神様は飯ン中にある
「あなたの魂に安らぎあれ」――神林長平
その男は日曜の昼間、アベックたちが団欒する公園のベンチでカップラーメンを食っていた。禁制品特有の化合物臭が周囲に漂う。その証拠に、その男の座るベンチの右端で無添加野菜のサラダを食べていた女の首筋に取り付けられた介入機が赤くなったり黄色くなったり、うるさいくらいに警告を発している。弱々しい風が肌を撫でる。こちらは風下だ、おれは身構えた。
『現在使用が禁止されている化学調味料の香りが三種類検出されました。継続的に摂取/吸引し続けることで発がんリスクが3・10^-7%上昇すると見込まれます。ただちに摂取を取りやめるか、介入機を操作し……』
ほうら、また口やかましく始まった。おれは頭のなかで鳴り響く警告メッセージにくそったれと悪態をついて、男の半径五〇メートル以内にいた、おれと同じ憂き目にあった人々がぞろぞろと立ち去っていく様子を眺める。触らぬ神に祟りなし、面倒は巻き込まれないに限る。男は現代のカインだった。しかし、おれは頭に血が上っていた。
ポケットの中握っていた無味栄養食のスティックが袋の中で折れた感触がした。敏感な鼻が捉えてやまない油と化学調味料の混じった臭いはおそらく介入機を使っても当分記憶から消すことはできないだろう。おれが介入機を用いてこのスティックを極上フレンチの味と匂いに錯覚させても無意味だ、計画がまる潰れだ。
頭に血を上らせたおれはポケットから手を出し、気を紛らわすために手を握ったり開いたりしながら、男に近寄る。どうやっても声が聞こえるであろう距離にまで近づき、おれは文句をいう。
「おい、違反者。そういうのは家ン中でやれよ。迷惑なんだよ、このやろう」
静謐を怒声が食い破る。しかし男はどこ吹く風で、割り箸で細く縮れた面をバケツ型の器から掴み、ずるずると啜るばかりだ。生肌色をした、おそらく添加物たっぷりの小麦から作られた麺が男の口の中に消えていく。音も立てず、何度か咀嚼して、飲み込む。
「うまい」
男が満足そうに呟いた。心なしか残りの麺を啜るペースが早くなっている。おれからしたら、信じられない。どんな味かも想像がつかないげてものを食べて、うまい?
「おい、こっち見ろよ。なにスカしてるんだよ」
また、男は麺を啜った。見たこともない色のスープが数滴跳ね、おれは慌てて後退る。
「ケンカ売ってんのか」
男は何も答えず、器を傾けると、ずずずっ、とスープを飲む。二度、三度と繰り返し、ふう、と男は息を吐いた。器は空になっていた。教科書の中にしか見たことのない、ハイポリマーのバケツ型容器。男は割り箸を半ほどで割って器に放り込んだ。大切そうに、自分の座る隣に置くと、両手を胸の前で合わせた。
「ごちそうさまでした」
つ、と綺麗な所作でお辞儀をする男の首筋で、銀のチェーンが真昼の陽光に煌めいた。おもわずこちらが居住まいを正してしまうほど、無駄のない動きだった。その男の双眸が、ついにおれに向けられた。
底の見えない黒い瞳。その佇まいからして、ただ者ではない。一介の高校生が突っかかっていい相手ではなかったと、頭を冷やしたおれは肝を冷やした。
「少年、――」
野太い、しかし品のある声。ひへ、と変な音がおれの喉から漏れた。おれは萎縮していた。
「食事中に話しかけるなどと、無礼だとは思わないかね」
「す……すみません」
おれは即座に謝っていた。頭を下げているので男の表情がうかがえず、おれは心底びくついた。
ざ、と時代錯誤な草履が殺菌アスファルトを擦るのが見えた。視界の端で一歩、また一歩と距離を詰められるたび、おれはいつ土下座すればよいだろうかと考えた。痛い思いをするのはごめんだ。クラスに一人や二人はいるツッパリやろうとは違い、おれは生まれてこの方他人との接触なんていう破廉恥な行為を経験したことがない。こんな形ではじめてを失うくらいなら死んだほうがマシだった。
厭な妄想ばかりしていたおれの予想に反し、男は立ち止まった。おそるおそる顔を上げると、クロサワ・フィルムに登場しそうないかついギョロ目がおれを見つめていた。おれは蛇に睨まれた蛙になった。真夏でもないのに、汗がびっしょりシャツを濡らしている。男の上唇を覆う髭に、カップラーメンの具だろうか、白い下地のうずまき模様が張り付いていたが、笑える雰囲気じゃない。
とうとうおれが土下座しようと膝を曲げた時だ。
「少年、確かにお前の言うとおりだ。すまなかった。しかし、少し質問に答えてくれ」
す、と頭を下げた男が言った。おれは呆気にとられた。真摯な態度を取る男だと、おれは認識を改めた。顔を上げた男の髭は少し濡れていた。うずまき模様は、ない。出し抜けに男は口を開いた。乱杭歯の隙間、色の濁った舌が蠢くのがやけにハッキリ見えた。
「少年、それをいつからつけている」
男が介入機を見ながら訊いた。不可解な質問におれは戸惑う。
「いつからって……そりゃ、子供のころからだよ」
「具体的にいつのことか思い出せるか」
「子供のころは子供のころだろ、何言ってんだあんた」
「答えてくれ、少年」
おれにはちゃんと名前がある、少年じゃない。反論しようとしたおれは、ぐっと言葉をのんだ。触らぬ神に祟りなし、だ。違反者が通報された時、その関係者だとして厄介事に巻き込まれたくはない。おれは男の言葉に従うことにした。
首筋に人差し指を当て、認証を行おうとしたところで、男は慌てて口を挟んだ。
「ログを遡るんじゃない。自分の頭で、遡るんだ」
「はぁ……? 記憶をたどる、ってやつか」
「そうだ。介入機に頼らず、自分の言葉で、いつ、誰が、それをつけると決めたのか教えてくれ」
「いいけど……おじさん、これの使い方、わかるんだ」
「当然だ。私も昔はつけてた」
そういうと男はぼうぼうに伸びた横髪を上げて首筋を見せる。確かにそこに、端子があった。教科書を参照しなくても解る、初期型の神経埋込対応だ。
「すげ……アンティークものじゃないか」
「いいや、ごく最近のものさ。職務上の理由もあったが、当時の流行りだからと私も取り付けたのさ。今でも昨日のことのように覚えてる、まだ私が私をしっかり認識していた頃だ。それより思い出せたか、少年」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ……」
おれの使う介入機の端子は、同じ形状でも神経接続型だ。この型番以前のものは、数年前のアップグレードで一掃されたと思っていたのに。記憶のことより、いまは巡りあうことができるかわからないレア物との遭遇を共有したかった。だが介入機を操作したら男に文句を言われるし、それこそ、違反者と一緒にいたところをネットに投稿するなんて、リテラシーに反する。
そうだ、リテラシーだ。
おれは、この質問の答えをひらめいた。リテラシーの授業で習ったことだった。記憶をたどるまでもない、なんてことはない質問だった。
「介入機を取り付けるのは六歳の夏だ。だから、おれも六歳の夏に同期した」
どうだ、人を小馬鹿にしやがって。先ほどの意趣返しというわけだ、だがそうはいくか。してやったりと思っていたおれの予想に反し、しかし男は悲しそうに呟いた。
「思い出せない、か……」
さっき消えた反骨精神が再び沸き上がった。
「思い出せないのも当然だろこのやろう、こちとらガキのころからつけてんだ。てめえだってケツが青かったころを思い出せないだろ、あぁ?」
「その紋切り型の言葉遣いもそうだ。君は本当に考えながら話しているのか」
「当然だろうが、ケンカ売ってんのかこのやろう」
「わかった、君の言葉遣いはもういい。場所を移そう」
男は下町方面に歩き始めた。立ち去ることも考えたけど、おれは後を追うことにした。中途半端はやりすぎよりもつまらないと、リテラシーで学んだのを思い出した。
それからしばらく歩いた後、境目におれたちはたどり着いた。男は無人検問の本体――一メートル四方の正方形だ――の入力端子に両面ジャックの片側をつけ、もう片方を自身の端子に差し込んだ。それから一秒もたたないうちに取り外し(ジャックアウト)、何事もなく境界を越えた。しばらく歩くと、真昼であるのに華やかな光がけたたましい区画が見えてきた。下町だった。入場門を、おれと男はくぐり抜けた。
都心部よりも雑多で騒がしいネオン通りをおれたちは歩く。VR広告が一切なく、昔懐かしい実体広告が所狭しと道の両側を覆っている。迷子になってここに来た後、ママやパパに入っちゃダメだと禁止されて以来立ち入れなかったから、まるでストリートビューで知らない街を歩きまわっている時のようにわくわくしていた。なにもかもがが可動するなんて、こんなの都心のどこへ行ったって味わえないアトラクションだ。
「ルービンリキ、ケオラカ……ああ、カラオケのことか。なあ、どこまでいくんだよ」
「いいから、ついてこい」
男は脇目もふらず、ただまっすぐ街道を南下する。こんなに面白いものばかりなのに、興味を示さないなんて。男はこの付近に住んでいるのだろうか、とおれは考えた。そうならば、初期型の神経埋込を使っていることにも説明がつく。
パパとママは、下町に行くことを嫌がった。不潔、だそうだ。俺は町並みを見ながら、当然だろうと納得する。道路は一世紀前主流だった礫アスファルトで、殺菌素材は見当たらない。殺菌という標語を練り固めたような都心部と大違いだ。道行く人の服装も、一見同じのように見えるが、どうやら材質が一世代ほど古いものだ。自浄作用も存在しないから、きっと雑菌だらけだ。
「ここの人たちはみんな病人なのかな」
「……どうしてそうおもう、少年」
「だって、菌がたくさんいるんでしょ、この区域」
「その思念の数はいかに大きかな。我これを数えんとすれどもその数は沙よりも多し……なれど菌に思念なし。菌がいなくとも、人間は病気にかかる。非殺菌地区の住人は必ずしも病人ではない」
「知ってる。けど、菌がいたら感染確率は高いって。殆どが病人だって」
「リテラシーか?」
「うん、みんな知ってる話だ」
雑多だった街並みは次第に法則性を示しだす。どのような店か想像はつかないが、ホテル、休憩の文字が店頭の看板に並び始めた。一泊三Kだなんて、ボッタクリもいいところだ。都心のカプセルホテルのほうが安い。左右どこを見てもそんな様子で、時折タバコをふかす女性がぼんやりこちらを眺めていた。その中の一人と目が合う。おれは会釈した。
にこりと、口元だけが微笑んだ。美人なのに、どこか虚ろだった。その仮面の下に何かが詰まっているように、おれには見えなかった。背徳の住人だ、会釈する価値もないとおれは後悔した。
男は突き当りにあるホテルの前で足を止めた。値段は今まで見た中で一番安かった。おれは震え上がった。この男ははじめからこうするつもりだったのだ。おれは慌てて回れ右をしたが、その腕を掴まれた。
「離せ変態、ママにも掴まれたことないのに!」
「落ち着け少年、こっちだ」
「やめろ、よせ、お願いします許して……」
じわりと涙が瞼を覆い、視界はピンクのネオン一色だ。もうどうにでもなれ、腕を掴まれてしまった。おれは許されざる罪人の烙印を押されるに違いない。隣に立つのがイヴでなく、狡猾な蛇であることが悔しかった。おれは歴史に学べなかった。
「少年、おまえは食事をしたことがあるか」
体をこわばらせてもずりずりと、おれの体は引きずられる。おれは葦になることにした。尊厳こそ人を人たらしめるのであれば、それを捨てることでおれは人でなくなり、全ての背徳は是となるのだ。リテラシーで学んだマニュアルだった。
「少年、答えろ。これから飯を食うんだ。初めてならば覚悟しておいたほうがいい」
「……なに?」
男の言葉に、おれは耳を疑った。我に返って辺りを見ると、薄暗い路地だった。ネオンの光は遠くに消え、状況を認識した俺の鼻を、嗅いだこともない臭いがつんざいた。反射的に介入機に指を伸ばしていた。認識、嗅覚介入。擬似信号が走り、ラベンダーの香りが鼻腔を満たす。おれは安心して大きく息を吸い込み、げほごほと噎せた。ラベンダーの香りなのに。
「馬鹿野郎、臭いは誤魔化せても物理的な粒子は誤魔化せん。こんなところで深呼吸なんかしたら脳は騙せてもそれ以外のところが生理的に反応するんだ。はやく介入機を切れ」
「なんで」
「脳が混乱するからだ、少年。だいたい、都心部ならまだしも、こんな雑多な場所では負荷が大きすぎる」
介入機は受容体に阻害物質を結合させるわけではない、電気的に割り込みをかけているだけだ。リテラシーで習ったことを今更ながら思い出す。だがおれの不覚は男のせいだと思うと、怒りがふつふつと湧いてきた。
「なんで連れてきたんだよ、もう帰してくれよ」
「壁に耳あり障子に目ありと昔は言ったが、今の時代、空気にも耳がある。私がする話は知られてはいけないのだ」
「一体誰に」
男は答えなかった。ゴミ箱が倒れて散乱した残飯に、ネズミが群がっている。これも、リテラシーの教科書にしか見たことがない生き物だ。実在していることへの驚きより、そこを引きずられていくことの恐怖が勝った。おれは慌てて男の手を振り払い、立ち上がった。制服の裾は真っ黒に汚れていた。それはおれの罪の証拠でもあった。これでは都心に戻れない。おれはいつの間に、知恵の実を口にしていたのだろう。母が寝物語で語った創世記を思い出す。アダムとエバは過去だ。しかし今や、おれこそがアダムだった。
「少年、ログを遡ってもいい。接触禁止法の条項を読み上げてみろ」
おれの思考を見透かしたように、立ち止まった男が言った。その足元をネズミがうろついている。革靴をかじろうとした灰色が蹴飛ばされ、宙を待った。ネズミは血を吐いて残飯の中に横たわった。そいつに、多数のネズミが群がった。
「とにかく読み上げてみろ、少年。参照するだけでもいい」
男が苛立たしげに眉をしかめ、鼻をすすった。男もこの環境を嫌悪しているのが、その周囲に向ける敵意でわかった。おれは男が、己の罪に気づいたカインに見えた。
認証、嗅覚介入を切断し、クラウドに接続。まもなく接触禁止法の条項が出力された。おれはそれを一文ずつ読み上げていって、違和感を覚える。未成年者への合意なき性的接触の禁止、暴力行為の禁止、過度のスキンシップの禁止が描かれていたが、どこにもママが言ったような、他人に触れてはならないなんていう文章はなかった。
「わかっただろう、少年。私の行為は違法ではなく、君もまた罪人ではない」
「でも、ママはおれに教えたんだ。他人に触っちゃダメだって。健康を守るためにも、お互いの関係をうまくするためにも」
「少年、母は神ではない」
男が静かに告げた事実は真実だった。おれは絶句した。
「とにかく行こう、長居はしたくない。君も一泊するわけにはいかないだろう」
「あ、ああ……」
おれは混乱していた。ママがおれに告げた嘘が為す意味を、考えていた。経典を都合の良いよう解釈し、息子を欺くその姿は、もはや母ではない。母は背信の徒なのか? 男がおれを気にせず先に進んでいくのをみて、おれは慌てて追いかける。今は考えまいと決め、ふと蹴り飛ばされたネズミを思い出した。おれはあの哀れな生命の残滓を、汚物の山から探し出す。果たしてネズミは埋没していた。
そいつは食い散らかされ、その臓腑を剥きだしていた。
狭い裏路地を抜けると、未舗装の大地が広がっていた。辺りには露天が立ち並び、時代錯誤な瓶詰めジュースやパックされたポテトチップスが並べた店や、印刷された書籍を売る店もあった。どいつもこいつも違反者ばかり、首筋に端子がないやつが大勢いた。おれは縮み上がった。おれはこの空間の異物であり、やつらは追放者ではなかった。
タンクトップに短パンの幼い子どもたちが、おれの前を横切った。白と黒のまだら模様のボールを蹴って遊んでいる。それが普段良く使うサッカーボールだと気づくのに時間がかかった。なんせそれは、白いゴムボールに、たぶん油性マジックで色を付けただけの贋作だったからだ。
おれはボールを目で追った。細い足が、軽快にボールを蹴り進む。後ろにつく少女は息を切らして食い下がる。プロやVR選手とは比較にならないほど緩慢な走りだったのに、その背中に生命の躍動が顕れていた。
「何してる、少年。こっちだ」
「いま行くよ」
男に返事をして向き直った時には、その姿は砂塵の舞う大路に消えていた。おれは踵を返して、男についていく。男は少し歩調をゆるめた。それでおれは余裕ができて、その背中にぴったりくっつきながら、逆流する雑踏を眺める。右も左も人ばかり、たまに混じるのは犬や牛。どいつもこいつもおれの顔を一瞥しては、すぐ前を向きやがる。誰ひとりとして、おれと同じ進行方向に進んでいない。おれが逆走しているのだと気がついた。
おれは去りゆく人々を眺めた。誰ひとりとして同じ格好をしておらず、汚れているのにぎらぎらした目をどこかに向けている。敵意でも闘志でもない、初めて見る感情が、雑踏の住人に宿っている。あの小さな背中を、おれはその中に見出した。
「少年、メシを食ったことはあるか」
歩きながら、首を動かしておれを少し見ながら男が訊いてきた。
「また質問か……食ったことくらいあるさ、米は今じゃあまり食べられていないけど」
「白米・玄米のことではない。食事だ」
「ああ、そっちか。そりゃあ、おれだってあんたと同じ人間だ。都心にいたって、下町にいたって、だれだって飯を食って生きている」
パンは神の肉であり、ワインは神の血である。おれたちは神に近づくために食事をとる。食事は生命の滋養であり、生命は食事によって成る。当然のことだった。この男も神経埋込をしているということは、昔は都心にいた神の子だったはずだ。こんな常識も忘れるくらいに、長く外で暮らしているのだろうか。
「介入機を使わず、味や香りを擬似信号でごまかさずに食べた最後の食事は?」
「取り外すのは、寝るときくらいだろ。そんなのあるわけないよ」
「だが、生まれながらにして介入機をつけているわけではない。お前が最後にとった食事は、なんだ」
思い返す。しかし、記憶に薄靄がかかっていた。その先に答えがあるのがわかっているのに手が届かないもどかしさに苛々する。苛々は悪だ。おれは介入しようとして、男の言葉を思い出す。ここは都心ではない、何が副作用のトリガーになるのかわからなかった。
おれは、介入機なしで生きていけるのか? 砂埃が目に入り、生理的涙が下瞼に溜まる。首筋に伸びた人差し指で、おれは涙を拭った。湿った肌に、砂塵がふきつく。こすろうとして逆効果だと気が付いて、どうにかすることを諦めた。
「質問を変えよう。お前は、食事を何だと思う」
「食事とは、生命だ」
「では生命とは何だ」
「生命は、おれだ。おれやあんただ」
「私は、私だ。私とお前は違う人間だ。生命という定義付けだけでその差異をどう語る」
「その違いこそが生命だろう。神の子アダムとその分身エバは楽園を逐われ、地に生を満たした。その末裔たる人が、おれたちだ」
「それはリテラシーによる規格だ。おまえは、どう思っている」
「だから、食事は生命だ」
「お前の言葉で語るんだ。本当に、心底から、そう思っているのか? それとも、考えたことがないのか?」
男は前を向き、ペースを早めた。おれは合わせながら、考える。食事は生命だ、これは、おれも納得している。だが生命とはなんだ? 生命とは、おれだ。だが、生命という言葉はおれという意味を定義しない。おれは人称であり、生命は、生物に宿るものだ。では、おれをおれたらしめるものこそが、生命というべきだ。では、食事とは、なんだ?
食事こそが、おれを、おれたらしめるのか?
「着いたぞ」
考え込んでいたおれは、立ち止まった男の背中にどんとぶつかった。硬い筋肉は、しかし弾力もあり、おれはあまり痛みを感じなかった。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……」
「お冷をもらえる。一杯飲んで、少しゆっくりしてから注文を行おう。そうそう、介入機は切っておけよ」
「え、え……」
「よう、オヤジさん」
「いらっしゃい!」
暖簾の奥に頭が消え、その煤けた革ジャンの背中だけが見える。カウンター席だとわかった。男が裂けた隙間からスポンジの飛び出た安っぽい椅子に腰掛けるのが見える。ヴィンテージ・ジーンズだった。おれはしばし立ち止まり、あたりを見回す。からっ風が砂埃を上げる、麺類を提供するには最悪の環境とも言える場所だ。常識で考えて、ここで飲食店を、それも露天という形で営むやつは、ばかだ。
そして、男と、男の言うオヤジは、ばかを通り越したなにかに違いない。
白地の暖簾に「巨砲拉麺」の文字が、赤く染め上げられていた。
……今すぐ回れ右して、帰ったほうが身のためかもしれない。なんせ、野犬や牛が往来をゆく大通りの、路傍の露店だ。埃混じりのスープに、歩く犬や牛をひっ捕らえ、その場で捌いて提供されるチャーシューもどきがぶちこまれ、そこにいつ作られたかもわからない生麺が叩き込まれる様子を想像する。出来上がるのは、名状しがたい冒涜的ななにかだ。おれはそれを食べるくらいなら、父の言葉に従って神の生け贄となろう。
だが、異臭ばかりを嗅いでいたおれの鼻が、今まで経験したこともない、言葉にしがたい香りを捉えた。豚骨、だろうか。しかし、なんだ? この、お高く止まったところのない、けれどおれの心を掴んでやまない香りは? 自然、ごくりと湧きでたつばを飲み込む。気づけば、おれの足元に野犬がまとわりついていた。おれの膝ほどまである、日本雑種。気の良さそうな顔をしたそいつを、おれは恐る恐る撫でた。くぅ、と鼻を鳴らしたそいつが、べろりとおれの手のひらを舐めた。
「うわっ」
「わうっ」
「人の悲鳴に返事をするなっ」
「おい、入らないのか少年」
「いま行くよ!」
おれはこの犬が出されてはいやだと思って、そいつを抱え上げた。抱えた時、そいつの腹に当てた手のひらがざらりとした。瘡蓋だった。しかし、嫌悪感はわかなかった。おれはすでに、知恵の実を口にしてしまったのかもしれない。おれは覚悟を決めて、暖簾をくぐった。
中は意外と広かった。どうやら露店の入り口と思っていたのは、ちゃんとした店の入り口だったらしい。砂塵の影もなく、むき出しの岩壁が両手側に見えることを除けば、至って普通の――一世紀ほど前一世を風靡したタイプの――ラーメン屋のそれだった。
男は手前に座っていて、コの字型のカウンターのその中央に、オヤジと思わしき男がいた。頭をすっぽり覆った白い鉢巻に、胸元に日の丸が描かれたシャツ。男に負けるとも劣らないいかつい顔だったが、どこか清潔感がある。糸目の奥に潜む瞳が確認できず、それがこの男に風格を与えていた。
「アンタか」
「ああ、お冷と、いつもの頼む。二つだ」
「三つじゃなくていいのかい」
「え?」
男がはじめて、驚いた様子を見せる。振り向いて、おれの腕に収まる白犬に目を丸くする。なにか言いたそうに口を開いて、酸素不足の金魚のようにぱくぱくさせる。
「ペット禁止かな、ここ」
「犬も人もお客様だ、金さえ払ってくれればな」
湯気をたてる鍋に向かったまま、オヤジが答える。
「介入機、使える?」
「ああ、使えるよ。何だ、奢りじゃないのか」
「流石に悪いと思って」
「律儀な小僧だ。見込があるぞ、おまえ、ここで働かねえか」
「十六歳未満の労働は法律で禁止されてるから、遠慮します」
「オマエさん、まだ中学生か。とてもそうは見えねえや」
「よく言われる」
オヤジにつられておれも笑った。犬を床におろして、男の隣に腰掛ける。ぎし、とパイプ椅子が軋んだ。太ったかな、と制服の下の腹を気にする。受験期だから、気をつけないといけない。オヤジに出されたお冷を、おれは一気に飲み干した。もういっぱい、オヤジが注いでくれる。だいぶ落ち着いたおれは、ちびちびと舐めはじめる。犬が物欲しそうに眺めていたが、やるわけにはいかなかった。おれは右手から向けられる視線に気づいた。男は、怪訝そうに眉の先を下ろしていた。
「なんだよ」
「随分態度が違うじゃないか、少年」
「なんのことだよ」
「わからないか」
「ああ、ちっとも」
「私も、目上だ」
思わず鼻で笑ってしまった。おれは、お冷をカウンターに置いて、パイプ椅子の正面を男に向けた。
「なにが可笑しい」
「あんたがどんな仕事をしてるかわからない限り尊敬なんてできねえよ、違反者さん。いまどき年功序列だなんて、端子同様あんたも骨董品だな」
口をついて出た暴言に、しまったと後悔した時にはもう遅い。男は目を丸くして、おれをじっと睨む。反射的にまた、すみませんと土下座しようかと膝が笑い泣きし始めた。だが、男から怒りの感情は読み取れない。どうしたのだろう。
「とりあえず、犬の分ね。お代はあとでまとめて」
オヤジがカウンター席の左辺を通って、床に寝転がる犬の前に器をおいた。おかずとご飯をいちどに混ぜたような、よくわからないものが横に広い皿に盛り付けられていた。犬は嬉しそうに一鳴きすると、がつがつと食べ始めた。おれはといえば、男のことなど忘れていた。
美味そうな匂いだと、おれの腹が訴えていた。犬ががっついていいようなシロモノじゃない。一元的ではない、多面的に層をなした香り。白飯に絡んだラー油や野菜・肉の汁が独特な味を生み出しているだろうと、想像することは容易だ。だがどんな味なのか、想像がつかない。閉じた口の中、舌に溢れたつばをおれは飲み込む。先ほどの匂いは、これか?
くんくんと、匂いをかいで見る。その瞬間、鼻腔から前頭葉にかけて稲妻が走った。なんだこれは。おれは、目がさめるような思いだった。高級フレンチがなんだというのだ、この匂いの前では、どんな嗅覚規格も無価値だ。飲み込んだはずのつばがまた湧き出す。おれは口を開けないようにするので精一杯だった。
「ご注文は?」
「――――!」
オヤジが話しかけてきた! いま口を開けば、よだれがだらりと垂れるだろう。なんとみっともない、それでは面目丸つぶれ、男にも恥をかかせてしまう。迷惑をかけることは、関係をもつことだ。行きずり以上のものになってはいけない。
どうすればいい。沈黙はむしろ疑念を抱かせる。こんな香りを生み出すオヤジは、さぞ有名な店で修行を積んだに違いない。先ほどの誘いをにべもなく断ったことが、猛烈にもったいなくなった。なんたる機会をおれは棒に振ったのだ!?
「そうか、おまえ、初めてか。メニュー言おうか?」
勝手に誤解してくれたオヤジに心の底から賛辞を送りながら、おれはこくこくと頷く。
「豚骨ラーメン、醤油ラーメン、味噌ラーメン、塩ラーメン、巨砲ラーメン。基本的には、この四種類かな。あ、アンタは巨砲でいいんだよな」
「ああ。その少年にも、巨砲を頼む」
「おいおい……さっきもそうだが、冗談はいけねえ。いきなりあんなふうに味覚を刺激されちゃ、どうなるかわかんねえぞ。アンタも、俺も、責任を取れねえ。どういうつもりだ」
「これも啓蒙の一環だ」
「ったくよぉ、てめえは勝手な野郎だな、オイ。小僧、巨砲でいいだろうな? 好みがあるなら、訊くぞ」
四つの瞳がおれに向いた。おれは動悸が早まりつばは溢れ、震え始めた手を抑えるのに必死だった。犬ががつがつ食べるせいで、鼻先がプレートを押していく音だけが聞こえていた。壁のどこに空気を吐き出しているのかわからない巨大な換気扇も、どこから電気を運んでいるのかわからない蛍光灯も、その間隙にあるシミの付いた天井付扇風機の回転も、どれも無価値だ。食事こそ生命、躍動こそエネルギー。おれの中の生命は、食に向かって放たれんとする鏃だった、それも目いっぱいに引き絞られた。
「こいつ、本当に大丈夫か?」
「私を信じろ、オヤジ。巨砲、二つ」
「巨砲二つ入りましたーッ」
オヤジが鬨の声を上げ、作業にとりかかる。その様子をくまなく眺めていたかったおれを、やはり男が邪魔した。
「少年、深呼吸するんだ」
「ふざっけんな、ンなことしたら飛んじまう……それじゃあ、駄目だ。味わえない」
「この程度でトリップしていては、巨砲など耐え切れん。深呼吸をしろ、少年」
男の目は本気だった。やる気だと、おれは確信した。都心にいては味わえない、一体感が身を包んでいた。おれは男の言葉通り、しかし慎重に、少しずつ息を吸う。過剰摂取したら、一巻の終わりだ。だが、その匂いはやはり強烈だった。
どぼどぼと、鍋に何かが投下される音がする。その一瞬ごとに、世界が色を変える。匂いだけで、軽く達してしまいそうだ。本当にこれは、ラーメンなのか。
「息を吐け、少年」
肺に溜まった空気を、ゆっくり吐き出す。一、ニ、……たっぷり十秒書けて吐き出したおれは酸欠だ。思わず息を吸ってしまい、またあの稲妻がおれを襲った。視界がちかちかし、自然と息が荒くなる。
「恐れるな少年、五感を信じろ」
「……わかった」
はっ、はっ、と犬がこちらを見上げていた。涙でぼやけた視界のなか、おれを見守る仲間がいる。これだ、とおれは察した。犬のように、短く、けれど大量に息を吐き、少し吸う。これが、この食事処における正しい呼吸法か。
「すでに自己表現を始めたか……やはり素質がある。少年、問答の時間だ」
「それに意味はあるのか? おれはラーメンを食うだけだ」
「たかがラーメン、されどラーメン。少年よ、侮るなかれ。我々が食事に向き合うとき、食事もまた我々を見つめている。食事こそ生命、食事こそ、われらをわれらたらしめるのだ」
そうだ、食事こそ、おれをおれたらしめる。そう結論づけたのはついさっきじゃないか。おれは、驚愕した。介入機が告げる体感時間は、まだ五分に満たなかった。店に入ってから、まだ五分。おれはこれから先を思って途方に暮れた。いったい何が待ち受けるのか、それは深淵の奥底からやってくるに違いない。
「巨砲拉麺、試作六六六号を基礎に改良に改良を重ねた傑作よォ」
嬉しそうに笑うオヤジが、魔物をカウンターに並べた。先程までの比ではない神経発火が、脳内麻薬をどばどば出しているのがわかった。全身が多幸感に包まれ、おれは母の胎内を思い出していた。
「今日がきみの黙示録の日だ、少年。さあ――いただきます」
「い、――いただきます」
ごくりと特大のつばを飲み込んで、それでも口の端から溢れたよだれを手で拭い、おれはごっちゃと並んだビニール袋入り割り箸の一つを取る。パキッ、と小気味よい音を立て、二双の木の棒で獣に挑みかかった。
恐る恐る、具材をかき分け麺をつかむ。初めての体験だった。麺が、硬い。今まで食べたラーメンは、どれもぐにゅりと変形した。だが、これはどうだ。箸に掴まれても、一本芯を感じさせるその力強さ。す、とつまみ上げると、黄金色のスープで化粧をした花嫁が姿を見せた。花嫁は仮面だけではない。その下に沈黙はなく、太陽の残酷な輝きを潜ませている魔性の女だ。おれはまた、つばを飲み込んだ。
ゆっくりと、口づけをするように慎重に、おれは麺に口を近づける。視界の端で、犬がおれを見つめ、だらしなく舌を垂らしている。おれは横目にそれを見て、にやりと笑った。こいつは、おれのものだ。誰にも渡さない。タールのような独占欲と支配欲、そしてこいつをこれから食べるという優越感が、おれの心を満たしていく。果たして、おれは接吻した。
つ、と飲み込む。
「……………………あ、れ?」
口の中に侵入した麺を噛む。噛んで、噛んで、指折り数えて二〇も噛んで、そうして飲み込む。
「どうだ、少年。これが――」
おれの横で得意気に言う男に、おれは言った。
「……味が、しない」
「――――なに?」
男の驚く顔を見たのは、二度目だった。
「そんなバカな」
「ありえん……巨砲拉麺だぞ?」
「俺が配合を間違えたか?」
「そんなはずはない、現に私はもう食い終えてしまって、二食目を所望しているほどだ――」
オヤジと男が語る中、しかしおれには体に広がる違和感と、介入機が叫ぶエラーメッセージしか聞こえていない。
『現在使用が禁止されている化学調味料の香りが<Error>種類検出されました。継続的に摂取/吸引し続けることで発がんリスクが<Error>すると見込まれます。<Error>ただちに摂<Error>』
ああくそ、やかましい。
おれの全身を、何かが蠢くような気持ち悪さが苛んでいる。真綿で首を絞められながら、ひたすらに感覚を抑圧する力を全身で感じている。おれの体はその反作用に内側から破壊されそうだった。
介入機が真っ赤になって点滅している。見えなくとも解る、介入機は体の一部だ。おれは男の肩を掴み、この不良品をなんとかしてくれと叫んだ。叫んだ、つもりだ。だがすでにおれの耳はなにも聞こえていないし、おれの鼻も、口も、なにも感じていない。おれの目と触覚だけがまだ生きていた。
顔を真っ白にした男と店主がおれを見る。おれは、介入機を指差した。差したつもりだ。差していないのだろうか? おれの腕はもう動いているかわからない、おれの視界も暗くなる。消えゆく視界の中、日に焼けたゴツゴツした手が伸びてくる。これが最後かと思い、目を閉じて、――
『強制しゅ』
エラーメッセージが響きかけた瞬間、首筋から何かが消える。阻害されていた神経発火が全身を駆け巡り、白く白く全てが染まりおれはおれで彼我で神で認識され理解され支配され埋没され掘り起こされ狂わされ、あらゆる洗礼に溺れ溺れ。授けられた祝福は悪魔的天使。回転する車輪、無限大の翼、天より降り注いで白く染め。おれの意識は幸福だ。おれこそが幸福。おれこそが生命、おれこそが躍動、爆発! 神はここにいた。
神が喜び勇んでおれの頬をべろべろ舐める。神は汚物をぶちまけたような匂いで、汚物? 馬鹿な。
「――おい、少年、起きろ! 戻ってこい!」
「べう」
「おい、冷水持ってきたぞ!」
「よくやった、冷たいが許せ」
「お、おい――」
白かった世界が色を取り戻し、驚くほど鮮やかな姿を見せる。開けた目には、バケツいっぱいの冷水をおれにかけようとする男が写った。
全身の砂埃とともに、おれの意識は二度目の洗礼を受けた。
「いやあ、すまんすまん。まさか起きていたとは思わなかったんだ。奢ってやるから、許してくれ、少年」
「当たり前だ。巨砲が無事だったから良かったものの……」
「いい食べっぷりじゃねえか小僧。気に入ったぞ、おまえは俺の最後の客にしてやる」
「嘘じゃないことを願うよ」
いいながら、おれは巨砲拉麺を口いっぱいに頬張って、具材とともに咀嚼する。禁断の味は、その食感からして次元が違った。全ての料理は過去であり、介入機は価値を失った。すべてが、まやかしだったからだ。
「沈黙の仮面の下には、誰もいなかった、神の似姿のように、外面がすべてだったのだ。……昔、映画で神を示した男がそう書きつけた。どぎついポルノの隣にな。介入機は、ポルノだ」
男が吐き捨てるように言った。洗礼を受けたおれはその意味を理解できるようになっていた。麺を味わい尽くし、唾とともに飲み干してから口を開く。
「啓蒙、と言っていたな」
「……聞こえていたのか」
「当然だ。これで三回目だな」
なにが、と男は問わなかった。ただ困ったように笑うだけだった。犬はおれの横で、皿になみなみ盛りつけられたよくわからないメシを食い漁っている。その姿は下品ではなく、だれより生命らしかった。
「あんたは、誰なんだ?」
麺をすすりながら、おれは男に尋ねる。こいつは只者じゃあなかった。検問もハッキングしてパスしたし、切断した結果擬似トランスに入ったおれを正気に戻した。なにより、こんな店を知っていた。怪しく思うなという方が、無理な話だった。
「……私は美食家だ。美食家の、一人だ」
「美食家? あの、一世紀前に流行って廃れた?」
「それとは違う。介入機に支配され、介入機が処理できる範疇に押しとどめられた人類の解放者だ。私たちは、神の子の民、美食家だ」
「美食家、か……」
「ああ」
男は頷くと、麺を啜った。今は、これ以上話す気はないようだ。だが訊いておかねばならないことがあった。
「あんたはなぜ、おれを啓蒙した。美食家の――いや、あんたの目的は、いったいなんだ」
言い切ってから麺をすすり、底に残った厚切りチャーシューにかぶりつく。噛みきれず、何度も何度も前歯でかじって小さいピースを噛み潰す。
「少年、今日解っただろう。今、私たちは介入機に支配されている。味覚・嗅覚をごまかすばかりではない。こいつは触覚までもごまかす。世界を認識するための目を三つも塞がれた人類は、ゆるやかに多様性を失っていく」
「絶滅の渦、か」
「そうだ。いったいどこの誰がこんなものを発明したかはわからないが、これを導入している奴らは見当がつく」
「政府――やっぱり、そうなのか?」
麺を飲み込んだおれに、男はサムズアップした。おれは頭を抱えた。この違反者のしようとすることを察してしまった自分が憎かった。男が三杯目の巨砲を空け、ようやくオヤジに丼鉢を返却した。
「ごちそうさまでした」
「あいよ」
見もせずに受け取って、オヤジは皿洗いを始める。男は椅子を回して、おれを正面に捉えた。おれもどんぶりから手を離し、男に向き直る。
「政府の目的は、正直わからん。だが少なくとも、かつての私や先ほど少年が体験したように、介入機はおれたちの脳が受け取る情報を大幅に抑制する。そして、自身の処理能力を超える事態にはエラーを発し、理解を拒絶する。私たちの、いや、おれたちの生命は情報という栄養素を失い、日に日に衰弱していく」
「食事こそが、おれを為すというのに」
「そうだ。だが私はすでに追放者だ。内部に仲間がいる。だから、危険を犯して――」
「風の気持ちいい公園のベンチに腰掛けて、カップラーメンを食べたわけだ。それに興味を持って話しかけてくるやつをみつけるために」
「……やはり、解るか?」
「今なら解る。風を体に受けながら、ラーメンを食べる。それも家の中で食べることが前提条件の、カップラーメンを。背徳の味の真骨頂じゃあないか。まさに、まさに!」
「あ、……ああ、そこまで同意されるとは思っていなかった。ともかくそれなら話は早い。少年よ、私たち美食家の一人に加わらないか。君になら、素質がある」
男がおれに頭を下げた。少し薄くなった髪の隙間から、褐色の頭皮が見えた。
「なあ、いい言葉を教えてやろう」
「……なんだ」
顔をおそるおそる上げた男は、初めて彼にあった時のおれを思い出させた。
「人は美食家になるのではない。人は、生まれながらに美食家なのだ」
「…………それも、リテラシーかね」
「いま、考えついた」
「言ってくれる」
おれたちは笑い合い、握手した。肩を組み、よろしく頼むと挨拶を交わす。
「じゃあ、初仕事に取り掛からせてくれよ」
「初仕事? おいおい、これ以上食われるとすかんぴんだぞ――」
男の言葉を無視して、おれは湯気の収まったスープに向き直る。犬はこれを前にして、じっと我慢していた。よしよしと頭を撫でた後、丼鉢を持ち上げ、口元に運ぶ。
スープの黄金色をした香りが鼻から伝わり、喉と口内を満たす。極楽浄土の蓮の花も、この香りには勝るまい。おれは大きく杯を傾けた。スープが口内に雪崩れ込む。瞼の裏に、おれの舌の上で踊るカーリーが映った。おれはシヴァだ、荒れ狂う激情を受け止める肉体だ。しばしの間、女神の舞踏を受け止めようではないか。
――――その苛烈さ、そして繊細さ、なんたる味、なんたる香り、なんたる色合い! 魔王の顔をも持つカーリーが、次第に喉の奥へ消えていった。
どんぶりをカウンターの上に載せ、はあ、と息を吐いた。
「うまい、もう一杯……ついでにこの犬のぶんもな」
男の顔が青ざめた。
※来年度、どこかの公募に出そうと考えております。ご指摘、ご感想、大歓迎です。よろしくお願いします。
※作中、映画「イノセンス」に登場した文言の引用を多数行っている他、アレハンドロ・ホドロフスキー及びメビウス著「天使の爪」、聖書の創世記にインスパイアされた表現が多数登場いたします。
また、この作品を作るきっかけとなった傑作グルメマンガ・ドラマ「孤独のグルメ」に心からの敬意と、感謝を表明いたします。