俺とここねとドライブ
「……おは……よ……」
「あら、遅刻ギリギリね。念のため聞くけどレポートは?」
「……」
ふらつきながら講義室へ入ると、俺以外の三人は既に座っていてぺちゃくちゃとお喋りをしていた。机に座ってすぐに顔を突っ伏し、レポートはやってきたのかの問いに無言で答える俺に、鹿野さんは得意げな顔をする。
「ふ、ふふん、やっぱり貴方の分もやっておいて正解だったようね。それにしても、ちょっと前まではちゃんとレポートとかやってたのに、ここ最近様子がおかしいわよ? 大丈夫? 病院行く? 今なら三割負担よ?」
「彼女が離してくれなくてさ……」
3ヵ月という時間は、彼女を盲目な恋の狂信者に変えてしまうには十分すぎたらしい。すっかり俺を悲惨な現実における唯一の希望の星か何かだと認識したのか、学校が終われば、休みの日になれば、頻繁に部屋に勝手に作った合鍵を手にやってくる。俺のベッドで涎を垂らしながら身体をくねらせたり、『いつでも私をペットや物、奴隷のように扱ってください』なんて言っては俺の所有物になろうとする。呼び名こそ『旦那様』に落ち着いたが、自分を卑下する傾向は高まるばかりだ。恋人という対等な関係ではなく主従関係を望むのは、本人が自分に自信を持てずに、捨てられることを恐れているからなのだろう。脅して無理矢理付き合わせてしまったことに対する負い目があるからか、そんな彼女を邪険にすることもできず、こうしてだらだらと不純過ぎる交友を続けてきた。
「やれやれ、惚気かい。うらやましい話だよ。僕もそのくらい、恋人に束縛されたいものだね」
「実際そうなると辛いものがあるんだよ……あ、獅童さん、お菓子あげるから、彼女からLUNEが来たら適当に肯定しといて。俺は寝るから……」
「了解デス。むむ、早速LUNEが来たデス。『今日は学校サボって旦那様の大学に行っていいですか?』……『いいよ』……あ、また来たデス。『ありがとうございます! 今日の講義は〇〇棟の〇〇号室ですよね? こないだ部屋に行った時に時間割見たんですけど』……『そうだよ』……」
獅童さんにお菓子とスマホを渡して、講義なんてロクに聞かずに惰眠を貪る。何やらおかしなことになっているような気がしたが、きっと幻聴だろう。夢の中でサキュバスと化した彼女に迫られる、男にとっては良い夢なはずなのに今の俺にとっては悪夢のように辛い夢を見てうなされることしばらく、講義終了のチャイムと共に目が覚めた。
「あら、起きたのね。もうしばらくうなされているのを眺めようと思ったのだけど。レポートはどうせ期待していないから私が持って帰るわ」
「スマホお返ししマス。ふふふ、我ながら見事な対応でシタ」
「どうも……ところで皆、これは俺の友達の話なんだけどさ、もし皆が学校では友達に虐められ、家では親に虐待されているような可哀相な、彼氏だけが心の拠り所と化しているような中学生の女の子だとして、彼氏に別れを切り出されたらどうする?」
別の講義や自由時間等、各々の目的のために講義室を出ようとする彼女達を呼び止めて、友達の話なんて見え透いた嘘と共に恋愛相談をしてみる。彼女達はしばらく考え込んだ後、
「死んでやるわ。そいつの目の前で、滅茶苦茶に悲惨な死に方をしてやるの。そいつが今後の人生で、血を見ただけで卒倒してしまうくらいのトラウマを植え付けて。素敵よね、彼の心の中で、私はずっと生き続けるのよ」
「ぶっ殺しマスよ。食ってやるデス。一緒に添い遂げられないなら、私の血肉となって生きて貰いマス。ああ、でも赤ちゃん欲しいですね。子供が出来るまでは生かしておいてやるデス」
「まったく死ぬだの殺すだの、物騒な考えだね。別れを切り出されただけだろう? だったら考え直して貰えばいいんだよ。とりあえず檻にでも閉じ込めてさ、根気よく交渉しようじゃないか。時間はたっぷりあるんだからさ。……ああ、でももし他の女が原因だったら、どうしてくれようかな。いや、女の方をさ」
思い思いに恋愛観を吐露し始める。どいつもこいつも頭がいかれてやがる。こんな奴らの言うことを気にするだけ無駄だろう。さっさと俺も次の講義に行こうかなとカバンを持ったところで、何故か彼女達が俺から距離を取り始める。
「? どうしたのさ皆。そんな距離を置いて目を逸らして」
「まだ死にたくないのよ私は。私はただの友人A、いや、ただのクラスメイトよ」
「病んだ女ほど怖い相手はいないデス。襲われたらきっと勝てないでしょう。犬神さんに愛情なんて持ってないデス」
「ああ、先ほどの言葉は取り消すよ。この先僕に恋人が出来たとしても、そこまで束縛しないように心がけよう。あ、僕はただの通行人Bだよ」
そっけない事を言いながら、我先にと講義室を飛び出して行く彼女達。一体何事かと疑問に思ったところで、後ろから腕を掴まれる。振り向くとそこには、
「えへへ旦那様は大学でも友達がいっぱいいるんですねううんわかってるんです旦那様が私だけ見てくれるなんて有り得ないなんてことくらい理解はしてるんですだからせめてペットとして物として傍に置いて欲しいんですでなきゃ私旦那様を殺して死んでしまいそうでだから私を檻の中に入れてください〇×△□……」
目の焦点が合っておらず、貼りついた笑顔でぼそぼそと物騒な事を呟き続ける恋人の姿。何でこんな所にとスマホを覗き、俺が寝ている間に起きた悲劇を理解するや否やあの駄兎ミートパイにしてやろうかと睨みつけようとするが当人は既に退散しており、引いた目で俺達を見るモブのクラスメイト共がひそひそ話をしている風景しかそこには無かった。どうやら大学でいっぱいいる友達は今日を境に一気に減ってしまいそうだなとため息をつくと、どこぞのハーレム系小説のヒロインばりにノンストップで一人で喋っている彼女の手を引き、車に乗せて適当にその辺をドライブする。車の中で何度か深呼吸をした後、ようやく一人で盛り上がっていた彼女のテンションは平常となった。いや、もう俺にもどんなテンションが平常かなんて麻痺しすぎてわからないのだが。喋りすぎて疲れたのか助手席で寝息を立てる彼女と共に、目的もなくぶらぶらとガソリンを消費しているうちに夕暮れとなり、起きたのか彼女がポツリと語り始める。
「えへへ、学校、サボっちゃいました。何でもっと早くサボらなかったんでしょう、学校に行ったって、いいことなんて何も無いのに。家にも、帰りたくないです。学校もやめて、家からも逃げ出して、ずっとずっと、旦那様の傍にいたい……なんてね、我儘だって、わかってるんです。この関係がずっと続くわけがないことだって、理解してるんです。旦那様が途中から私の扱いに困っていることくらい、別れを切り出したいけど刺されないか心配していることくらい、ちゃんと知ってますよ。都合のいい女どころか、私が旦那様を都合のいい男にしていることだって。でも、もう少し、もう少しだけ、私に時間をください。中学卒業したら、どこか遠い場所に逃げて、そこで身体を売ってでも生きていきますから」
「……そんな悲しい事言わないでよ。乗りかかった船とは言わないけれど、君がそれなりに幸せな人生を送れるようには努めるからさ。お腹空いたでしょ? ファミレス寄るね」
「ありがとうございます。優しいんですね。私、多分本当に、依存先じゃなくて旦那様の事好きになってますよ。よくわかんないですけど」
「だったらせめて犬神さんって呼んで欲しいかな」
「はい。犬神さm……さん」
完全に彼女は壊れているんじゃないかと心配していたが、思ったよりも安定しているらしい。俺のおかげなのか、それなりに安定していたものを俺が壊しかけたのかはわからないが。ファミレスでパフェを食べる彼女を、恋人なのか父親なのかよくわからない心情で眺めていると、
「すいませーん、3名でーす」
ファミレスに学生達が入ってくる。よく見たら彼女と同じ学校の制服だなと入口を見た後、目の前にいる彼女を見ようとしたがそこには倒れたパフェのグラスしか無い。机の下から漏れる、『はー、はー』という震えた、今にも泣きそうな彼女の吐息。全てを察した俺は、カバンやらジャケットやら、荷物で彼女を隠す。
「そういえばさー、あいつ今日学校いなかったよね?」
「死んだんじゃない?」
「えーそれってテレビとか警察とか来るんじゃない? この後目薬買いに行く? いつでも泣けるように」
荷物で他人から彼女が見えないようにすることができても、言葉のナイフから彼女を守ることはできない。やがて机の下からビチャ、ビチャという音がする。数十分後にようやく危機が去った後、荷物をどけると、そこには酸っぱい匂いを漂わせながら、完全に壊れているとしか表現できない彼女の姿があった。