妖精が旅に出るまでの物語
妖精の体長は世間一般的に人間の手と同じくらいだと言われている。しかし妖精にも種類があり、個体差があり、個性がある。人間と同程度の大きさを持つ妖精も少なくはない。
共通していることと言えば背中の羽で魔素を操り、自在に空を泳ぐこと。人間とは比較にならない災害級の力を持っていること。水さえあれば食事がなくとも生きられることだ。
とは言え、決して空腹感がないわけではない。あくまでも生きられるだけであって、食欲がないというわけではないのだ。当然その気になれば人間の料理を食べることもできる。
まあ、妖精は滅多なことでは森から出ない種族なので、人間と関わる機会なんてそうそう起こり得ないのだが。
「……アレ、何だろう?」
大樹の枝に座って空を見上げていた少女、トゥーラ・トルテニスも、人間を知らぬ妖精の一人だった。
森の周囲には強力な結界が張ってあるし、森の中には魔物がいて、普通の人間ではまず太刀打ちできない。それに妖精の集落がある世界樹には加護の光――『幻光』と呼ばれる天然の魔法が常に展開されているため、外部から集落を見つけることは決してできないようになっているのだ。
「……何かが、落ちてくる。何だろう。二つ……人間?」
しかしこの日、妖精が住んでいる森の一つ『精霊樹林』を訪れたのは普通の人間じゃなかった。遥か上空から悲鳴を上げて落ちて来る人間なんて、絶対に普通じゃない。
恐らく相手も落下の衝撃を恐れて何らかの結界を張ったのだろう。森の上から結界と結界がぶつかる音――硝子が粉々になるような破砕音が響いた直後、二つの影が勢いを殺しきれぬまま妖精の集落に激突した。
「いってぇええええええええええええええええええええええええっ!! おいこら馬鹿魔王! 何やってんだよ。全然無事じゃねぇだろうが!」
「知らん! 何かが私の結界を阻害したのだ! 何者かの陰謀だ! 私は悪くない!」
「大体お前がもっとよく空の景色を見たいとか言って甲板から身を乗り出すからこんな目に遭ったんだろ! しかもご丁寧に俺の腕を掴んで巻き込みやがって!」
「何を言う! 最初に身を乗り出したのは君の方だろう! 更に言えば船室が退屈だから外に出たいと言ったのも君だ! 日陰者の君は大人しく暗い場所に引き籠ってればよかったのだ!」
「黙れ変態! 全身黒尽くめなんて如何にも怪しい恰好しやがって! お前を見た小さな子供が全力で泣き出したのをもう忘れたのか!」
空から落ちて来た割には元気である。
二人の男はまだ若く、どちらも妖精たちには見られない黒い髪と同色の瞳を持っていた。
そのうち一人は黒いローブ姿で、黒いズボンと黒いブーツ、よく見れば中のシャツや腰のポーチ、両手に嵌めている手袋までも真っ黒だ。なるほど、もう一人が黒尽くめと言った理由がよく分かる。ではそのもう一人はどうかというと、こちらは白いシャツの上から少々丈の短い砂色のコートを羽織っており、下には薄い鼠色のズボンを穿いている。
妖精のトゥーラには分からなかったが、砂色のコートに関しては割と高級な代物だった。
「あんたたち、よくこの状況で暢気に喧嘩なんてできるわね。もっと他にやることがあるんじゃないの?」
気が付けば、トゥーラは自分から人間の二人に向かって話し掛けていた。
このままじっと観察していても良かったのだが、そうすると彼等の不毛な会話がまだまだ続くと思って嫌気が差したのかもしれない。それに初めての人間だ。遠くで眺めているだけなんてつまらなさすぎる。
なにせトゥーラは物心付いた時から外界に、そして人間に興味を持っていたのだから。
「うお!? おいハル! あそこを見ろ! パンツ晒しながら冷たい目でこちらを見下す痴女がいるぞ! 魔王の眼力によるとあれは縞々パンツと見た!」
「はぁ? そんなもんで興奮するとか何考えてんだお前……まあ、世間一般的にはいい眺めなんじゃねぇの? もうちょっと足を開いてくれればいいのに」
「きゃあああああああああああああああああああああああああああっ!?」
ただちょっと、人間は自分が憧れていたものとは違うのかもしれない。
顔を真っ赤にしてスカートを抑えたトゥーラは、慌てて大樹の枝から幹の後ろに隠れる。それから羽を動かして大樹の根元まで急降下すると、恥ずかしそうに俯きながら改めて男たちの前に姿を見せた。
「あ、あんたたち……何をしにここへ来たの?」
「チッ。サービスショットはお預けか」
「いや、単に飛空艇から落っこちただけだけど」
まともな答えを返したのは、黒尽くめじゃない砂色コートの男だった。
「ひくうてい……って、時々空の上を横切るおっきな船のこと?」
「ああ、それで合ってる。ていうかさっきからちょっと気になってるんだけど……それ、飾りじゃないよな? まさか本物の羽?」
「それは私も気になっていた。もしや赤い髪の御嬢さん、君はあの妖精なのか?」
トゥーラが初めての人間に戸惑っているように、どうやら男たちも彼女の姿に戸惑いを覚えているようだった。しかしよくよく考えてみればそれほど不思議なことではないように思える。だって、妖精が今まで人間を見たことがないなら、その逆があってもなんらおかしくはないのだから。
「どの妖精のことを言ってるのか分からないけど、あたしは妖精よ。名前はトゥーラ・トルテニス。あんたたちは?」
「ふはははは! 聞いて驚け! 私は闇に生きる者、魔王だ!」
今度は先ほどと打って変わり、トゥーラの問いに真っ先に答えたのは黒尽くめの男だ。最早条件反射とでも言わんばかりの反応である。
ちなみにトゥーラは人間の本を読んだことがないので、『魔王』が多くの物語に登場する定番の悪者だとは微塵も思っていない。だから何も疑わず、素直に「マオー」というのが彼の名前だと解釈していた。
「……はぁ。馬鹿魔王、もっと大人しくしてろ。相手はあの妖精だぞ。しかも話に聞いてた奴よりずっとでかいじゃねぇか。掌サイズで災害級なら、人間サイズのこいつはどんだけやばいんだよ」
「君は相変わらず臆病だなぁ。そんなに怖いなら寧ろ友達になってしまえばいいのだ! 殺られる前にな!」
「何か酷いこと言われているような気がするけど、妖精だっていろんなのがいるのよ? 別に名前が気に入らないからグチャミドロに解体するなんて言うつもりはないわ。……ほら、あたしたちはもうやったんだから、あんたもちゃんと自己紹介しなさい」
不思議な男たちだった。
初対面であるにも拘らず、まるでずっと前から交流があったような、そんな雰囲気を纏っている二人。だからだろうか。最初から軽口を叩いても、皮肉を言っても許し許される関係だと思えてしまう。
「……やれやれ。女の子がグチャミドロとか怖い擬音語使うなよ。俺はハル・クリフト。十五歳でこれから学生になる予定だ。これでいいか? えーと、トゥーラさん?」
「呼び捨てでいいわ。あたしも同い年だし」
「フッ。実は私もなのだ」
「知ってるよ。で、今更質問があるんだけど……ここどこだ?」
そうして三人で話し込んでいる間に、長老を筆頭とした大人の妖精たちが大樹の周りに集まりだした。
トゥーラと同様、人間に興味を持っている者、逆に無関心な者、警戒している者、怯えている者、「あらやだ、迷子かしら」と心配している者、実に様々である。
流石のハルたちもその数には肝を冷やしたのか、さっきよりもずっと畏まったように姿勢を正していた。
「人間よ。どうやら我等を害するつもりはないようじゃが、何用でこの地を訪れたのかな?」
「あー……その、トゥーラにもさっき話したんですけど、俺たちは飛空艇から落っこちただけなんです。ぶっちゃけ用事とか目的はありません」
「馬鹿ハル! 相手は妖精だぞ! もっと謙れ! 殺されるぞ!」
「ふむぅ。何か酷いことを言われているようじゃのう」
とりあえずハルの話によるとこういうことだった。
二人は今まで小さな田舎町で暮らしていたが、今年からとある養成機関に入るため、飛空艇に乗って都まで向かう途中だった。しかし初めての飛空艇に興奮しすぎたあまり、物を壊し、子供を泣かし、船員に怒られ、弁償代として甲板の掃除をすることになり、誤ってこの森に落下したのだと。
他にも魔王は強制的に、自分は違うけど無理矢理行かされる立場だから実のところ乗り気じゃないとか、ただでさえ少ない小遣いがもっと減らされるから仕方なくとか、殆ど個人的な愚痴を零していた。
「……何ていうか、よく分からないけどあんたたちが馬鹿だってことはよく分かったわ」
「すまぬが同感じゃ」
しかしこの胸の高鳴りはなんだろう。
外界から来た人間から、曲がりなりにも外界の話を聞かせてもらった。トゥーラの好奇心は爆発的に大きく膨らみ、彼女の脳裏にある願望を抱かせ始めていた。
「――ねぇ。あたしもあんたたちと一緒に付いてっていい?」
「え?」
「構わんぞ」
馬鹿扱いされて落ち込んだハルは、一瞬何を言われたのか分からなかった。逆に魔王の方は何も考えず即答で返す。そして長老や他の妖精たちは彼女の決意に驚いていた。
「……トゥーラ。妖精は人間とは違う」
「長老……」
「妖精がなぜ森から出ようとしないか、お前も知らないわけではないじゃろう?」
この集落では聞かないが、掟として森から出ることを禁じている集落は珍しくない。その理由は先ほど長老が言った通りだ。
出ようと思えばいつだって外へ出られるのに、妖精は進んで森から離れようとはしない。
――だって、妖精と人間は違うから。
人間が何を考えているのか分からないから。知らないことは怖いから。だから森から離れない。例え外に興味があっても、実際に外へ出ようとは思わない。長老が反対するのも当然だ。
しかしそう思えば思うほど胸の中が苦しくなる。こうして実際に人間と会って、ちょっとだけ仲良くお話をして、ようやく外へ出たいと思ったばかりで――外に出られないなんてあんまりだ。
「それでも外が見たいと言うのなら、思う存分見ておいで」
だからそう言われた時は驚いた。嬉しさよりも先に、純粋な驚きがトゥーラの胸中に広がった。
「本当の意味で森から出ることを禁じている集落はない。なぜ出てはならないのか、なぜ人間と距離を置いているのか。重要なのはそれで、それが絶対というわけではないのじゃ。……それに時代はいつだって変わりゆくもの。若い世代が外へ出たいと望むなら、それもいいのかもしれん」
正直何を言っているのか分からなかったけど、長老の声音はとても優しかった。
今は分からなくてもいい。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、苦しいことも、全ては経験して初めて理解できることだから。そこから生まれた後悔と反省を繰り返して、妖精も人間も成長していくものだから。
長老はそんなことを言ってトゥーラの頭を撫でた後、黙って成り行きを見守っていた二人の人間に頭を下げた。
「と、言うわけじゃ。こちらだけで勝手に決めて申し訳ないが、どうかこの子を外に連れて行ってはくれぬか?」
二人は即答した。特に何かを考えている様子は全くなかった。
「好きにしろよ。別にこっちは断る理由なんてないしな」
「ふんぐぬぅ……っ! よく分からんが感動した! いいだろう!」
こうして、妖精は外の世界へと旅立った。
とりあえずは二人の人間に付いて行き、彼等の目的地があるという、人間の都に向かって。