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刑事だと名乗った有本という女性とは、携帯の番号を交換した。
警察官と親しくなるのは、木島自身にとってプラスとなるのか、マイナスとなるのか……。
児童福祉司として純粋に判断すれば、けっして悪いことではない。警察と連携しやすくなるというメリットは捨てがたい。
「……」
木島は雑念を振り払って、病院に向かっていた。青山もいっしょだ。朝のやさしい光が建物に反射して、白い壁をさらに輝かせている。
関谷智樹が退院することになった。両親による虐待を断定したわけではないが、いまの段階で自宅にもどすことはできない。
父親・弘毅はまだ入院中だが、母親はすでに退院しているということだ。父親より容疑は薄いが、それでも一時保護に踏み切るべきだった。
退院手続きをしてから、病室に向かった。さきに青山が行って、少年を落ち着かせているはずだ。
木島も覚悟を決めて、室内に入った。
やはり木島を見た途端に、少年はおびえた。
「大丈夫だよ」
木島はやさしく語りかけ、肩をなでた。
それでもおびえていたが、少しはマシになった。
「もう怖がらなくてもいいんだ……」
タクシーを使って智樹を児相につれていった。これからしばらく、ここで暮らすことになる。
現在、保護している児童は数人いるが、青山が担当している女児とすぐに打ち解けたようで、二人で遊ぶ姿を見て、少し安堵した。
自分の席へもどったときに、有本から連絡があった。席をはずして携帯に出た。
『木島さん、関谷智樹くんをそちらで保護したんですってね』
「はい、そうです」
『あとで聴取に行くかもしれません。智樹くんは、落ち着いていますか?』
「どうでしょう……病院から突然ここにつれてこられたわけですから」
こればかりは、本人でなければわからない。
大人の理屈では、どんな平常心でいる子供でも、心の奥深くでは不安におののいていると分析するだろう。が、当の子供は、本当にあっけらかんとしていることもある。
とくに親からの虐待をうけてる子供は、その根源から距離を置くことで、むしろ安心している場合すらある。
もちろんそれだって、どこまでが本心なのかわからない。所詮、人の心のなかを他人が理解することはできないのだ。
『そうですよね……』
木島の胸中を知ってか知らずか、有本は言った。
「用件は、それだけですか?」
ほかにも伝えたいことがあるのだと直感していた。
『昨日のことだけど、あの家をたずねてみようと思うの』
「……」
『あなたの意見は?』
「警察として行くんですか?」
『そうよ、あたりまえじゃない……』
彼女は正式な捜査で動いているわけではない──木島は、そう考えていた。一人で行動していたし、言葉の端々に不審なところがあった。
「反対です」
『どうして?』
木島のような児相の職員がたずねるよりは、警察官のほうが抑止力にはなる。警察にマークされていることを親が知れば、警戒して滅多なことはできなくなる。
虐待の発覚という観点でいえば困難になっていくが、子供の立場では虐待が少なくなることは悪いことではない。
が、より陰湿で巧妙になっていく危険性もはらんでいる。
木島の読みどおり正式な捜査ではなく、彼女単独で動いているのなら、不測の事態がおこったときに、ちゃんと対処できるのか疑問だ。
もっとはっきり表現すれば、虐待がひどくなったときに、逮捕まで踏み切れるのか……。
有本は、関谷智樹に対しての虐待ではなく、関谷弘毅に対しての傷害を捜査しているはずだ。であるならば、彼女は刑事課の捜査員のはず。児童虐待は生活安全課の少年係が対応するのが一般的だ。よほどの暴力が確認されないかぎり、刑事課の捜査員が直接捜査にのりだすことはないだろう。
「とにかく、慎重に行動してください。近所から通報でもあればべつですが」
『いまのところありません』
実際にあったとしても、刑事課である彼女のもとに情報が行くだろうか?
警察の内部事情にうとい木島では、想像することしかできない。
「もし訪問するつもりなら、私も行きます」
『そうですか!』
有本の声のトーンが一段上がった。
その言葉を待っていたようだ。
彼女にのせられたようで引っかかるものがあるが、近いうちにまた訪問するつもりでいたので、ちょうどよかったかもしれない。
一時間後の約束で、電話を切った。
* * *
待ち合わせの時刻は、十二時だった。
場所は、昨夜と同じファミレスだ。お昼時だから店内は混雑していた。席に案内されてすぐに、巨体が入り口の扉を開けていた。
手を振って、彼を招いた。
「で、どうします?」
すぐ打ち合わせにはいった。
「とりあえず、普通に訪問しましょう」
「これまでに何度も行ってるんですか?」
「一度だけ。昨日のお昼前です」
「子供には会えたんですか?」
「いえ」
「いることは確認しましたか?」
「はい。声を聞きました」
「会話をしたんですか?」
「そうです」
「元気でしたか?」
「……」
それには即答しなかった。
「扉越しでしたので……」
「そのときの親の様子は、どうでしたか?」
「親がいないときです」
意外な言葉が返ってきた。
「いないときにたずねたのですか?」
木島は声を出さずに、うなずいた。
その様子からうかがうに、両親のいない時間帯をざわと選んで訪問したのではないだろうか。子供だけだったので、玄関の扉は開けてくれなかった……いや、開けることができなかった。
「それって、完全に疑っているということですよね?」
それについても、木島は明言を避けた。
「あのマンションは、オートロックでしたよね?」
「……」
無断で立ち入ったのだ。児相の職員とはいえ、それは犯罪行為になる。管理人に許可をとっていた可能性もあるが、昨日、管理人に会った印象だと、そんな様子はなかった。たとえあの管理人とはちがう人物が木島に応対したのだとしても、話はまわっているだろう。
「子供の名前は?」
追及をやめ、べつのことを話した。
「さやか……下村さやかちゃんです」
少しためらったのち、彼は口にした。
「さやかちゃんとは、なにを話したんですか?」
「……」
木島は答えなかった。
「わたしのこと、信用できませんか?」
「信用しています」
感情がこもっていなかった。まだ出会ったばかりで、信頼を得るには時間がたりない。いまの時代、警察手帳に権威があるとは、咲自身も思っていなかった。
あきらめて、前へ進むことにした。
「では、行きましょう」
食事を急いでたいらげてから、ファミレスを出た。
「下村さんについて、わかってることを教えてください」
「一ヵ月ほど前に鹿児島からここへ越してきたばかりです」
越してきたばかりなのは聞き込みでわかっていたが、鹿児島からというのは知らなかった。
「児相はどうやって、下村さんを? 通報があったんですか?」
すくなくとも、いまのところ警察にはない。
「鹿児島の児相からの通達です」
つまり、むこうでそういう疑いがあった。
ここへの転居は、たまたまだったのか……それとも、むこうで疑われたから逃げてきたのか。
似たようなケースが、どこかであった。転居した地で、子供が虐待のすえ死亡するという最悪の結末となった。
児相の引継ぎ連絡がうまくいかず、さらに警察との連携もまったく機能していなかったことが世間から非難をあびた。咲もニュースで知って憤りをおぼえたものだ。
「それでも断定できないんですか?」
「われわれは警察ではありません。捜査権があるわけじゃない」
皮肉に聞こえた。
「じゃあ、今日は安心して。捜査権のある警察がいっしょなんだから」
皮肉で返した。
マンションにつくと、下村宅を呼び出した。
「児童相談所の木島です」
『またですか?』
女性の声は、あきらかに迷惑そうだった。
『昨日来たばかりじゃないですか! さやかは熱を出しているんです』
「一目だけでもいいので、会わせていただけませんか?」
『お断りします』
「あの──」
咲は、たまらずに割って入った。
「どうして、そんなにかたくななんですか?」
『なんのことですか?』
「こちらは一目見れば安心するんです。児童相談所の職員が訪問したということは、わかりますよね?」
児童虐待が疑われている──具体的に言ってやりたかったが、そこはわきまえた。
『それは誤解です! むこうの方たちが大げさだったんです』
むこうというのは、鹿児島のことだろう。
『子供がちょっと泣いたぐらいで、近所の人が通報したんですよ』
「では、むこうの児相には、誤解だったとわかってもらえたんですか?」
『そうです!』
それは嘘だ。容疑が晴れたのなら、木島のところに連絡がくるわけがない。
木島の表情を見ても、同じように考えていることがわかる。
「でしたら、そんなに感情的にならないで、せめてお話を聞かせてください」
しばし、沈黙がおとずれた。
『どうぞ』
入口のロックが解除された。下村家の部屋へ向う。
インターフォンを押したが、すぐには出なかった。気だるそうに扉が開いたのは、思い過ごしだろうか?
「児童福祉司の木島です」
「有本です」
咲は、肩書を曖昧にして名乗った。
「なんなんですか!?」
心底、迷惑そうに女性は応対していた。
二十代前半ぐらいで、育ちは悪くないようだ──咲は、そう見立てた。
「お嬢さんには会えませんか?」
「いま、寝ついています」
「寝顔でもいいので」
「お断りします!」
女性からは、若いのに厳格なイメージが強い。すくなくとも、無責任なネグレクトではないだろう。
「そんなことを言わず、一目だけでも」
牽制する意味で、咲は足を一歩踏み出した。
「ちょっと! 児童相談所でも、無断で立ち入ることなんてできないですよね!」
児相どころか、警察官でもアウトな行為だ。
「もちろんです」
咲は、とぼけて言った。入ろうとなんてしていませんよ、と仕草でアピールする。
「帰ってください! 警察呼びますよ!?」
木島は、すぐに引こうとしていた。
「どうぞ」
しかし、咲は引くつもりはなかった。
「わたしたちは、ちゃんとした職務でここに来ているんです。通報されて困ることはありません」
実際に呼ばれても、同じ警察官である咲は、いくらでも対処することができる。本当の児相職員である木島は困ることになるかもしれないが。
女性は、すごい眼つきで睨んでいる。
「申し訳ありません……今日のところは、帰ります」
木島が言った。
「もう来ないでください!」
バンッと、不快な音を立てて扉が閉まった。
木島の顔は、怒っているようだった。
「いまのでわかったでしょ? やましいことがある。あの母親は、黒。この部屋には、虐待されている子供がいる」
わざと大きめの声で咲は発言した。
木島に腕をつかまれて、マンションの外に連れていかれた。
身体に比例して、相当な力だ。男にも引けを取らない咲でも、圧倒された。
「あなたは、なにがしたいんですか!?」
低い唸り声のように、木島が詰問した。
「わかりきっていることを聞かないでください!」
咲も感情的になっていた。こういうのを逆ギレというだろう。
「虐待する親から、子供を救ってあげるんです!」
「虐待する親でも、その子にとっては親なんです。かえようがない……」
「じゃあ、黙って見てろっていうんですか!?」
そこで、おたがいが場所をわきまえた。
通行人の眼もある。
「こっち来て!」
今度は、咲が木島を引っ張っていった。
近くの公園に行き着いた。まだお昼だから、遊んでいる子供もいない。
「この街が、どんなふうに思われてるか知ってる?」
唐突に咲は問いかけた。
「……」
木島は、その意味をはかりかねているようだった。
「福祉の行き届かない病気の街……そんなふうに思われてるのよ」
それでいて生活保護の受給者は多く、ほかの街で生きられない人々が集まってくる。しかし、すべての人は救えない。保護を打ち切られ、心中する親子。そうはならなくても、貧困ですさんだ生活からか、児童虐待数も増加の一途だ。
魔地。まさしく、悪魔に魅入られた呪われた土地──。
「わたしは、それを変えたいのよ!」
咲は、熱く語った。
「どうせ、こう思ってるんでしょ? それなら政治家になれって。警察官の仕事じゃないって」
「……そんなことはない」
「だったら、少しぐらい大目にみて」
「あなたのやってることは、状況を壊しているだけです。もっと冷静になってください」
「冷静ってなに!? おとなしくやってたら、子供たちを救えるの!?」
咲は自分でも、どうしてこんなに苛立っているのかわからなかった。
きっと、琴音とめぐり会ったからだ。
もう彼女のような境遇の子供をつくりたくはなかった。
「救うんです」
返ってきた木島の声は、強かった。
「そのために神経を研ぎ澄ませ、なにが最善かをさぐる。失敗は許されない……子供の命がかかっているんだ!」
今度は、彼の言葉で圧倒された。
木島の声は、冷静でいて、そして熱かった。
「……ごめんなさい。わたしは……」
それ以上、声にはできなかった。
自己嫌悪に陥った。
「また夕方、会いましょう。そのときまでに、冷静になっていてください」