俺とうさぎとハッピーエンド
「ここは……」
「ああ、よかった、気が付いたんだね。とりあえずベッドに寝かせようと思ったけど、他人の家で勝手がわからなかったから、俺の部屋に連れてきちゃったよ」
倒れて気絶してしまった彼女を介抱すべく部屋に連れて帰り、ベッドに寝かせること数時間。性の6時間が終わる頃に彼女はようやく目を覚ます。それと同時に全てを吐き出していたからか、豪快に腹の虫が鳴った。
「うっ……」
「あはは……とりあえずおかゆ作ってみたんだ、味はアレだけどね。食べる?」
「食べマス」
彼女が心配だったのも勿論あるし、恋人になった? のだから彼氏らしいことをしたくておかゆを作ってみたが、普段料理なんてしない男が作ったそれは味見をした限り、コンビニでレトルトのおかゆを温めた方が遥かにマシだと後悔するような代物だったが、彼女は即答してそれを受け取る。
「ふー、ふー」
「……?」
「もぐ、もぐ……」
おかゆを食べ始める彼女を見て違和感を覚える俺。食べ方が綺麗すぎるのだ。いつもならガツガツと、時には平然と犬食いをしていた彼女が、まるで普通の少女のように行儀よくおかゆを味わっていた。
「うっ、ううっ……」
「ごめん、塩が多すぎたかな」
「違うんデス、違うんデスよ……こんなに美味しいモノを食べたのが、まともに食事をしたのが久々で……」
「……?」
やがて涙を流し始める彼女。味付けがまずかったのかと謝るが、返ってきたのは久々にまともな食事をしたなんて頓珍漢な答え。困惑しながらも彼女がおかゆを食べ終わるまで数分間、心配そうに彼女を眺める。綺麗さっぱり空になった容器を俺に返すと、そのまま彼女は語り始めた。
「ご馳走様でシタ。さて、色々聞きたいことありマスよね。……あれは10年くらい前だったと思いマス。スラムでの私は、貧しくも逞しく生きていまシタ。ボロボロの服、どこかで拾ったナイフやライター、身体を売って稼いだけど、たくさん持ち歩いていたら危ないからとすぐに使ってほとんど残っていないお金。それでも生きていけるなら、食べることができるなら、明日があるならそれなりに満足でシタ。ある日、スラムには似合わない、綺麗な服を着た女の二人組を見かけたんデス。喋っていたのは日本語でシタから、日本の女子大生だったんだと思いマス。貧しい人間を見て可哀想だと思う自分に酔って、調子に乗って現地の人に犯されたり殴られたりして、不幸な自分に酔えるような、ネットで馬鹿にされるような。それでも私みたいな貧しい少女には歓迎すべき客人でシタ。瞬時にお金を持っている人だと見抜いて、物乞いをしまシタ」
こんな感じの反応をされまシタ、と虫でも払うような手つきでしっしっのポーズをする彼女。その目には、先程よりも大量の涙を浮かべていた。
「わざわざスラムに来たんデスから、貧しい美少女に食べ物やお金でも恵んで『私って素敵☆』って悦に浸るのが道理だとは思いマスが、まあそういう日もありまシタ。物をくれる人もいたし、汚物を見るような目で見る人もいまシタし、拒絶されたこと自体は、特に気にしていなかったんデス。ただ、この日はいつもと違った展開になりまシタ。猫がいたんデス。スラムにお似合いな汚い猫。私を汚い、臭い浮浪者扱いしたその女共が、キャーキャー言い始めまシタ。携帯電話を取り出して写真を撮り始めまシタ。そして……ああ、ダメです、涙があふれて、身体が震えて……鷲人さん、この先を言ってください」
「……猫に食べ物をあげたんだね?」
必死に生きている自分を汚いと拒否した人間が、目の前で猫を可愛い可愛い言いながら餌をあげる、そんな想像しただけで死にたくなるような、地獄のような光景。その光景が脳裏に焼き付いているのだろう、彼女は声を出そうとしても出せず、パクパクと金魚のように口を動かし続ける。それでも彼女は語り続けるつもりだとわかっていたから、頑張れと心の中でエールを送った。
「はー、はー、やっと声が出せまシタ。そうデス、私は猫に負けたんデス。それまでは、私もその辺の猫を見て、可愛いと思って近寄って逃げられるような微笑ましい関係が続いていまシタ。食べ物を売っているお店を見ても猫なんて売っていなかったから、猫は食べられないんだって思ってまシタ。でも、その瞬間、私の中で何かが弾けたんデス。ご飯を食べている猫を、それを微笑ましく眺める女共の目の前で、ナイフで何度も刺して殺しまシタ。つい数時間前にあったような、この世の全てを呪うかのような表情で。我に返って辺りを見まシタ。キャーキャーと悲鳴を上げる女共が、私の醜い心を見透かして、見下して、私はそれに耐えられませんでシタ。逃げたかったんデス。自分の感情から、彼女達の視線から。私はライターで猫に火をつけて、少ししてほとんど焼けていないそれに齧り付きまシタ。吐きそうになるくらいまずいそれを食べているうちに、彼女達はようやく私を憐れんでくれたのでしょう、その姿は既に消えていて、食べ物が置いてあるだけでシタ。その日から、今までずっと、私は、言い訳をしてたんデス。『食べることが大好きで、そのためには平然と動物を殺す女の子』なんてどこにもいなかったんデス! いたのは『食べるためだと言い訳をして、負の感情を誤魔化して動物を殺す馬鹿女』だったんデス! うぇえええええええ、えぐ、いぐっ……」
その日から彼女にとって食事とは、言い訳でしか、逃げでしかなかったのだろう。ガツガツと食事をするのも、目の前にある奪われた命を直視することができなくて、早く処理したかったからなのだろう。わんわんと泣き続け、涙も枯れて喘息患者のようにゼーハーと息をする彼女に、お茶を注いだコップを手渡す。コクコクとそれを飲み、大きく深呼吸をして、再び口を開く。
「……でも、記憶を封印してまで自分を騙しても、限界があったんデスね。大人になるにつれて、自分でもおかしいって思ってたんデス。人間に愛されている動物が憎くて、時には殺して、最初から食べるために殺したってことにして、そんな妄想と現実をごっちゃにするような女は、とうとう猫を食べて、全てを思い出して死んだというわけデス。めでたしめでたし」
真実をひとしきり話した後、俺の方を向いて、しかしすぐに目を逸らす彼女。今の彼女にとっては、俺すら眩しくて直視するのが辛いのだろう。それでも彼女はもう逃げたくないのか、ゆっくりと俺を見据え、俺もそんな彼女に応えるべく、恥ずかしがることなく彼女を見つめる。
「……私、男に依存しないと立ち直れないような女じゃないデス。自分の負の感情を受け入れて、それでいて大人の女としてそれを堪えて、命を頂くことに感謝して、前に進みマス。でも、うさぎは寂しいと死んじゃうんデス。見ていてくれマスか?」
「ああ、傍で見守るよ。だから一緒に前に進もう」
告白に対してお決まりながらもクサい台詞を返すと、ぴょんと跳ねるように、一歩踏み出すように抱き着いてくる、フレミッシュジャイアントよりも大きなうさぎであった。
「いただきマス」
学食で俺の目の前に座るうさぎのトレーには、かつ丼が置かれている。反動でベジタリアンになったなんてことは勿論無い。変わったとすれば、彼女がその辺の動物を殺して食べようとしなくなったことと、前よりも綺麗に、美味しそうにご飯を食べるようになったことくらいなものだ。些細な変化かもしれないけれど、人を変えるには、人が前に進むには、そんな些細な変化でも十分なのだ。ついでに俺も、下らない趣味から卒業した。所詮は可愛い彼女がいればどうでもよくなるようなパトスだったから。
「ごちそうさまでシタ……あの猫のお墓を作ろうと思うんデスけど、名前つけて無かったんデス。戒名、何にしましょうか」
「そうだね……あっ」
食べ終わった後、悲しげな顔をしながら、案の定名前もつけていなかった、生前愛情なんて無かったであろう猫の話題を口にする。お墓を作れば、供養をすれば許されるというわけではない。食べることと同じく言い訳でしかないと批判する人もいるだろう。しかし今の彼女は自らの罪を受け入れて反省をしている。だから意味のある行為なのだと信じて名前を考えているうちに、自分のトレーにある、まだ飲み切っていないそれが目に付く。
「いい名前思いつきまシタか?」
「いや、これはちょっと、そもそも俺が考えた名前じゃないし……うーん」
「気になりマス、言ってください」
「そうね、気になるわね。私のネーミングセンスにケチをつけた人は、どんな素晴らしい名前をつけるのかしら」
気づけば鹿野さんが隣に座っており、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら俺のトレーにあるそれを見る。うさぎのキラキラした視線と、鹿野さんのニヤニヤとした視線から逃げることはできず、観念した俺はそれを一気に飲み干した後、猫の戒名を告げるのだった。