12
今夜は約束があったとはいえ、すんなりと面会できたことに、やはり戸惑いもあった。
有本には約束は守るだろうと話したが、疑う心ももっていた。こうして会えたとしても、油断してはならない。下村琢也という男は、簡単に攻略できるような底の浅い人物ではないはずだ。
家のなかに通された。室内は一般的なリビングで、とくに眼をひくような調度品はない。ごく普通の一般家庭──。
その部分にすら、どうしても違和感をおぼえてしまう。考えすぎかもしれない。
「あの、お嬢さんに会わせてください」
有本が、そう切り出した。妻の亜衣がお茶を運んできたのは、そのすぐあとだった。
緊張感が部屋を包んだ。
「わかりました」
さらりと、下村琢也は言った。
「亜衣、呼んできてくれ」
妻が部屋を出た。心なしか、表情に不安の色があらわれていたような……。下村のほうは、まったく平静は崩れていない。
一分ほどして、部屋に少女がつれられてきた。
「さやか、お客さんに挨拶なさい」
下村が、穏やかな口調で少女──さやかに告げた。そこだけ見れば、しつけもキチっとした立派な父親だ。
「こんにちは……」
元気なく、少女が口を開いた。
その声はまちがいなく、あのときの少女のものだ。
一見すると、痣などの外傷はない。だが、事前に知らされている少女の年齢よりも発育が遅いような気がする。五歳のはずだが、三歳ぐらいに見えた。といっても個人差があるから、それだけで疑うことはできない。
「こんばんは、だろ」
やさしい口調で訂正をしたが、これも見ようによっては、恐ろしくもあり、自然な会話でもある。
「こんばんは……」
すぐに少女が言い直した。
「こんばんは」
有本が、それに応えた。
「さやかちゃん、何才ですか?」
有本も同じことを考えたようだ。
「いつつ……」
年齢にまちがいはなかった。
「さやかは妻に似て、小柄なんですよ。かわいいでしょう」
そこで不自然な言葉が入った。身体が小さいことを指摘されたくないのだと思った。しかし、あくまでも表情に変化はない。
「これで、もういいでしょう!」
早々に、亜衣が娘をつれていこうとした。
「お風邪をひいてるの?」
子供目線で、有本が問いかける。
コクンと、さやかはうなずいた。
子供が認めている以上、引きとめることはできない。有本もあきらめたようだ。
部屋からいなくなると、下村の顔が勝ち誇ったようにほころんでいた。
「それで、どんなご用でしたっけ?」
* * *
いまは、反省しかない。
どうして、あのまま引き下がってしまったのか……。
「……なんで、なにも言い返さなかったの?」
咲は、木島を責めているようで、自分自身を責めていた。
なにもできなかった。あの下村という男には、一分の隙もなかった。すべてが計算ずくで、児相の職員を前にしても、それすらゲームのように楽しんでいる。
悪魔のようだ……。
どうして、あの子の衣服をめくってみなかったのだろう?
見えない箇所には、たくさんの痣がついていたかもしれない。
いや……。
あの男は、そこまで考えている……。
なにも直接的な暴力だけが虐待というわけではない。
「あの子、五歳にしては小さくありませんでしたか?」
「はい……」
満足に食事をあたえない。それも立派な虐待だ。
たとえば、さむいところでずっと立たせる。眠らせない。そういうことだって、凶悪な虐待となる。
咲は、立ち止まった。
「今度は警察官として踏み込む!」
踵を返そうとしたら、木島に動きを止められた。
「まだ勝負が終わったわけじゃない」
木島の口から「勝負」という単語が出たことに虚を突かれた。たしかにこれは、子供の命がかかった戦争なのだ。
「今夜でわかったことは、さやかちゃんはまだ立って歩ける状態で、言葉の受け答えもできる……」
木島は、ただ傍観していたわけではなかったのだ。冷静に状況を分析し、最善の策をさぐっている。
「でも……いつまでも時間をかけるわけにはいかないわ」
下村のような男は厄介だ。感情のままに動き、すぐに爆発するような人間とはちがう。突発的にやりすぎてしまうことはない。そのかわり長期間、虐待を継続されてしまう。
子供はそのあいだ中、生き地獄を味わいつづけるしかない。そんな日々をできるかぎり短くしてあげたかった。
「それはわかっています」
木島は、決意をこめるように言った。
そのためには、こちらも緻密に狡猾に攻めなければならない……。
「……できることは、すべてやりましょう」
咲の言葉に、木島はうなずいていた。
「ではまず、あなたの治療から」
「それは大丈夫です」
「病院に行きたくないなら、ついてきてください!」
木島の怪我をしていないほうの手を握って、引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと!」
大男を引きつれるさまが眼をひくのか、通り過ぎる人々から好奇の視線を集めていた。
たどりついたのは、咲の部屋だった。警察の独身寮に空きがなかったので、特別に一般のアパートを借りている。
「入って!」
木島を無理やり連れ込んで、治療をはじめた。
といっても、傷口を消毒して、包帯を巻くことぐらいしかできない。医者でも看護師でもないのだ。
「本当は、病院へ行くべきなのに」
「心配ありません。縫うほどの傷でないことは確認してあります」
そういう言動にも腹が立っていた。
「不死身のヒーローにでもなったつもりですか!?」
木島が困った顔になって、視線を周囲に動かした。部屋のなかを見回されるのに抵抗があるわけではないが、気恥ずかしさもわずかにあった。
「ガッカリした?」
「え?」
すぐに木島も意味を理解したようだ。
部屋には、女の子的なものは、なに一つ置いていない。壁に貼ってあるポスターは、ハリウッドの警察アクション映画のものだし、かろうじて飾ってあるぬいぐるみは、ピーポくんだ。
「いえ、べつに……」
そう否定はしているものの、ガッカリしていることはあきらかだった。
「……木島さんは、カノジョとかいないんですか?」
なんでそんなことを訊いてしまったのか、すぐに後悔した。
「いませんよ。願をかけてるんです」
「願……ですか?」
話が、思いもよらぬ方向に進んでいた。
「不幸な子供たちが、この世からいなくなるように……」
残酷な現実だが、そんな日は来ない。
「だから、恋人をつくらないんですか?」
話の筋を読み解けば、そういうことになる。
「……」
木島は、明言しなかった。
「それじゃあ……」
それじゃあ、永遠にだれともつきあえないじゃないですか──そのセリフは、喉元でかき消えた。
モテないことの照れ隠しで、そう言っているだけかもしれない。
「それって、どれぐらい厳格なんですか?」
「……おまじない程度ですよ」
「だったら」
咲は、木島の巨体に身体を近づけた。
「……有本さん」
「わたしも願をかける」
「なにを……」
「あなたと、することで……子供たちに誓う」
不幸な子供たちをこの世からなくす──。
できないことであっても、そういう思いをもって生きる。
この男以外とは、しない。
どうしてしまったんだろう……?
正常な思考が麻痺している。木島に好意があるのかどうかすら、判断できない。こんなことが願かけになるはずないのに……。
木島も、咲を受け入れた。
おたがいが、どうかしてしまったのだ。
朝が来るのは、早かった。
「……」
「……」
おたがいが、後悔していた。
そして、どこかに満足感を得ていた。
「確認しときましょうか……わたしたちは、恋人になったわけじゃないですよね?」
「そうですね……」
何事もなくベッドから起きて、何事もなく仕事へ向かった。途中までいっしょに歩いていたが、あくまでも知り合いとしての距離を守った。
恋人じゃない。ただ、一夜をともにしただけ。
時折、そう自身に言い聞かせた。木島は、どうなのだろう。
たぶん、同じだ。それがわかってしまう。身体を合わせたことで、心の一部がつながってしまった。
刑事課の席につくと、小野田に声をかけられた。
「もう気がすんだろ。こっちの捜査に加われ。いつまでも勝手なことをしてたら、署長に睨まれるぞ」
「なんの捜査ですか?」
「傷害だよ」
例の事件ではないだろう。捜査はストップされているはずだ。
「チンピラ同士の喧嘩だ」
「わたしは、べつのことを調べています」
「おい……」
「どうせ圧力がかかったら、その捜査もストップされるんですよね?」
「そう言うなって」
「わたしのような新米なんて、足手まといでしょうから。処分するなら処分していただいて結構です」
きっぱりと言い切った。
小野田は、ため息まじりに捜査へ向かっていった。
刑事課のオフィスには、ほかに何人か残っていたが、咲はその同僚たちも無視して、パソコン画面に集中した。
下村琢也のことを調べつくしてやるつもりだった。SNSの書き込みはすでに読み込んでいるが、まだなにか気づくことがあるかもしれない。
くまなく調べてみても、やはり妻のことしか書かれていない。娘のことは存在すら匂わせていなかった。
子供が好きではないのだろう。
妻の写真も、若さを強調したものだ。母親という側面は求めていないのだ。
とくに新しい発見もなく、最新の書き込みをぼんやりと眺めていた。ノートパソコンを閉じようとしたときに、頭のどこかが反応をしめした。
「ん?」
それは何気ない違和感だった。
画面を凝視したが、それがなんなのかわからない。
昨夜の夕食だろうか、洒落たパスタ料理の写真だ。『おいしくいただきました』と文章が添えられている。
そういえば、こういう料理の写真が、ときおり掲載されていた。
「あれ?」
ちょうど一ヵ月前の同じ日だった。肉料理の写真で、やはり『おいしくいただきました』と書かれている。
それ以前の書き込みも調べたが、どうやら毎月十五日は料理の写真が載せられている。そのすべてで、『おいしくいただきました』の一言だけ……。
少し、おかしくないか?
いや、そんなこと……。
咲の頭のなかは、肯定と否定が行き来していた。
(……なにかある?)
パスタ料理の写真を、凝視した。
それまでは、料理にだけ集中していたから気づけなかった。
料理はすべて、白いテーブルクロスの上にのっている。そのテーブルクロスをよく見れば、数字が書いてある。一見しただけでは、クロスの模様だとしか認識できない。
「なにこれ?」
数字は『7383』と読み取れた。
ためしに、ほかの料理の写真も確認した。
「あった……」
肉料理のときの数字は『1599』となっていた。やはりクロスの模様は数字になっていた。本当にクロスの模様がこうなっているのではなく、画像を加工して数字を入れているようだ。
調べてみたら、料理の写真すべてに数字が記されていた。
では、いったいそれがなんなのか……?
(そうか)
ひらめくものがあった。
パスコード。
が、それを疑ってみても、どこで使うものなのか……それがわからない。単純に考えれば、このSNS上で入力するもの……。
だとすれば、秘密のページに入るために必要なのかもしれない。
くまなくチェックしてみたが、そのような細工はどこにもなかった。そもそも、由緒正しい有名なSNSサイト上に、そんな仕掛けはほどこせないだろう。
(じゃあ、なんなの?)
個人でひらいているホームページだろうか。
いや、インターネットとは関係ないものかもしれない……。
「あ」
さらに、ひらめいた。
そういえば書き込みのなかに、URLがのっていたときがあった。
「これだ」
けっこうな時間をかけて、それをさがしだした。料理の写真のときではなく、亜衣夫人の写真がアップされているときのページだった。
とくになんの説明もなく、URLだけが貼ってある。脈絡はないが、意識して見なければ不審には思わない。リンクしてあるわけではないので、コピペしてそのページに移動した。
しかし、アクセスできなかった。
URLを確認してみたが、一部が「XXXX」となっていた。そこに不自然なものを感じ取った。もしや……と思い、XXXXの箇所を、さきほどの数字の一つ「1599」に変更してみた。
ダメだった。
が、これが隠しサイトの入り口だとしたら、最新のものだけが適用されるのかもしれない。パスタ料理の数字「7383」を入力してみた。
移動できた。
だが、すぐにパスワードを要求された。
7383、1599など数字を入力してみるが、ちがった。ほかにパスワードになりそうなものはなかっただろうか?
下村のSNSにもどって、推理してみた。
URLがのっていたページの写真──亜衣夫人が写ったものだが、もしパスワードのようなものがあるとすれば、ここが一番あやしい。
まるでモデルのように美しく、洗練された女性として微笑んでいる画像。彼女の背後に小さなテーブルが配置されているのだが、その上に一冊の雑誌がのせられている。
とくに意識を向けなければ、ただの背景だと思ってしまうが、よくよく見れば不自然ともいえる……。
雑誌の名前は『SIGNORA』だった。たしかイタリア語で淑女とかそういう意味だったはずだ。表紙の雰囲気から二十代後半から三十代の女性をターゲットにしたファッション誌のようだった。
咲はファッションに興味はないし、まだ年齢的にも対象外なので、その雑誌のことは知らない。
「これか?」
ほかにヒントになるようなものもなかったので、例のサイトに移動して、『SIGNORA』と打ち込んだ。
画面が切り替わった。正解だったようだ。
「なに、これ……」
紳士のたしなみ、というタイトルのついたサイトだった。
衝撃的だったのは、トップページに掲載されていた画像の異様さだ。
幼い少女が思い切り顔面をビンタされている。
「なんなのこれ!?」
意識せず、大声をあげていた。
児童虐待の写真を投稿しあうサイトだった。




