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 今日は朝から、例の親が押しかけていた。

 しかし昨日までとはちがい、しつこく食い下がらなかったようで、青山一人で対応できたようだ。

 なにかあったら知り合いの警察官を呼ぶようにしたと伝えてあるので、青山も気が楽になって、いつもよりうまくあしらえたのかもしれない。

 そのことが幸運につながったのか、本日の業務は平穏そのものだった。虐待の通報があった家への訪問も、ただの勘違いだと証明できたし、以前に保護した子供の家庭も安定していた。何件かの電話対応も、トラブルなく終わった。

「なんだか、今日は静かでしたね」

「そうですね」

 木島は、青山の言葉に同調した。

 しかしおたがい、次の言葉が出てこなかった。本能的に感じ取っているだ。

 安息のあとには、波乱が待っていると。

 児童福祉司に定時はあってないようなものだが、本日だけは問題なく帰れそうだった。こんなことは年に一度あるかどうかだ。

 とはいえ、夜には有本と約束がある。いや、下村琢也との約束といったほうがよいだろうか。

「お先に失礼しま~す!」

 青山が、夕方六時に帰っていった。

「あら、木島さんは帰らないの?」

 高橋に声をかけられた。彼女は当直なのだ。

 以前は児童福祉司の当直はなく、一時保護の子供の面倒をみる保育係の交代勤務のみだった。突如の通報があった場合などは、警察に専用の番号を知らせてあるので、自宅待機の職員が携帯で連絡をうける。出動の必要があるケースでは、必ず二人でおちあってから行動する。

 しかし、いまでは児童福祉司の当直もおこなうようになっていた。すべての児相でおこなわれているわけではないが、ここでもそれが導入されている。ただし二人で当直するのが一般的だが、ここでは一人だけだ。もう一人は、これまでのように自宅待機というかたちをとっている。

「このあと、約束があるので」

「めずらしいわね。あなたがプライベートで人と会うなんて」

 プライベートではなかったが、木島は訂正しなかった。

「もしかして……女性?」

「……」

 これには、否定も肯定もできなかった。女性ではあるが、高橋の言う意味の女性ではないからだ。

「それはいいことよ。児相の職員だって人間なんだから、自分の幸せを追及する権利がある」

 高橋がそんなことを口にしているのが意外だった。彼女こそ、この仕事に対する姿勢が完璧すぎるほどで、二四時間、子供たちのために頭を使っているほどの女性だ。

 だからこそ同僚には、そうなってほしくないのかもしれない。

 もう少し長く居ようかと考えていたが、この話題をさけたかったので、早めに出ることにした。

「お先に失礼します」

「お疲れさま」

 相談所を出て、夜道を歩く。

 すぐに不穏な気配を感じ取っていた。

 人目をさけるように路地を進んでいる影がある。

 その人物は、知っている男の人相に似ていた。

「……」

 可能性はある。

 藤巻だ。青山の担当する、一時保護している少女の父親。

 この時間に児相へ向かっているとすれば、馬鹿げたことを考えているかもしれない。だからこそ、今朝はおとなしく引き下がった……。

 襲撃。

 子供を取り返すために……。

 木島は、その影を追うことにした。ただの勘違いなら、それでもいい。

 その路地を進むと、児童相談所の裏手に回ることになる。昼間でも人通りは少ない道だから、まだ浅い時間とはいえ夜ともなれば、ほかにはだれもいない。

 事務所の裏手は、塀で囲まれている。正面側には複数台の監視カメラが設置されているが、こちらにはない。

 近年は物騒になったから、どこの児相でも警備員を配置している。ここでも二四時間常駐しているのだが、所長や高橋の方針で極力、表には出ないようになっている。

 が、職員の少なくなる夜はべつだ。

 警備員の制止を警戒して、ここから侵入しようというのだろう。塀には感知センサーなどもついていない。とはいえ、建物内へ侵入した時点で警備員が駆けつける。

 木島は、藤巻(と思わる)男を取り押さえようか迷った。裏手の塀を見上げている。

 そのとき街灯の光が、なにかに反射した。

 上着の内側。

 凶器を隠し持っているのだ。

「藤巻さん!?」

 木島は、声をかけた。

 その人物はやはり藤巻で、ギョッとした顔をした。逃げようとしたので、木島は追いかけた。

 巨体ではあるが、だからといって足が遅いというわけではない。

 追いつかれると悟ったのか、藤巻は凶器を手にして、その腕を水平に振った。

「なにをするんですか! やめてください!」

 藤巻の瞳は、血走っていた。

 以前、青山に言おうとしたこと──。

 虐待しているような親ほど、自分の子供に執着している。しかしもう一つのケースがあると、木島は口にしようとした。

 それは、子供を守ろうとする親としての本能だ。

 この男の場合は、その愛情表現がうまく出せなかった。もしかしたら親からの愛情をあまりうけられずに成長したのかもしれない。だから子供との接し方がわからずに、暴力をふるう。だがそれは本人にしてみれば、子供を愛しているからなのだ。

 いまは、子供を取り返そうと必死だ。それしか頭にない。

「やめるんだ!」

「だまれ!」

 また凶器を振るった。殺すことが目的ではないから、距離は遠い。踏み込みさえしなければ当たることはない。

 木島は、自分に強く言い聞かせた。

 鬼にはなるな……。

 まだ、そのときではない。

「ハア、ハア!」

 藤巻は荒く息をしながら、威嚇するように凶器を突き出している。

 どうにかして、気持ちを落ち着かせなければ……。

「どけ! どけ!」

 木島は刃物を恐れずに、一歩前に出た。

「どけ! 殺すぞ!」

 さらに一歩踏み出し、刃を右手で鷲づかみにした。

「は、はなせ!」

 藤巻は力まかせに引き抜こうとするが、木島はそれを許さなかった。

 言葉ではなく、眼光で相手を威圧した。

「こんなことをしても、子供はもどってこない」

「だ、だまれ!」

「子供のことを大切に思うなら、子供を守れ! それだけに集中しろ」

「な、なに言ってんだ……」

「子供を、あなた自身から守るんだ!」

「おれ自身から……? なに言ってるか、わかんねえよ……」

「あなたは、子供の愛し方を知らない。その愛し方を知らないあなた自身から、子供を守るんだ!」

「ど、どうすりゃいいんだよ……おれは、子供のことを思って……うう!」

「ケースワーカーを紹介します。もちろん、われわれも協力します。いっしょに、お子さんを守りましょう」

 藤巻は、これまでの虚勢が嘘のように泣き崩れていた。

 この男も苦しんでいたのだ。

「どうすりゃいんだよ……どうすりゃ……」

 藤巻の手から、凶器を取り上げた。

 親からの愛情を知らない人間には、一般的なことを教えたとしても、心には響かない。

「理想の親になるしかありません」

「理想……?」

「あなたが、本当に欲しかった父親……それになるしかない」

「……わかんねえよ、そんなの」

「願望でいいんです」

「……野球したかったなぁ。いっしょにキャッチボールしたかった……日曜には、どこでもいいから遊びに行きたかった……授業参観でもいい、運動会でもいい……一回でも来てもらいたかったなぁ」

 それは、とても平凡な願いだった。

 そんなものでいいのだ。そして、それをなんの変哲もない日常だと思える人は、それだけで恵まれている。

「なりましょう」

「……」

「そういう、普通の父親に」

 情けないほど号泣しながら、藤巻はうなずいていた。


     * * *


「おそい!」

 約束の時間よりも十分遅れてきた木島に、咲はイライラをぶつけた。

 児童相談所も公務員とはいえ、警察官のように不測の事態がおこりやすい職種だ。少しの遅刻で責めるのは理不尽だと自分でもわかっている。それでも、あたってしまった。

 この男といると、自分がどんどん子供じみてしまう──そういう実感があった。

「すみません」

 木島が席についた。どこか動きが緩慢だった。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

「いえ」

 その否定が嘘であることは明白だった。

「なにがあったの? 言って」

「……」

 木島が、テーブルの上になにかを置いた。

 息をのんだ。

 血のついたナイフだった。

 そして木島の右手にハンカチが巻かれていることに気がついた。

「それ、血?」

 ハンカチが赤黒く染まっている。

 置かれたナイフで右手を怪我した──そういうことだろう。

「どうしたんですか!?」

 自分であやまって怪我をした……わけではないはずだ。

「だれにやられたんですか!?」

「……」

 言いたくないのだと思った。

「わかった。そのことは詮索しない。で、このナイフをわたしに、どうしてもらいたいの?」

「預かってもらいたい……」

「そう。こういうことね。あなたを襲った人物が、また同じことを繰り返そうとしたときには、これを証拠にしろ、と」

 木島はうなずきこそしなかったが、表情が肯定を告げていた。

「必要なくなったら?」

「そちらで処分してください」

 その口調からは、そうなることをなかば確信しているようだった。

「……わかった」

 咲は、テーブルに常備されているペーパーナプキンでナイフをくるむと、ハンドバッグにしまった。

「まずは、治療をしましょう」

「いいえ、向かいましょう。約束の時間です」

「それ、ハンカチを巻いただけですよね?」

「大丈夫です」

 木島が立ち上がった。

 オーダーをとりにきた店員を手で制すと、そのまま出口に向かっていった。

「木島さん!」

 呼びかけても応じる様子はなかったので、咲は仕方なくあとを追った。

「本当に、大丈夫なんですね?」

 会計をすませて彼に追いつくと、咲は念を押した。

「気にしないでください」

「気になります」

「それよりも、さやかちゃんのことが重要です」

 それはそうなのだが……。

「わかった。訪問が終わったら、絶対に病院へ行きますからね」

 下村のマンションについたのは、昨夜よりも十分ほど遅れていた。


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