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児相にもどっても、木島はペースを乱されたままになっていた。
「どうしたんですか、木島さん?」
青山に声をかけられた。
「え?」
「さっきから、難しい顔してますよ」
何件かの電話対応をすませ、事務書類に眼を落しているところだった。
自分ではいつもとかわらないつもりだったが、そうではなかったらしい。むきになって否定するのも大人げないので、そのことの反論はしなかった。
「青山さん、木島さん!」
そのとき、高橋から厳しい声で呼ばれた。
「また親御さんが来てるわ」
青山の顔色が、途端に変わった。今度は彼が難しい表情になっていた。
「……あの子の親ですか?」
「ええ」
あの乱暴な父親がやって来たのだ。
青山が、重くなっているであろう腰を、なんとか上げた。
木島もあとについていく。
「おい! 子供を返せよ!」
だいぶ遠くからでも声が届いている。
「藤巻さん」
玄関口では、べつの職員がおびえたように対応していた。
「おい! おまえ!」
藤巻という保護者は、青山の姿をみつけると、さらに怒りのトーンをあげた。
「いいかげんしろよ! いつまで人の子供を誘拐してんだ!」
「誘拐なんてしてません!」
「なんで自分の子供に会えないんだ!」
「まだあなたのもとには帰せません」
「なんでだよ! おい、殺すぞ!」
「それは脅迫ですか?」
「あ!?」
藤巻は、より一層、凄みをきかせた。
このやりとりでは、らちがあかない。
「そんな大声は出さないでください」
木島は言った。
「うっせえぞ、デクノ坊!」
「落ち着いて話をしませんか?」
「なんだと!?」
藤巻が、木島の胸倉をつかんだ。身体の大きさがだいぶちがうので、下から引っ張るかたちだ。どうやら落ち着いていないと思われたことに憤慨したようだ。客観的に自分が見えていないのだ。
「子供を返してもらうまで、おれはここにいるぞ!」
「でしたら、こちらも警察を呼びますよ!」
青山が毅然と言った。本来なら、警察というワードは出すべきではない。それでおとなしくなる場合も多いが、逆上して手がつけられなくなるケースもあるからだ。そうなると、本当に警察に出動してもらわなければならない。
児童福祉司には、なんの権力もない。子供を強制保護することはできても、それを妨害する人間を排除する手段をもたない。唯一、使用できる刑法は、公務執行妨害だけになる。
ただし、役所の職員や公立校の教員でも適用できる公務執行妨害罪を実際に行使する人間など、ほかの公務員と同じように児童福祉司にもいない。
「呼んでみろよ! 子供を誘拐してるのは、おまえらのほうだろ!」
逆上するケースだったようだ。
木島は、つかまれていた彼の腕を右手だけで握った。軽く力をこめた。
「い、痛てえ! な、なにしやがんだ!?」
「乱暴なことはやめてください」
「は、はなせ!」
木島は、あっさりと解放した。
「て、てめえのほうが乱暴じゃねえか!」
「冷静になって、お話しできますか?」
相手に隙をあたえることなく、木島は迫った。
「チッ!」
藤巻は舌打ちを捨て台詞のように残して、玄関から出ていった。
「……やっぱり、あの父親はダメです!」
怒りを吐き出すように、青山は言った。
「今度来たら、問答無用で警察に通報しましょう!」
青山自身も、冷静さを失っていた。
「それは、最終手段よ」
高橋が顔を出した。悪いように解釈すれば、厄介な客が帰ってから、のこのこ加わった……ということになる。だが、青山がどう思っているかは知らないが、高橋がああいう人間を軽くあしらえることを木島はよくわかっている。
「でも、なにかがあってからじゃ遅いですよ。早めに通報するぐらいが……」
青山が言い返した。たしかに、その考えも一理あるのだ。地域によっては、すぐに警察を呼ぶところもある。
木島は、青山を手で制して提案した。
「もし、警察に通報するようなことがあれば、あてがあります」
「知り合いの警察官ということ?」
「はい」
有本のことだった。
過激で強気だが、初対面の警察官よりはコントロールがきくはずだ。
「わかりました。そういう状況がきたら、木島さんにまかせます」
* * *
咲は、午後になっても小野田の指示をきかずに、独自で動いていた。
「おい、有本……いい加減にしろ。単独行動は、重大な違反行為だぞ」
そうたしなめる小野田の口調は、しかしどこかにあきらめがあった。
「どうせ、たいした捜査なんてないんじゃないですか?」
嫌味をこめて、咲は言い返した。
「バカ言え、事件は山のようにあるんだ。あの傷害事件の捜査は終わっても、やることはたくさんある」
「終わったんじゃなくて、終わりにさせられたんですよね」
「……」
小野田は、苦い表情になった。
「勝手にしろ」
そう言い残して、行ってしまった。
咲は、しばらく自分のデスクで調べ物を続けた。情報を得るだけなら、いまの時代、足を使う必要はない。
下村琢也。公開されているSNS情報によれば、慶応大学卒業後、通産省に入るも一年で辞めて、民間の不動産会社に転職している。業界でも二番手になる大企業だ。こんな個人情報をネットにあげていることでもわかるとおり、ナルシスト体質なのはまちがいないだろう。
偏見かもしれないが、そういう人間は特権意識が強く、自身を大物だと信じて疑わない。自分の意に従わない人間を極度に毛嫌いし、暴力を使ってでも強制しようとする。それが子供でもかわらない。
この考えを木島にぶつけたとしたら、またお説教が待っているだろう。
「……なんなの?」
あの男のことを思い出すと、苛立ちとともに、べつの感情もあることがわかる。
彼に対して、特別なものを抱きはじめている?
そんなはずない……。
振り払うように、咲はパソコンの画面に集中した。
妻の名は、亜衣。四年前に書かれた文章で二一歳となっているから、いまは二五歳になるだろう。
下村琢也の年齢に関することはどこにものっていないので推測でしかないが、掲載されている写真からは三十代半ばから四十歳ほどと思われる。聞き込みでもそうだった。ただし、経歴の『通産省』がまちがいでなければ、四十歳は超えていることになる。省庁再編で経済産業省になったのが、二〇〇一年だったはずだ。
年齢差のあるカップルの場合、亭主関白の家庭が多いのではないだろうか……。
子供のことは、どこにも記していないようだった。新婚のころから妻とのツーショット写真はいくつもあるが、子供との写真は公開されていない。
「……」
画面だけを見ていると、とても幸せそうな家庭に思えてくる。
いや、下村琢也にとっては幸せなのだろう。
はたして、妻のほうは?
夫の暴力が怖くて、いっしょに虐待しているのか……。自ら進んでおこなっている可能性だってある。下村の開設しているページだけを見るぶんには、若くて美しい思想の妻だ。
この家庭のことを思うと、いてもたってもいられなくなった。木島とは夕方にまた会う約束はしたが、細かな時間を指定したわけではなかった。
咲もバカではない。その約束が、咲の頭を冷やすために言ったものだということはわかっている。木島にしてみたら、本当に会うつもりはないのかもしれない。それでもかまわなかった。無理やり押しかけてでも、あの男を連れ出す。
彼が拒否したら、自分一人でも下村宅に行くつもりだ。
木島の携帯にかけた。
『有本さんですか? ちょうどぼくもかけようとしたところです』
迷惑がられるかと思ったが、そんなことはなかった。
「じゃあ、あのファミレスで」
すぐに向かうことにした。
到着したのは、午後五時を過ぎたところだった。
木島は、それよりも十五分ほど遅れてきた。待たされたことになるが、イヤな気持ちはしなかった。
「どちらから話しますか?」
席につくなり、木島が切り出した。まだ数回しか会っていないが、とってつけたような挨拶を必要としない間柄になっていた。
「あなたから」
「では」
木島は、オーダーをとりにきた店員に軽食を注文すると、本題に入った。
「いま、厄介な親をうちの青山が担当しています。青山には会ったことありますよね?」
「ええ」
児童相談所をたずねたときに面談している。
「毎日のように、抗議に来ています。子供に会わせろと」
「子供を保護してるんですね?」
「そうです」
虐待している親が、子供をとられて逆上する。典型的な例だと思った。
「こちらで対処できないようなときには、警察に通報するしかありません」
「そういうことは多いのですか?」
児童虐待に関することは、生活安全課が担当する。もしくは110番通報の場合は、地域課があたることになる。
咲が交番勤務だった新人のころには、そういう通報で急行したことはなかったし、いまの刑事課では、なおさら実情はわからない。
「個々によってちがうでしょうが、うちではあまり多くはありません。ただ、親による職員への暴力が増えているので、すぐに警察へ通報するようになってきているのが実情です」
「木島さん、それでわたしになにを?」
「そういうケースになったら、あなたにお願いしたい」
「そんなことでいいのなら、いつでもわたしの携帯に連絡をください」
刑事課の咲が正式な業務で担当するためには、あきらかな傷害事件と認定されるケースに限られる。だが咲は、個人的な判断を優先させることにした。いまは、木島の信用を得たい。
「次は、わたしのほうから」
咲は、自ら調べたことを報告した。といっても、ネットで得た情報だから、木島のほうがもっと詳細な情報をもっているかもしれない。
それでもかまわずに、咲は伝えた。
妻の写真は多くあったが、子供の写真はどこにも公開されていなかった。
「もちろん、子供のプライバシーを守っているだけかもしれませんけど」
木島の知らない内容だったようだ。興味深そうに聞いている。それとも、気をつかってくれたのだろうか。
「これから行きますよね?」
「今日はやめたほうが……」
「どうしてですか?」
「一日に二度もたずねるのは、相手を追いつめることになる」
「追いつめるんです」
咲は、毅然として言った。
「できれば、もっと遅い時間にしましょう。下村琢也が帰宅したころに」
「危険です」
「そう判断したら、現行犯で逮捕します」
木島は、さすがに驚いたようだった。
「わたしは警察官ですよ。どうとでもできます。でも、安心してください。さっきみたいにはなりません。あくまでも冷静に対処します」
咲は強気だ。職権乱用と非難されたとしても、子供を救うためなら許されることだと考えている。
「……滅茶苦茶ですね」
あきれたように、木島は言った。
「木島さん……あなたは、ルールや法律を守りたいんですか? 子供の命を守りたいんですか?」
咲は、ずるい言い方をした。そう問われた児童福祉司が、ルールや法律と答えられるわけがない。
「……」
「わたしは、迷わずに子供の命を選択します」
ずるいうえに、警察官としては失格だ。
かまわなかった。
「ルールを破れば、虐待する親のように、無法者になりますよ」
「じゃあ、わたしがルールを破らないように、あなたがコントロールしてください」
「……骨が折れそうだ」




