4 めまぐるしい変化
それからさらに二年後、レイは十一歳になりました。
ある日の週末、ふと引き出しを開けて腕時計を取り出したレイは、ある異変に気がつきました。
もともと、レイの腕時計は文字盤まで金色で、そこには大きく王冠が刻まれていました。ところが今日、その腕時計の色はかびが生えたように汚い緑色をしていました。おまけに、王冠が彫られていた部分がつるつるになっているのです。刃物の跡はまるでありません。
レイは血相を変えて部屋を飛び出しました。
「イザドラ! 時計が、お父様の時計から王冠が消えているわ!」
廊下を掃除していたイザドラは、その時計を一目見ると表情を変えました。レイとは真逆の、喜びの表情でした。
「まあ……! それじゃあ、王子があの国にいらっしゃったに違いない。時計をよくみてごらん。きっとどこかに、メッセージが刻まれているはずだよ」
言われたとおりに見てみると、文字盤の裏側に、細かい文字が刻まれていました。そこにはこうありました。
第十七代クロック国王第一子、第十八代クロック国王に、使用を許可する。
それは、過去にレイが見たメッセージとよく似ていました。
「十八代ですって? そんなこと、あるはずがない」
「いいえ。レイ、あんたは今いくつだった?」
「十一よ。それがどうかしたの?」
「あなたの弟は四つ年下……ちょうど、七つ。七つといえば、歴代の王子が、はじめて国外に出ることを許された年。きっと、王子は、なんらかの形で、国に来ることができたのね。そして、アールから国王の証を受け取ったのでしょう。だから、そちらの時計からは王の力が消えて、ただの時計になってしまった」
「なんですって!」
レイは、驚きのあまり、時計を落っことしそうになりました。イザドラは祈るように手を組んで言いました。
「ハロルド様はご存命なんだね。ああ、よかった! アールが居場所を聞いておいてくれるといいのだけれどねえ。どんなに逞しくおなりかしら」
心の底から、イザドラは喜んでいるようでした。でも、レイは、あまりそれを喜べませんでした。
――ハルがクロックに来たなんて。時計も、お父様の力も、すべてハルが持って行ったしまっただなんて。それじゃあ、私は? お父様の家族ではないということ?
レイは唇を引き結んだまま、くすんだ緑色の腕時計をぎゅっと握りしめました。
イザドラは、すぐにアールに手紙を書きました。この手紙を封筒に入れてからイザドラがサインをすると、封筒は粉々になって消えてしまいました。それがどういう仕組みなのかはわかりませんでしたが、ともかく、手紙はアールのもとへ行ったようでした。
「こちらから送るのはかまわないのだけれど、向こうから返信するのは大変なんだよ。あの歩きづらい森を何時間も歩き続けて、外に出ないといけないんだからね。今のよぼよぼのアールじゃあ、そんなことできるかどうか。だから、返信が来るかはわからない」
「森……」
そう、森の向こうもまた、別の国でした。森の外にお母さんとハルは行ってしまったのです。
レイはふと、思いました。そして尋ねました。
「その森、どこにあるの? それって、私たちでも行けるの?」
イザドラは、しまったという顔をしました。
「さあ。どこにあるのだろうね」
「わからないの? アールからの手紙に書いていないの? そうだ、手紙を出して、聞けば教えてもらえるかも」
「ああ、そうかもしれないね。まあ、とにかく今は、わからないよ」
はぐらかすように早口で言って、イザドラはさっさと部屋を出て行ってしまいました。
何か隠しているな、とレイは思いました。でも、だからといってイザドラを問いつめる気にはなりませんでした。それよりも、イザドラがハルに敬語を使っていることに気をとられていました。
――私は「レイ」で、ハルは「ハロルド様」なのはどうして?
このころ、ちょうどレイは、ノアと会えなくなっていました。最後に会ったときに、ノアは言いました。
「母さんが、十三歳になったら全寮制の学校に入れだってさ。それに備えて勉強だのなんだのと言って、最近監視が厳しくなっているんだ。だから、しばらく仲間にもお前にも会えない。手紙もはねられるから駄目だ。でも、扉のことだけはなんとかして守るよ」
ステイシーは、家を出ていきました。
「友達が、セミラで音楽活動しているんだけどさ、そいつにあたし、誘われちゃったんだよね。ママは結婚結婚ってうるさいだけだし、あたし、新しいところで何かはじめてみたいの」
アーノルドは、新しい仕事を見つけました。
「前ほど給料はよくないが、いい勤め先を見つけたんだ。それもこれも、この好景気のおかげだよ。ただ、職場はかなり遠いから、この家からは離れることになる。イザドラにはお前から伝えてくれ。『これまでのつけも、いつか返す』ってな」
こうして、レイが学校を卒業して十三歳になったとき、家にはイザドラとレイの二人しかいませんでした。用事がなくなったレイは、仕事で留守にしがちなイザドラに代わって家事をするようになりました。
それから少し経ったころ、仕事に出かけたイザドラは帰り道に道で倒れてしまいました。
家にいたレイが連絡をもらって駆けつけたものの、昏睡状態のイザドラの前には、なすすべもありませんでした。レイは、半狂乱でステイシーに電話をかけました。アーノルドにはつながりませんでした。
「わかった。あたしはすぐに帰れないけど、すぐに行く」
ステイシーは、そう言ってくれました。
その後レイが静かにイザドラの手を握っていると、病室の扉が突然開き、見たこともない大人たちがたくさん入ってきました。
「ステイシーに聞いたわ。レイチェルってのは、あなたね」
そこには、目元のしわが目立つ、気の強そうな金髪のおばさんが二人いました。レイはぽかんと口をあけて、かわるがわる二人を見つめました。
「はじめまして。あたしは、そこにいるイザドラの娘、チェルシー。こっちは、妹のトレイシー。あたしたちは、ステイシーの姉よ」
そう、彼女たちは、イザドラの三人の娘のうちの二人でした。その並々ならぬ迫力に、レイは怯えました。
「はじめまして……すみません、これまでご挨拶をしたこともなくて……」
こわごわ挨拶すると、チェルシーと名乗ったほうが答えました。
「いーよ。あたしら、親と縁切り同然で嫁いだし。若いのに一人で母さんの面倒みてくれて、ありがとうね」
トレイシーと呼ばれていたほうも言いました。
「そうそう。で、これからどうしようか。病院に置いておいたらお金がかかるし、かといって、あたしたちには家庭があるし、連れて帰るのはちょっとね」
「え……連れて帰るんですか? いつ?」
レイは驚愕の面持ちで尋ねました。こんな、寝たきりのイザドラを連れて帰るなんて!
「今日中。医者の話じゃ、特に原因は見つからないんだって。見つからないから、手の施しようもない。じゃあ、ここに置いておく必要はないでしょう? 大丈夫、本当に寝てるだけらしいから。夫に車を持ってきてもらえるように頼んでおくわね」
なんでもなさそうに、チェルシーは言いました。不気味なほど口角をあげたトレイシーが後を引き継ぎました。
「悪いけど、今日のところは、母さんと家に帰ってくれる? もし、何か異変があったら、連絡してくれればいいからさ」
「それ……本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。ね?」
有無を言わせない物言いに、レイは頷くしかありませんでした。
結局、イザドラは家に帰されました。さっさと彼女を寝室のベッドに寝かせると、二人の姉と、チェルシーの夫だという人は、すぐに玄関に向かいました。
「何かあったら電話してくれていいからね」
レイは、お礼を言って、頭を下げることしかできませんでした。
車のエンジン音が遠ざかると、レイは寝室に戻り、静かにイザドラの顔を見つめました。レイはイザドラの手をとると、夜が明けるまで、声を押し殺して泣きました。
三日三晩のあいだ、イザドラは目覚めませんでした。レイは、何をするでもなく、ただ座って一日中、イザドラの寝顔を見守っていました。彼女の呼吸は、起きていたときとは比較にならないほど弱弱しかったので、レイは時々不安になって脈を確認しました。レイは思いました。
――動かないし、返事をしない。これではまるで、時が止まっているようだわ。
やがて、日が落ちて、窓からオレンジの光が差し込んできました。不安で寝不足だったレイは、座ったまま、うつらうつらしていました。
「……レイチェル……」
か細く自分を呼ぶ声に、レイははっと目を覚ましました。
「お母さん? 起きているの!?」
ベッドに横たわるイザドラの目が小さく開いていました。レイははじかれたように椅子から立ち上がりました。
「待っていて、お水だけでも持ってくるから!」
今にも部屋を飛び出さんとするレイに、イザドラは弱弱しく語りかけました。
「いらないよ。私にはわかっているんだ……この先どうなるかがね。いいから、ここに居ておくれ。私は……お前に謝らないといけないことが、いっぱいあるんだ……王女様でありながら、こんなろくでなしばかりの家に引き取られて、こんな下品なばあさんに育てられて……さぞかし、お前は苦しんだことだろう」
枯れきった、苦しそうなその声に、レイはいたたまれなくなりました。
「苦しんでなんかいないわ。だって、私を守ってくれたのはお母さんじゃない! あなたはとても優しい人よ」
レイは、ベッドにすがりついて抗議しました。イザドラは、レイのそんな様子に目を細めて微笑みました。
「優しいものか……私は若いころに考えなしに結婚して、旦那とは暴力沙汰の喧嘩ばかり。娘たちにも嫌われて……そんな人生を終わらせようとしたときに、偶然あの国にたどりついただけさ。王に似て素直なお前は、私の理想の娘だったよ。お前を可愛がり、捨ててきた実の娘の、助けを求める手紙は無視していた……今の私の状態は、すべて自業自得なのさ。そして今、私はお前のことも一人にしようとしている」
この話でレイは、チェルシーとトレイシーの態度の冷たさ、ステイシーのどこか諦めたような表情の理由を悟りました。レイは呻くように、言葉を絞り出しました。
「そんなこと、言わないで……お母さんがいなくなってしまったら、私はいったい、どうすればいいの」
「どうか許しておくれ……私も、お前を残していくのは、気がかりだ……しかし、これは……罰なんだよ……好き勝手に生きてきた私へのね……そして、最後に、お前に、教えておかなければ……国へつながる、森の、場所だ」
「森の……」
やはり、イザドラは、森の場所を知っていたのです。彼女は、レイが故郷恋しさにそこへ行くかもしれないと考えて、今まで隠し通してきたのでした。
「セミラという、大きな国が、あるだろう……そこの、コリーという町で、『人食い森』と呼ばれる大きな森がある……そこらの人間が入れば、迷って行き倒れるだろうが、お前の、お父様の時計があれば、ペンバートン家にわざわざ侵入しなくても……帰ることが、できる。不甲斐ない私の代わりに、アールに会って、王子の居場所を、聞いてくるといい……今までありがとう、レイチェル……お前は、私の」
――自慢の娘だよ。
そう言い残して、イザドラは、すうっと目を閉じてしまいました。レイは夢中でイザドラを揺さぶりました。しかし、力なく首が動くだけで、反応はありませんでした。
今度こそ、レイは声をあげて、涙が枯れるまで泣き明かしました。イザドラにかけられた布団は、涙でぐちゃぐちゃになりました。
次の日、レイがそっと握ったイザドラの手は、氷のように冷たくなっていました。
イザドラの葬式はその二日後にとりおこなわれました。そこには、アーノルドの姿がありました。彼はレイに言いました。
「すまなかった。電話が通じなかったのは偶然だ。本当に仕事中だったんだ。ステイシーに話を聞いて、いつかこっそり訪問するつもりだったんだが……後の祭りというやつだな」
ほかに出席していたのは、チェルシー、トレイシー、ステイシーの三人だけでした。ステイシーは悲しげな表情でしたが、ほかの二人は、まるで他人事のように、牧師に言われるまま祈るだけでした。
その数日後、チェルシーがレイを訪ねてきました。
「あなた一人に、この家は広いでしょう。ほかに住む人もいないし、いっそ売ってしまおうかと思っているの。で、あなたのことだけれど、このままじゃ、困るわよね? 実は、あたしの知り合いの店が、人手不足で困ってるのよ。行ってみない? セミラのコリーってところ……住み込みで。ちょっと遠いけれど、店ちょ……社長はとてもいい人なのよ」
行くあてもないレイは、二つ返事で承知しました。いずれ行くであろう場所だったし、この家にいたいと反論しても、無駄であろうことはわかりきっていました。
こうして、一か月後、レイは船に乗り海を渡りました。
紹介されたのは、服飾の店でした。経営者はジェームズ・ローレンスという、まだ若い男性でした。彼には小さな娘がいて、常に彼の話題は娘のことばかりでした。
別れの悲しみを癒そうと、レイは教えられる針仕事に我を忘れて打ち込みました。