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病院から出た木島は、何者かの視線に気がついていた。
それを無視をして、児相までもどっていく。だが途中でどうにも居心地が悪くなって、後ろを振り返った。
制服を着た女子生徒だった。
木島は、その少女を知っていた。
声をかけることはなく、そのまま先を急いだ。しだいに気配はなくなっていた。
* * *
ようやく、目的の人物に追いついた。
声をかけることはせず、咲は彼女の様子をうかがっていた。
公園で出会った少女だ。
むこうは、咲のことに気づいていない。
場所は、病院にほど近い住宅街の通りだった。それまで早足で歩いていたはずなのに、突如として止まった。勘づかれたのかと思ったが、そうではないようだ。
どうやら、あの少女もだれかのあとをつけていて、その対象を見失ってしまったか、もしくはなにかしらの理由で、尾行を断念したのではないだろうか。
少女はあきらめたように、進路を変えた。
咲は、そのあとをつける。
本来なら学校にいなければならない時間だ。咲がそのつもりになれば、補導することもできる。
が、咲はどうしても、彼女の素性が気になっていた。容姿は可愛らしいのに、どういうわけか違和感があった。
そうだ。その感覚に思い当たることがあった。あれは小学生のときだったか、クラスメイトに同じような子がいたのだ。
その子のうちは貧乏で、いつも同じ服を着ていた。咲は、だからといって、ほかの子たちとかわらないと思っていた。しかしクラスのみんなは、からかいの対象にしていた。
服が同じで、毎日お風呂に入っていないから、匂いがどうしてもキツくなる。髪型もぼさぼさで、とくに女子としては好感はもたれない。
あの少女には、それほど近づいたわけではないが、それでもかすかに臭った。
もちろん、それだけであとをつけているわけではない。彼女は、事件についてなにかを知っている。そういう予感がある。
少女は、いくつかの路地を抜けて、ある建物に近づいていた。
(え……?)
どういうことだろう。
少女が向かっているのは、この街で一番立派なのではないかと思えるような邸宅だった。
「嘘でしょう?」
少女は、門からなかに入った。この家に住んでいるのはまちがいないようだ。
しかし、まだこの家のご令嬢だと断定できるわけではない。たとえば、使用人の娘とか……。
ちょうど少女とすれちがいに、お手伝いと思われる女性が掃除のために門から出てきた。
「あのー、いまここに入っていった女の子は……ここのお嬢さんでしょうか?」
「はい?」
使用人らしき女性は、きょんとした顔をしている。
「あなた様は……?」
「失礼しました。わたしは、こういう者です」
警察手帳をみせた。
「お嬢様が、なにかしたんですか!?」
あわてたように、家政婦は声をあげた。
お嬢様、ということは、本当にそうなのだ。
「あ、いえ……そういうわけではないんです。ちょっと、捜査の途中でみかけまして……」
咲の対応は、ぎこちないものになった。
明確な捜査で話を聞いているわけではない。事件についてなにか知っているかもしれないというのは、ただの思い込みかもしれないのだ。
「そうですか……」
女性の表情は冴えなかった。
「あの……もしかしてですが、なにか心当たりがあるのでしょうか?」
「……わたしのほうから言うことはできません。奥様にお聞きください」
そう口にすると、家政婦は邸宅のなかに入っていった。お待ちください、とは言われなかったが、話しの筋から取り次いでくれるのだろうと期待して待った。
五分ほどで、もどってきた。
「どうぞ」
屋敷のなかたに入ることを許された。
外観は西洋風なのだが、内装は和洋入り乱れていた。案内された部屋は純和風だった。十畳ぐらいの広さがあり、畳の香りが強い。お茶会でもひらかれそうな空間だった。
慣れない正座で待っていると、和服を着た女性が入室してきた。年齢は、四十歳前後だろう。
「楽にしてくださいね」
そうは言われても、足を崩す気にはなれなかった。育ちが悪いと思われたくなかったのだ。女の意地のようなものだ。
「警察の方、なんですよね」
「はい」
「娘が迷惑をおかけしたのですか?」
「いえ……そういうことでは」
事件現場近くで遭遇したことを告げた。もしかしたら、事件についてなにか知っているのではないかと。
「あの……失礼とは思いますけど、お嬢さんは……」
そのあとの言葉が続かなかった。
「あの子は、じつの娘ではないんですよ」
女性のほうから、おもんばかってくれた。
「もう少し、なじんでくれると思ったのですが……」
「どういう経緯で、この家に来ることになったんですか?」
「あの子は、じつの両親から虐待されていました。それで、うちが引き取ったんです」
「親類だったのですか?」
「ええ。といっても、遠い親類でして、あの子の母親に一度だけ会ったことがある程度の関係ですわ」
咲は、言おうか言うまいか迷った。
「お嬢さんなんですが、あの……」
「どうぞ、おっしゃってください」
「ちゃんとお風呂に入っているでしょうか?」
「……いえ」
「少し臭いました……」
「お恥ずかしいです」
それは、あの子がお風呂に入っていないことを恥じているのだと思った。
「わたしどもは、あの子の親にはなれていないのです」
ちがったようだ。あの子を恥じているのではなく、親としての自分たちを恥じているのだ。
咲は、少し安堵した。
「そういう習慣がなったようなのです」
「お風呂に入ること、ですか?」
「はい。典型的なネグレクトだったようです。父親からは暴力をふるわれ、母親からは育児放棄……」
女性はそこで言葉を止めたが、その続きは咲の心のなかに響いた。
……地獄ですね。
「食事もあたえられず、風呂にも入れてもらえず、着替えもさせてもらえない……」
あの子は、そんな地獄を生き抜いたのだ。いまがこんな金持ちの家で暮らせるのだとしても、それで帳消しになるような人生ではない。
「本当の両親は、どうなったのでしょうか?」
「事件がありまして……」
女性は、言葉を濁した。
「警察に捕まったということでしょうか?」
「捕まりはしたのですが……」
「?」
「……あくまでも、結果的にです」
言っている意味がわからなかった。
しかしそれ以上、そのことを掘り下げるつもりはなかった。逮捕されているのなら、資料が残っているはずだ。
「お嬢さんに会って、話しがしたいのですが」
「わかりました。つれてまいります」
女性が家政婦を呼び、その旨を伝えた。少女が部屋に来たのは、十分後だった。その間、とくに会話らしい会話もなく、女性とともに待っていた。さすがに、足が痺れてきた。
「琴音さん、こちらの刑事さんが、お話があるそうよ」
「こんにちは」
「……」
琴音と呼ばれた少女は、制服姿のままだった。
「また会ったわね。琴音さん、っていうのね」
咲も立ち上がって、目線の高さを合わせた。痺れていても、よろけるようなことはなかった。
「……」
少女──琴音は、無言だ。暗い表情で、あくまでもムスっとしている。
「あなたとお話がしたいんだけど」
琴音が、咲を睨みつけた。
「わたしは、ない」
「わたしにはあるの」
「……」
「あなたは、あの団地でおこった傷害事件について、なにか知ってるんじゃない?」
「……おに」
「え? おに?」
咲は、そこで思い出した。
同じようなつぶやきを、さきほども耳にしている。関谷智樹くんからだ。
「おに、ってなに? なんのこと?」
「……」
琴音が震えていることに気がついた。
「どうしたの? なにを怖がってるの?」
彼女の肩に手を置いて、震えを鎮めようとした。
「イヤ! さわらないで!」
金切声に近い叫びで、激しく拒絶された。腕をつかまれ、爪を突き立てられた。
「どうしたの!? 落ち着いて!」
琴音の身体を力で押さえつけた。
「琴音さん!」
「お嬢さん!」
養母である女性と、家政婦の力も借りて、どうにか彼女をおとなしくさせた。
「どうして興奮したの? さわられることが嫌いなの!?」
咲の腕から、血がにじんでいた。
いまにも飛びかかりそうな形相で、琴音は睨みつづけている。
「今日のところは、帰ります……でも、また話をしにくるわ」
母親や家政婦の制止を振り切って、琴音は部屋を飛び出していった。
「刑事さん、怪我の手当てを」
「いえ、大丈夫です、このくらい」
母親の厚意を断わり、咲は邸宅をあとにした。