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 琴音にはわかった。

 鬼が来る。

 父親をぶちのめした巨大な鬼が!


     * * *


 咲は、身構えた。

 いま扉の向こうに、巨大な圧力を有するものが迫っている。

 見れば、下村琢也も本能的に感じ取っているようだ。妻への殴打を忘れ、ゴルフクラブを玄関扉へ向けている。

 勢いよく扉が開け放たれた。

 重量感のあるものが、室内に入った。

 咲は、眼を見張った。

 動きの速さが尋常ではなかった。

 巨体の主は一気に下村へ迫り、クラブを持つ腕と首を左右で同時につかんだ。

「ぐうう!」

 抵抗する間もあたえなかった。

「ぐわああ!」

 喉を押さえられているのに、それでも悲鳴がほとばしった。下村が、ゴルフクラブを床に落とした。

「お、折れる!」

 乾いた音が、冗談のように響いた。

「ぐおおお!」

 断末魔の悲鳴とは、このようなものだろう。

「や、やめなさい!」

 ようやく咲は、声をあげることができた。

 だが、襲撃者には届いていない。

「やめて……木島さん!」

 下村の身体が、床に投げ飛ばされた。背中を強打して、反動で人形のように跳ね上がった。

 木島の腕が振り上げられた。

 下村の顔面に拳がめりこんだ。

 一発、二発、三発。

「殺す気なの!?」

 人の心には、だれしも鬼が棲んでいる──。

 まさしく、それが体現されている。

 咲は、下村の落としたゴルフクラブを手に取った。

「やめなさい!」

 木島の背中を打った。

 ビクともしない。

 さらに強く打った。

 クラブのほうが、簡単に曲がってしまった。

「木島さん!」

「ムダ……鬼は、すべてを破壊する」

 琴音の声が、冷たく部屋に反響している。木島の凶行を眼にしても、おびえた様子はない。

 かつて、自身の父親が暴行された現場に居合わせているはずだ。一度、経験しているから恐怖がないのだろうか……。

「どうすれば……」

 暴力がやむまで、手をこまねいているしかないのだろうか。木島の巨体そのものが、圧倒的な凶器だ。この男が本気になったら、女性一人では止められない。

「また一人……わたしが生まれた」

 琴音のつぶやきが、どうしてだろう……さきほどから、よく耳に届く。

 木島も、動きを止めていた。

 一点をみつめている。咲もつられるように、木島と琴音が見ている方向に視線を向けた。

 あの監禁部屋から、さやかが出ていた。

 つぶらな瞳が、凄惨な光景を眺めている。

 わたしが生まれた──。

 虐待をする親が、鬼によって退治される。

 琴音はかつて、それをどのような気持ちで見ていたのだろう。そしていま、さやかはどういう感情を抱いているのだろう……。

 咲はとるべき行動も忘れ、この暴力的な空間で、ただ立ち尽くしていた。

 木島の暴力がやんだのもつかのま、さやかから視線をそらすと、拳での殴打が再開した。

 咲は職務を思い出し、木島の腕にしがみついた。

「やめろ!」

 それでも阻めない。

 まるで、ライオンの尻尾がハエを払うかのように木島が腕を振ると、簡単に咲は弾き飛ばされた。

 ドンッと背中から壁に激突した。

 息が止まった。

 頭も打ったようで、意識が朦朧とした。

「うう……木島さん……」

 靄は晴れずに、どんどんと深みに落ちていく。

 白い世界が、徐々に暗く……。



「おい! 有本! おい!」

 その声で、黒い世界から、明るい場所へ浮上していた。

「大丈夫か、有本!?」

「う……小野田……さん?」

 咲は、意識を取り戻した。

 下村の部屋……。

 状況を脳裏の奥から呼び覚ました。

「木島さん!」

 室内にはいない。木島だけではなく、木島により暴行をうけた下村琢也も、その下村から暴行をうけた夫人の亜衣もいなかった。

「どうなったんですか!?」

 上半身を起こして、咲はたずねた。

 琴音は?

 ……いない。

「さやかちゃんは……」

「児相の高橋さんが、すでに保護してくれた」

「ほかには……?」

「通報をうけて警官がきたときは、おまえさんをはじめとして、主人の下村琢也と妻の亜衣が倒れていたそうだ」

 駆けつけた制服警官によって救急車が呼ばれ、すでに下村夫妻は運ばれたようだ。

 ここまでの小野田の話によると、木島も琴音も、すでにいなくなっていた……。

「どうした、なにがあった?」

「いえ……」

 咲は言いよどんだ。

 なんと答えておけばいいだろう?

 木島の犯行。

 琴音の犯行。

 警察官としては、報告をするべきだ。

「有本、おまえはどうして倒れてたんだ?」

「……わかりません。覚えてないんです」

「頭を打ったのか……病院に行ったほうがいいな。おまえにも救急車を呼ぶか?」

「大丈夫です……」

 咲は立ち上がった。

 ふらつきがあったし、頭も痛んだ。

「おい」

「帰ります……聴取は、明日お願いします」

 咲は、捜査員たちのあいだを抜けて、部屋を出た。

 これからなにをすべきなのか、もうなにもかもわからない……。

 しばらく街をさまよった。

「……」

 自分の部屋には帰りたくなかった。

 気づいたときには、陽が暮れていた。

 ここはどこ?

 知らない街並みのなかにいた。

 このままではいけない……。

 咲は、木島の携帯を呼び出した。

 出ない。

 琴音は携帯をもっていないから、自宅にかけてみた。家政婦が出たが、琴音はまだ帰っていないという。

 木島は、これからどうするつもりなのだ。

 これまでとはちがって、警察官に正体を知られている。もう普通の生活には……児童福祉司にもどるつもりはないのかもしれない。

 鬼が暴走しているとして……はたして、次はなにをしようとするだろう?

 答えは見えている。

 彼の行動理念は、子供を守ることだけだ。

 では、次に向かうのは……。

 ちょうど通りをタクシーがやって来た。

 咲はそれをとめて乗り込んだ。運転手には、ある住所を伝えた。

 その場所には、一時間ほどで到着した。

 二三区内でも高額納税者が最も多く住む区で、その区のなかでも高級住宅地と呼ばれるエリアだった。咲の勤める警察署が管轄する区域とは、雲泥の差だ。

 その邸宅は、倉科フーズの創業者であり、国家公安委員でもある倉科源の住居になる。そして息子である倉科政俊も、ここに住んでいる。

 荘厳なはずの門が、不用意に開いていた。

 うぎゃああ!

 悲鳴が聞こえた。

 まちがいない。木島は、ここに来ている。

 咲は家人の了解をえずに、門のなかに入った。

 玄関扉も開けっ放しになっている。

 かまわずに、さきへ進んだ。

 廊下の途中で、使用人だと思われ女性がへたれるように座り込んでいた。

「どうしましたか!?」

 年配の女性は、おびえて応答できるような状態ではない。外傷はないようだ。

 警戒しながら、前進を再開する。

 二階への階段をあがった。さきほどの使用人が上のほうを向いておびえていたから、まちがいないだろう。

 二階の廊下には、二人の男性が倒れていた。

 警備員の制服を着ている。契約している警備会社が異常を検知して駆けつけたのだろう。

 見たところ、二人とも外傷は確認できなかったが、意識は完全に飛んでいる。

 咲は武器を持っていない。警備員の所持していた警棒を借りることにした。警察で支給されている特殊警棒と、ほぼ同じものだった。

 そのすぐ近くの部屋の扉が、不自然に開いていた。まるで、ここだよ、と手招きしているかのようだった。

 咲は警棒をかまえながら、室内に足を踏み入れた。

 すぐ眼の前に、巨大な背中があった。

「木島さん! 離れなさい!」

 首だけが、咲のほうを向いた。木島の背中が邪魔で、前方が見えない。だが、まだこの部屋では凶行におよんでいないようだった。

 回り込むようにして、部屋の奥に眼をやった。

「な、なに……なんなの!?」

 下村の家でも縛られたさやかを見て驚いたが、ここでも同じような感情に支配された。

 倉科政俊がいた。そして、その子供と思われる女の子もいっしょだった。問題なのは、倉科政俊の両手が、少女の首にかかっていることだ。

 首を絞めようとするように……。

「あなたは、倉科政俊さんですね?」

 木島は会ったことがあるはずだが、咲は署長につれていかれたパーティでみかけた程度だ。

「その子は、あなたのお嬢さんですね?」

「そうだ。おれのものだ」

 倉科政俊の眼は、血走っていた。

 あろうことか、倉科は自分の娘を人質にとっていた。

「くくく……大男、おまえのことは前々から知っていたぞ! こっちの世界では有名人だからな」

「こっちの世界?」

 咲は問いかけた。

「崇高な趣味をもつ者たちの楽園だよ!」

 木島は、これまでに何件もの傷害事件をおこしている。そのすべての被害者が、いわば倉科の仲間だ。

「ホテルで会ったときは、いつおまえが豹変するかと、ドキドキしていたぞ!」

 むしろ、おもしろがっているように倉科は言った。

「おまえらは、おれがオヤジの権力で罪を逃れてるというだろう。だがこの大男も、それは同じじゃないか!」

「……」

「なぜだか、捜査はストップされている……もちろん、こっちも権力をつかって捜査を進めようとしているさ! だが、結局は逮捕までいかない……」

 木島が紅林博忠の庇護をうけていることを、この男は知っている。いや、背後にいる人物の名前まではわからないようだが、不可解な圧力が警察組織にかかっていることは承知している。

 権力と権力の化かし合い。

 咲が以前、考えたことのある構図だ。権力者同士をぶつけて、潰し合う。

 木島と倉科は、まさしくその象徴だ。

「警察が味方につかないのなら、こんな怪力の大男に狙われるわけにはいかない。おれなど、ひとたまりもないからな……だがな、こっちもバカじゃない! どうすれば戦えるかを、おれの優秀な頭で考えてたんだよ」

 勝ち誇ったように、倉科は宣言した。

「……で、その方法が、こんなことなんですか!?」

 咲は、厳しく責めた。

 子供を盾にすれば、木島はなにもできない……なんと卑怯な作戦だ。

「なんとでも言え! くく、もうじき警察が来る。いくらなんでも現行犯なら逮捕しないわけにはいかないだろう?」

 嘲笑をまじえながら、倉科は言った。

「あなたバカなの? 子供の首を絞めてるあなたも、ただじゃすまないわよ!」

「おれはどうにでもできる。警察だって、おれが虐待なんかしてるとは信じない」

「わたしたちが証言する」

「おまえたちは、犯人なんだ。だれも、そんなやつらの言葉には耳を貸さない」

「わたしだって警察官よ!」

「管轄がちがうだろう? それに、うちに不法侵入してるじゃないか!」

 あくまでも倉科は冷静だった。状況を的確に分析し、自身の有利を疑わない。

「おまえらのほうが破滅するんだ! 勝つのはおれだ!」

 そのときだった。

 ドン、と鈍い音がした。

「え?」

 倉科が、つんのめるように倒れた。

「う、うう……な、なんだ?」

 倉科本人も、事態が理解できないようだ。

「こ、こと……」

 咲は、ようやく気づいた。部屋の奥から浮かび上がるように、琴音の姿が見えた。いつのまにか木島とともに侵入していたようだ。

 琴音の手には、重量感のあるものが握られていた。トロフィーのようだ。倉科家には、このような栄光をしめすものがたくさんあるのだろう。皮肉にも、その一つを琴音は凶器に使ったのだ。

「だから言ったでしょ。鬼が来るって……」

 この話をするときの琴音の声は、なぜだかよく聞き取れる。

「うう……聞いてない……」

 倉科は朦朧としながらも、そう口にした。

 知らないうち侵入していた琴音のことは、いまのいままで存在すら察知していなかったのだろう。警告の言葉を倉科が耳にしているはずもなかった。

 琴音は、倉科に言ったのではない。

 これまでにも、虐待をする愚かな大人たちに忠告してきたのだ。そんなことをしていると、鬼が来るよ、と。

 琴音が少女の手を引いて、倉科のもとから遠ざけた。

 これで、木島を阻む足枷はなくなった。

 倉科は絶望しただろう。まさしく鬼と化した巨体が、怒りを噴出しながら近づいてくるのだ。

「ま、まて……やめてくれ! なんでもする! もう虐待なんてしない! 約束する!」

 倉科の言葉は、まったく心に響かなかった。

 そのぶざまな姿を、琴音と少女がうつろに見ている。

 また琴音のような子供を生んでしまった……人間は、なんと罪深い。

 咲は、警棒を捨てた。

「木島さん!」

 呼びかけたら、木島がギロッとした鬼の眼光で睨んだ。

 かまわずに肘打ちを当てて、巨大をどかした。

「邪魔よ!」

 咲は、倉科の顔面を蹴りあげた。

「ぐうう! な、なにすんだ! てめえは警官だろ!? こんなことしていいのかよ!」

「だまれ、ウジ虫が!」

 馬乗りになって殴りつけた。

「や、やめて、くれ……助けて!」

 悲鳴が快感を呼んだ。

「無抵抗に虐待さる子供の痛みがわかったか!」

 それが自分の声だというのが信じられなかった。

 だれの心にも、鬼が棲んでいる──。

「た、たすげで……なんで、けいさ、つ、こないんだ……」

 倉科は、虫の息だった。しかし、咲の暴力はやまなかった。止める者も、ここにはいない。

「警察は来ない……」

 新たなる人物があらわれていた。

 咲の集中は、暴力からそちらへ向いた。

 だれ?

 顔は知っている。そうだ、倉科源。

 倉科フーズの創業者で、国家公安委員──倉科政俊の父親だ。

「警察には帰ってもらった……だから、だれも来ない」

 倉科源は、力なく発言している。

 年齢は七十歳ぐらいのはずだ。普段は威厳に満ちて堂々としている男の顔が、後悔にかげっていた。

「な、なぜ……」

「わしは、後悔している……おまえをこんなにしてしまったのは、わしの責任だ……」

 だいたいの想像はつく。

 倉科源によって、この息子も虐待されていたのだ。

 負の連鎖。

「孫がひどいめにあっているのを、わしは心を痛めながら見ていることしかできなかった……」

「なぜ、止めなかったの!?」

 咲は馬乗りになっている身体を浮かせながら、叫びように言った。

「何度も助けようとしたんだ……そのたびに、せがれから睨まれた。そうだよなあ、さんざん殴ってきた親が、どのつらをして止められるというんだ」

 思わず立ち上がって、倉科源のもとまで行った。

 力いっぱい、その頬を張った。

「ふざけるな! そんなことが止めない理由になるか!」

「そのとおりだ……だから、あなた方の好きにさせているのだ」

 唇から一筋の血液を垂らしながらも、倉科源はそう語った。

「おまえの罪も重いんだよ」

 今度は、拳で殴った。

 暴力とは無縁であろう高齢男性を、手加減なく殴打する。咲の理性は欠落していた。

 心の奥に隠れていた鬼が、ここぞとばかりに体外へ噴出しようと暴れている。

 倉科源の身体が吹っ飛び、壁に激突して意識をなくした。

 まだ制裁は終わっていない。

 咲は、倉科政俊に向かった。

 政俊は、かろうじて息はしているものの、グッタリとしている。

 視線を感じた。

 琴音と少女のものだった。

「わたしが、鬼に見える?」

「鬼……」

 琴音がつぶやいた。

 彼女たちの眼には、異形の怪物に見えているのだ。

 もう一度だけ、倉科に蹴りをいれた。

「あか」

 少女が木島を指をさして言った。そして、その指が咲に移った。

「あお」

 二匹の鬼が、人を食らう。


 人間よ、恐れおののくがいい!




      エピローグ


 すべてをなくしたと思った夜から……いや、本当の自分に気づいた夜から、数日が経過した。

 咲は、無断で休んでいた。何度も小野田から着信があったが、無視を続けていた。

「なんで出ねえんだよ」

 最初、幻聴なのかと思った。

 しかしそれは、本当に部屋のなかからした声だった。

「小野田さん……」

 瞬間的に、逮捕に来たのだ、と思った。

「鍵、開けっぱなしだったぞ」

 どうやら、ずっと鍵をかけていなかったようだ。そんなことなど気にもならなかった。

「休むなら、連絡ぐらいしろよ」

 その言葉で、逮捕ではないのだと考えをあらためた。

「なにをしに……?」

「おまえさんに会わせたい人たちがいる」

「だれ?」

「行けばわかる」

 小野田は車で来ていたようだ。それに乗って、移動した。

「事件は……」

「ん?」

 聞くのが怖かった。

 ニュースはまったく眼にしていないので、現在の状況がわからない。

 倉科政俊は、瀕死の重傷を負ったはずだ。

 やったのは、ほかのだれでもない……咲自身だ。

「いえ、なんでもありません」

 もうどうにでもなれ、と思った。

 それから一時間以上、走行した。ついたのは、都心のど真ん中だった。

「ここ、新宿ですよね?」

 都庁舎が誇らしげにそびえている。

 車は、その近くのホテル入り口につけられた。

「最上階に部屋をとってある。フロントで名前を告げれば、案内してくれるだろう」

「小野田さんは行かないんですか?」

「こっからさきに、かかわるつもりはない」

「だれなんですか?」

 警察官にそのセリフを言わせるということは、黒い人間関係を連想させた。

「おれが口にした噂話は覚えてるか?」

「あの街に集まってる、ってやつですか?」

 虐待。貧困。いろいろな問題を抱えた家庭が多いことだろう。

「そのカラクリがわかる」

「え?」

 小野田はかつて、それがなにかの力によって集められているのではないか、と思わせぶりに語っていた。その理由を、小野田は知っていたということだろうか……。

 咲だけが車を降りて、ホテルに入った。

 フロントで名前を告げた。

「有本ですけど……」

「有本様ですね。うけたまわっております」

 小野田の言ったとおり、最上階の部屋へ案内された。

「こちらです」

 咲は、扉を開けた。

 VIPが滞在するような広い空間だった。

 なかで待っていたのは、二人の女性だった。どちらも知っている……。

「知事ですよね?」

 思わず確認してしまった。テレビでは毎日のように眼にしている。

 まちがいない……東京都知事だ。

 もう一人のほうは、すぐには思い出せなかったが、しだいに答えを導きだした。

「区長……」

 どちらとも、こうして個人的に面談するのは初めてだった。

 かたや初の女性都知事。

 かたや現在、唯一の女性区長。

 どういう取り合わせなのだ?

 たしか区長のほうは与党の推薦で、知事のほうは与党の推薦を蹴って立候補したという経緯があるから、政治家という観点では、こうして密談をするような間柄ではないはずだ。

 それこそ、女性という共通項しかない。

「あなたの行動は、少しまえから見させてもらったわ」

 言ったのは、区長だった。

 咲は黙って、展開を見極めることにした。

「事件に対して……とくに虐待案件については、とても一生懸命ね。感心するわ」

「事件をえり好みしているわけではありません」

 それだけを反論した。

「あなたのような警察官は、大歓迎よ」

 そんなお世辞を言うために、わざわざ呼び寄せたわけではないだろう。

 咲は、本題をせかすように二人を見た。

「あなたの上司から話は耳にしているでしょう?」

 知事が引く継ぐようだ。地方公務員である咲にとっての究極の上司は、区長ではなく知事ということになる。

「あの、いったいなにをわたしにさせたいんですか?」

 まわりくどい駆け引きが続きそうだったので、咲は会話を進めた。

「せっかちな性格だと聞いていたけど、本当なのね」

 よけいなお世話だ。

 もちろん、声には出さない。それぐらいの忍耐力はある。

「こちらから、なにか指示を出すことはないわ」

「?」

 では、この密談はなんなのだ?

「あなたは、やりたいようにやればいい」

「……わたしのやったこと、知ってるんですよね?」

「なんのこと?」

 知事は、しれっと答えた。

 二人は、木島のことも当然のことながら知っている。知っていて、放置している。もしかしたら、圧力は紅林博忠だけではなかったのかもしれない……。

 紅林とこの二人が関係しているとは思えない。からんでいるとしたら、紅林博忠からヒントになるような言葉があっただろう。

「あなたたちの目的は、なんですか?」

「目的?」

「あなたたちの心にも、鬼が──」

 咲の声は、知事の右手に制された。

「だれの心にも、棲んでいるものでしょう?」

「……」

「ああ、あとこれだけは覚えておいて」

 声のトーンが低くなった。

「あの集まりを、あなたも知ったでしょう?」

 たぶん、『紳士会』のことだ。

「その中心人物を退治したと思ってるわね?」

 その言い方だと、倉科政俊が中心人物ではないと主張したいように聞こえる。

「ちがうんですか?」

「それはわたしにもわからないけど……賭けてもいいわ。すぐに連中は復活する」

 例のサイトが閉鎖されたことは確認している。それが、また再開されるというのだろうか……。

 考えただけでもおぞましい。

「ね、あなたたちのやるべきことは、まだまだ多いのよ」

「また鬼になれと?」

「あら、なんのこと?」

 知事と区長は、笑みをたたえていた。これ以上の踏み込んだ発言が、二人から出ることはない。

「……」

 密談は、その数分で終わった。

 ホテルを出ると、小野田が待っていた。黙って助手席に座った。

「どこへ向かう? 好きな場所を言え。今日までは有給ってことにしといてやる」

「児相へ」

 帰りは四十分ほどで到着した。

「小野田さんは、あの二人とは?」

「知らんね。おれは、深くかかわるつもりはない」

 その答えを聞いて、車を降りた。すぐに小野田の車は去っていった。

 今回の件の小野田の言動は、最初からおかしかった。犯人を擁護するようなことを言ったり、例の噂についても唐突に語っていた。

 あの二人の意向に沿って動いている……望む望まないをべつにして。

 ちょうど児童相談所の建物から、木島が出てきたところだった。

「……」

「……」

 おたがい言葉がなかった。

 いつもの木島であり、いつもの咲だ。

 二人とも、鬼ではない。

「どこへ行くの?」

「いっしょに行きませんか?」

「え?」

 ほかにすることもなかったので、木島についていくことにした。

 電車もつかって、三十分ほど移動した。

 郊外のコミュニティセンターのような建物だった。

 なかに入ると、ある部屋に向かった。そこでは十人ほどが円を描くようにしてイスに座っている。

「これは?」

「虐待をしてしまった人たちの集まりです」

 では、あそこに座っている全員が……。

 しかし、木島が襲撃した者はいないだろう。彼を鬼にさせるような人間が、こんな集まりに出るわけもない。ここにいるのは、自らのおこないを悔いて、心をあらためようとしている人たちなのだ。

 どうやら参加者それぞれが自身の経験をみんなに話すことで、反省と気持ちの整理をつけていこうという目論みがあるようだ。

「では藤巻さん、お願いします」

 まだ若い男性に順番がまわってきた。咲と同世代になるだろう。派手な茶髪とピアス。腕にはタトゥーも見える。

「おれは……毎日、オヤジに殴られてた……だからってわけじゃないけど……」

 男性は、不器用に発言していた。

「だめだってわかってんだけど……どうしても、手が……」

 聞いている参加者も、共感しながら受けとめている。

「もう、そんなことはしたくない……なれるかわかんねえけど……立派なオヤジになりたいです!」

 参加者から拍手がおこった。

 木島の顔が、菩薩のようにやさしげだった。

 いまの彼の心に、鬼はいない。

「あのときのナイフ……」

「え?」

 ふいに声をかけられたから、最初よく意味がわからなかった。

 手を怪我したときにあずかった凶器のことだろう。

「もう必要ないので、処分しておいてください」

 そうか、いま発言した男性の持ち物だったのだ。

「わかった」

 咲は、晴れやかに応えた。

 咲の心にも、鬼はいなかった。


     * * *


 今日も街の片隅で、子供の泣き声がする。

 悪魔によって、子供が苦しみもがいている。

 だが、そんなことを続けていると……。


「鬼が来るよ」


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