黒田玲のいちばん長い日(1)
「へ?」
間抜けな声を上げてしまうのも無理はない。会社のトイレの個室から出て一面に草原が広がってる光景を目にしたら誰だってそうなるだろう。
この草原にただ一人、ポツンと間抜け面を晒してるスーツの男こそ、この物語の主人公だ。
名前は黒田玲。
玲は新卒で経理部に配属されたのだが、激務に激務。経理部だから社内の人間からは疎まれ、部内は常にピリピリした空気が漂う。そんな生活が5年も続いた。
あかん。
玲はこのままだと自分が壊れてしまうと直感した。最近ではあらゆる転職サイトに登録し、トイレの個室に入る度に転職サイトを眺めるのが日課となっていた。
また最近ではネット小説というのも知って、会社の昼休みや通勤時間、就寝前といった空いてる時間に読むことも日課となる。特に異世界転移ものが大の好物で……。
「そう!異世界!」
そう玲は叫ぶ。確かにこの展開は玲の愛してやまなかった異世界転移ものの作品によくある冒頭シーンに酷似していた。
「異世界転移ならステータスとか見ることもできるはず……」
そう、作品にもよるが異世界転移ものの主人公は自分のステータスを見ることができる。その能力が自分にもあるのなら……。
「ステータスオープン!」
玲は叫んだ。
……シーン。
ただし何も起こらない。
「恥ずかしい!」
大の男には羞恥心に堪えるものだった。
「そう言う作品じゃないのかな……」
玲はふと、あるワードが頭の中に浮かんでくる。
「オプション……?う゛ぉ!」
頭の中にゲームの画面みたいなものが浮かんできた。譲は思わず変な声を出してしまう。はたから見てると、叫んだり変な声を出したりと純粋にやべー奴である。
そこには自分のステータスと思われる画面が出ていた。
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名前:黒田 玲
年齢:29歳
性別:男
レベル:1
職業:【】
頭装備:
胴装備:リクルートスーツ(上)
腕装備:安物の腕時計
手装備:
腰装備:革のベルト
脚装備:リクルートスーツ(下)
足装備:合皮の靴
能力:【霊体化】
魔法:【影魔法】
称号:【異世界人】
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……なんか悪役っぽいです。なんだよ霊体化って。なんだよ影魔法って。あ…「玲→れい→霊」ってことですか。じゃあ…「黒→黒色→影」ですか。安直なんですがそれは…。
まあステータスが見れたとして、中身がわからないとどうしようもないんですが。玲はそんなことを思いながら、霊体化の文字を見つめていると、霊体化の説明文がでてくる。
「えー」
あまりの準備の良さに若干呆れるが、気を取り戻し説明文を読む。
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霊体化
能力。自身の身体を霊体化させることで物理攻撃が効かなくなる。自身以外の周辺の物を霊体化させることもできる(ただし、生物は霊体化できない)。霊体化中の生物への接触によって生物に精神的ダメージを与える。霊体化には自身の魔力を対価とする。
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なんか説明になってるのか、なってないのか、よくわからんものが出てきた。いや大体はわかるのだが、ファジーな部分が多い。例えば周辺の具体的な範囲とか、精神的ダメージの具体的効果とか、魔力とは何かとか……。まあ答えてくれる人がいないので先に進む。
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影魔法
魔法。自身の身体および周辺の物を自身の影にしまうことができる。自身を影にしまった状態で移動することができる。影に対する物理攻撃は効かない。霊体化には自身の魔力を対価とする。
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これも説明詳しくしろよと思う次第。イメージとしてはアニメとかでたまにある影移動とかそういう感じ?
さて、気になる最後の説明文を見てみよう。
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異世界人
称号。相手の言葉を母国語で理解し、こちらの言葉が相手に伝えたい言葉になるよう翻訳される。なお、文字も同様である。この称号の効果は使用者が意識することで発動する。一部モンスターや動物に対し、この称号の効果は及ばない。
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お、これはいわゆる他言語理解能力・翻訳能力という奴ですか。良いものを手に入れたとホクホクする。
「……いやホクホクしてる場合じゃないな。これからどうしようか。割とサバイバル向きの能力じゃないぞ」
そう、玲は剣術とか炎魔法とかそういった能力を期待していた。玲の頭ではモンスターに遭遇した時、手持ちの魔法でどうやって対処するかがわからなかった。
「魔法なんて使ったことないぞ……ん?」
玲の目の前に緑色の子どもみたいな奴が団体で現れた。鋭そうな牙を持ち、獣の目をしている。
「え……ゴブリン?」
「グギャギャギャ!」
うわ、きも!あとなんかこっち来たし!向こうも玲に気づいたようで、こっちを指差して仲間に何かしらの指示を出している。
その内の一匹が弓を持って玲に向けて弓を引き絞り……!
ヒュッ
「うわっ……!」
矢が玲の頭を掠めるように通り過ぎる。驚いた玲は仰け反ったせいで尻餅をつく。立とうと思っても立てそうにない。そんな中でゴブリンは今度こそ当てんと第二射を放つ。
矢が玲の額に吸い込まれるように向かって来る。
「もう駄目だ……!」
辞世の句も浮かばずに目を瞑った。
……?
いつまでたっても頭の衝撃が来ない。周辺をグギャグギャとゴブリンの声が囲っているようだ。
(ああ……ゴブリン界の天国に行ったのかな……いや、そんな馬鹿な……!)
玲は落ち着きを少し取り戻し、恐る恐る目を開けると真ん前にゴブリンの顔がドアップで映ってきた。
やっぱりゴブリン界の天国だと思って周りを見渡すとゴブリンの様子がおかしい。まるで未知の生物と遭遇したかのような反応に対し、玲は首を傾げながら自分の体を見ると……。
「な、なんじゃこりゃ!!」
体が黒く透けているではないか!これではホラー映画とかでよくある悪霊のような……。
「そうか!霊体化!」
実は先ほどの矢が額をすり抜けたのだ。霊体化能力が何かの拍子に発動したのだと玲は結論付ける。玲は首の皮一枚繋がった状態にホッとする。
「だが、ゴブリンを撃退する方法がないぞ」
玲の懸念はそこだった。今は困惑して囲んでるだけだが、彼らを撃退する方法がないのだ。
「いや、撃退なんてしなくてもこのまま包囲から出れば……!」
そんなことを言ってたら、一匹のゴブリンが突っ込んできた。痺れを切らし、とりあえず襲ってみることにしたらしい。
「嫌!やめて!」
まるで強姦魔に襲われるかのような悲鳴を上げて手でゴブリンを阻止しようとしても、手がゴブリンの体をすり抜け、手だけでなく体すべてをゴブリンがすり抜てしまった。
「あ、そうか。霊体化は物理攻撃無効だった」
周りのゴブリンは普通に襲いかかっても効果がないことを知り仲間内で相談をしていると、体をすり抜けたゴブリンが悲鳴を上げて倒れてしまった。その顔は何か恐ろしいものを見たかのように白目を剥いていた。
「びっくりした……。もしかして霊体化した体をすり抜けたから精神的ダメージを与えて……」
その瞬間、玲の頭に悪い悪魔が降りてきた。そして、ゴブリンの方を向いてニヤリと笑う。ゴブリンも目の前の人間が何をしてくるのかを察し後退りする。
「……やあ、ゴブリンくん!仲良くしようじゃないか!」
「グギャーーーーーーーーーツ!!!」
玲はゴブリン達をスキップしながら追いかける。対してゴブリンは必死になって蜘蛛の子を散らすように逃げる。
(霊体化すると体も軽くなるのか)
そんな呑気なことを考えている玲に対し、ゴブリンは必死に逃げるも、そのうちの一匹を霊体化した手で触れた。
「ギャアアアアアアアァァァァァ……」
可哀想に。ゴブリンは断末魔の叫びを上げて非業な死を遂げた。他のゴブリンは死んだ仲間のことなどお構いなしに逃げ去ってしまった。
「……終わった?よかった〜」
玲は安堵のあまり本日二度目、またしても腰を抜かしてしまった。そして、ゴブリンを倒したあとのステータスが気になって、オプションを開く。
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名前:黒田 玲
年齢:29歳
性別:男
レベル:3
職業:【】
頭装備:
胴装備:リクルートスーツ(上)
腕装備:安物の腕時計
手装備:
腰装備:革のベルト
脚装備:リクルートスーツ(下)
足装備:合皮の靴
能力:【霊体化Lv.2】
魔法:【影魔法Lv.1】
称号:【異世界人】
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……なんか表記が変わっていた。レベルが3になったのはゴブリンを倒したのが原因か?それも気になるが、急に出てきた霊体化の横のレベル表記も気になる。いったい何が原因で上がったのか?
「ゴブリンを倒したのが原因か……単に魔法を使ったから上がったのか……そもそも上がったらどういう効果が出んの?」
そんなふうに考察してると、さっきのゴブリンが遠くからこちらを見つめているのに気づく。
「あいつらしつこいな。また霊体化で……あ。影魔法を使ってみるか」
さっきの霊体化は自分が矢をなんとかしたいと思って発動した。能力と魔法は原理が違うのかもしれないが、もしかしたら自分の意識・思いで発動するのではないか?そのように仮説を立て、心の中で自分の影に入りたいと強く意識する。
ポワン
プールに落ちたような感覚がした。
(み、見えない!)
影魔法は成功したようだが、周りの様子がわからない。
(何とか外は見れないのか…お?)
外を見たいと念じると、水の中から外の様子を潜望鏡で見るかのように視界が変わった。遠くから様子を見ていたゴブリンが驚いてる様子も見ることができた。
ゴブリン達は人間がどこに行ったのかを探すために近づいてくる。
(外から見たら自分、どう見えてんだろ?)
どうやらゴブリンはこちらの様子に気付いてないらしい。自分の視界にゴブリンの足がドアップに映ったが、ゴブリン側に気づいた様子はない。ゴブリンは玲を完全に見失ったようで、仲間の死体を掴むとそのままどこかに消えていった。
(……行ったか)
どうやら本当に立ち去ったようだ。玲は影から出ると自分の体に異常がないか調べる。
「特に問題はない……そうだ、ステータスで影魔法を確認しとこう」
影魔法を発動させるだけでレベルが上がるのか確認するためオプションを開く。
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名前:黒田 玲
年齢:29歳
性別:男
レベル:3
職業:【】
頭装備:
胴装備:リクルートスーツ(上)
腕装備:安物の腕時計
手装備:
腰装備:革のベルト
脚装備:リクルートスーツ(下)
足装備:合皮の靴
能力:【霊体化Lv.2】
魔法:【影魔法Lv.2】
称号:【異世界人】
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どうやら影魔法は発動させるだけでレベルが上がるようだ。この様子だと霊体化能力も発動させるだけでレベルが上がるのかもしれない。
こうやってステータスを見てると、いつの間にか疲れがどっと押し寄せてきた。
「フーーゥ。これが異世界か」
玲はゴブリンの襲撃を返り討ちにしたというテンプレな展開に一種の満足感にひたっていたが、同時にある種の恐怖感もおそっていた。
「あれ、下手したら死んでたのかな……いや、死んでたんだ……」
ゲームのように生き返ったりしないだろうし、仮にできたとしても考えられない代償を支払うことになるかもしれない。玲はこの瞬間、この世界を現実のものとして捉え直していた。
「元の世界って、そう考えると安全だったんだ……」
玲は元の世界のことを思い返す。今回のように誰かが襲われていたら警察がやってきただろう。そして傷を負わされたら救急車で運んでくれたに違いない。病院で治療を受け、保険の力で金もかけずに退院して、また通勤ラッシュに揉まれながら職場に行って、パソコンの電源をつけて……。
「違う」
玲はそう呟いている自分に驚く。同時に違うと言った自分に納得する。最初は今の職場から逃げたいという一心で転職サイトを開いていた。それが徐々にマンネリ化した毎日から抜け出したいという思いに変わっていたのだ。異世界ものの小説を読み出したのもそれが原因だった。
「今回異世界転移した原因はわからないけど、一種の転職みたいなもんじゃないか!」
玲は元の安全な世界に戻りたいという気持ちもあった。だが、何も知らないで危ないからという理由でこの世界を疎むのも違うような気がした。
「もう少しこの世界を見てみよう。話はそれからだ!」
玲は一つの壁を乗り越え、一歩を踏み出した。