第5話
※残酷な描写があります
その日のことを、アデライーデは生涯忘れないだろう。
彼女の生涯で一番の幸福と、一番の絶望が同時にやってきたその日のことを。
全てが狂ったのは、彼女の9つの誕生日の夜のことだった。
はしゃぎ回る娘に、普段の就寝時間を過ぎてもだいぶ譲歩して。それでも、もう眠る時間ですよと母に連れられた寝室。
寝台の中で、彼女は今日という素晴らしい日のことを反芻していた。
父が帰ってきてからというもの、幸福な夜ばかりだと噛み締めて。
大好きな家族と、家族のような爺やと婆やと、優しい親戚縁者と。
素敵なプレゼントも沢山もらえた。もちろんお父様のくれたハープも素敵。でもお母様がくれた銀の手鏡も、兄様がくれたレースのハンカチも素敵。
ヨーゼフ叔父様がくれたドレスも、お祖父様がくれたぬいぐるみも、ミシェル叔母様がくれた刺繍の靴も、従兄弟達がくれたブローチも刺繍の本も香水も、みんなみんなとっても素敵!
明日から素敵なものばかりに囲まれて、どうしよう。
何を一番に使おうかな。
お父様のハープを弾こうか、お母様のくれた銀の手鏡を使って髪を梳かそうか。兄様の前でハンカチを使ったら喜んでくれるかしら。ブローチと香水は着替えたらすぐに付けてしまおう。
おじ様がくれたドレスは晴れ着だけど、少しくらいつけてみてもいいかしら。
それとも、刺繍を始めてみようか。
それとも、この前お父様が下さった杖で魔法の練習をしようかな。
アデライーデには、朝になったらやりたいことが沢山あった。
早く朝になればいい。でも何からやっていいのか決められない。
枕元に据えた祖父のプレゼントのクマのぬいぐるみに抱きつく。
「私が10人くらいいたらいいんだわ」
そう呟きながら目を閉じて。
ーー幸せな眠りは、突如として響いた轟音に破られた。
飛び起きたアデライーデは、咄嗟に枕元に置いていた杖を手に取った。
断続的に鳴り響く轟音、破裂音。真っ暗なはずの窓の外が明るい。
ーー杖を握りしめて、そろそろと扉へと躙り寄る。
カタカタと歯が神合わされる音がうるさかった。
ドアノブにかけた指が、汗と震えで何度も滑り落ちる。
ーー落ち着いて、落ち着きなさい、アデライーデ・フォン・グライム。あなたは騎士ローベルトの娘なの。こんなことに怯えちゃいけないのよ。
そう自分に言い聞かせながら、やっとの思いで自室のドアを開いた。
わずかに焦げた匂いの漂う廊下にまろび出て。
「アデル、起きてきたのか!」
直ぐに父の逞しい手に抱かれた。
「お父様…」
安堵で泣きたくなるのを、唇を噛んで抑えこむ。
今泣いて仕舞えば、非常時の中足手纏いになってしまう。それだけは、避けなければいけなかった。
「アデル、あなた!」
「父様!」
杖を手にした母と、父から贈られたばかりの騎士剣を手にしたベルトルトが2人して駆け寄ってきた。
「よし、全員揃ったな」
一先ず家族全員が無事であったことに、ローベルトはほっと息を吐き。
「本当なら籠城したいところだけど、どうやら相手は火を使うらしい。
屋敷に火を放たれたらおしまいだ。一先ず外に出て、ジャンとアンナと合流をーー」
ちくり、と。鋭い痛みが、父の胸に抱きつくアデライーデの手を刺した。
その痛みに導かれるように、見つけたそれが何なのか。
アデライーデには理解できなかった。
どうして父の胸から銀色の鏃が突き出ているのか。
どうして母と兄は悲痛な顔で父に縋り付いているのか。
どうして。
蒼白になり、口から一筋の血を流した父は目を見開いて。
「離れろ!」
怒号とともに、少女は父の手から投げ出されたーー否。
父に放り投げられたのだ。そう気付いた瞬間。
耳をつんざくような轟音、そして続いた爆風に押し流されるように彼女は廊下に何度か叩きつけられた。
アデライーデは必死に身をよじった。
ーー体が動かない。目が開かない。
ーーどうして。お父様とお母様と、兄様の所に行かなきゃ行けないの。
ーーお願いだから動いて!動いてよ!!
「流石は加護持ちの騎士様。まぁだ生きてらっしゃるなんて!それに、お気付きになった様ですねぇ」
この世の全てを馬鹿にしたような声だった。
「き…さま、な……研究、を…」
「なぜ?何故ですって?
嫌だなぁ騎士様、分かってることを聞かないでくださいよ!
そんな無駄なことより、ほらほらしなけりゃいけないことが他にあるんじゃないですか?
時は金なり!時間は貴重ですよー?特に、今の騎士様にとっては!」
悪意を形にした様な声だった。
「だって、ねぇ、ほら。
今生の別れを告げる時間も、そんなに残ってないんですから!」
自分の体と思えないほど、重く鈍い四肢を必死に動かして。
アデライーデが見たのは。
みて、しまったのは。
「…………あ、」
見慣れた廊下が、真っ赤に燃えていた。
その、まだ炎が侵食していない空間にあったのは。
ーー違う。違う違う違う。
だってかお母様の腕はあんなに白くて、髪の毛だって長くて綺麗で。兄様だって最近少し筋肉がついてきたんだって嬉しそうにおっしゃってて、お父様は素敵な栗色の髪とアデルのことをいつも軽々と抱き上げてくださる腕、が。
ーーだから違うの。お母様の肌があんなに黒く焦げているのは嘘なの。髪の毛がざんばらに乱れているのだって嘘なの。
兄様の身体が半分に別れてしまっているのも嘘なの。
お父様が、たくさん血を流して。血塗れの顔で倒れているのだって、
全部、全部嘘なはずなのに。
痛む身体が、悲痛に叫ぶ心が、それが真実なのだと否応無く突きつける。
だって、アデライーデは痛みなんて知らないから。
人が焼けた匂いも、血と臓物の臭みも。
錆びた血の味も。
心がバラバラになりそうな絶望も。
知らないものを幻覚として作り出すことはできないから。だからこれは残酷な現実なのだ。
「ん?おや、生きていたのですね」
足早に近付いてきた男の姿を見て。何かがカチリ、と嵌った気がした。
あの日、ベアトリーチェの姿を見た日に噛み合いそうだった何かの歯車が。
そうだ、この男はハインツ。ボイヤー男爵家の妾腹の子。加護持ちとして生まれ落ちたことで正妻に疎まれ、虐待とも言える訓練の果てに暗殺や調略、ありとあらゆる後ろ暗い稼業に従事することになった男。
屍肉あさりの蔑称を受けた彼は主人公にーー。
ちがう、そんなことはどうでもいい。今はどうでもいいんだ、こんな男のことなんて。
ーーお父様に、お父様のところに!お父様はまだ生きてる、だから間に合うかもしれない。
今なら助けられるかもしれないんだから!
流れ込んでくる洪水の様な知識に抗う。
前世の記憶も、原作知識も今はどうでもいい。今大事なことは、父の側へとーー。
伸ばした腕が、硬い皮手袋に包まれた手に握られた。そのまま、腕一本を起点に吊り上げられる。
「っく、放しなさい!無礼者!」
アデライーデの全く自身の立場をわきまえていないとしか思えない言葉に、男ーーハインツは目を丸くした。
「うっわぁ、君この状況でそーゆーこと言っちゃいます?
って、暴れないで下さいよ、危ないなぁ。お父様のところに行きたいんでしょ?」
アデライーデを吊り下げたまま、男は横たわるローベルトに歩み寄っていく。
「ほーら、愛しい愛しいお父ですよー?」
「……あ、…る」
ローベルトの姿は、悲惨だった。熱で白く濁った瞳、縦に割けた口元には、血にまみれた白い歯が散乱している。
そして、胸から腹まで大穴が開いていた。
もう助からない。
否応無くその悲惨さを突きつけられて。
「お父様!」
それでも、大好きな父に必死に手を伸ばした。
「……に、ぇろ………る」
瀕死の重傷、きっと気が狂うほどの激痛の中でも自分を案じる父に、アデライーデは泣きながら笑った。
「お父様、大丈夫です!アデルはちゃんと逃げるから!安全なところまで逃げて、そしたら…お父様も、お母様も兄様も!みんな助けに来ますから!」
兄と母の名を、もはや声も出ないのだろう父の唇が形作る。
「大丈夫です!お二人とも血がいっぱい出てるけど、まだきっと助かるわ!」
館を襲い、父に瀕死の重傷を負わせ母と兄の命を奪った男に腕一本で吊り下げられながら。
アデライーデは嘘をついた。
それくらいしか、もう自分にできることはないと理解していたから。
母と兄はもういない。父もきっと助からない。
せめて、せめて愛するものの死を知らずに、少しでも安らかにーー。
最後の息を吐き出す瞬間。
少しだけ、ローベルトの顔が安らいだものになった気がした。
気のせいかもしれないけど、アデライーデはそれで良かった。
この瞬間、父の心を少しでも軽くできたのなら、己に生まれてきた意味はあったのだとそう思えたから。
「いやぁ、健気ですねぇ」
その感慨に、汚物を擦りつける様な声。アデライーデは己を吊り下げる男を睨みつけた。
「放しなさいと言っているでしょう!」
「やぁだ!子供、特に女の子はよく売れるんですよ。逃したりしたらボスにボクが怒られてしまいます。怖いなー怖いなー!」
特に貴族なんて高値がつくんだから!弾んだ声でそう告げて。
「あ、そうそう」
指先に生み出した炎が、渦を巻いて人の頭ほどの大きさに育っていく。
「お掃除は万全にっと!」
炎が、アデライーデが育った館を、そして横たわる命亡き家族を飲み込んでいく。
アデライーデはその光景を瞬きもせずに見つめた。全てをその瞳に刻み付けるように。
ベアトリーチェが9つ。原作の約20年前。
野盗に滅ぼされた辺境の村。野盗と結んだ隣国の陰謀を暴いたことで、フォレンヒスベルク伯爵の軍部での影響力は拡大した。隣国と緊張が続く中軍事改革は急務となりーーそれが原作主人公が登場後、吹き荒ぶ戦乱を勝ち抜けた一因。
そして、その軍事改革のために自身の父が起こした自作自演の野盗騒ぎの真相を暴くこととなり、傷ついた攻略対象の1人であるフォレンヒスベルク伯爵の跡取りを慰めるのはーー彼との恋愛イベントでもあった。
ああ、そういうことだったのかと。心に落ちてきた納得。
ーー所詮私は舞台にも上がれない人間。ヒロインと攻略対象の距離を縮めるための舞台装置として滅ぼされた村の、言及すらされない住人。
愛する両親を、思い出を飲み込んで燃え盛る炎。それに照らされて、アデライーデは凄艶と微笑んだ。
ーー私が、お父様とお母様が、兄様が……領民のみんなが。
主人公の恋愛に悲劇を添えるためだけの舞台装置だというならば。
ーーそんなもの、受け入れられるものか。
ーーお父様も、お母様も、兄様もみんなも。お前たちのためのちょっとしたスパイスだなんて。
ーー絶対認めない。
ーーヒロインは愛する人と結ばれて、この国は大陸の盟主となって。そんな、めでたしめでたしで終わる結末のための踏み台だなんて、絶対にーー全部全部壊してやる。
この国も、未来も、めでたしめでたしのハッピーエンドも。
その全てを、壊してやる。
「さぁさぁお嬢様、行きますよー?ってあれ?」
くったりと、力が抜けて目を瞑る戦利品を見る。
ーー深夜の襲撃、家族の凄惨な死。
むしろここまで意識を保てていたのが驚きだろう。
「ま、このままの方が面倒がないですよねぇ」
少女を荷物の様に抱え、男は炎に包まれた村を歩き出す。
ーー悲鳴と、怒声。哀願。
ところどころ、金属の触れ合う音。
金目のものを見つけたらしい男が、血に塗れた剣を掲げ笑う。
そこは、この世の地獄だった。
読んでくださってありがとうございますー!
評価、感想などお待ちしてますー!