中村さん
中村さんは何も喋ってはくれなかった。
喋ってくれないというのは会話に応じてくれないという意味で、別に先天的に発声する機能を持たないとか、失語症だとか、そういうことではない。そのはずだ。
俺は読むふりをするために開いていた本を寝かせて長机に置き、暇な目の先を窓の向こうへ逃がした。十分前には黄色と橙(中村さんなら黄昏色とか洒落た表現をするのだろうか)だった空が、今は暗い青色と濃紺のグラデーションに変わっていた。この時間帯に窓越しの空を見ると、何だか自分の中にあるうら寂しい感情が助長されるようで嫌だった。
空が俺の慰めになってくれることはなかったので、俺はやはり中村さんに感覚の焦点を戻すことにした。彼女は俺の正面の一つ隣に座って煉瓦くらい分厚いハードカバーに目を落としていた。あんな聖書みたいなボリュームの本は俺には縁がないというか、遥か雲の上の代物だったが、彼女の好きな物ならば読んでみるのも手かもしれない。
別に俺は恋愛感情的に中村さんのことが好きなわけではない。ただ、彼女のことをもっとよく知りたいとは思っている。
教室での彼女には、彼女自身から発せられる情報という物がなかった。ただし空っぽというのともまた違う。中村さんは堅い殻を纏っていた。周りの人間が干渉することを思わずためらうような重力場が、いつも彼女にはあるのだ。その先を覗き見したいという理由だけで、なぜ俺が彼女の放課後にまでこうして介入しているのかは分からない。俺に変質者の才能があるのかもしれないし、彼女に不思議な磁力があるのかもしれない。
「中村さん、俺、邪魔?」
「……」
この調子である。
「……まあ今日はこれでいいか。明日も来たいんだけど、いい? 迷惑だったらそう言ってほしい」
「……」
何も言ってくれない。ただこちらを一瞥して、また本の中に戻るだけだった。
俺は仕方がないので荷物をまとめ、やはりものすごく反応が薄い中村さんに軽く手を振りつつ、油でも差した方がいいんじゃないかと思うぐらい滑りが悪い図書室のガラス引き戸をくぐった。なに、まだ諦めたわけじゃない。本人にとって十中八九迷惑であることは百も承知だ。承知だが、残念ながら俺は聖人君子などでないのはもちろん、むしろどちらかと言えばやや意地の悪い方向に傾いた気性を持った人間である。明日も粘るさ。