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 6

 近所への聞き取り調査は、なんの成果もなかった。そもそも越してきたばかりだから、下村琢也とその家族については、まだほとんど知られていなかった。

「ん?」

 下村の妻が歩いていた。近所へ買い物にでも行くのだろう。

 木島は、ある決意をした。

 いまならば、家には子供だけになっているはずだ。

 下村のマンションに急いだ。

 オートロックをどうするか考えたところで、タイミングよく住人が出てきた。すれちがうように、なかへ入った。

 下村宅のインターフォンを押した。

 応答はない。

 ドアを叩いた。

「さやかちゃん!」

 資料にあった少女の名前を呼んだ。

「さやかちゃん! いるのかい?」

 ドアの向こうに、人の気配が……。

 いや、気のせいだろうか?

「さやかちゃん?」

「……だーれ?」

 幼い声が、かすかに聞こえた。

「さやかちゃん……だよね?」

「……うん」

 ドアノブを回してみるが、やはり鍵がかかっていた。

「鍵を開けてくれないか?」

 返事はなかった。五歳では意味が理解できなくても無理はない。理解できたとしても、ロックに手が届かないかもしれない。

「おじさんは、児童相談所の木島っていうんだ」

 こんな自己紹介は意味がないことをよくわかっている。幼い子供には通じない。

「おじさんは、きみを守るヒーローなんだ」

「ひーろー?」

「そうだよ。いま、痛いところはない?」

「……いたい」

「どこが痛いの?」

「あんよ」

「パパとパパは、やさしい?」

「……」

「こわい?」

「……うん」

 そのとき、このフロアでエレベーターの開く音がした。

 人の降りた気配。

「また来るよ」

 木島は、エレベーターとは逆の方向へ歩き出した。そちらには非常階段があるはずだ。

 降りた人物は、まだ廊下からは見えない。

 木島は、非常階段への扉を開けた。後ろに視線をおくった。帰ってきたのは、さやかの母親だった。タイミングよく扉を閉めたから、むこうは木島に気づいていない。

 木島は階段を降りて、一階まで行った。両親から虐待をうけているなら、自分と接触したことを親が知ったら激昂するかもしれない。木島に怒りが向くぶんには、いっこうにかまわない。しかし、それが子供に行くことだけは避けなければ……。


     * * *


 咲は、中学校の前で待っていた。

 琴音を風呂に入れ、話を聞いたあと、彼女を中学校まで送っていった。咲が強引につれていったわけではない。本人が行くと言い出したのだ。

 夫人は、そのことにとても喜んでいた。これからも琴音のことを気づかってくれないかと、お願いされた。

 咲のほうも、琴音のことをほっておけなくなっていた。心配でもあったし、琴音から学校が終わったら話したいことがあると言われていたので、咲は彼女を待っているのだ。

 下校時間、たくさんの生徒たちが帰っていく。集団もいれば、二人、三人の少数で歩いている生徒もいる。もちろん、一人で帰る者もそれなりにいた。

 が、同じ一人でも、琴音の孤独感だけは、ほかとはちがっていた。

「どうだった、学校?」

 琴音が眼の前に来てから、咲は問いかけた。

「え? いつもといっしょ」

「ホントにそうだった?」

 琴音は、本気でわからないようだった。

「みんなを見てみなよ」

「なんのこと?」

 こわごわといった感じで、琴音は周囲の生徒たちに眼を向けた。普段、他人を見ることなど少ないのだろう。おどおどした様子が、可哀想になるぐらいだった。

 通過する生徒たちは、みな琴音に一瞥をおくる。すぐに視線はそれるのだが、その意味するところを彼女自身は理解していないようだ。

「みんなに見られてるでしょ」

「……わたしのこと、バカにしてるのよ。わかってるでしょ……わたし、ハブられてるから」

 思わず咲は笑ってしまった。ハブられてる、という言い方が古臭く感じたからだ。自身が中学生のころも口にしていた。若い子の言葉づかいは日々進化していくものだが、それだけは変わっていないようだ。

「なに笑ってるの!? あなたも、わたしのことバカにしてるんでしょう!?」

「ごめんごめん。でも、よく見てみなさい。いまのあなたを、どんな瞳で見ているか」

 まるで熱血教師のような物言いに、自身でもむず痒さを感じてしまった。

「……」

 琴音は、通り過ぎる生徒たちをジッと観察している。しかし、答えが出ないようだ。

「あれはね、あなたに興味を惹かれてるのよ」

「だからバカにして──」

 咲は、琴音の言葉をさえぎった。

「ちがうわ。あれはね、あなたの可愛らしさに驚いてるのよ」

「なに言ってるの?」

「あなた、鏡見てないでしょ」

 身だしなみに無頓着だった彼女には、そもそもそんな習慣がないのかもしれない。

「シャワーを浴びて、髪型もかわいくセットしてあげた。女って、それだけでも劇的に変わるものよ」

「うそ……」

「うそじゃないわ。いま見た男子は、あきらかにあなたに気があった」

 その男子生徒はすぐに視線をそらして、あっというまに歩き去っていった。

「いまの女子は、こんな子いたっけ? って顔してた。もちろん、カワイイって意味でね」

「やめてよ!」

「どうして、そんな卑屈になるの? あなたの過去は知ってる。両親から虐待されていたって、普通の子たちと同じに暮らしてもいいのよ」

 この言葉が、彼女の心に響かないのは予想していた。両親から愛されない経験をした者でなければ、虐待がどれほど残酷なものなのかわからない。

「知ったようなこと言わないで!」

「そうね……だったら、あなたの両親を憎みなさい」

 琴音の瞳が、虚を突かれたような色をおびた。

「え?」

「憎しみを胸に生きていきなさい」

「……刑事がそんなこといっていいの?」

 もとより道徳的な指導からは、かけ離れていると自覚している。しかし、それしかないと思った。

 この少女を救うには、それしかないと……。

「でも、怒りが消えずに親を殺したくなったら、わたしに言いなさい」

「……どうにかしてくれるの?」

「わからないわ……だけど、あなたを殺人犯にするわけにはいかないでしょう」

 言い聞かせるように伝えた。

「……」

 琴音の表情からは、どういう心情になっているか読み取れなかった。

「で、わたしに話したいことって?」

 話題を変えた。二人のあいだの空気を入れ替える目的もあった。

「……鬼が来るところ、教えてあげる」

「え?」

 鬼……傷害事件の犯人の居所を知っているのだろうか?

「どこ!?」

「ついてきて」

 琴音は、機械的な足取りで歩き出した。咲は、黙ってついていくことにした。

 学校から住宅街へ抜けた。アパートや低層マンションが多い区画を出ると、十回以上の高層マンションや、大きな一軒家のある地域に移っていた。とはいえ、自宅に帰ろうとしているわけではないようだ。

(そういえば……)

 午前中に琴音の家へ向かう途中、あの大男とぶつかった曲がり角だった。

 琴音は、さらにスタスタとさきへ進む。

 本当に目的地があるのかと心配になるような歩調だった。

「ここなの?」

 琴音の足が止まっていた。

 眼の前には、マンションがそびえている。

「ここに犯人がいるの?」

 しかし、彼女の首は横に振られた。

「いまはいない」

 その答えには、ふた通りの解釈がある。

 この時間にはいない。つまり、ここに住んでいるが、いまは仕事かなにかで在宅していない。

 もう一つが、このマンションに住んでいるのではなく、これまでのように、虐待のある家庭にやって来ようとしている……。

「犯人がここに来るのね?」

 咲は、念を押した。

 ゆっくりと琴音の顎が上下に動いた。

「いつ来るの?」

 それには反応してくれなかった。わからない、ということのようだ。いつ来るかわからないが、いずれはここも襲撃する……。

「ねえ、どうしてここだってわかるの?」

 素朴な疑問をぶつけた。

 琴音の主張を言い替えれば、このマンションの部屋のどこかに虐待をうけている子供がいるということだ。それが、どうして彼女にわかるのだろう?

「なにかを見たの?」

 虐待現場を目撃したとしか思えない。

「わかる……」

 ボソッと琴音は口にした。

「わかる? なにがわかるというの?」

「そういうの……」

「え?」

 そういうのがわかる──ということのようだ。

「わかるって……虐待されてる子が?」

 力なく、琴音はうなずいた。

「虐待されてる子を見たの?」

 どうやら、そういうことではないらしい。

「まさか、超能力みたいな、とか言わないわよね?」

 不快な言い方になってしまったかもしれない。

「その子は、どんな子? 何歳ぐらい? 男の子? 女の子?」

 とりあえず根拠は置いておくことにして、琴音を質問攻めにした。

「……」

 だが、どうにも要領を得ない。

 もしかして……。

「その子に会ったことないの?」

 またしても、力なくうなずいた。

 どういうことだ? 子供に会ったこともないのに、どうして虐待がおこなわれているとわかるのだろう……。

「もう一度、確認しておくけど……根拠はあるんだよね?」

 それこそ、このままでは超能力の領域だ。

 一瞬、困った表情になった琴音だったが、すぐになにかを決意したような瞳になった。

 腕を引かれた。

 ついてこい、ということらしい。

 それに従うと、マンションの裏手にまわっていた。

「ここが、どうしたの?」

 琴音の指が、ある一点をしめしていた。

 ある部屋のベランダだ。

「あそこで、虐待されているのを目撃したの?」

 堂々巡りのような気もしたが、そうたずねた。やはりこれにも、首を横に振る。

「ベランダ……」

「ベランダ?」

 その部屋のベランダが別段、かわっているというわけではない。ただ、植木鉢で飾られ、ちょっとしたガーデニングになっている部屋が多いなかで、そのベランダは、なにもない殺風景な外観だ。

 とはいえ、そういう部屋は一つだけではない。おそらく、ベランダを有効に活用するか、まったく無頓着になるかは、かなり個人差があるはずだ。ベランダに無頓着な家庭すべてで虐待がおこなわれているというのは、どう考えても暴論だ。

「どういうことなの?」

 咲が住むアパートにも小さなベランダはあるが、まったくなにも飾っていない。

「あれ」

「え?」

「見えない……」

「なんのこと?」

 見えない? 考えられるとすれば、その部屋のベランダには、柵の格子の部分に板のようなものがはられていて、人が立っていても胸から下は見えないようになっている。

 ほかの部屋でも、そういう処置をしているところはあるが、どうやらガーデニングの一環として、そうしてあるらしい。たぶん棚のようなものをつくって、植木鉢などを置いているようだ。

 たしかに、こうしてあらためてみると、ベランダに無頓着と思われる家庭でそんなことをしているところは、ほかにないようだ。

「どうして、そういうことになるの?」

「外に出される……」

 子供を部屋から閉め出して、ベランダにずっとおいておくということだろうか?

「あなたも、やられてたの?」

 答えづらそうに、うつむいた。

「……もっと小さいころは、外にも出されなかった」

 いつを基準にして『もっと小さいころ』なのかよくわからなかったが、ベランダに出されるよりも、出されないほうがつらいことのように受け止めることができる。

「たぶん、部屋のどこかに閉じ込められてたと思う……」

「ベランダに出されるまえ?」

 琴音はうなずいた。

「いうこときくようになったから……」

 虐待する親に、ただ従順になっていく。

 逆らわなくなったから……おとなしく従うようになったから、監禁をやめた。琴音の主張は、そういうことだ。そして、彼女自身が経験したプロセスなのだ。

 咲は、たとえようもない怒りを感じるとともに、無性に悲しくなった。ダメだ。咲は、気を引き締めた。いま、琴音にたいして憐みの眼を向けてはいけない。

「どれぐらい自信があるの?」

「え?」

「だから、あそこの家に虐待されている子供がいることよ」

「……」

 琴音は答えられない。

 それでも瞳をみつめた。

「わかった。あなたを信じる」

「……!」

 彼女の表情に、安堵のような……よろこびのような色がさした。

「虐待されている子供のところに……いえ、虐待している親のところに、鬼は来るんでしょ?」

 力強く、琴音はうなずいていた。


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