第2話
「お父様お父様、城壁が見えてきたわ!」
「うん?どれどれ。ああ本当だ、よく見つけたねぇ」
父と娘が、馬車の窓に顔を押し付けるようにして進行方向を見つめている。
愛娘を膝に乗せて笑み崩れている夫に、向かい側に座る妻はどうしようもないともう何度目とも知れないため息を吐いた。
お行儀よく座っていらっしゃいと言ったところで、いいじゃないかと夫が庇うので埒があかない。
もっとも、自身も初めて領都に赴く時は興奮しきりだったのを覚えているので半ば仕方がないと思ってもいるが。
「ねぇ、兄様は領都に行ったことがおありなんでしょ?」
喜びを隠しきれない深緑の瞳に、ベルトルトはそうだねと頷く。
「僕も、武の祝いの日と、この前の入学選別のための2回だけだけどね」
それでも、とても賑やかで、その人の多さとそこから発せられる活気に気圧されそうだったことは覚えていた。
「流石は、陛下の覚えめでたいフォレンヒスベルク伯爵閣下のお膝元なだけはあるよ」
なんせ、目抜き通りでほんの僅かの間にすれ違う人の人数が優に領民の数を凌駕してしまうのだから。
「アデルは初めてだから、少し驚いてしまうかもしれないけど……気分が悪くなったら直ぐに言うんだよ」
心配そうな兄に、はぁいと素直な返事。
父が語る領都や王都の素晴らしさ、母の注意事項、そして祭典の華やかさに心を馳せるうちに、グライム一家の乗る馬車は領都大城壁の正門へとたどり着いた。
騎士の紋章と、青龍騎士団の紋の刻まれた手形を提示し、一般の馬車が順番待ちをするのを尻目に領都へと入った。
「う、わぁ…!」
城門をくぐり抜けた瞬間、アデライーデの瞳が見開かれた。
ーー白。
街の印象は、その一言に尽きた。
馬車が走る石畳も、その両脇に立ち並ぶ3階建、4階建も珍しくはない家屋や店舗も。日の輝きに誇らしく反射する白で形作られていた。
「ごらん、これが我がフォレンヒスベルク伯爵領の誇る白亜の宝石だよ」
初代フォレンヒスベルク伯爵が賜った時、この地は辺境の寒村に過ぎなかった。
彼はその地の住人が小銭稼ぎに細工をしている石の白さときめ細かさに目を付ける。石材として売り出すためにその美しさを誇示し付加価値をつけようと、自身の城や領都の建築物にその石を使うことを命じた。
今や王宮の建材にも使われるようになったその石は、初代伯爵を称えてヒスベルク白石と呼ばれている。
そして、彼と彼の子孫が作り上げたこの白の街はミュレンゼシア王国の誇る景勝地ーー白の宝石とあだ名されるまでになったのだ。
何もない荒地を、観光と石細工、石材業で富ませた伯爵家は領民からの信望も篤い。
「少し休んだら神殿にご挨拶に行こうか」
領都の一角。それなりの身分のものしか泊まれない宿屋の一室に彼らの姿はあった。
荷物と旅装を解いて、訪問着に着替えて、使者を走らせて。
再び街の美景に目を輝かせるアデライーデを連れて、一家は春の女神の大神殿へ足を運んだ。
「グライム家のアデライーデ殿ですな?」
穏やかそうな神官が、彼らの到着を出迎えた。
「はい!」
元気に返事をした彼女に、満足そうに頷き。
「わたくし、舞い手の皆様の世話役を任せられましたカルロと申します」
よろしくお願いしますねと、身を屈めて告げた彼にこちらこそと淑女の礼を返す。
その後ろで、同じくよろしくお願いしますと告げるローベルトとルイーゼに頷き、カルロはアデライーデの手を取って大神殿の奥へと歩き出した。
知らない場所、知らない人。そんな中でも物怖じする様子もない娘に安堵の息を漏らす。
「さぁ、あの子が帰ってくるまでに、お前の入学に必要なものも買い揃えなくてはな」
グライム家にとって、この領都行きはアデライーデの祝祭だけではなく、この夏に幼年学校に入学する嫡男のための準備を整えるためのものでもあった。
「まずはマントの採寸から行きましょうか?」
長男の進学、長女の祝い、そして一家の主人の昇進ーーまるで彼らの前途を祝福するかのように、街は美しく輝いていた。
ーーカルロによって導かれたのは大神殿内にいくつかある大広間の1つ。普段は高位神官の会合に使われている部屋だった。そこにはすでに何人かのアデライーデと同じ年の舞い手が集められていた。
「まずは採寸から行いましょうね」
「分かりましたわ」
カルロが部屋の隅ゆ控えていた巫女の1人へと合図をする。彼女について、脇の小部屋へと入り。
「さぁアデライーデ様、お手をお上げくださいな」
手を上げて、下げて、右を向いて左を向いて。
「これなら、基本からあまり手直しせずに済みそうですね」
うんうん、と頷く彼女に差し出された練習着ーーとはいえ美しい絹地に隙間なく刺繍が施された衣装ーーを身に纏い、再び広間に戻ったとのと、その少女が入ってきたのはほぼ同時だった。
「フォレンヒスベルク伯爵令嬢、ベアトリーチェ様でございます」
美しい金の髪、青い瞳のまさに妖精のような少女は、おどおどと部屋の中を見回し、そしてその視線を床に落とした。
ーーベアトリーチェ・フォン・フォレンヒスベルク。
自信のなさそうな、その主家の少女を見てーーぐらりと、アデライーデの視界が歪む。
強烈な既視感と、違和感。
まるで世界が壊れるような、世界がひっくり返るような。何かを知っている、とても大事な何かをーーだがそれを思い出せば二度と幸福な世界には戻れまい。
そんな警告じみた囁きが、どこかから聞こえるようだった。
そんな、切迫とも絶望ともつかない想いは。
「アデライーデ様?どうかなさいました?」
巫女の声によって霧散する。
「ーーいいえ、なんでもありませんわ」
再びベアトリーチェを見ても、先ほどのような思いは起こらなかった。
一体なんだったんだろう、そんな疑問すら始まった練習に押し流されるように消えていった。
ーーどうしてあそこで思い出さなかったのか。
自分が生涯、この日のことを悔やむなどと知る由も無いまま。
「舞の練習はどうだった?」
たくさんの荷物を両手に抱えて迎えにきてくれた両親と兄に、少し考えてアデライーデは答えた。
「うまく踊れたわ!衣装が出来上がるのがとっても楽しみ!ただーー」
「どうかしたの?アデル」
心配そうな母の瞳。 アデライーデはなんでもないと首を振った。
「ただ、本番で緊張しないといいなって思っただけですもの」
ーーいくら幼くとも、彼女も騎士の娘だった。春の巫女姫である主家の少女の舞が不安だと言うのは不敬だと、それくらいは分かっていたから。
そうして、領都での日々は慌ただしく過ぎていった。
アデライーデは舞い手の練習に、ベルトルトは入学準備のため、そして両親は子供の付き添いに社交にと。
瞬く間に半月が流れてーー春の女神の祭典が始まる。
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