プロローグ
泣いている子供の声は、邪悪なものを引き寄せる。
それとも、邪悪なものが子供の泣き声を求めているのか……。
泣けば泣くほど残虐さが増してゆき、際限なくむごさが膨らんでゆく。
助ける者はなく、ただ鬼が跋扈する。
赤き鬼。
暴虐であり、倫理を知らない。
「あの! 関谷さん! 関谷さん!」
あまりのことに、隣の住人がノックして呼びかける。
もう何日も続いている。
昼も夜も子供の泣き声が響き、大人の怒鳴り声、叩く音、殴る音……。
この団地に住む人間は、みな知っている。
典型的な児童虐待だ。
児童相談所や警察に通報した住人もいた。だが、児童相談所の職員は暴力的な父親に恐れをなして、一回の訪問であきらめてしまった。
つい三日前に来た警察官など、出てきた父親が「しつけだ。家庭の問題に口を出すな」──そう一喝されただけで帰ってしまった。
本来なら、こういう状況で子供が頼りにするのは母親のはずだ。しかしその母親も、父親とともに子供を虐待していた。そうしなければ、自身が標的にされるのだ。
母親は過去に離婚も考えたが、つれもどされて酷いめにあったそうだ。親戚が子供を守ろうとしたこともあった。そのときは親戚の家に殴りこんで、警察沙汰になったという。うちの子供が誘拐されたと騒いで、親戚は白旗をあげた。警察も父親の味方をした格好だ。それ以来、親戚はこの家族にかかわらなくなった。
母親も親族も、児童相談所も警察も……すべてのものから子供は見放された。
近所の住人のなかには、こう思う者もいた。
生贄だ。
生贄を悪魔に捧げることで、地域の平和がたもたれているのだ。
だれもが、子供の将来をあきらめていた。
もしかしたら、どんな街にも、あの父親のようなモンスターが潜んでいるのかもしれない。どの地域でも、その怒りを生贄によって鎮めようとしているのだ。
なんと罪深く、残酷なのだ。
「関谷さん! 関谷さん!」
隣の住人は、呼び続けた。
悪魔の怒りを買ってしまうだろうか……。
たとえそうでも、もう耐えられない。子供の泣き叫ぶ声が、胸をつんざくのだ。
ガチャ。
扉が開いた。
なかから顔を出したのは、女性だった。
「なんでしょう?」
平然と応対しているのが、異常だった。
「いいかげんにしなよ! 子供が泣いてるじゃないか!」
「すみません」
母親は無機質に応えた。
「静かにさせますから……」
「そんなこと言ってるんじゃないんだよ! 虐待してるだろ!? かわいそうだと思わないのか!?」
隣人は訴えるが、母親の反応は鈍かった。
「なんだよ、ああ!?」
母親の背後から、男が顔を出した。
悪鬼のごとき形相だ。
「これはしつけだよ! 口出すんじゃねえ!」
児相や警察さえも黙らせた男の恫喝は、相当なものだった。眼は吊り上がり、犬歯が牙に見えるほど邪悪に相貌を歪めていた。
「いや……近所迷惑なんだよ……」
隣人の語気は、一瞬にして萎えた。
「うっせぞ! 殺すぞ!」
父親は、そう凄んだあと、
「静かにすっからよう。もう少し我慢してろや」
一転して、それまでよりは穏やかに言った。それでも充分、迫力はあったが。
この父親の年齢は二十代前半ぐらいで、隣人はそれよりも三十歳以上は年長だ。しかし、完全に若き父親にのまれてしまった。
ニヤけ顔を残し、父親は扉を閉めようとした。すでに母親のほうは、奥へ引っ込んでいる。
「知らないよ」
その声で、父親は閉めるのをやめた。
隣人にとっても、思ってもみなかった声のようだ。驚いたように、声のほうを見た。
声の主は、こんな殺伐としたシーンには似つかわしくないほどに若かった。
中学生……?
まだ幼さの残る少女だった。
白磁のように透明感のある肌をしているが、同時に生気も感じなかった。
人形のような少女だ。
「なんだ、おまえ?」
「そんなことしてると、鬼が来るよ」
少女は言った。
「鬼? なんのこった? 頭おかしいのか?」
「わたし、見たことある……鬼を」
さすがの暴君ですら、気味悪がっていた。
「こいつ、いかれてんな」
「忠告してあげる。そんなこと続けてたら、鬼が来る」
「そんなことってなんだよ? おまえ、子供だからって手加減しねえぞ」
自分の子供にも手加減しない人間が、よく言えたものだ。耳にした者すべてが、そう考えるだろう。
「あなたなんかより……鬼のほうが怖い」
少女の表情から察すると、心から不安に思っているようだった。
「なにが鬼だ! そんなものがいるか」
父親は、とりあわなかった。
ドンッと、強く扉を閉めた。
「……」
隣人も一瞬だけ少女に視線を合わせると、ばつが悪そうに自分の部屋へと消えた。あの父親の凶行を止められなかったことに、恥ずかしさをおぼえたのだ。
その家の前に、少女だけがとり残された。
それからまもなく、子供の鳴き声が聞こえた。虐待が再開されたのだ。
* * *
今日は、どんなことをしてやろうか。
どんなふうに叩いてやろうか。
考えれば考えるほど、身体の底から興奮してくる。女を抱いているよりも、血がたぎる。
すべてのものを従える全能感。
このガキは、おれのものだ。この世界はおれのものだ!
しつけなんて、どうでもいいのだ。
言うことをきこうがきくまいが、良い子にしていようがいまいが、なんの関係もない。建前では、しつけのため。だが本心では、こうするのが楽しいからやっているだけだ。
なぜ、おもしろい娯楽をやめる必要がある?
児相だろうと、警察だろうと、近所の連中だろうと、邪魔はさせない。
もちろん、この女にもだ。
「なんか文句あるか?」
女は、首を横に振った。
この女も、従順な奴隷だ。これまでにだいぶ痛めつけてあるから、いまでは反抗することもない。
それどころか、いっしょになって子供を嬲っている。自ら腹を痛めたわが子をだ。
笑いが止まらない。
「はははは!」
当然のことだが、こんな胸中をだれかに語るなんてことはない。そんなことをすれば、異常者だと思われる。このおこないが、狂っていることは自覚している。
それでもやめられない。
やめるつもりはない。
〈ドンッ!〉
大きな異音が部屋中に響いた。
「なんだ?」
またとなりの人間が邪魔しにきたのか?
だが、そんな音ではない。ノックの範疇を超えていた。扉を破壊するための叩き方だ。
「おい、見て来い」
妻に命じた。
機械のように妻は言うことをきく。それでいい。
見下ろすと、子供が泣きながら許しを請うような眼をしていた。だめだ。まだまだ夜は長いんだ。
〈ドンッ!〉
また激しい音が鳴った。
さすがに心配になったので、玄関まで行った。妻が呆然と立ちつくしていた。扉がひしゃげている。
「な、なんなんだ……」
〈ドンッ!〉
三度目の破壊行為で、ドアがますます変形してしまった。
いったい、どんな道具で叩いているのか……。
「だ、だれだ!?」
返事はない。
「なにしやがる! 警察呼ぶぞ!」
それまでよりも大きな破裂音が鳴り響くと、信じられないことに……ドアが破られた!
眼の前に、鉄の塊のと化したものが倒れた。
その奥から、人の形をしたなにかがやって来る。
鬼が来るよ。
* * *
暴虐の嵐は、絶望を生んだ。
身長は180㎝。いや、190㎝はあるだろうか。腕は太く、脚も太い。肉の凶器たる大男が室内に侵入し、住人に容赦なく暴力をふるった。
「や、やめ、てくれ……」
その家の主人は、呻くように哀願した。
恥も外聞もなく、涙を流していた。
恐ろしかった。痛い。つらい。どうして自分が、こんな酷いめにあうのか理解できなかった。
侵入した巨人は、一方的に殴りつけている。どうして、だれも助けてくれないんだ!
助けてくれ、助けてくれ!
もはや声にはならなかった。
巨人の拳が顔面にめりこみ、膝が腹部を破壊する。
「う、う……」
ようやく暴力がやんだとき、住人は息をするのもやっとの状態だった。
大男が、部屋の隅でおびえている小さな子供に眼をやった。
「大丈夫だ。もう怖くない」
これまでの行為からは想像もできないほど、やさしげな声だった。
その男の子は、どのようにも反応できなかった。得体の知れない大男。ボロボロにされた父親。母親は無感情にたたずんでいる。
一家におとずれた悪夢。
「きみはこれから、本当の親と離れて生きていかなければならない……強くなるんだ」
大男からの呼びかけに、小さくうなずいたような……。
ただうつむいただけかもしれない。
大男は、自身でぶちのめした父親に視線をうつした。
「どうして助けが来ないかわかるか?」
父親は、反応できなかった。
いや、わずかに首を横に振っていた。かろうじて意識はあるようだが、どこまで正気をたもっているのかは疑問だ。
「だれが通報するというんだ? おまえようなクズ人間を助けるために」
大男の言葉は辛辣であり、残酷であり、容赦がなかった。
「自分の子供を虐待していいと思っていたか? ずいぶん好き勝手やってきたんだろ。みんな、おまえのことを恐ろしいと思っていたんだ。それと同じように、おまえのような人間は酷い目にあえばいい──そう思う人間も多いということだ」
「そ、そ、んな……」
息も絶え絶えに、ようやく声を出すことができた。
「どうだ? だれにも助けてもらえず、一方的に殴られる気分は」
「た、たす……」
「聞こえねえよ!」
大男が、さらに殴った。
「いいか。もうおまえは、だれも殴れない。殴ろうとすれば、おれのことを思い出す」
「う……」
父親の顔は、血と涙と鼻水とよだれでグチョグチョだった。
哀れだ。
みじめだ。
ボロ雑巾のようだ。
「その身にやどる暴力性を、もう一生、解き放つことはできない。解き放ったら最後、絶望がおれとともにやって来る!」
とどめの一撃が、無情にも振り下ろされた。
嵐が去り……。
団地の階段を降りている途中で、大男は一人の少女とすれちがった。
「鬼」
一瞬、その言葉で立ち止まったが、すぐに歩を進めた。
「鬼!」
「鬼を退治するのも、鬼の役目だ」
振り向くこともなく、大男は少女に応え、姿を消した。
救急車とパトカーのサイレンが鳴り響いたのは、それからすぐのことだった。