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 始業からだいぶ経ってから、聞きづらそうに青山が話しかけてきた。

「その怪我……どうしたんですか?」

「ちょっと料理中に、包丁で……」

「木島さん、右利きですよね?」

 右手で包丁を持っているはずなのに、どうして右手に怪我を負うんですか──細かいことを気にしない青山にしては、頭がうまく回転している。

「まあ、手がすべって……」

 答えづらかったので、適当に言葉を濁した。

「なんだぁ、ケンカでもしたのかと思いましたよ。木島さん、大きいから街でからまれたのかと」

 青山は安心したように外出していった。五軒もの家庭を訪問することになっている。

「ねえ、わたしには本当のことを言って」

 高橋が小声になって、顔を近づけた。いまの会話を聞いていたようだ。

「……」

「だれかにやられたのね?」

「いえ、そういうわけでは……」

「嘘がヘタね」

 青山をあしらうようにはいかなかった。

「今日は、まだ来てないわね?」

「……だれがですか?」

 わかってはいたが、そう問い返した。

「そう……。それがあなたの判断なら、それを尊重しましょう。あなたのことだから、今後危険なことがおきないと確信してるんでしょうしね」

「すみません」

 それだけは伝えておいた。

 そのとき、携帯に着信があった。

 有本だからだった。

 出るのに一瞬、ためらいがあったのは、昨夜のことが脳裏をよぎったからだ。

 高橋にことわってから、携帯を耳にあてた。

「はい」

『木島さん……』

 有本の声は、想像していたよりも重かった。

 昨夜のことがあったとはいえ、さすがに恋人モードで話しかけてくるとは思わなかったが、ここまで緊張感をもっているとは……。

「どうかしましたか?」

『たいへんなものをみつけました……』

「え?」

 どうにも電話では核心が見えてこない。

 会って話すことになった。例のファミレスになるだろうと予想をたてたのだが、有本はこの児相を指定した。彼女は警察官でもあるし、問題はないだろう。

 電話を切ると、すぐに高橋から許可をとり、有本の到着を待った。十五分ほどで、やって来た。

「パソコンを使わせて」

 開口一番、そう言った。

「どうしたんですか?」

 面談室でと考えていたのだが、仕方ないので木島のデスクに案内した。不在の青山の椅子を引っぱってきて、木島はそれに座った。

「なにがあるんですか?」

「いいから、これを見てください」

 液晶画面に衝撃的な内容が映し出された。

「これは……」

「普通の方法では閲覧できないと思います。下村のSNSを隅々までチェックして、なんとかこれをつきとめました」

 少し見ただけで吐き気がするようなサイトだった。虐待している画像や動画を投稿しあっているのだ。

 木島だけでなく、高橋やほかの職員も見ている。みな言葉を失い、眼光で怒りと絶望を表現していた。

「すべて本物とは言い切れないけど……」

 フェイク動画を投稿している可能性もあるが、それだったらもっと一般的な動画サイトで広めようとするだろう。

「そして、この子……」

 会ったばかりの少女が映っていた。

 下村さやか。

 風呂場で立たされている。身体が濡れているようだ。しばらくすると座りそうになったが、なに座ろうとしてるんだ、と声が飛んで、しっかりと直立した。

 動画は十五分ほどの長さがあった。

「どう?」

 有本は虐待の証拠になるかを問いかけたのだろうが、有本自身もその難しさに気づいている。

 ほかの動画や画像とはちがい、直接暴力をふるっているわけではない。濡れてはいたが、それが水なのか、お湯なのかもわからない。もし水だったとしても、季節が夏だったとしたら虐待とはいえない。長さも十五分程度のものなので、その時間立たされているだけでは決定的な証拠にはならない。

「児相は動けませんか?」

「……」

 木島は答えず、かわりに高橋が口を開いた。

「動くことはできますが、すでにこの家庭には面談をおこなっています。そのときに虐待と断定できなければ……」

 高橋には、有本といっしょに訪問したことは告げていない。面識はあるはずなので、警察官だということは知っていたはずだ。

「そちらは、どうなんですか?」

「……」

 有本は答えづらそうだった。もしかしたら、すでに上司から無理だと言われているのかもしれない。

 この動画だけでは、いくらでも言い逃れができてしまう。そのことは、警察官である彼女のほうがよくわかっている。

「ほかの人たちを捜査するというのは、どうですか?」

 提案したのは、高橋だった。

「このサイトの存在自体がアウトです。このサイトにかかわっている人間を摘発できませんか?」

 サイトの管理者を罰するは難しいかもしれないが、あきらかに暴力をふるっている投稿も多い。それを特定して逮捕することも可能なはずだ。

「個人の特定は困難みたいです……わたしは、そっちの捜査の知識はなくて」

 有本は簡略にだが説明してくれた。

 海外のサーバーを利用していること。暗号化もされていて、追跡は困難。ほかにもなにかを説明しかけのだが、専門用語を思い出せなかったらしく、断念していた。

「……一時保護に、踏み切れませんか?」

 あらためて有本は言った。

「もう少し、様子を……いえ、それでは遅いわね」

 高橋は、決意したような瞳を向けた。

「もう一度、訪問してくれる? それで少しでも不審なところがあったら、踏み切ってかまわない。責任はわたしがとる」

「その判断は……」

「木島さんにまかせる」

 木島は立ち上がった。

「わかりました」

 次いで、有本も。

 おたがいが玄関に向け歩き出したが、木島だけ高橋に呼び止められた。

 有本は、さきに部屋を出ていった。

「あの方が先日、話していた警察官ね」

 なにかあったときに協力を求めることになっている話だ。藤巻が改心してくれれば、必要はなくなるかもしれないが。

「はい」

「少し安心した。あなたにも、信頼できる女性ができたのね」

 女性、という部分が強調されている気がした。

「その手の怪我のことでも、彼女を信頼してるのでしょう?」

 答えに困ることを言われた。

 たしかに、凶器を彼女にあずけている。しかしそんなことより、男女の仲だと誤解しているのだ。

 いや、誤解とも言い切れないか……。

 複雑な感情のまま、有本のあとを追った。


     * * *


「ねえ、まだあるの」

 児相を出てから、木島が追いついてきた。咲は、警察が捜査に踏み切れそうにない理由を伝えることにした。

「これみて」

 携帯の画像をかかげた。

「これは?」

「倉科政俊」

「だれなんですか?」

「この男がだれかは、どうでもいいの」

 木島が、困惑の表情を浮かべた。

「この男の父親は、国家公安委員なのよ」

 サイトの投稿者のなかに、この男がいた。なにを考えているのか、自分の顔を隠すこともしていなかった。それだけサイトの秘密性が確立されていたのかもしれない。

「国家公安委員会は、警察庁の管理を目的としている組織よ。委員長をふくめ六人。そのうちの一人が、倉科源。倉科フーズを一代で築き上げたカリスマ経営者」

 だれもが知っている会社であり、そこの元社長という肩書だ。国家公安委員長は国務大臣であるが、その下の委員五名は、元裁判官や外交官、経営者、教授職などの有識者から選ばれる。

 木島でも知っている内容だったかもしれないが、咲はそのような説明をくわえた。

「倉科源とうちの署長は懇意にしていてね、親睦会のようなものに出席させられたことがあるのよ。キレイどころが欲しかったんでしょうけど」

 後ろの部分は見事なまでに聞き流された。

「そのときに、この男もいたの」

「だから警察は動けない……と?」

 痛烈な批判に聞こえた。

「わたしは動くわよ」

 強がりに思われてもかまわなかった。

「とにかく、下村の家に行きましょう」

「ご主人がいなければ意味がないかもしれない……」

 もう向かっているというのに、木島はいまさらそんなことを言い出した。

「でも強制保護なら、いまのほうがいいわ。あの奥さんだけだったら、つけいる隙もあるでしょう。彼女のほうは、夫のDVが怖くて従っているだけかもしれない」

 そういう事例は多いはずだ。

「……」

 木島も、これからの展開を予想できていないようだった。

 マンションにつくと、オートロックで下村亜衣を呼び出した。

 しかし、不在のようだ。

「……ねえ、クビを覚悟してみる?」

 咲は、警察手帳を取り出して言った。

「わたしのやりたいこと、わかるでしょ?」

 木島の眼を見れば、悟っていることがわかる。

「……」

「わたしもクビ覚悟だから、あなたも腹をくくって」

 憮然とした表情ながら、木島がうなずいた。

 咲は、管理人を呼び出した。このあいだと同じ男性だった。

「あ、刑事さん」

 念のため、警察手帳は提示したままにした。

「緊急です。下村琢也さんのお嬢さんが虐待をうけている可能性があります。すぐに部屋を開けてください!」

 強い口調で要請した。

 このマンションは分譲のようだが、賃貸の場合は管理人や大家がマスターキーを管理しているのが普通だ。分譲の場合は、そうでないことが多い。が、マンションの管理をセキュリティー会社に委託しているところでは、分譲マンションでもマスターキーをあずけていることもある。

 このマンションについては調べてあるので、大手警備会社がセキュリティーを担当し、その会社と契約している管理代行サービスが鍵を管理していることを咲は知っていた。

「そ、それは……」

 管理人は、うろたえるように困っていた。彼がそれを一人で決められないことも承知している。

 警備会社に連絡をとり、そこの職員が同席のもと、はじめて鍵をあけることができる。しかしいまは、その時間がない。だれもいないうちに家に入りたかった。

「れ、令状とかはないんですよね?」

「緊急なんです! すみやかに従ってください!」

 ここは脅しととられようが、このまま厳しいトーンで押し切るしかない。

「はやく!」

 叫びにも近い声を放った。

「わ、わかりました」

 管理人は、操られたように動き出した。

 金庫のような保管庫に暗証番号を手早く打ち込むと、なかから鍵を取り出した。それを受け取ると、すぐに咲は下村の部屋に向かった。エレベーターに乗り込むと、木島や管理人を待たずに上昇した。

 本来なら、たとえ令状があったとしても、家人、もしくは住宅を管理する大家などが立ち会っていなければならない。緊急に逮捕が必要なケースにおいてのみ、立会人は不要になる。

 保身のためには管理人に鍵をあけてもらったほうが賢明だが、咲にそんな考えはもうとうなかった。いまの場合、逮捕ではないが、緊急の保護が必要になるかもしれない案件だ。それに、管理人と木島を守る意味合いもあった。

 咲だけが、下村家の扉の前に立った。

 鍵をあける。最新のマンションでは暗証番号や指紋や網膜などの認証装置がついているところもあるが、ここは普通の鍵だけだ。

 扉を開き、咲は呼びかけた。

「さやかちゃん! さやかちゃん!?」

 なかは暗く、人の気配は感じない。

 子供をつれて出かけたのだろうか?

 いや。

 勇気をもって、なかに踏み込んだ。

 これでなにもなければ、始末書レベルの問題ではない。それこそ懲戒免職もありうるクビをかけたおこないだ。

 ……暗すぎる。

 そこでようやく、いまが日中であることを思い出した。部屋のカーテンがすべて閉まっている。それだけなら、同じような家庭は全国にいくらでもある。咲も、外出するときは昼でもカーテンを閉めている。

 しかしそうだとしても、外の陽光は入ってくるものだ。

 壁を手でさぐりながら、電気のスイッチをさがしあてた。部屋が明るくなっても、子供の姿は見えない。

「どこにいるの!?」

 各部屋をまわった。

 どこにもいない。クローゼットのなかまで確認した。

「いましたか?」

 木島も、いつのまにか到着していた。管理人は玄関で待っているようだ。

「いない」

 残っているのは、トイレと浴室だけだ。

「あとは、あそこだけ」

 その二つは隣り合っている。トイレのドアを開けた。いない。

「……」

 いるとしたら、もうここしかない。

 続けざまに、浴室のドアを開けた。

 うっすらと、小さい影が見えた。

 浴室の電気をつけた。

「さやかちゃん!」

 少女が震えながら立っていた。

 濡れている。

 あの動画で観た光景そのままだった。

「さやかちゃん!」

 もう一度、呼びかけながら幼い身体を抱き寄せた。

 浴室で、ずっと立たされていたのだ。

「自分の子供にこんなことを……!」

 咲は、自らの唇から血が流れていることにも気づいていなかった。

 木島が差し出したハンカチで、それを知った。怒りのあまり、噛み切ってしまったのだ。

「なんなの!? だれなの!?」

 玄関のほうから声が聞こえた。母親がもどってきたようだ。

「ねえ、これはどういうことなの!? あなたが家に入れたの!?」

 管理人に食ってかかっている。

「木島さん、タオルを」

 脱衣スペースにあったバスタオルを木島が持ってきた。

 濡れて小刻みに震える身体を包むと、咲はさやかをつれて玄関に向かった。

「あなた! いくら児童相談所でも、勝手に人の家に入り込んでもいいの!? 不法侵入でしょ!? 警察を呼んで!」

「警察なら、ここにいます!」

 咲は、警察手帳を開いた。

「……!」

 母親の表情に焦りが浮いた。

「う、嘘をついていたの!?」

「いいえ。こちらの木島さんが、児童福祉司なんです」

「そ、そんなの卑怯だわ!」

「なにが卑怯なんですか? 百歩譲って、わたしが卑怯なことをしたとしましょう。でも普通の家庭なら、なにも困ることはないはずですよ」

「……ふざけるな! こんなことが許されるわけないだろ!」

 さらに一段、ギアが上がった。これが、この女の本性なのかもしれない。

「お嬢さんは、この木島さんが強制的に保護をします。あなたからも、虐待の容疑で事情を聞かせてもらいます」

「……夫に連絡します! いいですね!」

 させたくはないが、そのためには逮捕しなければならない。どうせクビをかけているのだから緊急逮捕してもよかったが、周囲の影響を考えると寸前で足がすくんだ。

 警察署の同僚たちのことなど、どうでもいい。権力に屈して捜査をやめる警察官なんて、巻き添えをくって処分されればいいのだ。

 木島をはじめとした児相職員にまで迷惑はかけられない。すでに木島にはかけているが、それでも「わたしが無理やりつきあわせた」とでも言っておけば、救う道は残されている。

「どうぞ」

 咲は、電話を認めた。

 下村琢也が飛んで帰ってくるかもしれない。

 いや、そうのほうがいい……あるたくらみが生まれた。うまくいけば、夫のほうを逮捕できるかもしれない。手でも出してくれれば公務執行妨害で引っぱれる。

 一線を越えてしまったことで、どんどんと悪だくみが頭に浮かんだ。警察官としては失格だが、どうせ警察官でいられるのもあと少しかもしれないのだ。

 下村亜衣は、慌てたような仕草で携帯を操作している。

「あなた!? 急いで帰ってきて! 昨日の女は、警察だったのよ!」

 金切声のように助けを求めていた。

「あと、三十分で到着するわ!」

 電話を終えた亜衣は、余裕を取り戻していた。

 木島に目配せした。木島はうなずいた。待つことを選んだのだ。

 彼も、ここで勝負をかけるつもりだ。


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