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2 懐かしい故郷

 レイは、内気な子供でした。学校へ通ってもそれは変わらず、むしろ悪化していました。何も話さないし、授業中の発言もほとんどせず、先生に指されると蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯でした。

 そんな彼女に興味をもつ人はいませんでした。先生ですら、うっかりレイの存在を忘れかけていました。

 イザドラは、そんなレイを何かと心配し、彼女に関するあらゆることに口を出してきました。

「もう少しはっきりとお話しなさい。私は、あなたの将来のために言っているんだよ」

 もう、レイは昔のように敬語を使って話されることもなくなりました。イザドラも、ステイシーと口げんかするときよりは、ずっと優しい話し方でしたが、レイにとっては十分にショックな出来事でした。

 また、先生も言いました。

「なんですか、そんな声では聞こえませんよ。そんな話し方をされては授業が進みません。もう少ししゃきっとしなさい」

 穏やかな両親と、丁寧な態度のイザドラしか知らなかったレイにとって、このようにやかましく叱られるのは、とてもつらいことでした。 

 そんな彼女を、ステイシーは慰めてくれました。

「大丈夫、大丈夫。ママは心配性で気が短いだけよ。どうにかなるって! ネガティブになるのが一番よくないのよ」

 しかし、彼女の荒っぽい言葉は、繊細なレイにとって、あまり頼りになりませんでした。

 こんな調子ですから、学校でレイはひとりぼっちでした。

 授業が終わってから急いで家に帰っても、イザドラとステイシーはいません。二人とも仕事で、日が暮れるまで帰ってこないのです。

 代わりに、アーノルドがソファの上に横倒しになっていました。大抵は寝ているので、レイは毎日、彼を起こさないようにしてリビングを横切るのでした。

 家族が集まる夕食時でさえ、それは同じでした。一週間のうち三日は必ず、アーノルドやステイシーの何気ない行動にイザドラが怒り狂うか、ステイシーが仕事の愚痴を言うか、レイがイザドラに延々と説教されそうになるのをステイシーがたしなめるか、のどれかでした。そんなとき、レイは静かに寝室へ戻り、イザドラに渡されたお父さんの腕時計を眺めて、ぼんやりと昔のことを思い出すのでした。

 レイが唯一安らげるのは休日でした。イザドラは家事にあけくれてレイを放っておいてくれるし、ステイシーはどこかへ出かけて行きました。その隙を狙って、レイはよくアーノルドと散歩へ行きました。正確には、家にいたくないアーノルドが外をぶらついているのに付き添っていました。日曜の礼拝も好きでしたし、何より学校がないので、せかせかと「時間に縛られること」がなかったのです。

 アーノルドの散歩ルートは決まりきったものでした。まず、いつもの雑貨店へ行って煙草を買ってから、さらに一キロ離れた公園へ歩いて行き、そこで日が暮れるまで一服してから、わざわざ遠回りをして帰ってくるのでした。レイが側にいるとき、アーノルドは決まって独り言のように長々と愚痴を呟きました。それらのほとんどは、家族に対するものでした。

「俺だって、昔はまともに仕事をしていたんだ。だけど、先の不況で会社は傾き、社長は急死するし。ほぼ社長が一人で会社を回していたから、どうしようもなくなってな。おかげでこうして毎日嫁に嫌味を言われる毎日になったよ。新しい仕事を探せつったって、どこにも雇ってもらえないのだから、どうしようもない。だが、あいつは小遣いを俺によこしてくれるんだ。てっきり善意だと思っていたんだが、あの女、なんて言ったと思う。『煙草欲しさにあたしの金をくすねられるくらいなら、はじめからやってしまったほうがましだからね』だとさ。人をなんだと思ってやがるんだ。ああ、せっかくあいつが出稼ぎに行って、もう顔を合わせずにすむと思ったのに。まったく、世の中全て、クソ食らえだ……いや、お前に話したところで、どうにもならないことはわかっているさ。俺の話が理解できないこともな」

 話がよくわからなくても、レイにとっては、穏やかな楽しい時間でした。

 そんな、ある週末の散歩の途中、珍しくアーノルドは、レイにもわかる話をしてくれました。

「俺は、子供が嫌いなんだ。お前のような聞き分けの良い、大人しい子供は別としてな。騒がしいし、生意気だし、おまけにそこらじゅう走り回って、ものは壊すわ……特にあのノア・ペンバートンはひどかった。あんなにモラルのないがきんちょも珍しいぞ」

「お父さん、『ノア』をご存知なの?」

 レイも、その名前は聞いたことがありました。学校のみんなが事あるごとに口にしていたからです。とてもお金持ちで、家庭教師をつけてもらっているお坊っちゃまで、よく町の広場へ来ては色んな物をくれるそうです。アーノルドが言う通り、傍若無人なふるまいで大人には嫌われているそうですが、町の子供たちからしたら、彼は大人に立ち向かうヒーローらしいのです。

「知っているとも。どれほど裕福なのか知らんが、ありゃひどい。町中のガキを集めては噴水広場でうろちょろして通行の邪魔をするし、ここら一帯の人間にかたっぱしからいたずらを仕掛けるし。俺もこの間、公園で寝ているとき、服の中に大量のカエルを詰め込まれた。気持ち悪いなんてもんじゃねえぞ、ありゃ。とんでもねえ悪ガキだ」

 身体中にカエルがまとわりつく感触を想像して、レイは気味が悪くなりました。アーノルドは、また話を続けました。一度喋り出すと止まらない、それがアーノルドの癖でした。

しばらくすると、突然アーノルドが足を止めました。

「見ろ、レイ」

レイは驚いて、顔を上げました。

いつの間にか、ふたりはいつものルートを外れて、人気のない石畳の通りへやってきていました。

「途中で道の色が変わっているのがわかるだろう。ここから先は、高級住宅街なのさ」

なるほど、石畳は途中から色や材質が変わっており、脇に立つ街灯の装飾も豪華になっています。あちら側が特別な場所なのだということは、レイにもはっきりとわかりました。

「昔はあそこに住む子供たちは、皆小さな王族のようなふるまいをしていたもんだが、今じゃそこらのガキと変わんねえ。それもこれも、その『ノア坊や』のせいだよ。で、あれがペンバートン家だ」

 アーノルドが指差した先にあったのは、高い塀に囲まれた、大きな煉瓦造りの立派な屋敷でした。

レイは、なんとなく、その屋敷に覚えがありました。暗い夜道をふらふらになって歩いたときの遠い記憶と、なんとなく重なるのです。

「さて、そろそろ帰らねえと、またイザドラにどやされる。行くぞ」

 アーノルドに促され、レイはやむなくその場を後にしました。

 そのときこそ何とも思いませんでした。しかし、レイの心はひどく動揺していました。あの屋敷のことが頭に張り付いてとれないのです。夜、ベッドに入ってから、レイはぼんやりと考えました。



 ――あのお屋敷は、前にイザドラと一緒に行った事があるわ。周りの景色がそっくりだったもの。もし、そうだとしたら、あのお屋敷の屋根裏には、故郷へ繋がる扉があるはず。そうしたら、お父様たちにも会えるかもしれない。


 レイは、家族に会いたくてたまりませんでした。どれだけ長い時間に隔てられようとも、本当の家族への思いは変わりませんでした。


 ――「ノア」なら、屋根裏へも行けるのかしら。扉のことは知っているのかしら。彼に聞けば、故郷のこともわかるのかしら……


 何日も考えた末に、レイは思い切った行動に出ました。

 学校の後、家には帰らずに鞄を背負ったまま、町の噴水広場を目指しました。アーノルドの話が本当かどうか、確かめてみることにしたのです。

 広場には、すでに十人程の子供たちが集まっていました。何人かは、レイのことをじろじろと見てきました。そして、ひそひそ声で話をし始めました。

「なんだ、あいつ。初めて見るな」

「俺は知ってるぞ。レイチェル・ワトソンだ。学校で見かけたことがあるよ」

「名前だけなら知っているわ。でも、顔は覚えていない」

 それらの話し声は、全てレイの耳に届いていました。レイは、ここへやってきたことを後悔しました。そこへ、

「お前、誰だよ。初めて見る顔だなあ。名前は?」

 周りを押しのけて、誰かがこちらに近づいてきました。

 彼は、透き通るような淡い金髪に、澄んだ青い目をしていました。一人だけフォーマル服で、きちんとした身なりでした。でも、言葉遣いはあまりよくありませんでした。

 彼がレイに話しかけたことで、周囲の視線はいっせいにレイに向けられました。それはレイを萎縮させましたし、何より、突然話しかけられても、答えることはできません。レイはただただ、戸惑いました。それを見て相手は、自分が警戒されていると勘違いしたようでした。

「別にからかっているんじゃないぜ。それとも、俺が名乗ればいいのか? いいだろ、俺はノア。『ノア・ペンバートン』だ」

 レイはびっくりして、相手をまじまじと、穴があくほど観察しました。確かに、そう言われても納得できる容姿をしていました。

 彼が、ノアなのです。アーノルドが言っていた、あの屋敷に住んでいる少年なのです。レイは、勇気を振り絞って答えました。

「レイチェル・ワトソン、よ」

「へえ、初めて聞くなあ。まあいいや。お前も、仲間に入りたくて来たのか?」

「いいえ、そういうわけじゃ……」

 レイが否定しようとした瞬間、周囲の子供は騒ぎ出しました。

「ノア! そいつを仲間にする気かよ?」

「反対だね。そいつが俺たちの役に立つとは思えない」

 襲いかかるたくさんの厳しい言葉に、レイは逃げ出したくなりました。

 しかし、ノアは言いました。

「いいじゃないか。仲間は、いればいるほどいい。歓迎しよう。ただし、仲間になるからには、裏切りは許されないぞ」

「ノア、正気かよ?」

「ノアが言うなら仕方ないな」

 レイが一言も話さないうちに、ノアと周辺の子供たちは話をまとめてしまいました。結局、レイは状況をよく呑み込めてないままに、彼らの仲間に認定されてしまったようでした。



 彼らの活動は、不可解極まりないものでした。

まず、ノアたちは、昆虫や爬虫類を集めてきて、ターゲットの人物の周辺にばらまきました。そして、相手――今回は白い髭のおじいさんでした――が怒ってこちらにやってくる前に急いで逃げました。レイも慌てて彼らを追いかけました。恐怖に怯えながら走ったので、レイの顔は赤くなったり青くなったりしました。

「どうしてこんなことをするの!?」

ノアは胸を張って言いました。

「あのじいさんは、この前、自分の家に財布を忘れたんだ。ところがあのぼけじじい、一向に認めようとしないで、俺たちが盗んだんだと言い張りやがった。おかげで俺たちはえらい目にあったよ。しかも、未だに謝ろうとしない。だからこれは、ささやかな仕返しというわけだ。俺たちは、意味のないことはしない。ためになることだけをやるのさ」

 ノアは得意顔でしたが、レイは、何かが間違っているような気がしました。そこで、他の子供たちが帰ってしまってから、ノアに告げました。

「私、あなたたちと、その……『ためになること』をする気はないの。あなたに会いに来ただけ」

「それは何だい、つまり、俺のファンだったというわけか? 悪いけど今は、色紙もペンも持ち合わせちゃいないよ」

 夕焼けに照らされた噴水の前で、ノアは困ったように頭をかきました。レイは、このままではどこまでも話がすれ違い続けるだろうと考えました。そして、単刀直入に言ってみることにしました。

「あなたの家の屋根裏に、行ってみたいの」

「何でだよ。お前の家には屋根がないとでもいうのか?」

 さっきまで上機嫌だったノアの表情が一変しました。レイは続けました。

「違うわ。あなたの家の屋根裏に、扉があるでしょう。きっと、あるはずなの。私には、どうしてもそれが必要なの」

「なんでお前が俺ん家の屋根裏のことを知ってるんだよ。屋根裏なんて、年に一度か二度、使用人が上がるだけだぞ。俺だって行ったことがない。扉なんか、あるもんか」

「あるわ。あるはずなの、私の記憶が正しければ」

 沈黙が流れました。すべて言ってしまってから、レイは、自分はなんておかしな話をしてしまったのだろうと後悔しました。

「……やってらんねえ」

 ノアはぼそりと呟いて、レイに背を向け、何も言わずに帰ってしまいました。


 それから暫くの間、レイはいつも通りに生活していました。ノアはもう自分とは会ってくれないだろうと思ったし、会うつもりもありませんでした。

 しかし、あるとき、下校しようとしていたレイのもとに、一人の少年がやってきました。それは、ノアと一緒に噴水広場にいた少年でした。

「ノアが、お前に会いたがってる。多分、もう広場にいるだろうから、行って来いよ」

 これにはレイもびっくりしました。

「あなたは行かないの?」

「俺たち、今日は休みなんだ。集まるのは招集命令がかかったときだけだ」

 そう言って、彼は去っていきました。レイは首を捻りながら、門を出て家とは逆方向に歩きだしました。


「どういうことだよ!」

 噴水のわきに腰かけていたノアは、レイを見ると跳ね上がってレイに駆けより、そして叫ぶようにこう言い放ちました。レイは何と返せばよいのかわかりませんでした。ノアは興奮気味に続けました。

「すげえよ、昨日の夜、父さんに内緒で屋根裏に上ってみたらさあ、本当に扉があったんだよ。開けたら変な小屋みたいな部屋があって、外に出たら昼間だったんだよ! まるで冒険小説の主人公になった気分だった。それで丘を降りていったら小さな家が沢山並んでいて……」

 ノアの話はすべて、レイにとっての故郷の光景と重なりました。やはり、彼の家で間違いなかったのです。レイは、つとめて冷静に尋ねました。

「それで、どこまで行って帰ってきたの?」

「ええと、白い建物の向こうに森があったんだよ。物凄く気味が悪かった。それで、帰ろうかどうか迷っていたら、変なじいさんに襟首捕まれたんだ」

 毛むくじゃらでしわくちゃのおじいさんは、どこから来たのかと、ノアに尋ねました。ノアが正直に答えると、おじいさんはノアを睨み付け、「すぐに帰れ」と怒鳴りつけたそうです。

 そのおじいさんに、レイは心当たりがありました。怒鳴っている姿を見たことはありませんが、あの国にいるおじいさんなんて、一人しかいません。

 すべて吐き出して満足したのか、ノアは噴水わきに腰を戻しました。そして、息を整えながら尋ねました。

「なんで、あんな凄いところを知っていたんだよ。レイチェル、お前は魔女なのか? それとも妖精?」

「ううん、どちらでもないの。でも、私、そこに行きたいの。どうにかできないかしら」

「難しいな。うち、母さんが厳しいんだよ。程度の低い友だちは家に連れてきちゃだめだって言うんだ。もちろん、俺は程度の低い友だちなんかつくったことはないさ。でも、なぜか誰も招待できたことがないんだ」

 ノアは、この上なく不機嫌そうな顔で言いました。レイも、困ってしまいました。しかし、普通に考えて、他人の家にあがりこんで屋根裏を見せてもらうなんて、おかしな話です。

 二人は、暫く黙って、考え込みました。しかし、数分考えたくらいでは、何も思いつきませんでした。

 仕方がありません。今日は一度家に帰ろう、レイはそう思い、ノアに伝えようとしました。そのとき、

 ――カシャン。

「いてっ!」

 軽い金属音と同時に、ノアが右肩を押さえてうずくまりました。

「どうしたの?」

「何かが肩に当たったみたいだ。めちゃくちゃ痛い!」

 見ると、地面に何か、キラリと光るものが落ちていました。レイはそれを拾い上げてみて、言葉を失いました。

「これ……」

 それは、金色の腕時計でした。文字盤には王冠が刻まれていました。

 それは、レイのお父さんが持っていた時計でした。どうして、こんなところにあるのでしょう。箱に入れて、何重にもくるんで、鍵付きの引き出しにしまっておいたはずなのに。

 レイは、時計に傷がないかを調べながら、何気なく腕輪の部分を見てみました。そして、この時計のある変化に気が付きました。文字盤の裏側に、小さく文字が浮かび上がっていたのです。


 第十七代クロック国王第一子、第一王女に、使用を許可する。



 第一王女とは、間違いなくレイのことです。レイは驚きと感動と恐怖がごちゃ混ぜになって、ただただ時計を見つめることしかできませんでした。

 そこへ、肩をさすりながらノアが近づいてきました。

「なんだよ、これが当たったのか? 綺麗だけど、何かわからないな」

 レイは、はっと我にかえって、答えました。

「これは、腕時計よ。お父様のものなの」

「腕時計? 何だよそれ」

「腕にはめておく時計よ。知らないの?」

「知らない。初めて聞いたよ。壁にかけるやつと、柱時計と、懐中時計しか知らないぜ」

 ノア曰く、どんな本にも出てきたことはないし、誰の家でもそんなものは見たことがない、ということでした。レイは驚きました。

「なあ、俺にも見せてよ」

「駄目。これは大切なものなの」

 そう言うと、ノアは不服そうな顔をしましたが、それ以上は何も言ってきませんでした。レイはほっとして、それから、自分が帰ろうとしていたことを思い出しました。

「ねえノア、私、今日はもう……」

「あれ? あの人、なんかおかしくね?」

 ノアが指した方向を見ると、スーツを来た品の良い男性が、片足を上げた格好で固まっていました。二人は、何とはなしに、男性のもとへ走りました。

「何してんの?」

 男性は、ノアの声にも反応しませんでした。口を引き締め、胸を張ったままです。目線も、ノアのほうではなく、ただまっすぐに前を見つめていました。体を叩いても駄目です。二人は怖くなって、男性から離れました。

「ねえ、一体、何が起こっているのかしら」

「俺が知りたいよ。ちょっと、誰かを呼んでこよう」

 そう言って大通りに出た二人は、そのまま、ぎょっとして立ちすくんでしまいました。

 大通りの車は皆、ぴたりと止まっていました。でも、何の音もしていないのです。待ちゆく人も、同じように止まっていました。髪の毛だけが風に煽られたまま宙に浮いていたり、振り返ったポーズのまま動かなかったり、ドアノブに手をかけたまま止まっている人もいました。手に持った煙草と口から煙を出したまんまの人もいます。その煙も、当然のように止まっていました。

 しんとしたまま、誰も、何も、動いていませんでした。この、しんとした不気味な光景を、レイは知っていました。それと同時に、イザドラがかつて放った言葉も思い出しました。


「時が止まったんだわ」

「おい、何を言い出すんだよ」

「時が止まったのよ。そうよ。そうに決まっているわ」

 レイにはそうとしか思えませんでした。今なら、この言葉の意味がよくわかりました。ねじの切れたゼンマイ人形やオルゴールのように、あらゆる物が動かなくなっているのです。

 一方のノアは、突然声が大きくなったレイに驚いているばかりでした。

「お前はなんなんだ。俺の家にあんな場所があることも知っていた。これもお前の仕業か? そうか、さてはお前、魔女だな」

「違うわ!」

 レイは叫びました。

「私は、外から来ただけなの。ただの、そう、『外国人』なのよ」

「どこから来たのさ」

「クロック。クロック王国よ。私は、そこから連れてこられたの。だから、本当の家に帰りたいの。あなたが行った場所は、私のふるさとなのよ」

「へえ!」

 ノアは、心底感心したようでした。それから、手を叩いて大声を出しました。

「だったら、チャンスだ! 今のうちに帰ろうぜ。母さんだって、こんな彫刻みたいに止まっていたんじゃ、俺のすることに口出しできねえ」

 なるほど、確かに、今ならノアの家へ入り込めるかもしれません。

 お父様が、私を助けてくれたのかもしれない。レイはそう思いました。

「行こうぜ」

 ノアが駆け出しました。レイも腕時計をはめてから、後を追いました。



 ノアの家には、高くて頑丈な門があり、屈強な門番が二人、背筋をぴんと伸ばして立っていました。この光景は、やはりレイが見たそれと同じでした。

 屋敷の中には、雑巾を持ったままの女中に、何かを指さして口を開けている男性、ドレスを着て本を広げる女性がいました。隣には、フリルつきのエプロンドレスを着た少女が座っていました。レイは、片っ端から訊きました。

「あれは誰? これは? この人は?」

「それはメイド。そっちは執事。それは家庭教師の先生で、隣にいるのはネル、俺の妹だよ。みんな、面白いなあ。一人ずつに落書きでもしてやりたいところだ」

「馬鹿なことを言うのはやめて」

 目が回るほど何度も階段を駆け上がると、小さな木製の梯子に行き当たりました。これも、レイの記憶と一致しました。のぼってみると、変色した木の床と、斜めになった独特の天井が現れました。予想通りの光景でした。

 レイは、すぐに扉に手をかけました。相変わらず、ひどい開閉音でした。見ると、そこは確かにあの小屋の中でした。外に出るほうの扉を開けると、そこには懐かしい光景が広がっていました。

 思わずレイは、丘を駆け下りました。その勢いのまま、遠くに見える白い塔を目指しました。

 何もかもが、不気味なくらいに元のままでした。


 住んでいる頃はなんとも思いませんでしたが、今見てみると、この時計塔は、なんとも奇妙な建物でした。積み木を大きくしただけのような、シンプルすぎる直方体に窓がいくつかと扉がついているだけでした。これが時計塔なのだと言い聞かされて育ったレイでさえ、建物であることを疑いそうになりました。

 てっぺんの時計は十二時をさしていました。これは、昔からそうでした。クロックの時計は動いたことがありませんでした。昔のレイにとって、時計とは常に針が上を向いているものでした。それが当たり前でした。むしろ、生きている国民の時計と違って、手足もなく話すこともできないことを可哀想に思っていました。

「おい、レイチェル、勝手に走るなよ!」

 はっと振り返ると、胸を押さえて息をきらせたノアが、ちょうどしゃがみこんでいるところでした。

「あなた、ついてきたの?」

「『ついてきてやった』んだよ。薄情なやつだな」

 ノアは眉間に皺をよせました。レイは慌てて謝ろうとしましたが、直後に聞こえてきたとんでもない大きさの音にかき消されてしまいました。それは、人の声でした。

「くおらあ! また来やがったか、この坊主!」

 ノアは子猫のように全身を震わせました。レイは、声の主を探しました。

「一度脅かせばもう来ないだろうと考えていたわしが甘かったようだな。まったく、それもこれもイザドラのせいだ。仕方ない、あの扉は封鎖するしかないな!」

 森のほうから塔に向かって歩いてきたのは、アールでした。あの寡黙なおじいさんが、目を血走らせ、こぶしを振り上げてがなっているのでした。レイは彼に飛びつきました。

「アール。あなた、アールね!」

 いきなり腰にまとわりついたレイに、アールは度肝を抜かれたようでした。急に黙って、こぶしを下ろし、ぎょろぎょろとした目でレイの顔をじっくりと眺めました。

「こいつは驚いた……いや、そんなはずはない。あの小さなお姫様が、こんなところに一人で来るなんて」

「いいえ、私よ。レイチェル・アワーズよ。私も、あなたに会えるなんて思いもしなかったわ」

 心の底から笑うとは、このことでしょう。レイは嬉しくて、アールの手を放そうとはしませんでした。

「お前ら、知り合いなのか?」

 あの自信の塊のようなノアが、珍しく、おそるおそる尋ねてきました。レイは言いました。

「ええ、そうよ。とても懐かしいわ」

 それから、アールに向き直って言いました。

「ねえアール、彼は悪気があってここへ来たのではないわ。私のためなの。だって、ここへの扉は、ノアの家にあったのよ」

 その言葉に、アールはぴくりと反応しました。そして、昔の、レイが知っているアールの喋りかたで言いました。

「そうか……さてはお前は、ペンバートンの人間だな」

「俺は、ノア・ペンバートンだけど」

「だろうな。そうか、まだ屋敷はそこにあったのか」

「アール、どういうこと? ノアの家には何かあるの?」

 アールは少し考えて、塔へ向かって歩き出しました。

「どこへ行くの?」

「まあ、話すと長くなりますのでな。どうぞこちらへ。お前もだ」

「俺も?」

 ノアとレイは顔を見合わせて、アールの後に続きました。



 アールは、時計塔の観音扉を押しました。こちらもなかなかに酷い音がしました。塔の中も、元のままでした。

 中には、深緑の制服を纏ったまま、彫刻のように固まっている人々がいました。レイは、そっと目を背けました。

 ノアは、彼らのことを人形だと思ったようで、特に気にも留めずに、興味深そうに、塔の中をぐるりと見回しました。そして突然、「わーっ」と叫びました。

「どうしたの?」

「見ろよ、レイチェル。時計が歩いている。玩具にしたって気持ち悪すぎるぜ、あれは」

 そこには、よろめきながらのたのたと歩く、赤いめざまし時計がいました。その懐かしい色味に、レイも声をあげました。

「あなたは、昔、見張りをしていらっしゃった方ね!」

「どちらさまかね?」と、時計は答えました。ノアは、ひっと息をのんで、レイの肩を掴みました。

「レイチェルよ」と、レイは答えました。時計は、頭のてっぺんから足の先までじっくりとレイを観察してから、眉をひそめて――彼ら、クロックの時計には眉だってあるのです――ゆっくりと答えました。

「なるほど。なんとも悲しい名前だね。今になって、我が国の小さなプリンセスと同じ名前を聞かされるとは思わなかった。もっとも彼女は、そちらさんよりもずっと幼かったのだが」

 時計は、レイが誰なのかをわかっていない様子でした。どうしたものかと悩んでいると、後ろからアールが出てきて言いました。

「ティム、王女は帰ってきたのだよ。止まり続けるわしらとは違って、成長なさっただけだ」

「へえ!」

 ティムと呼ばれた時計は、もう一度レイを見てから、申し訳なさそうに話しかけてきました。

「これは、とんだ失礼を……ご容赦ください。何せ、あまりにもお顔が変わってらしたから。よくぞおかえりくださいました。して、隣にいらっしゃるのは王子様なので?」

「これは別人だ。それより、わしはこれから、姫様と地下へ行く。最上階の見張りを頼むぞ」

 ティムは、びしっと敬礼をしてから、またよろよろとどこかへ去っていきました。ノアは、レイに囁きました。

「お前は魔女じゃなくて、プリンセスだったんだな」

 レイは反射的に頷きそうになりましたが、すぐに首を振って言いました。

「違うわ。昔の話よ。私はただの女の子」


 アールは二人を、地下にある自分の部屋に通しました。ここに入るのは、レイも初めてでした。デスクとベッドが一つずつ、残りの壁は本棚になっていて、その上にはそこにはびっしりと肖像画がかけてありました。本棚の上には、さまざまな時計が置かれていました。砂時計もありました。ノアとレイは、ベッドに腰掛けました。それを見て、アールはデスクの椅子に座りました。

「一つ、姫様に昔話をしましょう。せっかくだから坊主、お前も聞いていくといい。ただし、絶対に他人に漏らすな」

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