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 ファミレスでそのまま時間をつぶし、下村の住むマンションについたのは、夜八時に近かった。

 まだ下村琢也が帰宅している保証はなかったが、有本咲はそれを確信しているようだった。オートロックで彼女が部屋番号を入力すると、すぐに妻の亜衣が応答した。

『またですか!?』

 心底、迷惑そうだった。

『こんな遅くに来るなんて、非常識です!』

 もともと協力的ではなかったが、いまの激昂は特別なような気がした。木島にも、夫が帰ってきているという確信が得られた。

「ご主人もいらっしゃいますよね? ぜひ、お話をしたいのですが?」

 有本は、ここまでは冷静にふるまっていた。少し感心した。

『……こ、困ります!』

 そのとき、べつの声がスピーカーから聞こえた。

『なんだ? だれなんだ?』

『……児童相談所です』

『追い返せ』

 以上のようなやりとりが、小声でされていた。

「お子さんへの面談は必要ありません。それでもだめですか?」

 木島は、駆け引きに出た。

 しばらく、応答が途切れた。

『……本当に、子供はいいんですね?』

「はい」

 有本は不満そうな顔をしていたが、まずは両親との面談からはじめるべきだ。本丸ともいうべき父親に対しては、もっと慎重になったほうがいいかもしれない……が、有本に乗せられた段階で、こうなるほかなかったのだ。

 木島は覚悟を決めて、ロックのはずれたドアからエントランスに入った。一歩後ろから有本がついてくる。

 エレベーターで五階へ。部屋の前に立つと、有本と一瞬だけ視線を合わせた。次いでインターホンを押す。

 開いていく扉が、こちらへの拒絶をあらわしているように重い動きをみせた。

「なんですか? どんな話ですか?」

 夫の姿はそこにはなく、妻の亜衣は冷静な態度につとめようとしているようだった。ここに到着するまでに、心の平静を取り戻したようだ。

 もしかしたら、夫の指示でそうしているのかもしれない。

「ご主人と話をしたいのですが」

 どこか挑戦的に、有本が伝えた。

「うちの人は、たいへん忙しいんです。こんなことに時間をとっていられません」

 かたくなに拒否された。

「では、ここから話します。下村琢也さん! いるんでしょう? お子さんのことでお話をしましょう!」

 有本は、わざと大きく声を出していた。

「やめてください! 近所迷惑です!」

 彼女は一瞬、家の奥に視線をはしらせた。

「入ってください!」

 夫からの指示があったのか、玄関のなかに木島と有本を入れた。ただし、部屋には上がらせてくれない。

 とはいえ玄関からでも、あるていど家の様子はうかがえた。

 きれいに整頓されていて、インテリアもセンスがよく、けっして金持ちぶっているわけでもなく、印象は悪くない。あくまでも、玄関から見える範囲のことではあるが。

 一人の男性が姿をあらわした。

 年齢は、三十代後半から四十歳ほどに見える。有本とちがって、木島はSNSを眼にしていない。この人物が下村琢也なのだろう。

「どうされたんですか? 児童相談所の方たちなんですよね?」

「はい。児童福祉司の木島といいます」

「有本です」

 彼女が身分を名乗らないのは、わざとだろう。警察官という肩書を切り札にしようとしているのだ。

 無謀で熱くなりやすいだけでなく、狡猾な思考もあわせもっているようだ。敵に回すと厄介なタイプといえる。

「で、いったいどんなご用なんですか?」

 言葉に棘はなく、表情も穏やかだ。

 それだけで判断するのなら、不審なところはない。これでやましいことがあるのなら、相当な役者ということになる。

 鹿児島の児相が判断に迷ったのは、仕方のないことかもしれない。

「お嬢さんに面会をしたいのです」

 さきほどは会えなくてもいいと口にしたのだが、かまわずに木島は言った。

「娘にですか?」

 下村琢也は、大げさに驚く仕草をとった。寝耳に水を気取るようだ。

「どうしてなんですか? 娘になにか問題でもあるんですか?」

「いえ、そういうわけではありません。最近、こちらに引っ越してきたんですよね? お子さんのいるそういう家庭には、訪問するようになっているんです」

 もちろん嘘だが、むこうがわかりきっていることをとぼけているのだから、それにならうことにした。

「そうだったんですか」

 下村琢也のほうも、表情は崩さない。

「ですけど、いま娘は風邪で寝込んでいますので、そうですね……明日の夜には回復してるでしょうから、また同じ時間に来ていただけますか?」

「わかりました」

 木島は了承した。

 痛いほど有本に睨まれた。


     * * *


 マンションからの帰り道、咲は木島を責めたてた。

「なんで、あっさり引き下がったのよ! あんなの嘘にきまってるでしょう!?」

 明日の夜に会わせるという約束のことだ。

「本当かもしれない」

「バカじゃないの!?」

 咲の言葉には、遠慮がなくなっていた。

「……」

「明日の晩も同じようなことを言って、また引き延ばすにきまってるわ! それの繰り返しよ」

「たしかに……そうかもしれません」

「なら、どうして!」

 木島の表情には、なにかを察しているような憂いがあった。

「なんなの? 言いたいことがあるなら、言って!」

「あの下村琢也という男性は、そんな単純なテは使わない……そんな気がするんです」

「どういうこと?」

「明日、本当に会わせてくれるんじゃないかと……」

「根拠は?」

「ありません」

 そのわりには、自信ありげな口調だった。

「下村琢也氏ではなく、おれを信用してもらいたい」

 そこまで言われると、咲としても引き下がらざるをえなかった。

「……わかりました。では明日、また行きましょう」

 木島とは、そこで別れた。

 拍子抜けしたような心境だった。公務執行妨害でもなんでも適用して、逮捕してしまおうと覚悟していたのに……。

 そうでもしなければ、狡猾な悪魔から子供を救うことなどできるはずもない。

 下村琢也を狡猾な悪魔ときめつけるのが危険なことだという木島の思惑もわかっている。だが、多少の荒療治は必要悪だというのが咲の見解だった。

 警察官としての倫理観は麻痺している。

 それもこれも、あの傷害犯のせいだ。見えない権力に守られ、しかしそれでいて、人々からも味方される。法律的には許されないことでも、傷害犯は道徳的に許されている。

 もちろん、犯人を捕まえていない以上、どんな理由で暴力をふるったのかは不明だ。もしかしたら子供の虐待とは関係なく、たとえばただの恨みで事件をおこしただけかもしれない。だがその存在が、咲のペースを乱していることだけはまちがいなかった。

「……」

 雑念を振り払って家路についた。署にもどるつもりはなかった。これから刑事としてやっていくのかもわからない。警察がなにかの圧力をうけて捜査をやめる……許されることではない。ドラマではそういうシチュエーションの刑事モノをよく観るが、所詮はフィクションだと考えていた。

 正義が、ないがしろにされている。

 が、今回の件の厄介なところは、結果的であったとしても、虐待されている子供にとっては、それが良かったという点だ。

 どんな人物なのだろう?

 子供のことを思ってのことなのか……それは推測の域を出ない。しかし、ただ一つわかっていることがある。その人物が、警察に圧力をかけられるほどの権力をもっているということだ。

 いや、本人とはかぎらない。その人物に協力をしている、もしくは思想に共鳴している何者か……。

 もっと単純に考えることもできる。

 たとえば、咲自身がだれかの罪を隠したいと思う場合、はたしてそれはだれになるだろう?

 肉親。

 警察が圧力をうけるとして、一般に考えられるのは、政治家や財界人、有名芸能人などだ。その場合、本人への捜査妨害もあるだろうが、それだけでなく肉親に捜査がおよぶことのないように手配することも、けっしてめずらしいことではない。もちろん、フィクションのなかでのことだが。

 肉親──もっと具体的にいえば、子供の不祥事。

「……」

 そうなると、ここ最近、知ることになった権力者のことが頭に浮かんだ。

 紅林博忠。

 元警察庁長官で、現在は琴音の保護者となっている。

 警察に顔が利き、なおかつ児童虐待に怒りをもっている……。

 家に帰るのはやめて、署にもどることにした。調べものをするには、そのほうがいい。

 到着したときには、夜九時を過ぎようとしていた。紅林博忠について情報を集めていく。

 まずはパソコンで検索をしてみる。それから、過去の捜査資料で児童虐待にまつわる傷害事件にその名前が出てこないかを読み込んでいく。

「とくにない、か」

 関係があるのは、琴音の事件だけだった。資料に名前が出てくるわけではないが、琴音の親である山岸という男性の遠い親類にあたるのだと、紅林家の夫人から聞かされている。

 紅林博忠に息子はいるのだろうか?

 ネットで検索してみても、その情報は出ていなかった。

 もし息子がいるとしたら、その人物が容疑者ということになる。

「……直接、聞いてみるか」

 咲は、時間を確認した。

 十時近くになっている。さすがに訪問するには失礼な時間だ。今日は、おとなしく帰ることにする。

 自宅アパートまでの帰り道、咲はあえて回り道をして、下村のマンションの前を通った。

「ん?」

 不審な気配を感じ取った。

 すぐ近くに、だれかいる!

 咲は、周囲をさぐる。眼につく通りに、人の姿はない。いや、遠くに歩行者がいたが、ただの通行人だ。

(気のせい?)

 ちがう。その気配は、圧倒的な存在感をもっている。隠そうと思っても、隠しとおせるものではない。

 どこだ!?

 見えない。マンションの入り口付近も、すぐ前の通りにも、該当する人物はいない。どこかに身を潜めているのだ。

 咲は、見上げた。

 なぜだか、その気配の主も、同じように見上げていると感じたからだ。

 咲の視線は、一点に集中した。

 下村琢也の部屋……。

 何者かも、そこを眺めているという確信があった。

「!」

 視界のすみで、影が横切った。

 エントランスから漏れる灯りに浮かんだ影だ。

 だが、やはり周囲にそれらしき姿はない。

「だれ?」

 返事はない。

 本当に、だれもいないのかもしれない。

 しかし……。

 いま見えた影のようなものは、錯覚ではないだろう。

 とてつもなく巨大で、恐ろしい形をしていた。

 まるで、鬼のようだった。


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