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 琴音には、あの部屋のなかの状況がイヤというほど理解できた。

 学校は、途中で抜けてきた。ここでどうにかしなければ、あの部屋で悲劇がおこる……。

 それがわかるのは、ある種の特殊能力なのだ。

 とにかく、あの部屋に入りたかった。しかしオートロックだから、マンション内にすら入るのは難しい。

 しばらく途方に暮れていたら、ここの住人と思われる主婦がマンションに帰ろうとしていた。「主婦」というのは琴音の主観でしかないが、年齢は五十歳ぐらい……いや、中学生では、おばさんの歳はよくわからない。

 琴音は、そのおばさんの後ろについて、なかに入った。おばさんは一瞬、後ろを振り返ったが、あやしんでいる素振りはなかった。

 琴音はそのままエレベーターに乗った。おばさんは低層階に住んでいるようで、エントランスからどこかに歩いていった。

 あの部屋のある五階へ到着した。

 扉の前に立つと、インターフォンを押そうとした。だが、そのまえに人が出てくる気配があったので、慌てて通路の曲がり角まで逃げた。

 母親と思わる女性が外出するようだ。きれいに着飾っている。なかで繰り広げられている地獄とは、イメージがかけ離れていた。

 琴音は、女性が鍵をかけるのを確認した。その鍵をハンドバッグにしまった。

 母親が、エレベーターに向かって歩きはじめた。琴音は、自身の周囲をさぐった。『消火器』と書かれた赤いボックスが眼に留まった。それを開けて、なかから消火器を取り出した。

 母親が角から曲がってきたタイミングで、消火器を思い切り振った。

 ゴンッ! という鈍い音が冷たく響いた。

 琴音は遠心力の作用でよろけたが、なんとか転ばずにすんだ。

 母親は、死んだように倒れている。出血はないようだ。本当に死んでいたとしても、いまの琴音にはどうでもいいことだった。

 この女は、どうせ鬼に殺されてしまうのだ!

 琴音は、母親のバッグのなかから鍵を取り出した。それを持って部屋へ急いだ。

 鍵を開けて、なかに入る。

「いるんでしょ?」

 呼びかけても、声は返ってこなかった。

 室内は、真っ暗だ。外の光が、まったく入っていない。

 なんとか電気のスイッチを探し当てて、灯りをつけた。

 土足のまま奥まで進んで、南京錠のかかった部屋をみつけた。ダイヤル式だ。番号はわからない。

 あの母親から聞き出すしかない……。

 琴音は外に引き返そうとした。玄関に、母親が立っていた。朦朧としているのか、頭を手で押さえながら、やっとここまでたどりついたといった様相だ。

「な、なんなの……あなた!」

「番号は? あの鍵の番号は!?」

 琴音は、叫びぶように問い詰めた。

「子供を殺す気なの!?」

「……なに言ってるの!? いま警察に通報するわ!」

「どうぞ」

 警察に逮捕されることは、琴音にとって恐れることではない。むしろ警察が来たほうが、子供を救い出すことができる。

「呼びたければ呼べばいい!」

「なんですって!?」

「警察に助けてもらう」

 母親が、これからのことで想像をめぐらしているのがわかる。

 どうすることが最善の方法か……。

「いいから、出ていきなさい!」

 琴音のことを強引に追い出す、と結論を出したようだ。琴音は腕をつかまれて、引っ張られた。

 だが母親は、さきほどの頭への衝撃が抜けていなかった。よろけたところを、琴音が覆いかぶさるようにして床に倒した。

「番号を言って!」

「うう……」

 背中を強く打ちつけたために、うめき声しか聞こえない。

「番号!」

「う……812……5」

 琴音は、すぐにダイヤル錠を解きに向かった。

 番号を合わせと、開錠に成功した。

 部屋のなかは、やはり暗い。

 数秒後、眼が慣れてきた。

 想像していた以上の光景だった。

 少女が、イスに縛られて座っていた。意識はあるようだが、ぐったりとしている。

 そんな凶悪な姿とは対照的に、床にはおいしそうな食事が用意されていた。琴音には、これがどのような拷問か、すぐに理解できた。

 少女は、ここしばらく食事をあたえられていない。その状態で、おいしそうな食事を眼の前に置かれている。

 恐ろしいほどに残虐で、絶対に許せないおこないだ。

 琴音は、縄を解こうとした。しかし、簡単にはできそうにない。キッチンに向かった。母親は、まだ倒れたままだった。打ち所が悪かったのかもしれない。

 かまうものか。

 キッチンで包丁を奪った。部屋にもどって、ロープを切ろうとした。それも簡単にはいかなかった。なんとか切断しようとするが、うまく切れない。

「や、やめて!」

 部屋の入り口に母親が立っていた。

「お願い……やめて!」

 金切声に近かった。

 琴音は、包丁を母親のほうに向けた。


     * * *


 児相で木島と別れてから、咲は途方に暮れて街を歩いていた。

 逃げるように、彼の前から立ち去った。

 いや、それすらよく覚えていない……。

 頭が真っ白になって、気がついたら街中にいた。ここがどこなのかも、よくわかっていない。

「ここは……」

 下村琢也の住むマンションだった。

 瞬時に気持ちを切り替えた。

 下村さやかの顔を脳裏に思い描く。

 わたしは警察官だ──使命感を奮い立たせて、やるべきことを強く心に念じた。

 オートロックで、下村の部屋を呼び出した。

『た、助けて!』

「え?」

 下村亜衣の切迫した声が聞こえた。

「どうしましたか!?」

『助けて!』

 混乱しているようだ。冷静な判断ができなくなっている。呼び出し音に反応して咲に助けを求めてしまったが、警察に通報するという冷静な考えはなくなっているようだ。

 それだけのことがおこっている……。

「わたしを入れて!」

 ロックを解除することまで頭がまわらないようだ。

 咲は、管理人を呼び出した。

「緊急事態です!」

 強くそう主張して、なかに入った。すでに顔見知りだから、身分証の提示はしなかった。

 下村の部屋へ急いだ。

 はたして、部屋から逃げ出せない状況なのか、それともパニックをおこして混乱しているのか……。

 一番に疑ったのは、夫からの暴力だ。

 子供を虐待する夫は、妻にも手をあげることが多い。

 インターフォンは押さずに、まずはドアを開けてみた。あっさりと開いた。つまり、逃げられない状況ではなかったということだ。

 だが夫からの暴力の場合、家から逃げるという発想自体ができなくなっていることも考えられる。

「下村さん!?」

 呼びかけながら、部屋に入った。

 廊下のさきに、ヘタるように座り込んでいる夫人の姿があった。

「どうしましたか!?」

 反応はなく、彼女は一方向をみつめている。

 奥の部屋になにかがあるようだ。

「大丈夫ですか!?」

 彼女は怪我をしていた。側頭部が腫れているのがわかる。服装も乱れているし、暴力をうけたことはあきらかだ。

「だれに殴られたんですか!?」

 しかしどうやら、夫ではないようだ。下村琢也がいるようには感じられない。

「だれにやられたんですか!?」

 返事はない。放心状態になっている。

 咲は、問題の部屋に向かった。

 扉は開いていた。なかを覗くと、予想外の光景が飛び込んできた。

 廊下の灯りに照らし出されたのは、琴音が包丁で縄を切ろうとしている姿だった。イスには縛られた下村さやかの姿が……。

「なに……これ」

 異様なシチュエーションだった。床には食事が置かれている。なにかの悪い冗談のようだった。

「琴音ちゃん!」

 呼びかけても、琴音はロープを切ることに集中している。咲の声は聞こえていないようだ。

 咲も、それを手伝うことにした。しかし状況は、よく理解できていない。

 縄の強度は高く、簡単には切れそうもなかった。

「かして!」

 琴音から包丁を奪った。

 この凶器を、下村亜衣に向けたのだろう。頭部の怪我も、琴音の仕業だ。

 いまはそれらの雑念は捨てて、ロープを切ることに専念した。

 大人の力をもってすれば、なんとかなりそうだ。数分かけて、ようやく切断した。縄をはずして、さやかを解放した。

「さやかちゃん! わたしがわかる!?」

「……」

 コクンとうなずいた。

「痛いところある!?」

「……すいた」

「え?」

 さやかは、床に置かれた食事をみつめていた。

「食べたいのね?」

「……いいの?」

 咲はフォークを手に取り、まずはハンバーグの欠片を自らの口に入れた。傷んでいないか確かめるためだ。

 大丈夫だ。腐っていない。

 まずは飲み物からのほうが──とも考えたが、食べさせた。

 むしゃむしゃと、おいしそうに食べた。のみ込めるということは最悪の事態ではない。そのことだけには安堵した。

 しかし、ここからが大変だ。

 さやかは児相に保護してもらう。木島に連絡をとるのはためらわれたが、そんなことも言っていられない。ここまでのおこないを目撃した以上、強制保護の対象になるのはあきらかだ。部屋に入ったのも、夫人に助けを求められたからだ。法的に、なんら問題はない。

 が、琴音については……。

 あきらかな脱法行為がある。部屋に侵入し、怪我を負わせた。家宅侵入、傷害致傷……未成年でなければ、重罪だ。警察官としては逮捕しなければならない。

「……」

 咲はまず、救急車を呼んだ。さやかを診てもらうためではない。母親を搬送するためだ。

 次いで、木島に連絡をとった。

「いますぐ下村のマンションに来て! さやかちゃんを保護した」

 手短にそれだけを伝えた。

 あとは、琴音をどうするか……。

「逃げないさい」

 咲は言った。

「……」

 琴音は、反応しなかった。

「はやく行って!」

 そう急がせて、ようやく琴音は動き出した。

 玄関に向かったはずの彼女は、しかし立ち止まっていた。

「どうしたの?」

 すぐに理由がわかった。

 この家の主が帰宅していたのだ。

「なんだ、これは……」

 この男にとっても、さすがに緊急事態のようだ。

「おい、なんなんだ!」

 責めるように、膝をついている妻に声をかけていた。

「この女の子は? 刑事さん、これはどういうことですか!?」

 おそらく琴音に襲われてから、妻が連絡していたのだろう。支配下に置かれている人間は、主の命令がなければ、次の行動を決められない。

「わたしは、奥さまからの救助要請をうけて、この部屋に入りました。そしてむこうの部屋で、さやかちゃんがひどい状況におかれているのを目撃しました。虐待の疑いがあるので、強制保護をします!」

 激昂したいのをこらえて、つとめて冷静に言い放った。

「そんなことを言ってるんじゃない! 妻を襲ったのはだれだ!? その人間を逮捕するのがさきじゃないか!」

 さすがに琴音が犯人だとは思っていないようだ。

「犯人はだれなんだ!?」

 やはり責め立てるように、妻に対して詰問した。

 下村亜衣は、弱々しく指を琴音に向けた。

「まさか……」

 女子中学生が犯人であることに、下村は驚いていた。咲の知るかぎり、このような表情を見るのははじめてだった。

「刑事さん、この子を逮捕してください」

「……それよりも、さやかちゃんの保護のほうがさきです!」

 咲はつっぱねた。

「なんだと?」

「あなたたちには、虐待の容疑あります! 署のほうでお話をうかがわせてもらいます」

「ふざけるなよ! 被害者は、こちらだ!」

「子供にひどいことをしておいて、被害者づらですか?」

 咲の忍耐も限界に近かった。

「おまえ! ふざけるなよ!」

 下村が、つかみかかってきた。これまで、つねに余裕をたたえていたこの男がこんな直接的な行動をとるということは、追いつめられている証拠だ。

 咲は、下村の腕をさばいて、突き放した。

 下村はよろけたが、そこにはゴルフバッグが置かれていた。流れるような動作で、なかからクラブを一本取り出した。ドライバーなのかアイアンなのか、ゴルフを知らない咲ではよくわからない。

「やめなさい!」

「うるさい!」

 ブン、と空気がうなった。

 威嚇のつもりだったのだろうが、咲はひるまない。

「なにをするつもりなの?」

「おまえの眼は、最初から気にくわなかった!」

 いまの狂犬のような姿が、この男の本性なのだろう。

「気にくわない?」

「主に逆らう生意気な女だ!」

 ジリ、と下村が距離を詰めた。

 咲は、琴音に危険がおよばないように、位置を調整しながら対峙していた。

「おれに逆らうな!」

 なにを思ったのか、下村の怒りの矛先は、自身の妻に対して向けられていた。

「おまえは、逆らうのか!」

 ゴルフクラブで、亜衣のことをめった打ちにする。

「い、いや──っ! さからいません! 助けて!」

 怪我をしている妻に、なんという容赦ない仕打ちなのか。

「やめなさい!」

 クラブを奪おうとしたが、逆に腕を殴打された。骨までが痺れたようになった。

 武器は、なにも所持していない。特殊警棒ぐらいは持ってくるべきだった。

 下村は妻に向けて、再びゴルフクラブを振り上げた。このまま殴らせたら死んでしまう。

「やめろ!」

 叫んだ。

 下村には、その声は届かない。眼がイカれていた。

「……くるよ」

 そのとき、琴音がなにかをつぶやいた。

 なぜだか小さいはずの声なのに、咲にはよく聞こえた。咲だけではない。下村も動きを止めていた。

「鬼が来るよ」


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