6 再会の兆し
あれから、どれくらいの時間が経ったのかは、わかりません。ただひとつ言えることは、レイが十七歳であるということだけです。
今ではすっかり針仕事も板についたレイは、過去の存在を忘れるがごとく仕事に熱中していました。昼も夜も休日も引きこもって仕事をしているレイを、社長の奥さんは心配しました。
「あなたは年頃の娘なのだから、たまには着飾ってパーティにでも出かけたら。もったいないわ」
しかしレイは、まったく耳を貸しませんでした。
あるクリスマスイブの日、奥さんはレイに隣町までおつかいを頼みました。これは仕事なので、レイは素直に出かけました。美しいショーウインドウを掲げた店、着飾った男女、大きなツリー……レイはそれらには目もくれませんでした。
しかし、帰り道に見かけたある工房の前で、レイは思わず足を止めてしまいました。壁には、ぼろぼろの木の板に「時計修理」とペンキで書かれたみすぼらしい看板がかかっていました。
レイは、自分の腕時計に目を落としました。形見として身にはつけているものの、あの日森に行ってから時計の針はすっかり狂い、使い物にならなくなっていたのです。レイは勇気を出して、中へ入りました。
「すみません、これを直すことはできますか」
中にいたのは、つるっぱげのマネキンに綿を無造作にのせたような、ひどい髪型のおじいさんでした。おじいさんは何やら小さな機械――時計でしょうか――をドライバーでいじくるのをやめてこちらを振り返り、物珍しそうに腕時計を眺めました。
「こいつははじめて見た。面白い形だなあ」
「針がおかしいんです。直せませんか」
「ふむ、まあ、調べてみよう」
おじいさんが腕時計を受け取ったちょうどそのとき、後ろから声がしました。
「おうい、じいさん。うちの時計は直ったかね」
声の主は、スーツを着た男性でした。年は四十といったところでしょうか。にこにこと陽気な笑みを浮かべています。
「はいよ。このぼろい懐中時計だね。見た目は悪いが、出来は悪くない」
おじいさんは、塗装のはげかけた銀の懐中時計を差し出しました。男性は言いました。
「いいんだよ。ぼろいから子供にやったんだ。もう俺のじゃない」
「そうかい。しかし、その時計の文字盤はなかなかに価値があるよ。あんなに細かい模様を刃物で刻み付けてあるんだからな」
文字盤、という言葉に、レイは反応しました。男性は答えました。
「ああ、あの王冠だろ? 子供が勝手にやったんだ」
「見せてください」
突然口を挟んできたレイに、二人は驚いたようでした。
「じいさん、このお嬢さんは誰だい」
「今来た客だ。見ろ、この時計。面白いだろう」
「これは珍しい。初めて見たよ。時計コレクターの血が騒ぐね」
二人はすぐに自分たちの世界に入ってしまいましたが、レイはひるむことなくもう一度言いました。
「懐中時計を見せてください!」
おじいさんと男性は顔を見合わせ、そして時計を渡してくれました。
「なんだい、うちの時計がそんなに気になるのか?」
受け取った時計は見た目が汚く、中も普通でした。ただ、文字盤に繊細に刻み込まれた王冠には、見覚えがありました。それは、かつて、レイの時計に刻まれていたものでした。レイは、なりふりかまわず、男性を問い詰めました。
「これは、どこで手に入れたんですか」
「ここのじいさんが作ったやつを昔買ったんだ」
「この王冠は?」
「さあ。子供に譲る前にはなかった。子供が勝手にやったんだ」
「その子供は誰ですか」
「義姉の……いや、一応俺の子ということになってる」
「その子の名前は?」
男性はたじろぎながらも、答えました。
「そんなことが気になるのか? これをやったのはギル……いや、『ハロルド』だ」
レイの手は、懐中時計を取り落していました。鈍い音が工房に響き渡りました。しかし、おじいさんと男性は時計よりもレイの顔を見ていました。
「お嬢さん、どうしたんだ?」
レイの両目からは、大粒の滴があふれ出し、幾筋も幾筋も頬を伝っていました。
言葉をなくしている二人に、レイは問いかけました。
「『ハロルド』が……『ハロルド』が、王冠を持ってきたの?」
「お嬢さん、何かあったのかい。さっきからずっと様子が変だ」
「ハロルドはどこにいますか?」
「あいつに、何か用事でも? ……じいさん、お嬢さんの時計、取ってくれ。家まで送っていく」
男性は、レイの背中を押して工房を後にしました。いつの間にか、日はとっぷりと暮れていました。
レイは、男性に自分の生い立ちを語りました。クロックのことだけは避けて、お母さんと弟を探していたことだけを伝えました。男性――彼はアーロンといいました――は、黙って話を聞いていましたが、レイがすべてを吐き出して黙り込むと、こう言いました。
「君の母親の名はアレクサンドラ·ブラウンだったりしないかね」
「ええ、結婚前はそうだと聞きました。ご存知ですの?」
「君の母に、妹がいたりしなかったかね」
「いたはずです。会いに行こうとしていましたから」
「なるほど……謎が解けた!」
アーロンは一人、手を打って納得しました。
「この、一年で最も忙しい時期に聞くのも悪いが、今、時間はあるかい?」
「まだ少し余裕はあります。でも汽車の時間もあるし、遅くなると、奥様が心配するかもしれません」
「じゃあ、俺が……私が連絡しておいてあげよう。なんなら送ってあげてもいい。よかったら、うちに来てくれないか」
「どうして?」
レイが露骨に嫌な顔をしたせいで、アーロンは少し困ったようでした。
「変な意味じゃないよ。君に、会ってもらいたい人物がいる」
さすがのレイも、これには戸惑いました。いくら彼が悪い人に見えないとはいえ、素直に喜べなるお誘いではありません。
しかし、気の弱いレイはどうしても断りきれず、最後は彼についていくことになりました。
アーロンの家は繁華街からそう遠くない場所にありました。
出迎えてくれたのは、彼の妻であろう着飾った女性でした。
「シンシア、彼女はレイチェルだ」
「『レイチェル』?」
シンシアは、何かひっかかる、といった様子でレイを眺めました。レイも、シンシアを観察しました。青みがかかったゆったりとした黒髪と、ぱっちりとした丸い大きな目は、レイのかつての母サンディを思い出させました。
「顔を見たとき、君に似ているような気がしてね。まあ、彼女の話を聞いてごらんよ! 僕の推理が正しければ、この出会いは聖夜の奇跡となるはずだ」
シンシアは、レイを食卓の椅子に座らせ、レイの話をひと通り聞き終えると、静かに切り出しました。
私の姉は、アレクサンドラというの。彼女は、森を抜けた田舎の土地へ嫁いでいったのだけれど、十二年前に軍に連行されてきてね。私と私の母が迎えにいったの。あのときは大変だった。まだ言葉も話せない赤ん坊も連れていたし……姉さんは言っていたわ……レイチェルという娘がいるって。でも、どうして会えばいいのかわからないって。まあ、そのあとに熱を出して寝込んじゃって、それ以降はそんな話もしなくなったけれど」
レイは、しばし考えました。この人は何を言おうとしているのでしょう? このシンシアのお姉さんが、レイの探し求めていた人なのでしょうか。
「あなた、姉さんそっくり。ハロルドのことも知っていたのね。もしかしなくても、あなたは」
シンシアはアーロンをちらりと盗み見てから、レイの耳元に口をよせました。
「時計の国の王子様の娘でしょう。あの、おとぎの国のような場所、今でも忘れられないわ」
これまで胸につかえていたものが、パリンと割れたような気がしました。レイは、穴があくほどシンシアの目を見つめました。シンシアは、レイに一枚の写真を見せました。そこには、シンシアとアーロン、アーロンに目つきがそっくりな癖毛の男の子、そしてシンシアよりもやや老けた黒髪の女性が写っていました。彼らは程度の差はあれど、皆しっとりとした黒髪を持っていました。ただ一人、シンシアの側で無表情のままこちらを見つめている少年だけは、ややくすんだアッシュブロンドの髪をしていました。シンシアは彼を指して言いました。
「この子がハロルドよ。本当は姉の子で、お父さん似みたいなの。残念ながら、今はちょっと出かけているわ」
レイのお父さんも、この髪の色をしていました。レイは、蚊の鳴くような声で言いました。
「ハロルドは、私のことを、覚えていますか?」
「いいえ。それどころか彼は、私とアーロンを親だと思ってい
るわ。でも今はそれでいいの」
即座に否定され、レイは何も言えませんでした。そこへ、
「シンシア……義姉さんと子どもたちが帰ってきたぞ。どうす
る?」
シンシアはばっと立ち上がりました。
「子どもたちは二階へあげて。姉さんだけ呼ぶから」
そして、レイに言いました。
「姉さんと……お母さんと会う気はある?」
「え」
「ちょうど帰ってきたみたい。悪いけれど、ハロルドは……今
はまだその時期ではないと思うから。後で顔だけ見てあげて」
レイは、心の準備もできないままに、承諾しました。
「シンシア? 誰か来ているの?」
後ろから懐かしい声が聞こえました。レイの心臓は跳ね上がりました。先にシンシアが戸口へ行きました。
「姉さん。レイチェルを覚えている? あなたが昔話していた子よ」
レイは後ろを振り返ることもできないまま、戸口に背を向けた状態でその会話を聞きました。た状態でその会話を聞きました。
やがて、ぱたぱたという足音が聞こえたかと思うと、レイの前に、赤いベレー帽をかぶり、エプロンをつけた女性が現れました。
顔こそ少し老けているものの、それは、レイが夢にみるほどよく覚えていた母の顔と同じでした。被っていた帽子にも見覚えがありました。彼女は目をまるくしてレイと、彼女を追って近づいてきたシンシアを交互に見ました。
「あなたは、誰かしら」
「姉さん、あなた昔、言っていたわよね。レイチェルという娘がいるって……この子よ。間違いなくこの娘こがあなたの」
「あら私、そんなこと言ったかしら?」
女性はシンシアの話を遮って、レイに話しかけました。
「こんにちは。初めまして。私に何かご用かしら」
レイは、困り果ててしまいました。人生でこんなに困ったことはありませんでした。ここまで来て、人違いだったなんて言われたらたまったものではありません。とりあえず、こう答えました。
「違うんです、その、私は今母を探しているのですが、あなたと母が似ているという話を聞いたので、ちょっとお邪魔しただけなんです」
「そう! そうだったの。でも、私に娘はいないのよ」
「えっ!」
「なんですって?」
レイとシンシアは同時に叫びました。
「忘れたとは言わせないわよ、姉さん。昔私たちに散々言っていたじゃない。娘と夫が心配だって……」
「知らないわ」
不思議そうに首を傾げて、女性は答えました。レイは、自信をなくしつつも、女性に言いました。
「私の母の結婚前の本名は、アレクサンドラ· ヘンリエッタ·スタントン·ブラウンといいます。故郷に残っていましたから間違いありません」
「まあ、びっくり。私の名前だわ!」
彼女はサンディと呼ばれていて」
「それも同じ!」
心から、驚いている様子のサンディに、レイはハロルドの話もしました。サンディはハロルドを実子だと言い、レイはこの人物こそが母だと確信しました。
「私は、あなたが私の母ではないかと思うんです。本当に心当たりはありませんか?」
サンディは首をひねりました。
「でも、娘なんていないのよ」
「それでは、私の父のことは? あなたの結婚相手……ハルの父親の……」
ここまで言えば、話が通じるだろう。レイはそう思っていました。しかし、返ってきたのは衝撃的な答えでした。
「ああ、それはいろんな人に聞かれるの。でも私、夫のことはさっぱり覚えていないのよね」
「は?」
「姉さん!?」
レイは、これほど理解できない言葉を聞いたのは初めましてでした。この世のどこに、夫を覚えていない妻がいるでしょうか。
心底呆れ果てたレイと、サンディの間にシンシアが割って入りました。
「何を言っているの、あなたの結婚式には私もいたわ。あの王子……かどうかはよく知らないけれど、ちょっと変わった旦那さん、まさか本当に覚えていないの?」
「覚えていないわ。私、熱が引いてからハルに再会したときよりも前の事が、あまりよくわからないの」
「そんな話、今聞いたわ!」
「今、言ったのだもの」
わめきたてるシンシアと、サンディの会話を聞いて、レイはなんとなく事の次第がわかりました。
「もう、いいです」
レイはすっと立ち上がりました。
「レイチェル、違うのよ。私は覚えているわ、確かに……」
「覚えていなければ、会う意味もありません。今日はせっかくのお祝いの夜ですし、そろそろ失礼します」
シンシアが呼び止めるのも聞かずに、レイは外へと飛び出し、そのはま駅へ向かって走り出しました。
アールもティムもイザドラもお父さんもフローも、クロックを知る人は皆いなくなっていました。
そして、お母さんとハルは、クロックのことを覚えていませんでした。
レイと故郷で過ごした日々を知っている人は、もうどこにもいませんでした。
「おおい待て、送ってやるよ。ジェームズの家なら知っている」
後ろから、アーロンが追いかけてきました。レイは、できることならこのまま彼からも遠ざかりたかったのですが、社長が心配していたという話を聞いて、しかたなく彼に従いました。