120.魔窟の呼び声
魔窟。その存在は異様なまでに異質だ。
土の中とは思えないその空間には、人間を執拗に襲う、魔物とは異なる生物が生息している。しかもその生物は息絶えると霧と化し、魔石となって姿を消すのだ。
理解しろというのが無理難題な場所。そんな皆の気持ちを代弁するかのように、とある研究者は 魔窟のことを異界と呼んだ。
魔窟の存在は、いつか分からない程の昔から確認されている。だが千年以上経っているだろう現在ですら、その謎を解き明かすことはできていない。
しかしそこに存在するのは確かで、人間は 魔窟の存在と否が応でも向き合い、生きていかなければならなかった。
魔窟の中に住む生物を人は怪物と呼び、その生態の調査を行ってきた。倒しても倒しても霧と消え、どこからか現れる謎の生物。
恐らく調査の際に、志半ばで尽きた者も大勢いただろう。
だがその尽きた命は決して無意味では無かった。彼らがある特質を解き明かしたおかげで、今も尚人間の生物圏は守られているのだ。
それは人間にとって最も厄介な 魔窟の特質。生物だったらあり得ない異質性。
それは怪物が際限なく湧き続けるという、理解しがたい事実だった。
コップの中に水を入れ続ければいつかは溢れるように、怪物もまた湧き続ければ魔窟から大量に溢れ出てくる。
それはごくごく当然の事なんだろう。なんだろうが。
《第五階層を探索してみたが! そうしたら、俺達が降りてきたのとは別の場所に、四階層に上がる階段があったんだ!》
オーリはいつもの淡々とした様子を感じさせない早口で、焦ったようにまくし立てる。
《そこから上がった第四階層はもう駄目だ! オーク共が馬鹿みたいにひしめいている! 俺達やガザ様でも手が出せない状況だ!》
俺達四人は言葉が出ない。そんな俺達の様子に異変を感じたのか、”雪鳴りの銀嶺”の面々も、困惑の表情を浮かべながらも口を噤んでいた。
《こいつは……たぶん大海嘯の予兆だ! 今の内に逃げないと大変な事になるぞ! 俺達もすぐに引き上げる! だが、魔窟からは大将なしじゃ出られない! どうしたらいい!? 指示をくれ、大将!》
オーリは焦った声でそう告げる。しかし――
「どうしたら、っつっても――」
言葉に詰まる。上手く頭が働かず、視線は宙をさまよった。
大海嘯。
それは大量の怪物が魔窟から一気に外へ溢れ出す現象のことだ。
強力な怪物が大量に発生するだけでも脅威だというのに、加えて怪物は生物を察知し、即座に襲い掛かる性質があった。
怪物が溢れ出れば最後、まるで枯葉に燃え移った火のように、瞬く間に周辺の生物を蹂躙し始めるだろう。
五十年ほど前のこと。今は帝国領となっている南のとある国で、大規模な大海嘯が発生したそうだ。
その大海嘯は発生した国を崩壊させた上、周辺各国にまでにも広がり、当時にらみあいが続き膠着していた南の戦況を激しく揺り動かす事になった。
大海嘯を発端とした戦火は、三百年以上続いた大陸南部の乱世を終わらせ、帝国樹立という結果をもって終息した。
その事実が示す通り、人間にとって魔窟とは魔石を生み出す資源であると共に、国さえ亡ぼす脅威でもある。
俺個人がどうこうできるような問題では到底なかった。
(これは王国軍に動いて貰わなきゃならない大事だ。だが、軍を動かすとなれば最低でも一週間以上はかかる。……どう足掻いてもシュレンツィアは落ちる。今はここから逃げる方法を――)
未曾有の危機に頭がまともに動かない。感じたことの無い焦燥感に、心臓が壊れそうなほどに早鐘を打っていた。
まず話を聞いてくれるか分からないが、伯爵にこれを伝えなければならない。
後は、後は何をすれば――。
焦った頭を何とか動かし、どうすべきか考える。
そんな時、俺の手を包み込むように温かい何かが触れた。
「貴方様」
それはスティアの手だった。彼女は俺の手を両手で包むと、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですわ。もしそうであってもまだ対処できますわ」
「……本当か?」
「ええ。貴方様なら、必ずや」
彼女の瞳は俺を真っ直ぐに捉えている。ルビーのように輝く赤い瞳が、揺らぎもせずに真っ直ぐに。
その感情は湖面のように穏やかで、そして何よりも温かかった。
ああ、駄目だ。
(こんなもん、惚れるなってのが無理だよなぁ)
俺が軽く笑うと、スティアもゆるりと笑い返してくる。
気が付けばギルドの中にいた冒険者達はどこかへ行ってしまっていて、周囲には俺達の姿しかなかった。
「あのさぁ。急に見せ付けられて、私達はどうしたいいのさ?」
呆れたような口調にハッとする。目をやると、様々な感情を含んだ”雪鳴りの銀嶺”一行の視線が突き刺さった。
俺は咳払いをしながら慌てて手を離す。だが対するスティアはくすりと笑っただけだった。
「ノホホホ! 若いって良いですなぁ! わたくし、カーテニア様より若いですけども! ノホホホ!」
うるせぇよ。余計なお世話だ。
非常に癪に障る。が、おかげで頭が冷えた。
「悪い。今日の訓練は無しだ」
「えっ?」
「どういうことだ?」
急な宣言にケティとヴェンデルは眉間にシワを寄せる。
だがこちらはもう色々と気にしている時間が無い。
「今、魔窟にもぐっている俺の仲間達から連絡が入ったんだがな。第五階層に怪物が一匹もいないらしい」
「え?」
「もしかしたら大海嘯の予兆かもしれん。俺達はこれからそれを確かめに行く」
声量を抑えながらも包み隠さずぶっちゃけると、二人はぽかんと口を開けたままその場で固まった。
そりゃそうだよな。どっから連絡があったんだとか、大海嘯がこれから起きるだとか、理解できないことばかりだろう。
だから彼らのことは当てにはできない。俺達だけで出来ることをやっていくしかない。
「お前達は魔窟に絶対に行くなよ。今は危険すぎる。それじゃ、俺達は行くぞ」
「ちょ、ちょっと……」
俺は立ち尽くす彼らの間を早足で通り抜ける。
だが思いがけず、俺の腕を誰かが掴んだ。
「待って」
それはジエナだった。彼女の手が俺の腕をしっかりと握っていた。
「どういうこと? 詳しく教えて」
「今は時間が――」
「お願い」
「僕からもお願いします」
隣にいるアーレンも口を開く。今彼らに事情を話したところで理解できるだろうか。
そう逡巡する俺を促すように、
「おっちゃんは、冗談は言うけど嘘は言わない。でしょ?」
ジエナはそう言って首を傾げた。
今ここでその冗談を出すか。
ふ、と笑みが漏れる。それと同時に決意が固まった。
「――分かった。ただ今は時間が無い。疑問に一々答えてる暇はないからな」
「うん」
「ちょ、ちょっと! 私も混ぜてよ!」
「お、俺もだ! 俺にも聞かせろ!」
「分かった。マァド、お前も来い。枯れ木も山の賑わいだ」
「ノホ……合点承知の助」
ぶっ飛ばすぞコイツ。神妙な顔つきがまた怒りを誘う。
俺自身もなんでコイツを呼んだか分からんが、もうどうにでもなれだ。
その後マァドに通された部屋で、俺はこちらの知る事情を話した。
俺の魔法で、魔法がかかった相手なら遠隔地でも会話が出来ること。今その仲間が魔窟の第五階層にいること。
そして第五階層がもぬけの殻で、別の第四階層への道が見つかったこと。その第四階層にはおびただしい数のオークがいること。
話を聞き皆は黙り込む。先ほどの俺と同じだ。大海嘯なんて、脅威を話に聞くくらいで、経験したことが無いのだ。想像もつかず、上手く反応できないのだろう。
「ノッホホ。しばしお待ちを」
しかしこの男は空気を読まない。奴はダバダバと走って部屋を出て行く。そしてすぐに何枚かの羊皮紙を持ってダバダバとこちらに戻ってきた。
「最近、南西の街道近くでオークが頻繁に見られるそうですな。冒険者ギルドにも討伐依頼がこうして入ってますな。もしかしたら――」
「そこに新しい入り口ができているかもしれませんわね」
「ノホ。ご明察ですな」
スティアの言葉に、マァドはくいと眼鏡を上げる。
「あたし達が来た時も、オークがいたよ!」
「そういやそうだったな。あれも南西だった」
ホシの声に思い出したが、あれも大海嘯の兆しだったのかもしれない。
もう二週間も前のことだ。そうだとしたら、既に相当進行している可能性がある。
もうここにいる面子にはばれているのだ。俺は遠慮せずオーリに質問を投げかける。
「オーリ。大海嘯がどのくらいの規模で起きるか分かるか?」
《恐らくだが、少なくて二万、多くて四万といったところだろうが……。まさか、戦う気か!? 無茶だ! 絶対勝ち目は無いぞ!?》
「まだ分からん……。でもこのまま放置もできないだろ。何かしらの手を打つ」
切迫した状況だが、しかしこのまま見過ごすなんて事はできない。
悲鳴のような声を上げるオーリ。それに対し、諦めか覚悟か、顔には笑みが浮かんだ。
「数万のオークの群れが攻めてくるそうだ。どうする? 今すぐ逃げるか。それともここに残るか?」
ぐるりと面々を見回す。”雪鳴りの銀嶺”は皆顔色を失っている。
しかしホシやスティアは涼しい顔だ。バドはもう言わずもがな。まったく嫌になるくらい頼もしい連中だよ本当に。
「おっちゃんはどうするの?」
ジエナが黙りこくる面々を差し置いて口を開く。
こいつ、先ほどの行動と言いなかなか胆力があるな。
「伯爵と話をする。俺は伯爵とは顔見知りだ。何とか面会くらいならしてもらえると思う」
「……おじさん、本当に何なの? ただの軍人じゃないでしょ?」
「今はその質問は無しだ。後で教えてやる」
「本当? 絶対よ?」
そんなもん知ってどうするのかとも思うが、今は余計な話をしている暇はない。
適当に頷いておくとケティも納得したようで口を噤んだ。
「だが、それにはまずお嬢様一行と会っておいた方がいい。俺はあいつらを探す。お前達はサイラスを探して止めてくれ」
伯爵と折り合いの悪い俺だ。名前を出しても門前払いの可能性がある。
娘の長介や騎士の力を借りた方がすんなりいくだろう。
「分かった。けど、もしお嬢様が町を出発しちゃってたらどうするの?」
「走って行って止めてくるしかねぇな。何、心配するな。俺達が全力で走りゃ追いつける」
俺がそう言うと、カイゼルを除く面々はプッと噴出した。
「後は……そうだ。町を出そうな奴がいたら止めてくれ。魔窟に向かう冒険者とかな」
「こんな朝早くじゃ、町から出るのは冒険者しかいねぇよ。でもよ。止めるったって、そんなもんどうしたら――」
「ギルドから招集要請が出たと言うことにしておきましょう。ギルドに集まった方々には、わたくしから適当に説明をさせて頂きますな! ノーッホッホ!」
俺とヴェンデルとの会話にずいとマァドが割り込んでくる。
いい加減さにかけてはコイツの右に出る者はいないだろう。まさかコイツを頼りに思う日が来るとは思わなかった。
「今は一分一秒でも惜しい。分かったら行くぞお前ら!」
『おうっ!!』
俺の掛け声に皆も声を上げる。ここからは時間との勝負だ。
俺達はだっと駆け出すと、ギルドの入り口を飛び出した。
ギルドの外に出ると、嫌になるほど平和な光景が目に飛び込んでくる。
俺達はそんな和やかな空気を切り裂くように、ごった返す人の隙間を縫いながら西門へと走って行った。




