超える大剣を軽々と振りかぶり、これから始まる蹂躙劇を想像してか目を細めた。
未だに声を上げ続けることしかできないウォード。
他にできることと言えば、馬鹿でかい大剣が自分の頭へと振り下ろされる様子を両目で見ていることだけだった。
ウォードの命運は尽きた。
オークキングも本人も、間違いなくそれを確信しただろう。しかしそんな中、その運命に抗いながら駆け込んでくる一人の男の姿があった。
「”練精盾”ッ!!」
ウォードの前に回り込んだその男、サイラスは、あらん限りのオーラを盾にまとわせオークキングの前に立ちはだかった。
無遠慮に振り下ろされたオークキングの大剣と、白いオーラを放つ盾は激しくぶつかり合う。激しい衝撃音が家屋をビリビリと振るわせ、その威力をこれでもかと知らしめる。
一瞬、拮抗したかのように思えた攻防。だがしかし、オークキングの膂力はにわか仕込みの域を出ない精技では抗うことも敵わないほど強大で、サイラスはかばったウォードごと、紙くずのように後方へと吹き飛ばされていった。
「――ぐはっ!」
「うぅっ!」
強かに体を地面に打ち付けたサイラスは肺から空気を漏らす。彼と共にもんどりうって倒れたウォードも、痛みに思わずうめき声を上げた。
「サ、サイラス……な、なんで――っ」
「馬鹿野郎! さっさと逃げろ!」
痛みを堪え、サイラスは無理やり立ち上がりながらウォードを叱咤する。
だがウォードは、そんなサイラスに取りすがるように声を上げた。
「でも! 父さんの絵が! 父さんの絵が家にあるんだっ!!」
サイラスは知っていた。彼の父が生前、最後に描いた絵を、ウォードが何よりも大切にしていることを。毎日あの絵を見て、彼が何を思っているのかということも。
ウォードが屋根から姿を消したあの瞬間、サイラスの頭にはそのことがパッと頭に浮かんだ。普通ならこんな状況であり得ないことだ。絵一つに命をかける奴なんていないと、その考えを笑っただろう。
しかしウォードと長年共に暮らしたサイラスにとっては、それが一笑に付す理由とならなかった。
まさかと逡巡する時間も惜しく、ウォードを追った。彼の命をなんとか繋ぐことができたのは、サイラスとウォードが長年築いてきた絆の賜物だった。
例えその結びつきが、彼らの運命を最悪の未来へ誘う結果となったとしても。
二人の絆は確かに固く結ばれていたのだ。
「――俺が取ってきてやる。お前は逃げろ、ウォード」
静かな声で彼に返すサイラス。そして目の前の相手に盾を向けながら、剣を構えた。
「ここは俺に任せろ。早く行け」
「う……で、でもっ」
オークキングは新しく現れた相手をじっとりと見据え、そして満足そうに口を歪めた。
「――早く行け! ウォードッ!」
叫ぶように言うサイラスに気圧され、ウォードは立ち上がりじりじりと後ずさりをし始める。そんなウォードの耳に、後ろから誰かの足音が聞こえた気がした。
「ウ”オ”オ”オ”オ”オ”ォォォォーーッ!!!」
周囲の音がかき消されるほどの咆哮。ビリビリと空気を振るわせる大音声はサイラスの全身に襲い掛かり、彼の体を畏怖に震えあがらせた。
どう見ても勝ち目のない戦いだった。しかしなぜなのか、それは彼が後退する理由にはなりえなかった。
「おぉぉぉぉぉぉーっ!!」
己を奮い立たせるように声を上げると、飛び込んできたオークキングとぶつかり合うように走るサイラス。その盾は既に、白いオーラに包まれていた。
「ウ”オ”オ”ォォォォッ!!」
「”練精盾”ッ!」
またも激しくぶつかり合う大剣と盾。なんとか受け流そうとするサイラスだったが、しかし相手の攻撃はすさまじく、体がもっていかれないようにするのが精一杯だった。
「ウ”オ”オ”ォォォォーッ!!」
「”練精盾”ッ!!」
激しく打ち付けられる大剣を、サイラスはなんとか精技で持ち堪える。続けざまに何度も振り下ろされる大剣。しかしサイラスはそこから一歩も引かなかった。
耐えることしかできないが、しかしランクAの怪物相手にも一歩も引かない戦いを見せるサイラス。
それを目の前にして、彼を追ってきたカイゼルはこぶしを握り締めた。
(あいつ、これを予想してやがったのか……? こいつを抑えるために?)
ウォードと共に激しい戦いを見つめるカイゼル。ランクC冒険者である彼にとって、オークキングは到底太刀打ちできない相手だった。
恐らくパーティメンバー全員で立ち向かったとしても、全滅を免れないだろう。
そんな確実に命を散らすだろう相手に、カイゼルが踏み出すことを戸惑うのは当然だった。しかしそんな彼の躊躇をあざ笑うように、目の前のサイラスは臆する様子も見せず飛び込んでいった。
(くそっ! 俺は……俺は――っ!)
カイゼルの、剣を握る手に思わず力が入る。
「サイラスーッ!」
そして怯える自分を勇気づけるように、カイゼルは土の勇者の名を呼んだ。
カイゼルが幼いころ憧れた土の勇者。その勇者の武勇を少しでも分けて欲しい気持ちもあったのやもしれない。
ざり、と音を立てて彼は一歩足を踏み出す。その顔に浮かぶのは恐怖。しかし、不思議とその表情はどこか嬉々としているようにも見えた。
飛び込めば命の保証はない。襲い来るのは確実に死ぬだろう恐怖。
しかしそれ以上に、彼自身を後押しするものがカイゼルの胸中にはあった。
サイラスの援護に回ろうとカイゼルはまた一歩踏み出す。もしここで彼がサイラスと共闘することになったのなら、また運命は変わったのかもしれない。
だがしかし、”幸運にも”その足はすぐに止まることになる。次の瞬間彼の耳に聞こえたのは、共に戦おうという心躍る声ではなかったからだ。
「誰かいるのか!? ウォードを! ウォードを連れて逃げてくれッ!」
それは悲鳴にも近い嘆願だった。
足を踏み出したカイゼルの体が固まる。その口調に、その響きに、カイゼルの頭には二年前の戦火が頭を過った。
「ウォード! 逃げろ! 早くッ!」
「サ、サイラス……!」
じりじりと後退していたウォードの体もぴたりと止まる。
「早く……しろーーッ!!」
サイラスは盾をひたすら前へと構えていた。大剣が振るわれる方向がある程度特定できれば、自分ではこの見切れない激しい攻撃も、何とか衝撃を反らすことができていたからだ。
この通りは狭く、あの大きさの大剣では家屋が邪魔をして、振り下ろしか袈裟斬りしかできない。サイラスはそう考えていた。
サイラスの考えは正しい。彼のその考えは自身の経験からくるもので、オークの生態からして間違いないものだった。
それ故に彼は反応が遅れてしまう。その前提には、”ランクC以下のオークの場合”という頭語が付くことに、彼は気付いていなかった。
「ウ”オ”オ”オ”オ”オ”ォォォォーーッ!!!」
「――ッ!?」
オークキングは本能で、このままでは満足に戦えないと察してシュレンツィアの城壁を破壊した。そして今もまた、このままではこの防御を固めた人間を”楽しく”蹂躙することができないと本能で察した。
突如、ぐんと手首を捻ると、オークキングは力任せに大剣を横に薙ぐ。
バキバキと破壊音を立てながら横に建つ家屋を軽々と両断すると、そのままの勢いでサイラスに大剣を叩きつけた。
「―――ぐはっ!」
家屋の破壊音で攻撃の方向に気づき、サイラスは辛うじてだが盾で大剣を受け止めた。
しかしその馬鹿力をまともに浴びた彼は、蹴り飛ばされたボールのように軽々と真横に吹き飛び、家屋へその身を強かに叩きつけられる。
そしてたった一瞬、反射的に閉じた瞼を開いた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは――
「サイラスーッ!!」
ガラガラと木片が崩れる音が周囲に響く。
サイラスに”盾突撃”で突撃したオークキングは、家屋もろとも彼を圧し潰す。
サイラスは倒壊した家屋に飲まれ姿を消した。
ウォードの絶叫に応える声はない。カイゼルもまた呆然とその様を立ち尽くして見ていた。
(ダメだ、勝てるわけがねぇ)
これでもカイゼルは長い年月を冒険者として活動してきた熟練の冒険者だ。敵の実力を見定める目はある。
そして先ほどのオークキングの流れるような動きは、サイラスを攻撃していた今までとは、全くの別物だったことをはっきりと理解していた。
(こいつ、サイラスを嬲って楽しんでいやがった……っ!)
その事実にぞくりと肌が泡立つ。
先ほど見せた動きが奴の全力なのか、それともまだ実力を隠しているのか。底知れない脅威に彼は戦慄を隠せない。
ただ一つ理解できたのは、自分も”遊ばれる”だろう事実。なら取れる行動は一つしかなかった。
カイゼルはウォードの腕をとる。そしてハッと振り向いたウォードの腕を乱暴に引っ張りながら声を荒げた。
「逃げるぞ!」
「でも! サイラスが!」
「でもじゃねぇ! 早くしろ! 死にてぇのかッ!」
子供のように駄々をこねるウォードにいら立ちながら、カイゼルは力任せに腕を引っ張った。
だが予想に反して、無理やり連れて行こうとしても、この細腕のどこにそんな力があるのかと不思議に思えるほど、ウォードの体は動かない。
まるで聞き分ける様子のないウォードにカイゼルが歯噛みした時、ぞくりと冷や水を浴びせられたような感覚を覚え、彼は顔を上げる。そして、見てしまった。
ガラガラと崩れる家屋を見ていたはずのオークキングが、次の獲物とでも言うように、彼らへ視線を向けていることを。
「――っ」
カイゼルは声が出なかった。完全にオークキングのまとう空気に飲まれてしまっていた。
自然と後ずさりをし、オークキングと距離を取ろうとしてしまう。
オークキングは彼ら二人へと鷹揚に向き直ると、その目を細める。そしてニタリと口を歪めた。
カイゼルはこれほどまでに死を直視したことは、あの”赤獅子の奇跡”が起こった二年前ですらなかった。
あの時は皆がいた。しかし、今はどうしようもなく一人だった。
オークキングが一歩一歩近づく音が、まるで死へ誘うようにカイゼルの脳を揺らす。
ガタガタと許しを請うように体が震える。
それでも彼は最後のプライドをふり絞り、ウォードの前に進み出て剣を構える。
オークキングはまた満足そうに笑った。
「おい、俺が奴の気を引く。その間にお前は逃げろ」
「で、でも――」
「うるせぇ! 足手まといはとっとと失せろっつってんだ!」
ぐ、と奥歯をかみしめながらカイゼルは目の前の敵をにらむ。
冒険者になった以上、長生きできないだろうとは薄々思っていた。無残な死を向かえることもあるだろうと思っていた。
だがしかし、それが今日だとは想像できていなかった。
自嘲気味に笑う彼を不思議に思ったのか、オークキングの顔から笑みが消える。そして何を思ったのか、オークキングはなぜか首を後ろに回し振り向いた。
突然の行動にいぶかしく思うカイゼル。そんな彼の耳に飛び込んできたのは、とある男の声だった。
「おい……俺はまだ……死んじゃ、いねえぞ……!」
オークキングは体をゆっくりと動かし振り返る。
その時カイゼルの目にわずかに映ったのは、体を血で真っ赤に染めたサイラスの姿だった。




