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「木島さん、いままで警察の人が来てたんですよ」
大柄な男が相談所内に帰ってきた。青山が声をかけると、木島という大男は生真面目そうな顔で応えた。
「そうですか……なにかあったんですか?」
「いやだなぁ、あの事件についてですよ。きまってるじゃないですか」
青山は、オーバーな仕草でそのことを伝えた。
「関谷さんのことですよ」
それでも木島の反応は鈍かった。
「もう忘れちゃったんですか? 智樹くんの家ですよ」
青山の年齢は二八で、木島は三一歳。木島のほうが先輩になるが、青山は自分のほうがしっかりしているし、仕事もできると思っている。
「あの凶暴な父親ですよ」
「ああ」
本当に思い出したのか心配になる反応だった。
「昨夜、暴漢に襲われたことは知ってるでしょう?」
「物騒ですね」
「そうなんです。物騒ですよね……ても、こういうこと言っていいのかわかりませんけど、ざまあみろ、って思う気持ちもあるんですよね」
この会話に入ってきた人物がいた。
「青山さん、それは不謹慎じゃありませんか?」
青山と木島よりも先輩になる女性所員の高橋だ。
「どこで聞かれるかわからないんですから、言葉には気をつけてください」
いつものように厳格な注意を放つ。
「すみません……気をつけます」
青山は恐縮したように反省の言葉をつぶやいた。
「木島さん、いま話に出ていた智樹くんのことなんだけど」
声のトーンを変えて、高橋は続けた。
「たぶん、うちで保護することになると思うから、病院で様子を見てきてくださる?」
「わかりました」
木島は体格とは正反対に、頼りなげに返事をしていた。
「まさか、子供は苦手なんて言わないでね」
高橋は、そのことを知りながら意地悪をしていた。悪意のある意地悪ではない。木島のことを思ってのことだ。
木島は、児相の職員としては優秀とはいえない。子供が苦手でありながら、それでいて子供に深く感情移入してしまう傾向にある。
それが良いほうに転ぶこともあれば、マイナスに向かうこともある。高橋は、それがもどかしい。どうにかして、木島には壁を突破してもらいたいのだ。
木島が病院に到着したときには、正午をむかえていた。
少年の病室は、個室になっていた。同じ病院に親子三人が入院していることになるが、それぞれが別々に隔離されていた。
少年──関谷智樹は、ベッドのなかではなく、イスに座って絵本を読んでいた。すでに昼食はすませてあるという。
年齢は六歳。幼稚園や保育園には通ったことがない。だから文字は理解できないだろう。それでも熱心に絵本を楽しんでいるようだった。
少年の家に訪問したときは、なかに入れてもらえなかった。それでも雰囲気から室内の様子が想像できるものだが、とてもではないが子供の遊具があるような家庭ではない。
木島の入室に、少年はおびえたような瞳を向けた。女性看護師も立ち会っているが、木島の巨体では怖がるのもムリはない。
「関谷智樹くんだよね。おじさんは児童相談所の木島といいます」
「う、う……」
少年のおびえ方は、身体の大きさだけの問題ではなさそうだった。
「お、おに……」
「大丈夫だよ。智樹くん」
言い聞かせるように、やさしく語りかけた。
少年の眼をみつめる。
「おじさんは、きみになにもしないよ」
「……」
「お話していいかい?」
少年は、コクンと小さくうなずいた。
「パパから、いっぱいひどいことされてたね?」
少年の首は動かなかった。
「もうパパは、きみになにもできない。怖がらなくてもいいんだよ」
それでも少年は、認めなかった。
この子にとって、どんな人間であろうと、父親にはかわりないのだ。
「パパとはいっしょに暮せない……ママとも、もしかしたら……」
少年は泣き出した。
「あの、もうこれぐらいで」
看護師に注意されて、木島は退室した。
子供相手とはいえ、たいした話はできなかった。
* * *
被害者・関谷弘毅との面会は、まったく収穫がなかった。医者から五分だけと約束させられて話を聞いたが、まともな受け答えもできない状況だった。
怪我のためだけではない。
かなりの精神的ダメージをうけている。
言葉をしゃべっているというより、うわ言を吐き出しているような不確かさがあった。語っていたことも支離滅裂で、ただ恐怖を訴えていたのが現状だ。
犯人についての証言も曖昧で、ましてや子息への虐待については質問すらできなかった。
「あのおびえ、尋常じゃありませんでしたね」
咲は、しみじみと小野田に話した。
昨夜のうちに聴取できなかったのを、どこか職務怠慢だと同僚たちを責める気持ちがあった。じかに会ってみると、仕方のないことだと理解できる。
「それだけ怖い思いをしたってことだ」
「どんなヤツなんでしょう?」
「それをつきとめるのが、おれたちの仕事だ」
身も蓋もないことを言われた。
じつの子供を虐待していたであろう父親。
それをぶちのめした犯人。
どちらのほうが悪人なのか……。
小野田には否定したが、犯人の肩をもちたくなる気持ちもわかる。
(ダメ……)
その考えを必死に胸中で否定した。
「次は、母親だ」
母親の病室は、個室ではなかった。
彼女の場合は外傷的な怪我ではなく、あくまでも精神的なものだ。本来なら、しかるべき場所に入院させるべきだが、家族でここへ運ばれた関係で、この一般病棟になった。
関谷弘毅の病室前には制服警官がついていたが、妻のほうはそういうことにはなっていない。夫についている警官は、護衛のためと監視のため──二つの意味合いがある。傷害事件の被害者ではあるが、同時に児童虐待の容疑者でもあるからだ。
この母親は、どうなのだろう?
積極的に参加していなくても、夫の命令をうけてやっていたかもしれない。自分たちの捜査はあくまでも傷害事件のものだが、もし犯人の動機に虐待が関係しているとすれば、いずれそのことも追及していくことになるだろう。
「関谷さん、お話いいですか?」
小野田が声をかけるが、彼女の反応はない。起きてはいるようだが、放心状態というやつだろう。
ほかの患者もいる手前、込み入った話はできない。が、これではその心配も無意味になりそうだった。入院の措置も仕方のないことだ。
小野田が視線を移して、首を横に振った。
「話のできる状態じゃない」
病室を出た咲の落胆は、自身でも予想外に大きなものだった。被害者が健在で、その場に居合わせた目撃者までいるのに、なんの進展もない。
たとえ虐待に対する抗議の意があったとしても、傷害犯は傷害犯だ。絶対に捕まえなければならない。
それに、この犯人は虐待とはなんの関係もないことだってありえる。そうだとすると、粗暴な凶悪犯を野放しにしていることになる。
いまだに犯人の人物像さえつかめないなんて……。
「次は、子供だ」
「まだ六歳なんですよね?」
「ああ。だが、証言は可能だ」
身近に幼い子供のいない咲には、それぐらいの子供が、どれだけ的確に証言してくれるのかわからなかった。
自身の幼いころを思い出そうとした。
それでもよくわからない。そこで気がついた。これまで過去を振り返ったことは、ほとんどなかった。そういうことは、弱い人間だけがするものだと……。だから、もうよく覚えていないのだ。なんだか悲しくなった。どうして、こんな気持ちになるのだろう。
雑念を振り払って、咲は子供の病室がある小児病棟のナースステーションを訪れた。
しかしそこで、関谷智樹との面会を拒否された。理由をたずねると、ついさきほど児童相談所の人間がやってきたそうだが、子供がおびえてしまい、それどころではなくなったということだった。
咲たちが父親と母親の面会をしている最中にやって来たようだ。
「来たのは、青山という人でしたか?」
「いえ、たしか……木島さんだったと思います」
青山とともに、関谷家を訪問した児相の職員だ。
「あの、木島さんは、もう帰ってしまったんですか?」
「はい。いまさっき」
木島からも話を聞きたいと思っていたので、追いかけようか迷った。
少年と木島、どちらをとるか。
「智樹くんには、どうしても会えないんですか? 智樹くんの証言が捜査には必要なんです」
咲の熱い訴えが伝わったのか、看護師が主治医に相談しにいってくれた。
「五分だけです。刺激するような質問はひかえてください」
少年と木島を天秤にかけた場合、少年のほうが上だ。直接、犯人を見ている少年からの証言を得たかった。
病室へ入るまえに、小野田には自分にまかせてほしいと願い出ていた。子供の心を開くには、女性のほうがいいはずだ。
「智樹くん。お話、いいかしら?」
やさしく語りかけたつもりだったが、少年はあきらかにおびえていた。
「大丈夫よ、お姉さんは怖くないから」
「うう、ええーん!」
ついには泣き出してしまった。
思わず笑顔も引きつる。
「智樹くん、泣かないで……」
どうしようかとオロオロしていたら、小野田が腰をかがめて話しはじめた。
「おじさんたちは、悪い人間じゃないよ。悪い人間を退治するために調べてるんだよ」
穏やかな語り口だった。こんな雰囲気を出せることを、咲は初めて知った。
「昨日、パパに悪いことをしたひとを、智樹くんは見たかい?」
少年は泣きやんでいた。
コクンと小さくうなずいた。
「どんなひとだったかな?」
「おに……」
「え?」
しかし少年はそれ以上、語ってくれない。
おに。
おにいちゃん。
それとも、べつの意味があるのだろうか……。
「ねえ、男のひとだった? 女のひとだった?」
あれだけの暴行をしたのだから男性にきまっていたが、それを決定づけるためにも問いかけた。
が、少年はまた泣きそうな顔になってしまう。
「どっちだったかな?」
小野田のフォローで、なんとかもちこたえてくれた。
「男のひと?」
また、コクンとうなずいた。
さすがに咲も悟った。小野田にまかせたほうがいいようだ。
「どんな男のひとだったかな?」
「おおきい……」
「大きいひとだったの?」
「さっき……」
「さっき?」
そこで看護師が割り込んできた。
「もう五分です」
少年の弱々しくて不安定な様子を眼にしたら、声を挟まざるをえなかったのだろう。
「もう少し……」
咲は続けようとしたが、小野田が看護師に従った。彼は、厳しい先輩のイメージとはちがって、子供には弱いようだ。
「収穫ありませんでしたね」
病院を出てから咲は、ぶっきらぼうに言った。
「そんなことはない。犯人が男ってことがわかった」
関谷弘毅の状態を見れば、犯人が男であることはわかりきっていた。
署にもどろうとした咲だったが、その瞳にある人物が映りこんだ。
「小野田さん、さき帰っててください」
「おまえは?」
「ちょっと寄りたいところが……」
「おい、捜査活動は二人以上が鉄則だ。一人で動くことは許されてない」
「トイレです。トイレ」
女がそう言えば、それを止めることも、待つこともセクハラにつながる。
「……わかった。さきにもどってる」
卑怯なやり方だったが、男の同僚をあつかうには、昨今のハラスメントブームにのっておくのが一番だ。
咲は、ある人物を追った。
さきほど団地の公園で出会った女子学生だった。