1 王女の亡命
これは、わずか十五年前、レイが五歳だった頃のお話です。
あるところに、「クロック」という国がありました。
そこには、大勢の時計が暮らしていました。時計といっても、針を動かすだけの置き時計ではなく、手も足も顔もありました。
ここに住んでいるのは、生きている時計ばかりでした。でも、ほんのちょっぴり、人間も暮らしていました。
この国には、時計の生活にあわせた沢山の小さな家が建ち並んでいるのですが、そこからちょっと離れた場所に、ずばぬけて背の高い、白い時計塔がそびえ立っていました。
塔の主はナサニエルという人でした。彼は人間です。この国では王様と呼ばれていました。
その王様の傍らには、アレクサンドラという、もちろん人間の、美しい王妃様がいつもいました。王様は彼女を「サンディ」と呼び、とても愛していました。時計たちも皆、彼女を慕っていました。しかし、彼女がどこからやってきたのか、時計たちはもちろん、王様も知りませんでした。ただ、国のはずれにある深い森の先に彼女の故郷がある、ということだけは、皆理解していました。
これが、レイの実のお父さんとお母さんでした。つまるところ、レイはこの国の王女だったのです。でも、幼いレイには、その意味がよくわかりませんでした。
レイの名前はレイチェルといいましたが、両親は彼女を「レイ」と呼んでいました。また、レイには、生まれたばかりのハロルドという弟王子がいました。この王子は「ハル」と呼ばれていました。
彼らは確かに王族ではありましたが、何も特別なことはなく、お互いに、仲のよい家族として接していました。何も堅苦しいことはなく、どこにでもいる普通の家族でしかなかったのです。そもそもレイは、他の国がどこにあるのか、他の国がどうしているかなんて知らなかったし、誰も考えたことがありませんでした。
というのも、クロックの周りには他に「国」というものがなかったのです。しかも、クロックにはレイたちを除いて、たった三人しか「人間」がいませんでした。
一人は、イザドラという女中のおばあさんでした。ふっくらしたしわくちゃの顔を歪めながら、毎日、掃除や洗濯をし、レイにマナーの特訓や勉強を教え、ハルの世話をしていました。
もともと口うるさい人でしたが、面倒見はよく、レイは彼女を慕っていました。ときどき、彼女の目を盗んで、サンディがそれらの雑用をすることがありましたが、その度に、イザドラは目をむいて怒りました。
「私は、先王がご存命のころからここに仕えてきましたけれどね、王妃様が食事の支度をするだなんて、聞いたこともありませんよ。 もう少し、立場をわきまえてはいかがです!」
サンディはその都度謝るのですが、反省した様子はまったくなく、また翌日に同じことを繰り返しました。
二人目は、フローという女の子でした。少なくとも、レイにとっては、彼女も「人間」でした。彼女は活発で明るく、口が達者な子で、おとなしいレイを何かと気にかけてくれる、一番の友たちでした。
フローは毎日、朝早くに王様のところへやってきて、お昼をすぎてからレイと遊び、夕方になると必ずどこかへ行くのでした。
彼女の行き先が気になったレイは、一度、フローに、毎晩どこにいるのかを尋ねてみました。返事はこうでした。
「川だよ。あたい、川にすんでんの。川って、いつでも水が流れているでしょ? だから、川にいると落ち着くんだよね」
あまりにも大雑把でおかしな説明でしたが、当時のレイは、それ以上フローに質問をすることができませんでした。それくらい気が小さかったのです。
それでも、あんまり不思議なので、レイはそのことをイザドラに伝えて説明を求めました。すると、こんな答えが返ってきました。
「そりゃ、あの子は『時の妖精』ですからね。姫様とはものの考え方が違うんです。気にしなくてよろしい」
「妖精」ということは、人間ではないということでしょうか。それとも、イザドラの皮肉でしょうか。もやもやした疑問が残りましたが、とりあえず、レイは納得し、考えるのをやめました。詳しく聞いたところで、理解できないだろうと思ったからです。
最後の一人は、アールというおじいさんです。この人はお城の使用人の部屋に住んでいました。ごくたまに、王様のもとへ訪れますが、それ以外は部屋にこもりきりです。レイと顔を合わせたときも、俯いたまま、会釈しただけでした。イザドラによると、アールもまた、森の向こうからやってきた人間で、本人曰く、「世間が嫌になった」そうです。「世間」がいったいなんなのか、このときのレイには知るよしもありませんでした。
これが、時の国に住む人々のすべてでした。他にいるのは、柱時計に懐中時計、めざまし時計に壁掛け時計と、時計ばかりでした。といっても、これは単なる時計ではなく、言葉を話して歩き回る、「生きた時計」でしたから、レイは、時計というのは生きているものなのだと考えていました。
レイも王様も、他の人たちも、よその国のことなんて、なんにも知らなかったのです。
レイが五歳のときでした。
ハルは、あと二カ月で一歳になろうとしていました。
サンディが、森の向こうへ出かけてゆきました。
それを、誰も止めませんでした。
あのとき、止めておけばよかった、とレイは今でも思っています。
夕方になって、サンディは帰ってきました。
その二時間後のことでした。日は、今にも沈もうとしていました。
固くて丸い制帽を被り、深緑色の生地に金糸を縫い付けた軍服をかっちりと着こんで長靴を履いた男の人が、何十人も、何百人もやってきました。
彼らは、門番の柱時計たちを蹴散らして、堂々と城の中へ入ってきました。
「この場所はなんだ。時計塔か?」
「建物は古いが、手入れされている。こんな場所があったとはな」
地鳴りのような大量の足音に混じって、ぼそぼそとした呟きが聞こえました。寝室にいたレイは、イザドラに手を引かれ、裏口から外へ引っぱり出されました。このとき、レイは今までにないほど、強い力で手を握られました。
イザドラは息を切らせながら、しかし落ち着いた声でレイに語りました。
「よいですか、ここに居てはいけません。あれはおそらく、森の向こうの人間です。まったく、どこから入りこんだのか! やつらが姫様を見つければ、きっと、あなたが何者であるかを問いただすでしょう。そうすると、長い間隠されていたこの国の秘密がばれてしまう。あいつらはこの場所のことを、役人に報告するでしょう。そんなことになったら、この国は、もはや国ではなくなってしまう」
当時のレイには、それがどういうことかわかりませんでした。ただ、何か恐ろしいことが起きている、ということだけは、はっきりとわかりました。
「お父様は、お母様は? ハルはどうしているの?」
「大丈夫です。とにかく、早くこちらへ! 後のことは、あのアールが、なんとかしてくれるでしょう」
レイは、言われるがまま、抱き上げられて、時計たちの住む町へと連れて行かれました。
城の向こうの町には、時計たちが住む、小さな家が並んでいました。その一番すみっこに、ひとつだけ、人間の大人が入れる高さの小屋がありました。二人がそこへ辿りつくと、扉が開いて、赤いめざまし時計が、ひょこっと顔を出しました。イザドラは、彼を見るやいなや、こう捲し立てました。
「ティム、緊急事態よ。この国の存在がばれそうなの。今、城に何百人もの人間がやってきているわ。『大時計のほう』はアールが準備してくれるはず。すぐに行って頂戴」
ティムというのは、クロックを守る兵士の一人でした。たまに王様のもとへ挨拶に来ていたので、彼のことはレイも知っていました。彼は国の見張り番で、普段は城下町のはずれの見張り小屋にいる、ということも、イザドラから聞いていました。でも、それがどこにあるのかは知りませんでした。
「イザドラ、ここは見張り小屋なの? 小屋というわりに大きいのね。イザドラが頭をぶつけずにすむのだもの」
「ええ、見張り小屋ですよ。こんなときの為に、大きめに造られているのです……さあ、入って。しばらくはここから出てはいけませんよ。私はこのティムと、城の様子を見てきます」
イザドラは早口でまくしたてると、目を白黒させているレイを小屋に押し込んで鍵をかけ、どこか――きっとお城でしょう――へ行ってしまいました。
「どうして、私はここにいなければならないのかしら」
一人、取り残されたレイは、ぽつりと呟きました。
幼いレイには、事の重大さがわかっていませんでした。
当然、両親にはすぐに会えると思っていたのです。
いつまで経っても、イザドラは帰ってきませんでした。これには、いいつけを守って小屋で本を読んでいたレイも、さすがに淋しくなりました。
レイは、イザドラのいいつけを破ったことがありません。でも、どうしても、外の様子が気になって仕方なくなりました。
「外を見よう。見るだけなら、小屋の外に出たことにならないわ」
扉は、外から鍵がかけられていましたが、窓の鍵は、内側からかけられていました。レイは側の椅子を引きよせると、それに登り、窓の外を覗きました。
小屋は丘のてっぺんに建てられていましたから、町の様子もよく見えました。時計たちが住むための小さな家が、きれいに並んでいるのがわかります。外に出ている人……いえ、時計はいないようでした。
「誰も外にいないのね」
レイは、鍵を外して、固い窓をこじ開けました。そして、窓から身を乗り出すと、おかしなことに気が付きました。
青空の中を太陽がぎらぎらと光っているのに、外の空気はひんやりしていました。風もありません。
「どうして、こんなに寒いのかしら。それに、さっきまで夕方だったはずなのに」
辺りはしいんと静まりかえっていました。レイの呟きも、空気にとけて消えてしまいました。レイは怖くなって、慌てて窓を閉め、鍵をかけなおして、椅子から飛び降りました。それでも怖くてたまらなかったので、窓から目を離さないようにしながら、じりじりと後ずさりしました。(今から思えばばかばかしい行動ですが、当ときのレイは真剣でした。)
そのとき、ごつん! という鈍い音がして、肘に痛みが走りました。振り返ると、そこは壁でした。でも、レイが肘をぶつけたのは、壁ではありませんでした。
「まあ! ただの壁に、ドアノブがあるわ」
もしかして、扉でしょうか。さっそく回してみましたが、ノブは、うんともすんともいいませんでした。
やっぱりただの壁のようです。
レイはその場にへたりこみました。
「姫様」
頭の上から声がして、レイは顔を上げました。そこにいたのはイザドラでした。なんだか重苦しい表情をしています。
「おかえりなさい。お父様たちは、どちらにいらっしゃったの?」
何気ない問いかけでしたが、イザドラは答えてくれませんでした。口元を手で隠したまま、俯いているだけです。
「ねえ、イザドラ」
レイは、イザドラのジャンパースカートの裾を引きました。
イザドラは黙ったまま、ひとつのトランクをさし出しました。レイ一人では抱えきれないくらい、大きなトランクでした。開けてみると、そこにはレイのお気に入りのドレスや肌着、上着にぬいぐるみ、本などがぎっしりと詰めこまれていました。
「これは、何?」
「できる限り、持ち出してきました。あなたの荷物です。これから私たちは、国の外へ行かなければなりません。よいですね」
「なんですって?」
レイは、自分の耳を疑いました。国の外へ行く?
「どうして、行く必要があるの。私たちの家は、ここにあるのに」
「なくなりました。もう、ここでは生きていけませんよ。時が止まったのですから」
「『時が止まった』?」
理解が追いつかないまま、レイはイザドラの言葉を繰り返しました。イザドラは、ポケットから小さな、錆びた鍵をとりだして、壁から生えていたドアノブに差しました。
「今はわからないと思います。でも、そのほうがいい」
鍵を回すと、何もしていないのに、ピシッという音とともに、壁に亀裂が入りました。イザドラはノブを回しました。今度はちゃんと回りました。
「森のほうは、外の人間だらけです。こちらから脱出しましょう……その前に」
イザドラは振り返って、レイに何かを差し出しました。それは金色に光る、少し大きめの腕時計でした。腕輪の部分も文字盤も針も、何もかもが金でできていました。文字盤には美しい王冠が刻まれていました。レイはそれを、つくづくと眺めました。
「これは、お父様が持っていたものじゃない。どうして、ここにあるの?」
「あなたに差し上げると、あなたのお父様は仰っていました。大切になさってください」
最後まで言い終わらないうちに、イザドラはレイの手を引きました。レイは、トランクを引きずりながら、それに従いました。
グギギギギ、という嫌な音をたてて、「扉」が開きました。
扉の外は、真っ暗でした。天井が斜めになっていて、天窓からは月の光が差しこんでいます。レイはすぐに、この場所が、昔、本で読んだ「屋根裏部屋」であることがわかりました。
「こんなところがあったのね!」
「静かに! この家の者に見つかってはまずいのです。声をたててはいけませんよ。足音もね」
二人は、はしごを使って、下に降りました。
どうも、ここは大きな屋敷のようでした。長い長い廊下には厚い絨毯が敷かれ、両脇には彫刻を施された、古めかしい扉が沢山ありました。
途中で、イザドラは廊下に置かれた箱の前で、何やらダイヤルを回し、ブツブツと呟いていました。それは電話だったのですが、レイは電話を知らないので、不思議そうにその光景を眺めていました。
レイはイザドラに導かれるまま、月明かりを頼りに、いくつもの階段を下りて、玄関まで歩きました。
「さ、ここからが正念場です。何を言われても答えてはいけませんよ」
よくわからないまま、レイはうなずきました。
屋敷の外は、高い塀に囲まれていました。また、正面の門には見張り役であろう男が二人、腕を組んで立っていました。
イザドラは、堂々と門に近づくと、門に手をかけ、右の門番に声をかけました。
「もしもし、門をあけてくださいな。急ぎの用があるのです」
内側に人がいることに気づかなかったのか、門番はぎょっとして振り返りました。
「なんだ、なんだ、こんな夜中に。いったい誰だね」
「使用人の者でございます。訳あって、どうしても今、出かけなければならないのです」
「外には誰もいないぞ。皆寝ている。第一危険だ。次の日にしたらどうだね」と、左の門番が言いました。
「お願いします。急いでいるのです。今行かなければ取り返しがつかないのです」
「そんなの、主人が許すはずがない」と、右の門番が言いました。
「昼間に許可をいただきました。明日聞けば、わかることでございます。さあ」
門番二人は顔を見合わせました。
「どうする」
「仕方ない。この女に何かあっても、俺たちの責任じゃないからな」
ついに、門が開きました。
「ありがたいこと。明日には戻ります。では、ごきげんよう」
イザドラはさっさとレイの手を引いて、外に出ました。
すると、右の門番がレイの肩を掴みました。
「待て。この者は誰だ?」
門番は、レイの顔のすぐ近くに、ランタンを掲げました。レイはその眩しさと温度に、思わず目を閉じました。
「はて、お嬢様かと思ったが、違うようだな」
「まあ、御冗談を。これは私の娘です。それでは」
「使用人の娘が、屋敷にいるのか?」
「まあ、その。ほほほ……」
笑いながら、イザドラは、レイの手を強く引きました。門番が訝しげな顔をしているのをよそに、二人は早足でその場を離れました。
屋敷が見えなくなると、二人はほっと息をつきました。
「ああ、恐ろしい。あんな思いは二度とごめんだわ!」
イザドラは、なかば叫ぶように呟きました。レイは、重いトランクを引きずって歩きまわりましたので、すっかり息を切らせて座りこんでしまいました。
「姫様、まだですよ。女二人でこんなところにいては、どんな目に逢うか。もう少しで私の実家に辿りつきます。さあさあ頑張って」
慣れない硬い地面と、にゅっと生えた植物のような何か――これが街灯だと知るのはずっと後のことです――に驚きつつ、二人は暗い夜道を歩いて、唯一明かりの灯っている、小さな一軒家に到着しました。
イザドラが呼び鈴を鳴らすと、すぐに内側から扉が開き、若い女性が顔を出しました。
「久しぶり、ママ。急に連絡をよこして帰って来るだなんて、いったいぜんたい、どうしたっていうの? それもこんな遅くに。頭、おかしいんじゃない。今、午前一時よ?」
濃い金髪で、きつい目の女性でした。寝る前だからなのか、すっぴんで、寝間着を着て、髪をまとめていました。
「話は後よ、ステイシー。姫様、小さいのに歩き回ったものだから、くたびれて倒れそうなのよ」
ステイシーと呼ばれた女性は、トランクを持ってよろよろしているレイを一瞥して、怪訝そうに言いました。
「この子、何なの?」
「レイチェルというの。この前、手紙に書いたでしょう? この子はお姫様なの」
「ああ、ママが可愛がってる子ね。おいておくのは別にいいけど、パパの機嫌を損ねるかもよ。パパ、よその小さい子嫌いだから」
「安心なさい、ここには一週間もいないわ。さ、姫様」
イザドラに背中を押され、レイはニ階に上がりました。通された部屋には、椅子が一つ、ミニテーブルが一つ、ベッドが一つあるだけの簡素な部屋でした。
「おお嫌だ! 埃っぽい。さては、掃除を怠っていたわね、ステイシー!」
「それが、眠らずに待っていた娘にかける言葉? 急に帰って来るママが悪いのよ。じゃあ、おやすみ。ああ眠いわ」
ステイシーは、機嫌が悪そうに言って、下へ降りて行きました。レイは、遠ざかる足音を聞きながら、ベッドに腰掛けました。腰掛けると、なんだか全身がぐらぐら揺れるような感覚に襲われ、上半身を倒しました。イザドラが何かを言っているのがわかりましたが、睡魔にとりつかれたレイには聞きとれませんでした。重くなった瞼には逆らえず、レイはすぐに意識を飛ばしました。
じりじりと照りつける陽光に顔をあぶられて、レイは目を覚ましました。ふと近くにあった腕時計を見ますと、十一時でした。
「大変、五時間も余計に寝てしまったのね」
レイは慌てて上半身を起こしました。そして、自分のいる場所がいつもの寝室でないことに気が付きました。
部屋の窓からは、舗装された道路に灯の消えた街灯、それに、見たこともないほど沢山の人々が行きかう様子でした。
扉を開けると、そこは、古びた木の床にくすんだ色の壁で彩られた、廊下でした。左手に見える階段を降りますと、濃い金髪をきちんと結いあげ、深緑のワンピースを着た、若い女性がいました。彼女は、レイをじろりと睨みました。
「あら、おはよう。ようやく起きたの、おちびさん」
レイは、びっくりして、口がきけませんでした。それを見て女性は大げさに溜息をつきました。
「いやあね、朝の挨拶もできないの? まあ、もうすぐ昼だものね。『おはよう』ってのもおかしいか」
つかつかと女性は去って行きました。レイは静かに、元いた部屋に戻りました。
部屋には、昨日引きずりまわしたトランクがありました。持ち上げきれずに何度も地面にこすってしまった跡が、くっきりと残っています。
その跡を撫でながら、レイは昨日のことを思い返しました。
まるで、うつつから夢の中へと入りこんでしまったかのような、奇妙な体験でした。
トランクを開けると、少し左に寄っていましたが、昨日見たときと同じように荷物が詰められていました。もちろん、その中には、お気に入りの青いドレスもありました。レイはそれを着ようとしてから、まだ顔を洗っていないことに気づき、もう一度階段を下りました。今度は足音をたてないように。
でたらめに歩いていると、台所のような場所に着きました。その側には裏口なのか、小さな出入り口が設けられていましたので、レイはそこから外に出ました。
これまで、レイが顔を洗うときは、庭の近くを流れている川で水を汲んで洗っていました。桶や壺は必要ありません。川の中に水を入れると、手の周りの水だけがゼリーのように固まって浮かび上がってくるので、そのまま洗うのです。でも、イザドラにはこれができないようでした。
「いいですねえ、あなたがたは。自由に時間を止めたり、動かしたりできるのですから。私なんてどうです、水の時間ひとつ止められませんから、顔を洗うのだって、もう必死ですよ。手のひらに掬える水なんて、ごくごく僅かなのですからね!」
レイの身支度を整えるとき、イザドラはいつもこのような文句を言っていました。
ところで、この家の庭には、川も流れていませんし、井戸もありませんでした。隣の家との間には垣根があり、レイの身長では、とても越えられそうにありませんでした。
レイはがっくりと肩をおとしました。そして、あることに気が付きました。
「そういえば、イザドラがいないわ。どこかしら」
イザドラを探そうと思ってレイは踵を返し、そのまま、ひっと息を呑んだまま、立ちつくしてしまいました。
いつのまにか、レイの背後には、ぼさぼさの灰色い髭をもった、大男が仁王立ちしていたのでした。でっぷりとしたお腹で頭ははげ、皮膚はがさがさで黒ずんでいました。大男は、レイをぎろりと一瞥し、がらがらの声で怒鳴りました。
「なんだあ、お前は。人んちの庭にぃ、入るんじゃあねえぞ」
レイの奥歯は、震えて音をたてていました。体中の毛という毛が逆立ったかのような寒気を覚え、今にも卒倒しそうになりました。
そのときです。
「あんた! 何をぼおっと、立ちつくしてんだい!」
噛みつかんばかりの勢いで、家の中から太った女性がどたどたと出てきました。よくよく見ると、それはイザドラでした。イザドラと比べても、男のほうが頭三つ分、背が高いようでした。
イザドラは、男のまん前で凍りついているレイに気づくと、急に表情を和らげました。
「おや、姫様。こんな所で何をなさっているのです?」
レイは、無我夢中でイザドラに抱きつきました。言いたいことは山ほどありましたが、恐怖のあまり、うまく言葉を紡げませんでした。イザドラは、右手でレイの頭を撫でると、男を払いのけるかのように左手を振りました。
「あんたみたいな下品な男が、姫様にちょっかいをかけるんじゃないよ。ご覧、こんなに怯えてしまっているだろう。おまけにあんたは酒臭いよ。どうせ、昨日も酔いつぶれて寝たんだろうね。とっとと風呂にでも入ってきな」
イザドラは、レイに話しかけるときとも、先程の女性のときとも違う、恐ろしく荒々しい口調で怒鳴りつけ、男を追っ払いました。レイは思わず、イザドラを掴んでいた手を離しました。
「はあ。姫様、ねえ」
男は舌打ちすると、どすどす、と荒い足音をたてて、家の奥へ消えて行きました。
「大丈夫でしたか、姫様。あれは、ろくでなしのばか男です。何を言われたのかわかりませんが、気にすることはありませんよ」
イザドラのいつもの口調に、レイは少し落ち着きました。
「勝手に歩き回って、ごめんなさい。私、顔を洗おうと思っただけなの」
「まあまあ、そうですか。ああ、姫様は川以外に水のある場所をご存じなかったのでしたね。ご覧なさい、そこに洗面所があるでしょう。あそこの蛇口を捻れば、それですみますよ」
言われるがまま、レイは「洗面所」の前まで来ました。そこには白い陶器の器と、鶴が首をもたげているような格好の、銀色の彫刻がありました。指示されるままに、取っ手を手前に引っ張って見ますと、鶴の頭から水が漏れだしてきました。
「凄い。とても面白いわね!」
レイは水を手で受け止めました。そして、顔に運びました。
顔に水が当たりました。でも、なんだかおかしいのです。水の量が少ないのです。汲んでも汲んでも、両手の隙間から、水がするりと抜けて行ってしまうのです。
ぼんやりと両手を眺めていると、イザドラが取っ手を押して、水を止めました。そして、これまでと同じように、レイの顔を優しく拭いてくれました。
「後で呼びに行きます。着がえて部屋で待っていてくださいな」
あの青いドレスを着てから、髪を梳いてもらい、レイは下の部屋に呼ばれ、食卓らしきテーブルにつかされました。
「お食事の前に、私の家族を簡単に紹介しておきましょう。まあ、それほど長い付き合いになるとは、とうてい思えませんが」
目の前には、ついさっき出くわした金髪の女性と、大男が座っていました。男は髭を整え、清潔な服に着かえていました。
イザドラはレイの隣で、二人の説明をしてくれました。
金髪の女性は、ステイシー・ワトソンといって、イザドラの三人の娘のうちの、末っ子でした。この末娘は工場に勤めていましたが、凄まじい仕事の腕の早さで評価されていました。一方で、男癖が悪い上に家での態度はだらしなく、家事もろくにしないうえに、やたらと反抗的な態度でしたので、いつまで経っても結婚できずにいました。
男の方は、アーノルド・ワトソンといいました。ステイシーの父親で、イザドラの夫でしたが、酒癖が悪く、横暴な性格でしたので、イザドラとは喧嘩が絶えず、もう何年もまともに口をきいたことがないそうです。
「夫と言っても、こんなのに愛情も何もありませんよ。だけど、嫁入り前の娘がいるのに、別れるわけにもいかないでしょう。だから私は家を出て、昔お世話になった、ナサニエル様の所へ行ったというわけですよ」
イザドラは笑顔でそう教えてくれました。ナサニエルとは、レイのお父さんの名前です。レイはよく理解できぬまま、とりあえず頷きました。
「どっかの家で住みこみで働いてる、としか聞いてなかったよ? あたしたち。クリスマスでもないのに、どうして帰ってきたのよ。しかも、こんなちっさい子を引き連れて」
椅子を揺らして伸びをしながら、退屈そうにステイシーが尋ねました。
「色々あって、いられなくなったのよ。私もこの子も。新居を探すまでの間いるだけよ。いいでしょう? 元はといえば、ここは、私の家でもあるのだから」
イザドラはすまして答えました。ステイシーは眉を寄せました。
「本気で言ってるの? ママ一人、この子を連れてどこかへ行くの? 仕事はどうするのよ」
「親戚をあたってみるわ。仕方がないでしょう。こんなやつが家にいては、どうしようもないわ。わかるでしょう?」
「ママは本当に意地っ張りね。ねえ、パパ」
それまで黙っていたアーノルドは、勢いよく椅子から立ち上がりました。
「お前と二人きりで過ごす子供が可哀想だな」
「まあ、腹立たしい!」
アーノルドは部屋を出て行ってしまいました。
「あーあ。めんどくさいなあ……」
ステイシーはちらりとレイを見ました。
「あなたの名前、まだ聞いてないわね」
レイはその目力に首をすくめました。でも、また黙っていたら、今度は馬鹿にされるだけではすまないように思いました。
「レ、レイチェル……」
「レイチェルね。あなたは、ちょっとお外に行っといで」
強引に背中を押され、レイも部屋の外へ出されました。ステイシーを咎めるイザドラの声が聞こえましたが、扉が閉まる音にかき消されました。
知らないところを歩き回ることには、すっかり懲りていましたので、レイはそのまま扉の前で待っていることにしました。
「うちに置いとけばいいじゃない。あたし、あんな女の子が一人増えたところで、気にならないわ」
「あなたはそれでいいでしょうけど、姫様は繊細なの。ずっとあなたに怯えて暮らさなければならないなんて、あんまりだわ」
二人ともよく通る声をしていましたので、扉越しでも会話がよく聞こえました。
「そんな事言ってどうすんの。学校は? 行かせない気? どこに行ったって、あたしみたいなのは必ずいるわよ。それよりも、いざというときにあなたしか頼る人がいないほうが、よっぽど可哀想よ」
「だったら、あいつはどうするの。アーノルドは、自分の子以外の子供を見ると、機嫌が悪くなるのよ?」
「それは……」
レイは、だんだんイザドラに申し訳なくなってきました。この二人の会話を完全に理解しきれたわけではありませんが、自分の為にイザドラが言い争っていることはよくわかりました。
「立ち聞きか」
突如、唸るような声がしました。そっと辺りを見回すと、廊下の突き当たりに、アーノルドがいました。
「お姫様みたいな『なり』をして、しっかりしているんだな、お前」
レイの様子など気にも留めず、アーノルドはこちらへ近づいてきました。レイは思わず後ずさりしました。
「立ち聞きはよくないぞ」
思いっきり肩を掴まれ、レイは引きずられるようにその場から引き離されました。あまりに突然のことで、声も出ませんでした。
そのまま玄関まで連れて行かれ、レイは、これをふりほどくべきかどうか悩みました。知らない場所へ連れて行かれることは恐ろしかったけれども、アーノルドのほうは眠そうにあくびをしているし、足取りもゆっくりだったので、あんまり強く反発することもないように思われたのでした。
「……名前」
玄関の扉に手をかけた状態で、アーノルドは止まり、レイの肩を離しました。
「名前は」
まっすぐにレイの目を見つめて、アーノルドは呟くように言いました。レイは、その意味がわからず、同じようにアーノルドを見つめ返しました。
「名前はなんだ」
そこまで聞いて、初めてレイは納得しました。イザドラはレイに二人を紹介してくれましたが、二人にレイのことを紹介していないのでした。彼は、レイの名前を知りたがっていたのです。
「レイチェル」
「それだけか?」
「レイチェル・シースル・アワーズ……カイロス・オブ・クロック」
「長いな。最後のはなんだ?」
「わかりません」
「そうか。『シースル』というのは?」
「わかりません。でも、お花の名前だって」
「ああ、アザミのことだな。随分ととげとげしい名前だ」
不思議なことに、さっき出くわしたときよりも潤った声で、口調も落ち着いていました。
ふん、と一呼吸おいて、アーノルドは扉を開けました。
「煙草を買いに行くんだが、お前も来るか?」
「えっ?」
「あんなやかましい女どもの所に居ても退屈だろう」
「ええと……」
レイは、人の誘いを断ったことがありませんでした。黙っているレイを見て、アーノルドは「行く」という意思表示をしていると勘違いしたようでした。
「行くぞ」
レイは、手を引かれて外に出ました。お父さんよりイザドラより大きな、がさがさした、それでいて脂っぽい手でした。
家を出てすぐの道は狭く、人通りもまばらでした。道はなにか硬いもので舗装されていて、レイは何度も足をとられかけました。この硬い地面はコンクリートでできていましたが、このときのレイは、これを石だと思い込んでいました。
角をいくつか曲がると、大通りに出ました。角の丸い奇妙な物体が、凄まじい唸り声をあげてレイのすぐ横をすっ飛んで行きました。
「ここは車の通る道だ。気をつけろ」
そこで、レイは車道側から離れて、建物が並んでいる側を歩くことにしました。何もかもが珍しくて、レイはアーノルドへの恐怖も忘れて街の景色や店のショーウィンドウに夢中になりました。時折、かわいらしい洋服や玩具を見つけては足を止めようとしましたが、アーノルドは止まってくれないので、引きずられるようにして連れて行かれました。
一方のアーノルドはレイには目もくれずに、レイの手を強く握ったまま延々と一人で喋り続けていました。どうやらレイが止まろうとしていることどころか、引きずっていることにも気づいていないようです。
「アザミの花言葉を知っているか? 独立、厳格、報復に、それから『触るな』なんてのもある。まるで昔の王族のようだな。どういうつもりで付けられた名前か知らないが、もしこの通りの人間になっちまったら、居場所を失うだろうな」
レイはまるで聞いていませんでしたが、アーノルドはそれにすら気づいていない様子で、前を向いたままお喋りを続けました。
「……というわけで、人は一人では生きていけないのさ。だから、人間というのは皆、お互いを尊重せにゃならん。ところが、あのイザドラといいステイシーといい、いつも自分が喋ることで頭がいっぱいだ。俺はいつも言いくるめられちまう。だから……ああ、ここだ」
手首をくいと引かれて、レイは慌てて立ち止まりました。
随分と年季の入った小屋でした。白く濁ったガラス戸をアーノルドが押すと、薄暗い店内がよく見えました。店に入って右手の、棚に並んだ錆びたかごには、これでもかというほどの袋菓子、チューインガム・キャンディなどが押し込まれ、手書きの値札が下げられていました。反対側には厚いガラス張りの冷蔵庫が設置されており、中には色とりどりの瓶が並んでいました。奥の壁は壁紙が色あせて、あちこち剥がれていました。それを隠すかのように、これまた色あせたペナント、おかしなメッセージを記した看板、ポーズを決めた誰かの写真などが、所狭しと貼られていました。汚いながらも興味深い光景にレイが気をとられている間に、アーノルドは商品に埋もれるようにしてカウンターに座っている店の主人に声をかけました。
「ベンソン、いつもの」
「ワトソン。あんたは毎回いつもの、いつものって言うけどさ、たまには他の言葉をよこしてくれてもいいんじゃねえかい?」
「へん、馬鹿らしい。『いつもの』で通じるのに、それ以上の言葉を使う必要があると思うか? そういうのは無駄と言うんだ」
「またそうやって、屁理屈を言う。そういう所がよくないと言うんだ」
店の主人はぶつぶついいながら、カウンターの奥へと引っ込んでいきました。
レイはというと、不気味なほど鮮やかな紫色をした包みをしげしげと観察していました。中身が何なのかがわからなかったのです。人差し指指二本分ほどの大きさのそれは、レイの目に魅力的に映りました。
「欲しいか?」
気づくと、アーノルドが真横にいました。レイは、しばらく迷ってから、頷きました。アーノルドはレイの手から包みを取り上げて、戻ってきた店の主人に見せました。
「こいつも勘定してくれ」
主人は眼鏡を掛け直して包みを見、次にレイを見て、首をかしげました。
「その子は何だい? あんたとこの娘は、全員もうとっくに年頃のはずだが」
「訳あって一人増えたのさ。で、例のはどうした」
「ここだよ。あんたのご贔屓の銘柄。買うのはあんたくらいのもんだ。二箱入れとくよ」
「そんなにいらん」
「在庫が余ってるんだ。買わないなら、次から仕入れるのをやめるぞ。他に買うやつはいないんだから」
アーノルドは舌打ちをして紙袋を受け取り、レイによこしました。会計がすんでから、二人は外に出ました。
紫の包みの中身は、チューインガムでした。とても食べ物だとは思えないほど鮮やかな色でしたが、とてもいい香りがしたので、口に入れてみました。これまで味わったことのない強烈な甘さに、レイは目を輝かせました。そんな彼女を見て、アーノルドは尋ねました。
「ガムを食ったことはあるか?」
「ううん。とても素敵な味ね、これ!」
興奮気味に答えると、アーノルドはふっと笑いました。
「なら、教えといてやる。ガムは噛んだら吐き出すものだ。間違っても飲むんじゃねえぞ」
「どうして?」
「ガムだからさ」
「それじゃ、わからないわ」
レイは、すっかりアーノルドに対する警戒を解いていました。二人は仲良くお喋りしながら家まで帰ってきたのです。
「ただいま!」
「あっ! 姫様、どこにいらしたのですか……まあ!」
そんな二人を見て驚いたのはイザドラでした。
「急に姿が見えなくなったと思ったら、こんなのに連れまわされて! 可哀想に、怖かったでしょう」
レイは口をもぐもぐさせながら、包み紙を差し出して答えました。
「いいえ、とても楽しかったわ、イザドラ。それに見て! これ、ガムっていうんですって。すごく美味しいのよ」
「まあまあ! こんなもの食べてはいけませんよ。汚らしい」
「美味しいのよ」
「だめです。それとあんた! 何を勝手なことをやってんだい。まったく、きちんと説明してもらうよ!」
残念ながら、ガムはその場で吐き出さなければなりませんでした。アーノルドはイザドラに連れて行かれ、レイは、元のダイニングルームに戻されました。そこには頬杖をついたステイシーがいました。
「どこいってたの? あんまり勝手なことしないでよね。でないと、ママの血管が切れちゃうから」
彼女のつっけんどんな口調から察するに、レイはそうとうイザドラを心配させていたようでした。心配させていたというよりも、怒らせてしまったのかもしれません。
「で、どうだったの」
「えっ?」
「パパとタバコ屋にでも行ってたんでしょ?」
ステイシーは全てお見通しのようでした。レイは、家を出てから帰ってくるまでの話を、たどたどしく伝えました。ステイシーは、面白そうにその話を聞いていました。
「ふうん。あのパパが、ねえ」
ステイシーはにまにまとレイを見つめました。
「ねえ、あなた、パパをどう思う?」
パパ、とは、あのアーノルドのことでしょう。レイが返事に困っていると、立て続けに質問が飛んできました。
「好き?」
「うーん……」
「嫌い?」
「嫌い、ではない、です」
「へえ! ならよかった。じゃあ、ここに住まない?」
それは、さらに突拍子もない質問でした。レイは慌てふためきながら、つっかえつっかえ、答えました。
「それは、その、とてもいいけれど、でも、私、お父様とお母様が……」
「そうね。でも、あなたは両親にしばらく会えないのよ」
「会えない!?」
レイは自分の耳を疑いました。ステイシーは続けました。
「ママが言っていたわよ。あなたのお家、住めなくなったんですってね。だから、あなたはここにいるしかないの。一人でどこかへ行くというのなら、止めないけどね」
「そんな……」
ここへ来るとき、確かにイザドラは神妙な顔で、似たようなことを言っていました。けれど、ここまでわかりやすくストレートに言われると、受けるショックも変わってきます。
「まあ、パパがあなたを気に入ったのならそれでいいんじゃない。理由が気になるところだけれど。よろしくね、レイチェル」
レイは何も言えませんでした。
結局、ステイシーが言った通り、レイはこの家にいることになりました。
イザドラはいつも通りでした。ただ一つ、レイのことを「姫様」とは呼んでくれなくなりました。
「これからは、あなたを王女として扱うことはできません。ここは、クロックではありませんから。これは、あなたのためでもあるのです。つらいかもしれませんが、我慢してください」
イザドラは、そう言って、レイのことを「レイ」と呼びました。アーノルドとステイシーも、レイを同じように呼びました。
わずか五歳のレイには王女の自覚なんてものもありませんでしたから、特に気にはなりませんでした。ただ、お父さんとお母さんに会えないことは、たまらなく寂しさをもたらしました。あの可愛い弟のことも、気がかりでした。
七歳になって学校へ通うようになると、両親がいないことが、ますますつらくなりました。そのうちに、レイはイザドラのことを「お母さん」、アーノルドのことを「お父さん」、ステイシーのことを「お姉さん」と呼ぶようになりました。実際、レイの両親の役割を果たしてくれたのはイザドラとアーノルドでしたし、トレイシーは何かと頼りになる人でした。
そうするうちに、レイは、少しずつ昔の自分のことを忘れ始めていました。自分の名前を「レイチェル・ワトソン」と書くことにも抵抗がなくなりました。
そのまま、レイは八歳になりました。