17
いつものファミレスには、有本のほうがさきについていた。気難しい顔をしてメニューを眺めている。
「どうしたんですか?」
声をかけても、うかない様子だ。
「まあ、いろいろと……そっちも、面倒なことになってるんでしょ?」
あの弁護士が、べつの案件にも出てきたことは電話で伝えている。
「どうするつもり?」
そこは、どうなると思う?──と訊いてもらいたかった。木島の権限では、どうすることもできない。
「たぶん、関谷智樹くんも親にもどされることになる」
下村琢也のもとに娘のさやかがもどされたことよりは、いくぶんマシだろう。父親の弘毅は、いまだ入院中だ。
が、退院し、もし逮捕を免れるようなことがあれば、また虐待を繰り返すかもしれない。
「やっぱ、本丸をどうにかするしかないわね」
本丸とは、倉科政俊、もしくは倉科源のことだろう。
「どうにかできるんですか?」
「わたしじゃムリね。ただでさえ、上に眼をつけられてるから」
わたしがムリでも、ほかの方法ならある──そう言いたいようだ。というより、そういうことでもなければ、意地でもやってやる、と息巻いているはずだ。
「本当は今日、それをやってみようと思ったんだけど、頭に血が昇っちゃって……わたしらしくなかったわ」
あなたらしい──口が裂けても言えなかった。
「なにをやろうとしたんですか?」
聞かないほうが精神衛生上はよいだろうが、話の流れで質問しないわけにはいかなかった。
「ちょっとね……ある人物を使って、潰し合いをさせようとしたのよ」
「だれなんですか?」
これも、話の流れで質問しただけだ。
「いえ、それは聞かないほうがいいわ。木島さんのためでもある」
思わず、心の苦さを表情に出してしまった。
「明日、もう一度チャレンジしてみる」
期待はもてそうになかったが、木島はうなずいた。
「結果は、またここで発表する」
ここのところ、連日このファミレスで会っていることになる。もはや日課といってもいいだろう。
「ねえ、これからどうする?」
「え?」
最初、意味がわからなかった。すぐに、いまこれからの予定を問いかけられたのだと理解した。
「よかったら、飲みにでも……」
* * *
咲は、顔が赤くなるのを意識した。
自然な流れで誘ってしまった。このところ、もやもやしたことが連続しているから、そのストレスのはけ口を男に求めようとしてるのだ。
「べつに予定はありませんよ」
そう言われたら、いまさら引っ込めるわけにはいかない。
「じゃあ、行きましょう」
飲みに行くのではなく、咲の部屋へ向かった。名目上は部屋飲みということにしているが、実質的にこのあいだのようなことを期待している。いっそのこと、ホテルに行ったほうが潔いかもしれない。
しかし向かう途中、少し遠回りになるが、下村琢也のマンションに足を運ぶことになった。やはり気にかかる。
「あれ?」
下村の部屋を眺めている人影があった。
大人のものではなかった。少女のシルエットだ。
「琴音ちゃん?」
もとをただせば、はじめて下村琢也の家に疑いの眼を向けたのは、琴音だった。
咲の呼びかけで、琴音らしき少女が振り返った。ただし街灯の光が届いていないから、はっきり顔までは見えない。
だが、彼女の動きが止まっていた。
「どうしたの?」
なにかに驚いて、表情を凍りつかせている……その肝心の表情がよく見えていないので、断言はできないのだが。
「琴音ちゃん?」
もう一度、呼びかけた。
「おに……」
少女がつぶやいた。
声はまちがいなく、琴音だった。
「どうしたの? 琴音ちゃん!?」
すると、警戒した野良猫が逃げていくように走り去ってしまった。
「あ、ちょっと!」
追いかけようかと思ったときには、姿が見えなくなっていた。
いま琴音は、「おに」と口にした。
「また鬼か……」
咲は、下村の部屋を見上げた。
木島も同じように眺めていた。
部屋からは灯りがもれている。はたして、下村さやかは平穏にしているだろうか……。
本当なら、いますぐにでも救い出してあげたい。法など無視して、あの子を連れ去ってあげたい。
「……」
この考えは危険だ。
傷害犯と、なんらかわらない。
「ねえ、だれの心にも鬼が棲んでるんだって……」
木島は、突然の言葉に意味がわからないようだった。
「わたしのなかにも、いると思う?」
木島は答えてくれない。
「……あなたのなかにも、いるの?」
下村のマンションから、咲の部屋に移動した。
部屋で飲むという名目も、すでに忘れていた。
二度目は、一時のあやまちとはいえない。
それでも咲は、もとめていた。
鬼が棲んでいるかは、わからない。
だが、獣だけは咲のなかにいた。
木島のなかにも。
理性を飛ばして、心と身体をぶつけあった。
気づいたときには、朝になっていた。
会話はなかった。
木島は児相に向かい、咲は警察署に向かった。
「……そういえば」
いや、途中で方向を変えた。
昨夜の琴音が気にかかった。それに、例の作戦を遂行するにもちょうどいいだろう。少し時間的に早いかもしれないが、迷惑に思われても行くべきだと決意した。
紅林家の前についた時刻は、七時五十分だった。普段であれば、琴音が学校へ向かうぐらいの時間だ。
インターフォンを押そうとしたところで、思いもかけないところから琴音が姿をあらわした。
「琴音ちゃん……」
背後からあらわれていた。
「まさか、いま帰ってきたの!?」
制服姿だが、いま着たばかりの雰囲気ではない。思い返してみれば、暗くてはっきりとは見えなかったが、昨夜も制服姿だったような気がする。
「……」
琴音は、冷たい瞳をしていた。
これまで生まれていた信頼が、すべてなくなっているようだった。
「ちょっと、どうしたっていうの!?」
咲のことを無視して門のなかに入ろうとしたので、強めに呼び止めた。
「いっしょだったでしょ……ずっと」
「なにを言ってるの?」
本当に意味がわからなかった。
「不潔!」
琴音の表情は、軽蔑に満ちていた。
「ねえ、話をしましょう! こっちを向いて」
一度はそっぽを向いて行ってしまいそうだったが、なんとかそれをとどめさせた。
「なんのことを言ってるの? 本当にわからないんだけど。わたし、なにかした?」
「人のやることじゃない……」
つぶやくように琴音は言った。
「だから……」
「あいつと、いっしょだったでしょ!」
そこで思い当たった。
「まさか、あのあと……わたしたちをつけてたの?」
琴音は、逃げてしまったのではなかったのだ。咲と木島のあとをつけて、もしかしたらずっと咲の部屋を見張っていた。
だから、不潔なのだ。
「……琴音ちゃん、たしかに男の人といっしょにいた。でもそれは、まちがったことじゃないのよ」
中学生になんと言い聞かせればいいのか、本当にわからなかった。
咲も木島も独身だ。恋人同士というわけではなくとも、非難されるべき関係ではない。が、中学生にどこまでそれが伝わるのか……。
これが琴音でなければ……最近の普通の中学生なら理解してもらえるだろう。しかし彼女は、そういう話が通じるほどマセてはいない。
「人間じゃない……」
「そこまで言うことないでしょ!」
さすがに咲も憤慨した。男性との性交渉をそこまで嫌悪されても、咲にはどうすることもできない。
「こういう言い方はなんだけど、それが大人ってものなのよ」
「……」
琴音は、そんな話など聞きたくないと言わんばかりに、走って門のなかに入ってしまった。
一瞬ためらったが、咲もなかに続いた。
「待って、琴音ちゃん!」
琴音は玄関の扉を開けて、家のなかに入った。咲も入ろうとしたが、ちょうどお手伝いさんが出てきたところに鉢合わせしてしまった。
「有本さん……お嬢様といっしょだったんですか?」
「いえ……門の前で──」
そう言いかけて、嘘をつくことにした。
「あ、そうなんです……連絡しようと思ってたんですけど、昨夜はわたしの部屋に泊ったんです」
「そうですか……」
家政婦はそれ以上、追究しようとはしなかった。たぶん、いまのが嘘なのをわかっている。
「いいですか?」
あがってよいかをたずねた。
どうぞ、というように家政婦は手でしめした。
廊下では途方に暮れたように、夫人が階段のほうを見上げていた。
「有本さん……琴音が昨日帰って来なかったんですよ……有本さんに連絡しようかとも思ったんですけど……」
「ごめんなさい……じつは昨夜、琴音ちゃんはうちに泊ったんです。連絡をしなきゃならなかったのは、わたしのほうなんです」
「そうなんですか……」
それを聞いても、家政婦と同じで、表情は鬱のままだった。彼女も、それが嘘だとわかっている……。
「あの、琴音ちゃんのこともあるんですけど……もう一度、紅林先生に会わせていただけないでしょうか?」
「お義父さまに?」
「はい」
「わかりました。とりついでみますね」
夫人は、紅林博忠の部屋へ向かった。
咲はその時間を使って、琴音と会うことにした。
二階の彼女の部屋の前で呼びかけた。扉は、すでに修理されている。
「琴音ちゃん、開けて」
応答はなかった。
「開けないと、ぶち破ってでも開けるわよ」
それが脅しではないことを、琴音もわかっている。
扉の鍵がはずされる音がした。
「入るわよ」
了解がなくても入るつもりだ。
琴音はベッドに腰掛けながら、咲のことを睨んでいた。
「ねえ、わたしのことを聖人君子とでも思ってるの? そりゃ、男と寝るときもあるわよ」
わざと咲は、露骨な表現をもちいた。より嫌われたとしても、きれいごとを語るつもりはなかった。
「でもそれは、悪いことじゃないわ」
「……人とすればね」
ボソッと琴音の声がもれた。
「どういうこと?」
「あいつは、人じゃない……」
「あいつ?」
話の流れでは、木島のことになるだろう。
「木島さんがどうかしたの? 児童相談所の職員よ」
琴音が木島を知っていたとしても不思議ではない。当時、木島が担当していたのかもしれない。
(あ!)
いや、それはない……木島は琴音のことを知らないと口にした。
それが、嘘……?
「木島さんと、なにがあったの?」
「おに……」
「え?」
「あの人が……鬼なのよ!」




