20
箕部と名乗った取調官が扉が開けた。わずかな隙間しかなかったが、それでも有本咲の顔が見えた。
鬼気迫る表情をしていた。
この逮捕のカラクリが、彼女にもわかっているのだろう。指示を出した警察幹部に対して、裏で動いた倉科政俊に対して、そして元凶である下村琢也に対して、彼女は怒り狂っているのだ。
逆鱗に触れた。
いまの彼女を、法やルールで止めることはできない。
それがわかるのは、木島自身が同じ人種だからだ。
箕部という刑事が完全に部屋から出ると、外の騒がしさが扉と壁伝いに部屋にも広がった。
彼女は、一線を越えてしまったのかもしれない……。
数分後、箕部がもどった。
興奮した顔をしていた。怒りを押しとどめている。
落ち着くように座ると、尋問を再開した。
「おまえがやったということでいいな? 証拠はあがってるんだ」
「どんな証拠ですか?」
「証言がある。信用のできる方からの証言だ」
「当事者だけの証言で、警察は逮捕したんですか?」
「おまえの言葉よりも、信頼できる証言だということだ」
「国家公安委員の子供というのは、そんなに偉いんですか?」
木島がそう言うと、箕部は一瞬だけ眼を血走らせた。
「児童福祉司というのも、公務員なんだろ? それなら、そういう常識だってわかるだろう?」
まったく理解できなかった。
「認めろ。そうすれば、少しは罪が軽くなる」
木島は、とりあわなかった。
瞑目して、深く椅子に体重をあずけた。巨体にいじめられた簡素な椅子が、悲鳴をあげるように軋んだ。
「いっちょまえに黙秘か?」
ふてくされたように、箕部が声をもらした。
結局、夕方まで一言も口を開かなかった。
留置場で一晩を過ごして、再び取調室での尋問がはじまろうとしていた。少し遅れて入室した箕部は、しかし浮かない顔だった。
木島の黙秘を気にしてのことではなさそうだった。
「おまえ、なにをした?」
悔しそうな声が、狭い室内に毒気をあたえた。
「?」
「それとも、有本なのか?」
「なんのことですか?」
「釈放だ……帰っていいぞ」
「容疑は晴れたということですか?」
箕部は答えなかった。
「帰れ」
スッと、木島は立ち上がった。威圧するように箕部へ身体を寄せた。
「な、なんだ!?」
「いえ」
木島は、出口に向かった。扉を開けると、数人の刑事たちが立っていた。
「このたびは……」
そのなかで一番偉そうな男性が、小さく発言した。
「たいへん、申し訳なく……」
その声を無視して、木島は通路を進もうとした。
「木島さん!」
駆け寄ってくる有本の姿が見えた。
* * *
朝、琴音の家の家政婦から連絡があった。
箕部や課長たちと騒動をおこしたあと、強制的に帰宅されられた咲は、やさぐれて音楽を大音量で流しながら時間を過ごした。
眠りについたのは深夜で、今日は出勤するつもりもなかった。だから不快な声で応対してしまった。家政婦だと知り、自身の態度を急いであらためた。
「ごめんなさい……どうしましたか?」
てっきり琴音のことだと思ったが、琴音は昨日、ちゃんと学校に行って、何事もなく帰宅したという。
今朝も、ちゃんと支度をして、これから家を出るところだと。
「え?」
咲は、次の言葉を聞いて、少し戸惑った。
紅林博忠からの伝言があるという。
約束は守ります。いつもどおり出勤してください──。
そう伝えられた。
いつもどおり……。
それはつまり、いつもどおり出勤できるような状況ではないことを知っているということだ。
「……」
電話を切ったあと、咲はすぐに家を出た。
署内は、どこか慌ただしかった。刑事課のオフィスに行くと、緊張感のようなものが色濃く漂っていた。
小野田が自席にいたが、眼が合ったのに言葉はなかった。そのかわり、ある方向に視線を送った。
廊下のほうだ。取調室がある。
咲は、そこへ向かってみた。
取調室の前に昨日同様、園田と大川がいた。咲が近づこうとしたところで、ちょうど課長もその二人に合流していた。
課長とは顔を合わせたくなかったので、咲は足を止めた。廊下の片隅で立っていたが、すると取調室のドアが開き、巨体が姿をあらわした。
木島だった。
課長が彼に向かって、なにかを口にしている。が、声は聞こえない。距離の問題ではなく、たんに声量が小さいからだろう。
咲は、彼のもとに急いだ。
「木島さん!」
邪魔だった課長たちを腕で押しのけた。
「釈放ですか?」
「ああ……そうらしい」
恨めしそうな顔で、課長が咲のことを見ていた。
「……おまえ、なにかしたのか?」
「なんのことですか?」
「どっちなんだ? どっちかが、なにかをしただろう!」
課長だけでなく、園田も大川も、それを知りたい眼をしていた。そしてちょうど、取調室のなかから箕部も出てきて、同じように答えを求めていた。
咲は、木島をうかがった。木島にも思い当たっていないようだった。
「……上から圧力でもかかったようですね」
咲は言った。
箕部も課長も、苦い顔をしていた。これまでとはちがう方向から圧力がかかったのだ。
咲には、心当たりがある。
いや、それしか考えられない。
倉科政俊に対抗する圧力は拒否されたが、咲が窮地に立たされたときは協力すると、紅林博忠は明言してくれた。
その力が発動したのだ。
ということは昨日の蛮行についても、お咎めなしになっているだろう。
「課長、わたしの処分は?」
「……なんのことだ?」
答えたくないようだ。
咲は、笑顔で屈辱をあたえた。
「木島さん、行きましょう」
二人は、警察署を出た。
「有本さんなんですか?」
「なにが?」
「突然、釈放されたことです」
「容疑がまちがってたってだけよ」
紅林博忠のことを伝えるつもりはなかった。もしかしたら、木島も関係しているかもしれないからだ。
だがいまは、もっと気にしなければならないことがある。
児童相談所に急いだ。関谷智樹が母親のもとに帰されているかもしれない。いまならば、それを阻止することができる。咲と木島に圧力が通用しないとわかった以上、むこうもヘタなことはできなくなったはずだ。
ちょうど良いタイミングだった。弁護士が来て、いままさに智樹くんを引き取りにきたところだった。
「待って!」
咲のことよりも、木島がいたことに弁護士は驚いていた。堤という名前なのは、木島から耳にしていた。
「智樹くんを母親に返すことはやめてください!」
「……なにを言われるのですか?」
「とにかく、虐待の容疑が晴れたわけではありません。警察官として認めるわけにはいきません」
「あなたに、そんな権限はないはずだ」
弁護士ならそう言うだろう。だが、咲の強気は変わらなかった。
「ですが、やめておいたほうが、あなたの雇い主のためでもありますよ」
この場合の雇い主は、智樹くんの母親のことではない。父である関谷弘毅でもない。倉科政俊のことを示している。
「……」
「あなたも木島さんがこうして自由になっていることで、理解なさってるんじゃないですか?」
弁護士は、冷めた瞳で宙をみつめた。狡猾な計算を脳内ではりめぐらせているのだろう。
「ちょっと失礼しますよ」
そうことわってから、少し離れた場所に移動して携帯で連絡をとりだした。ご主人様から指示をあおいでいるらしい。
しばらくして、もどってきた。
「……わかりました。今日のところは、帰らせてもらいます」
あくまでも表面上は平静をたもっていたが、内心は正反対に乱れているだろう。
弁護士は、そのまま本当に去っていた。
「……木島さん、大丈夫なの?」
木島の上司と思われる女性が言った。たしか、高橋という名前だったはずだ。
木島は答えを求めるように咲を見た。
「はい。もう容疑はなくなりました」
咲は断言した。
「木島さんも大丈夫ですし、あの弁護士が来ることはもうないと思います」
それにも自信があった。
権力者にとって、自らの権力が通じないことほど恐ろしいものはない。しかも、べつ方向から、ちがう圧力が作用したとなると、恐怖以外のなにものでもないだろう。
紅林博忠は、倉科への攻撃には難色をしめしたが、結果として咲を助けたことが、倉科を潰すことにつながった。
ここまでは、なんとかうまく事態が好転した。
「あとは、下村さやかちゃんね……」
すでに下村夫妻のもとに返されてしまったから、どうにかしなければならない。とはいえ、あれほど計算高い人間は、ますます尻尾をつかませないよう慎重になるだろう。
なによりも厄介なのは、ああいう人間は、絶対に改心しないということだ。追いつめられれば追いつめられるほど、うまく虐待を続けようとする。
「でも、そのまえに……」
咲は、木島を見た。
「ちょっと、話しがあるんだけど」
「……」
木島を児相の外にまで連れ出した。人が通りかからない裏通りにまで行った。
「どうしたんですか?」
「……ねえ、答えて。あなたが、鬼なの?」
「鬼?」
「関谷弘毅に暴力をふるった犯人……それだけじゃないわ。ほかにも何件かやっている」
「……」
木島は無言だった。
「琴音ちゃんを知ってる?」
「……」
これにも沈黙を通した。
「あなた、まえは知らないと言った。琴音ちゃん……いまは、紅林琴音。むかしは岸本琴音だった」
「さあ……」
本能的に、嘘だと思った。
「その子が?」
「あなたを鬼だと言った」
「身体が大きいからじゃないですか?」
「琴音ちゃんの父親も、鬼にやられてる……あなたが犯人じゃないわよね?」
「……なんの犯人だというんですか?」
会話の流れでいえば、わざわざ聞き返すことでもない。
それなのに、即答できない……。
たとえようもないほどの衝撃が、心に広がった。




