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リンとフレディ

燕の傍には幸福の王女

 口元に丸めた掌を押し付けたまま舟を漕ぐ午前9時。どれほどの時間、起床との葛藤を続けているだろうか。頭だけは冷静に言葉をつむぐ。身体のほうは未だ動く気など起こしてくれず、シーツから飛び出したつま先を動かさなくても良い幸せに浸りながら、フレディは再び枕に頬を摺り寄せた。自らの匂いに安心し気を緩めれば、記憶は自動オルガンを奏でるロール紙の如く穴だらけになる。その黒い空白が心地よい。中指の関節に上唇を擦りつけ、穏やかな息を吐く。穴に落ち込み、聞こえる事のないメロディを奏でる直前に腕組をした記憶が告げた。

 あと10分だけ、それでタイムリミット。何度も同じことを言っては、そのたび前言撤回される。


 閉め切った窓を覆うカーテンは光を遮ってくれるが、それでも本来、彼にとってこの時間帯は安眠するなどもってのほか。幾ら世間の人間が白旗を揚げている土曜日とは言え、自由業のフレディに仕事が回ってきていないわけではない。原稿の校正は昨日の分も含め残っているし、通信教育の添削などデスクの足元に山積みで、下手に触れば地すべりを起こしかねない。好きなことを職業にしていても、やりたい事とやらなければならない事が一致するとは限らなかった。息子がいない間に来るよう打ち合わせをした編集者の、今時珍しい金歯が昼過ぎの光に反射する様が、眼窩の奥で痛い。


「もう少し、ドギツクしてもらわないと。このいとこ同士って設定を、兄妹にしたらいかがでしょうね」

 膝の上に乗せた書類鞄を指で叩きながら、歯をむき出す。昼食に脂物でも食べてきたのか、嫌にてかる分厚い唇から眼をそらしながら、フレディはチェアの上で自分でも悲しくなるくらい背筋を伸ばした。虚勢その1。

「最初の案はそうだったんだが、はじめだから少し控えめにね」

 虚勢その2。

「確かに兄妹のほうが、禁断の情事って匂いはするな」

 虚勢その3。こんなポルノに載せる小説に、「情事」だなんて。案の定、男は卑屈で軽蔑的な笑みを浮かべた。思い出すだけでも、あのキンカン頭にバットを叩きつけたくなる。


 こんな危険な発想。くっついた瞼の裏、まどろみの底を泳ぎながら、フレディは思わず微笑んだ。リンのせいかもしれない。ここのところ、刺激が強すぎる。殺人現場に遭遇したり、シナトラも顎を外すようなラスベガスの裏話を聞かされたり。

 このまま行けば、暗黒面を考えすぎて実際に探偵となったコナン・ドイルの如く、自らもそのうち息をのむような大活躍をするようになるかもしれない。右手に銃を、左手にメモ帳を、唇には煙草、身を包むのはトレンチ・コート。『カサブランカ』だ。主演の俳優の名を思い出せなかった。ありえない。自らの馬鹿げた妄想と同じくらい。


 そう、フレディはあくまで光の当たる場所を歩む人間であり、ごく一般的な機会を掴み損ねている小説家だった。今は認められずとも、いつかは。自らの心の中で呟く独白にすらも猛烈に反発する自尊心は、今は脇へ寄せておく。今ある幸せを大切にしなくてはならない。可愛い子供、狭いながらも楽しい我が家、あんなにも健気な妻。

 今だって、彼女は寝ぼける夫のために朝食を作っている。中途半端にあいたドアの隙間から、水分を含んだ野菜をいためる香ばしい匂いと、軽快な音が流れ込んでくる。目玉焼きの付けあわせか、それともホットドッグでも作っているのか。ジャッキーにせがまれ、週末になるたびロールパンを買うポーリーン。まな板の上に並べられたパンの山。子供らしい早起きで、父親が眼を擦りながら起き上がってくるのを心待ちにするジャッキー。テレビに注がれた目が、足音とともにこちらへ向けられる。続いて、振り返るポーリーンの、穏やかな笑み。

 言葉にならない。何を言おうか。言うべき言葉は決まっている。

「おはよう」

 ジャッキーは唇を尖らせる。「遅いよ。おなかすいた」

 「パパは疲れてるんだから、そんなこと言っちゃいけません」。ソーセージを鍋から引き上げ、ポーリーンがたしなめる。

「もう少しで出来上がるから、顔洗ってきたら?」

「ああ」

 滞りなく進むストーリーがじれったく、フレディは歯の間から搾り出すような返事しかかえすことが出来なかった。ここで、何か。一言でいい。ポーリーンの眼を見て、話せ。口を開け。そうすれば、きっと。

 わだかまり、胃をもたれさせる感情は、どれだけ叱咤しても吐き出せない。

「洗ってくる。眼を醒まさないと」

 結局フレディは、汗ばんだパジャマの襟を浮かしながら、曖昧に笑うしかない。

「ええ」

 ポーリーンも悲しげに微笑む。なんでそんな表情。全てに対するやりきれなさに、フレディは頭を抱えた。

「ポーリーン」

「ごゆっくり。時間は、幾らでもあるのよ」



 唇を指先で撫でていたら、不意にマットレスが軋む。足音は聞こえていたはずなのに、記憶に留まらなかったようだ。先に唸り声を出して牽制したが、小さな手は容赦なく肩を揺さぶった。

「パパ」

 こう無茶苦茶に押されては、落ちていた瞼も開く。ほんの、薄くだが。

「ホットサンド冷めるよ」

「わかってる」

「分かってないじゃん」

 シーツを被ろうとしたが、先にひったくられてしまった。カーテン越しの眩しさは、今更気に掛かる。シーツを床へ引き落とし、ベッドと垂直になった肩へ額を押し付けていたジャッキーの息が襟足に掛かりくすぐったい。脚をばたつかせ、耳元で叫ぶ体が最終的に取った手段は、後ろからその細い腕を伸ばして、父親の首へ思い切りかじりつくことだった。

「パパってば」

「すぐにおきるから」

 頭を抱えることで、本能的に沸いた嫌悪を無理に押さえつける。

「着替えるまで待ってくれ」

「早くしてよ」

「すぐに行くよって」

 ギブアップの証しに枕を叩けば、ようやく締め技から解放された。

「ママに」


 縺れながらここまで口に出して、沈静化していた頭は一気に燃え上がる。思わずベッドから身を跳ね起こし、瞬きを繰り返すジャッキーを見下ろした。

「ママ、帰ってきたのか!?」

 剣幕に怯えたのではない、けれど確かに凍ってしまった息子の表情を眼にした途端、すぐさま落胆する。落胆どころの騒ぎではなかった。後悔、呵責、自責の念。それまで縋るようにパジャマを掴んでいたジャッキーの掌が、すとんとシーツの上に落ちた。

「ママじゃない」

 感情の抜け落ちた声が、遮られて黄色くなった朝の光の中を静かに走る。

「そんなわけない」

 頭の奥で火花を散らすのは低血圧の痺れ。シーツにもう一度手を突きなおし、フレディはまだ響く脳と、痛む心のために、喉をのけぞらせた。

「そんなわけないな」

 崩した膝の裏で指を挟んでは抜き、身だけは逸らせながら、ジャッキーも残りのわだかまりを吐き出そうとはしない。もう、眼すら見上げてはくれなかった。朝一番の悔恨に、息は今すぐにでも止まりそうだった。

「ジャッキー」

 途方にくれた感情からかろうじて搾り出した言葉も効をなさない。ジャッキーは首を振り、追いかけてくる視線から逃げるようにベッドから降りた。

「起きてよ、いいから」

 悲しみの代わりに、焼けて紅くなった首筋をカーテンの隙間から入る日光に晒し、か細く呟く。

「メレディスが、待ちくたびれてる」



 ジャッキーに手を引かれるようにして入った台所でホットサンドのプレートをひっくり返していたのは、やせっぽっちの妻ではなく、彼女の義理の姉に当たる女性だった。この季節身に着けるにしては暑いだろうウールの袖なしタートルネックと、ジーンズ地の膝丈スカートは、ポーリーンの趣味とは正反対で、フレディは自分でも女々しさに喚きたくなるほどの違和感と不快感を覚えていた。

「メレディス」

 一度ため息をついてから見据えれば、メレディスは丁寧にセットされた亜麻色の髪を揺らし、振り返った。口元には、大振りな笑みさえ浮かんでいる。

「悪いわね。勝手に使わせてもらったわ」

 窓を開けているにも関わらずキッチンで空気は循環せず、野菜の匂いと油の熱気が未だ狭い空間に篭っていた。

「もっと寝てても良かったのに。ジャッキーが起こすって言って聞かなくて」

「だって」

 察してもらえるようにと見上げるジャッキーに、伏せた眼で望んだ答えを返す。 

「いや、起こしてもらって正解だよ」

 小さなテーブルの真ん中に据えられた大皿には、既にいくつか完成品が乗せられている。

「気付かなかった」

「来たのは」

 ちらりと壁の時計を見上げ、つまんでいたパンを皿の上に放り出す。

「一時間くらい前なの。ジャッキーが入れてくれたのよ」

 対応の術を知らないフレディの傍をすり抜けた彼女の喉元からは、以前リンが持ち帰った柑橘系のフレグランスが匂いたった。 

「ああ、それはかまわないんだが」

 思っていることとは違う言葉を放ち、壁に背中をつける。傍に立っていたジャッキーが、軽く爪先立って指を差す。

「取り皿、その奥」

「ありがとう」

 取り出された白い小皿を手渡され、ジャッキーは采配を父親に任せる期になったらしい。何事もなかったかのようにテーブルの周りを歩く。

「パパ、コーヒーだね」

「ああ」

「メレディスは」

「私も」

「じゃ、カップはあそこ」

 指差した場所へ手を伸ばしたメレディスは、一度躊躇った後、フレディのカップと客用のものを正確に探し出し、テーブルへ乗せた。

「あんたは?」

「牛乳。自分で入れる」

 低い電子音に、メレディスは腰を捻る事で椅子を避けながら、シンクの上にあるプレートを開いた。覗き込み、子供のように舌先を出す。

「焦げちゃったわね」

「大丈夫だよ」

 突き出した父親の脚を跨ぎながら、ジャッキーも真似をして首だけシンクに向ける。

「それ、最初の2枚くらいは上手く焼けるんだけど、あとから段々焦げちゃうんだ」

「そうなの?」

 指先で角を上手く摘み、皿に放り出す。黒い焦げめと白い湯気がぶつかる場所から、空腹を促す香りが立ち上った。グラスへ注ぐ牛乳から一瞬そちらへ視線を移したジャッキーは、うごめかす鼻の先にここ一番の期待をぶら下げている。

「パパ、座ったら?」

 自然と言葉はぞんざいに。思わず椅子の背に手をかける。余りにも多くの違和感が待機しているのに、匂いと、寝起きの頭はなかなか的確な言葉を見つける準備に入らせてはくれなかった。

「これくらいでいいかな。あとは、注文しだいで焼くから」

 既に臨戦態勢のジャッキーの隣、流されるまま腰を下ろしたフレディの真正面。ぺたぺたと間抜けなスリッパの音を響かせながら、メレディスは、ここ半年の間誰も触れようとしなかった椅子をあまりにも手軽に引いた。

「物凄く簡単なメニューになっちゃったけれど、味はそこそこのはずよ」

「野菜のホットサンドって、初めて食べる」

 急に埋まった空白に対処する術も知らないフレディに比して、ジャッキーはごく自然にメレディスを見上げた。

「家では、卵と、ハムチーズだったから。だよね、パパ」

「ああ」

 意味を思考に吸い取られた末の搾りかすが声となって、自分でもよく分からない相槌を打つ。落ち着かないスリッパの音。コーヒーの濃さは普段よりも薄く、活動が鈍化したままの五感は、今の5Wを様々な過去の経験と混同させる。一体どうなってるんだ。ここはどこだ今はいつだ目の前にいるのは誰だ僕は何をしている何故こんなことを。まだ拡散した意識で精一杯情報を収集しても、現在の状況が恐ろしいほどしっくりと事態に収まっていることしか分からない。まるで、本当の家族みたいに。


 熱いカップの中身を半分ほど一気に飲み干せば、カフェインが助け舟を出してくれる。緩慢に熱さを訴える舌を動かし、ようやくフレディはケチャップを差し出したメレディスの眼を見ることが出来た。

「リンは? 家に?」

 耳障りなステップの音が消える。真っ赤な瓶が手から離れた後、メレディスの大振りな口は驚くほどぱっくりと上下に割れた。嫌な予感は、薄い舌が勢いよくひらめいてから、初めて感じる事ができる。一難去ってまた一難。いや、訂正を。全ては一繋がりで、今はまだほんの序の口なのだ。

「聞いてよ、そのことなの」

 彼女の声が耳の届くまでの間に、フレディは逃れられぬ運命に5回恨み言を吐く事ができた。



「男って、どうしても浮気したいわけ?」

「一概にそうとは言えないけれど」

 目は泡だらけの皿に落ちたままだった。ずり下がってきたシャツの袖を顎で引き上げ、フレディは背後のメレディスに憐憫の情を向けた。

「相手は?」

「知らないわ」

 鼻息と共に、紫煙が濃くこちらまで届く。換気扇の羽音にまぎれて、リビングでジャッキーが見ているアニメ番組の中から聞こえてくる悪役の断末魔。いつもよりもボリュームが大きいのは、気のせいだと思えなかった。

 結局朝食は、いつもどおりの陰鬱な空気へ逆戻り。ただし、給仕と食事と愚痴を吐く事を同時に行う手腕は少なくともフレディとジャッキーの知る女には到底出来るものではない器用さで、ある意味新鮮だったことは違いない。もっとも、ジャッキーはすぐさま雲行きを察し、空腹を満たすと大慌てでテレビへ逃げ込んでしまったが。

「犬よ」

「犬?」

 洗剤の柔らかいオレンジへ混ざりこむメンソール。スポンジから泡を搾り出し、フレディは片眉を上げた。

「そう、犬。内股にあんな凄い噛み傷残すなんて、とんだビッチよ」

 危うく滑り落ちそうになった皿を掴み、フレディはとうとう顔を捻じ曲げた。

「メレディス」

「ごめんなさいね。けど、どうしても腹が立って」

 リヴィングの方へ首を伸ばす。剥き出しの肩が、フレディの腰にぶつかった。どこか甘えるような仕草に、思わず身を引く。引いてから、羞恥した。あつかましいにも程がある。

「けれど、リンに限って」

 微かに赤面した頬に気付かれぬよう、急いで言葉を繋げる。

「本気ってことは絶対ないさ。君に惚れてるからね」

「本気じゃなかろうと一夜限りだろうと、そんなのはどうでもいいのよ」

 急に含まれた苛立ちと共に、メンソールの香りが強くなった。

「そこのところ、やっぱり男は分からないんだから」

 カップを両手に抱えたまま窺った先で、メレディスは何度も奥歯を噛んでは緩めるを繰り返していた。組まれた細い脚の最先端で揺れるスリッパが、テーブルクロスの間から見え隠れする。

「腹立つじゃない。自分ばっかり好き勝手して」

「本当に治らないな、あの気ままは」

 今回はフレディも頷いた。

「それに、行儀が悪いというか、だらしないのも」

「昔から、ああなんでしょ」

 浮かない顔で、メレディスは今までフレディが立っていた場所の向こう、油が浮いたすりガラスを見つめている。

「結婚前行ってたデパートでアナウンスをやってた子が、私の前にリンと付き合ってたのよ」

 尖ったつくりの唇が微かに開いて、煙がゆっくり逃げいていくさまを横目で見ながら、フレディは首を振った。

「あいつ、二股かけてたの。夏休み、自宅に帰ってたその子の妹とね」

「その話、聞いたことある」



 いつだったか、とにかく夕食前。タルカムパウダーで良い匂いのするジャッキーを膝に抱き上げてあやしているリンは、フレディよりも遥かにリビングの内装に馴染み、我がもの顔でソファにふんぞり返っていた。アメックスのゴールドカードを赤ん坊の目の前にかざしては、伸ばされた手の届かないところに引き離して遊ぶ猫なで声の延長線上、しみじみとした口調で、彼は小テストの採点をしていたフレディに話を振った

『姉妹って、同じところに黒子があるもんなんだなぁ』

 フレディが下手糞な綴りから目を上げるまでに、リンはもう一度ため息をつき、カードの先端でジャッキーの鼻をつつく。

『うーん、鼻の頭がちょっと丸いところが俺に似ちまったな?』

『黒子?』

 照明に反射するのセンチュリオンに不快感を抱きながら、それでもフレディは頬杖をついて言葉を待った。

『姉妹って、また何かややこしい事を』

『大丈夫だって、姉貴の方は気付いてやしない。妹はとんだ確信犯だけどな』

 冷房の空調に任せてふわふわ揺れる甥の柔らかい髪を撫でながら、口の端に笑みをつける。

『右胸の下のほうで、バストを持ち上げたところに、結構大きな黒子っていうのか、茶色の染みみたいなのが。姉妹揃ってすごい巨乳だから、本人たちも気付いてないぜ、ありゃ』

『やめておけよ、そういうことするの』

 言いながら、今すぐ息子を彼の膝から奪い返すべきか逡巡した。子供にしては長い指をめい一杯伸ばし、愛用のおしゃぶりを吐き出してしまうほど上機嫌なジャッキーの姿に、安堵といいようのない苛立ちを覚える。

『ハイスクールのハロウィン・パーティーのときみたくなったら』

『何だった』

 首を傾げる暢気な仕草の背景には、台所から漂う揚げ物の匂いがある。空腹と嫉妬に、フレディはリンとジャッキーを交互に見比べた。

『トリプル・ブッキングして』

『ああ』

 涎が乾いて一層白い頬を指でつまみながら、軽く膝を揺らした。

『そうだ、一人はおまえに押し付けて、最後の一人から逃げまわすのにめちゃくちゃ苦労したんだった。おかげでやることも大慌てでさ』

 それ以上は流石に口にしようとせず、代わりにあの頃とまったく同じ笑みを浮かべて言葉の続きを想像するよう促す。フレディは、空白の膝を指先で叩くことで、せめてもの恨みを表現する。

『でも結局、拗ねた彼女の相手をしたのは僕だったからな』

『流石の俺も、この期に及んで妹の亭主に女は斡旋しないさ』

 光るものに何でも掴みかかるようになったジャッキーは、もらえないカードに興味を失い、いかにもやくざものらしい、視線の先にある胸元のゴールドチェーンに手を伸ばした。

『自由恋愛さ』

 こうやって笑えば、誰でも許してもらえると思ったら大間違いだ。効果があるのなんて、せいぜい女の子くらいで、とにかく、とにかく。全てに対して静かに怒りを膨らませ、フレディは目つきを険しくした。

『それと、カードをおもちゃにするのもよせ、教育に良くない』

『ああ、これ』

 加減など一切なく引っ張られる鎖からそっと手を離し、待望の品を握らせてやる。

『やるよ。もう使えないから』

 ジャッキーは、早速泡だらけの口元にカードを運んだ。

『ミスタ……誰か知らないが、こんな天使みたいな子が喜ぶなら、誰でもカードくらい差し出すよ』

『馬鹿』

 慌てて涎まみれのカードを取り上げる。使い込まれたプラスチックの表で、精悍な百人隊長は先ほどと打って変わって情けない表情を浮かべていた。今頃再発行の手続きをしているであろうミスタ・カーゾンに内心平謝りしながら、フレディは生まれて初めて触れたゴールドカードをゴミ箱へ投げ込んだ。

『盗品だなんて、何考えてるんだ』

『貰い物さ。マホニーに、3日前』

『どっちにしろ』

 ジャッキーの癇虫が、カードとビニール袋の触れ合う音を凌駕する勢いで爆発する。

『あー……とにかく、平気だよ』

 必死に捩る脇を抱いて抱え上げ、リンはどちらに言うでもなく優しい口調を作った。揺れる肉付きの良い膝小僧に軽く唇をつける、そのままの視線をこちらに向けてくることが、どうにも腹立たしい。

『あいつら俺にゾッコンだからな。言いなりさ』



「でも結局バレて、イヴリンに……姉のほうに移動遊園地の観覧車から突き落とされそうになったんでしょ」

「武勇伝だって、一時期凄い噂になったな」

「ばっかじゃないの」

 まるでフレディが女を傷つけたかのような口ぶりで、メレディスは正面を向いたままの顔一杯に軽蔑と憎悪を広げた。

「私は彼女のこと知ってるから、泣いてるところまで全部見てたのよ」

 メンソールは粘膜をいためるのか、皺が寄るほど力の篭った目元が、更に細められる。

「ちょっと顔がいいからってね、すっごいうぬぼれ。そう思わない?」

「確かにね」

 爆発的に女性へ好かれた経験がないフレディにとって、リンの恋愛事情はやっかみというよりも、見ているだけで興味深いものでもあった。だがそんなことをこの場で口にすれば、彼女のヒステリーは発作のレベルにまで進化することは目に見えている。

 もし今の状態をリンが目にしていたら、本人の言うとおり少し丸い鼻先を蠢かし、思い切り嘲笑するだろう。『これだから、女ってのは』。もちろん、亜麻色の髪が見えない場所に移ってからの話だが。


「君と付き合いだしてから、そこまで派手な事はしなくなったけれど」

「怪しいもんだわよ、隠れて何やってるのか。それに腹が立つのは、あいつ、隠し方が下手糞なのよ。バレたときも、ふてぶてしいしね」

 たった今綺麗に磨いたはずのカップに目を落としているフレディを、憎々しげな目つきで振り返る。

「さっき貴方が言ったのと全く同じ言い訳するんだから。もう、嫌になる」

 ひやりと差し込まれた冷たさは痛みと同義で、フレディは思わず顔を顰めた。

「ごめんよ」

「いいの。悪いのはみんなあいつなんだから」

 追い討ちを聞き流せないまま棚を覗き込めば、フレディと対を成すポーリーンのカップがたった一つ、明かりを反射していた。まだ水気の去りきらない自らのものを、寄り添わすよう隣へ並べる。

「今頃、まだ不貞腐れてベッドで寝てるわ」

「すぐ謝りに来るさ」

 エプロンの紐を解きながら、フレディはまだいかり気味な彼女の肩を叩いた。

「来るかしらね」

 口を開くまで、たっぷり10秒の間。燃え尽きそうな煙草を口へつける前に、短く彼女は言った。

「嫌にもなるわよ。今年に入ってからでも、これで2度目」

 膝の動きは、段々間隔を狭め、静まりつつある。

「去年の暮れなんか……リンのことだから、話したでしょうけど」

「いや、多分聞いてない」

「問い詰めたら、馬鹿なパーティガールか何かに誘われて一晩……普通、他所の女のガーター、ポケットに入れて家に持ち帰る?」

「馬鹿としか言いようがないな」

「でしょ。引っぱたいて実家に戻ったら、拗ねちゃって電話も何もなし」

 うんざりと、ハッカが浸透した息を吐き出す。

「こっちが折れたわよ。だって放っておいたら、家がメチャメチャになるの、目に見えてるもの。一週間後に帰ったときはもう、グラスを3つくらい割ってたけど」

 正面に腰を下ろしたフレディを見つめる瞳は明らかに、ポーリーンが家を出る前頻繁に浮かべていた諦観の情。ただし、もっと好戦的だ。ポーリーンはもっと儚く、優しげで、そして温かい。つい最近も見た。そう、今朝夢の中で。中身は既に記憶から消えかけているにも関わらず、絶対に忘れる事のできない記憶の中の現実が、幾らでもあの辛い表情を補完し、鮮明に塗りなおす。


「本当に、あいつはバカだな」

 混じる苦しさを残したままの口調でフレディは言った。

「けれど、別れるって言い出さない君は、偉いよ」

「考えた事もあるけれど、そこで終わっちゃうの」

 ちらりと前に視線を投げたメレディスの表情が、一瞬だけ曇る。感じたのは同情か、それともタールの苦さか。分かっているにも関わらず、フレディはわざと後者を答えだと選択した。

「だって、こういうのって何て言うのかしら。そう、割れ鍋に綴じ蓋ね。私だって、結構好き勝手やってるから」

 長い首を飾るプラチナのネックレスにはダイヤモンドが3つ輝いており、メレディスはいとも気軽にそれを人差し指に引っ掛けて見せた。

「この前喧嘩した時、シカゴのティファニーショップで腹いせに買っちゃった」

 数珠のように丸く繋がった小さなプラチナは、ポーリーンがストレスを溜めるたびに一人完食していたロールケーキの上に乗ったアラザンを思い起こさせる。

「それでも……ああ、ほんと馬鹿みたい」

 白い指ぎりぎりのところまで、手挟んだ煙草の火が迫っているのに、彼女は気付いているのだろうか。

「電話掛かってきても、私はここにいないって言ってね」

 余りにも複雑すぎて、文章を書くことが仕事のフレディにも到底形容できない笑みを浮かべてから、メレディスは短くなった火を灰皿に押し付けた。 


「煙草、やめたいのに。フレディ、あなたどうやって禁煙したの?」

「去年の9月くらいに。ボトルガムを箱ごと買ってきてね」

 そういえば禁煙を始めたのもちょうどポーリーンがいなくなった直後だったと、今更ながら思い当たる。ただこれは前々から挑戦しようとしていたし、何事も彼女が去った事からはじめる論理は、余りにも悲しすぎた。

 今もまだ、人差し指と中指をくっつける癖が治ったわけではない。わざとらしく組み合わせていた手を開いて握り、フレディはテーブルにぶつかりそうな下腹を引っ込めた。

「半年で5キロ太ったけど」

「5キロ……も?」

 疑わしそうな目つき。鯖を読んだ事は承前の事実なので、フレディはあえて反論しなかった。

「シュガーレスでもあんまり。無性に食欲が出て」

「かといって、ニコチンパッチに頼るのも嫌で」

 白い、主婦らしく厚い指先がさ迷うのは逡巡のあらわれ。結局メレディスはクロスの上に掌を乗せるという、善意の選択をした。

「出来るだけ、早くやめて……体に悪いでしょ、特に」



 いきなり振向いたから、散った髪が円錐状に広がった。その先が目元を擦りそうになったことへフレディが驚く暇もない。滑りの悪い椅子を蹴るようにして立ち上がり、メレディスはスカートから素足の脹脛を見せ付け、玄関へと駆け出した。

 耳に残ったゴムと床のビニールが擦れる不快な音と、スリッパが立てる騒々しいリズムがまだ混ざり合っているうちに、フレディもそろそろと、煮え切らない態度で腰を半分浮かした。

「リン、来たみたい」

 ソファから身を乗り出すようにしたポーズとは裏腹の、随分控えめな声でジャッキーが告げる。

「階段、走って上がっていったよ」

 決定した意思に急かされ、同じくソファから飛び降りたジャッキーと共に窓へ近づいた。ガラスは半分ほど開いているものの、ほぼ無風状態の外から涼を取ることはできず、中途半端に捲れたカーテンはぴくりとも動こうとしない。思いきって全開にすれば、予測していた通りの場所にリンのポンティアックが見えた。ただし、いつもよりその停車角度は幾分壁に対して鋭角だったが。

 真上から見下ろす格好では、花壇のレンガを乗り越えた右側の前輪が今こそ盛りと咲き誇るミニヒマワリを巻き込んでいないかまで確認できなかった。だが少なくともこれで、低く改造したシャフトが大惨事になっているであろうことは素人のフレデイでも分かる。グレーのボディに夏本番の陽光に晒され、ひび割れたアスファルトの上に放置される乱雑な扱い。今まで寵愛されていたにも関わらず、いきなりの心変わり。車は恥辱のあまり、ハザードランプを点滅させる事で持ち主の乱暴さに抗議の意を示していた。


 崩れたレンガを見下ろし、フレディは思わずため息をついた。家主に叱られるのが誰かなど、頭に血が上ったリンの思考に入っているわけがない。

「ヒマワリ、可哀相」

 桟の隙間へ顔を押し付けるようにして状況を確認していたジャッキーがぽつりと呟いた。

「折れてないよ」

 吐息で曇った窓ガラス越しにも、花に負けるとも劣らぬ黄色い夏の日差しは痛い。頭痛まで起こりそうだった。

「コービンさんに怒られるぞ、これは」

「リンに謝らせなよ」

 真似をしているのか遺伝なのか、ジャッキーも呆れたといわんばかりに息を吐き出した。

「パパがやったんじゃないのに」

「信じてくれたら良いんだけどな」

 警察を引退した後、片手間にアパートを経営している老人は、家賃が滞る事よりもささやかな植物園の平穏が乱されることに強大な怒りを感じるらしかった。小説家は皆ヘミングウェイのように反社会的なアウトローだと信じ込んでいるそのカウボーイ的愚直さは、是非とも一度小説の題材にしてみたものであったが、現実に付き合うとなるとなかなか厄介な存在になって立ちはだかる。毒ばかりを吐いて少し歪んだ唇が言葉を紡ぐ瞬間。幸い、想像する前に、玄関の方からメレディスの引き裂くような喚き声が廊下に沿って耳を劈いてくれる。


「ふざけたこと言ってんじゃないわよ! 冤罪だなんて、リチャード・キンブルにでもなったつもり!?」

「そこまでは言ってないだろ」

 いつもの甲高く勢い付いた口ぶりとは打って変わり、薄いドア越しに聞こえるリンの声は酷く萎れてくぐもっていた。

「抱かなかったんだよ。部屋で飲んだだけで」

「あんたみたいなスケコマシが、一晩女の部屋にいて何もせずに帰るなんて、どんな聖人も信じるわけないでしょ」

「その聖人に誓って言う。何もしてない」

「じゃあ、あの噛み傷は!」

 頭の天辺から出す声が余りにも鋭く、ジャッキーの汗ばんだ手は父親のズボンを思い切り握り締めた。

「私を馬鹿だと思ってるの! 犬に噛まれたとか言ったら、承知しないから!」

「俺が寝てる間に勝手に……あいつ、未練たらしい奴だったから。また来てくれって、な」

 メレディスがまた叫びだす前に、慌てて言葉を継ぐ。

「もちろん、一回も行ってない」

「子供だってもう少しマシな言い訳考えるわよ」

 絶頂に達した怒りが、熱を涙に変える。メレディスは鼻声のまま、大きな音を立てた。扉にぶつかったか、殴りつけたか。

「このロクデナシ! あんたみたいな奴、あんたみたいな奴」

 詰まる言葉の合間に、リンが何事か話しかける。それでも、彼女はドアも心も開こうとはしなかった。

「引き裂いて踏ん付けてトイレに流してやりたい」


「どうするの」

 脚にしがみつきながら、ジャッキーはフレディを見上げた。腰に指を食い込ませるほどの恐怖。当たり前だ。ポーリーンは、ジャッキーの前でこれほど口汚くフレディを罵った事など、一度としてない。

「放っといていいの」

「何とかしないとな」

 辞書が作れるほどボキャブラリーに溢れた放送禁止用語のカウントを中止し、息子の頭をそっと撫でる。ズボンにこすり付けられる髪の汗ばんだ感触と仕草が、いつにないほど子供らしく、フレディは父親として妙な感慨を覚えていた。

「メレディスが」

 それ以上は言葉を継ごうとしない。くすんと鼻を鳴らし、縋る腕に益々力が込もる。

「大丈夫だ」

 熱を持った耳の裏に指を沿えてやり、フレディは出来るだけ大きく頷いた。

「自分の部屋へ。すぐ済むから」

 そして、今までにないほど広大な気持ちになりながら、息子の黒い瞳を覗き込んだ。

「メレディスおばさんは、ちょっと興奮してるだけだから。すぐ気も静まるよ」

 じりじりと、それでも聞き分けよく身を離しながら、ジャッキーは一度目を伏せた。

「パパ、止められるの?」

 もう一度深く頷いてやれば、指先が弛緩する。

「心配しなくていい。おじさんもあれだけ謝ってるんだしな」

 ぽんと叩いた背中に押されて、ジャッキーは振り返りざまぎこちなく笑った。

「うん……そうだね」

 全幅の信頼に、フレディは背筋を伸ばした。

「暑いから、窓を閉めてクーラーを」


「このアマ、てこずらせやがると承知しねぇぞ!」

 今までにない凶暴な衝突音と怒号に、ジャッキーの動きはぴたりと止まる。表情を恐怖が染めてしまう前に、足が勝手に動いた。硬直したままの背中に手を沿えたフレディは、出来る限り優しく迅速に、息子を部屋に押し込んだ。視線を受け止める余裕がなかったことを後悔するのはもう少し冷静になってからの話で、そのときのフレディは立て付けの悪いドアの煮え切らない態度を背中で宥めることしか考えてはいなかった。

「開けろ、くそっ、フレディを呼べ」

「なによ馬鹿、彼は関係ないでしょ!」

「うるさい卑怯者、 フレディ! フレディ!」

「どれだけ泣いても叫んでも、出ないからね」 

 拳で殴っているとは到底思えない重く鈍い音にまぎれて、やや劣勢になったメレディスは喚いた。それでも金切り声は、近づけば近づくほど恐怖を掻きたてるものであったが。

「メレディス」

「すぐに諦めるから」

 鉄とは言え、家賃に見合った薄さを持つドアは、大の男が本気で壊そうとすれば簡単に口を開けてしまいそうな見掛け倒しの代物だった。軋む扉を腰で押さえるようにしながら、メレディスはのぞき穴につけていた目をフレディへ向けた。苦しそうな微笑みは、鼻から下が凍りついている。

「フレディ? おい、そこにいるのか」

「いないわよ」

「嘘付け、声が聞こえたじゃないか」

 もう一度、ノックにしては力の篭りすぎた衝撃が響く。

「フレディ、そのアバズレを今すぐ引き渡してくれ」

「出るもんですか!」

 フレディが口を開こうとする前に、メレディスが叫んだ。

「くそっ、こじ開けてやる!」

「認めたら開けたげるわ。どこぞのメス犬と一晩中いちゃついてたって」

「ああ、一晩中いちゃついてた!」

 リンも負けず劣らず声を振り絞る。

「おまえの百倍すっごい美人のブルネットで、デカいおっぱいとケツした電話苦情係のプッシーに一晩中突っ込んでた! 一晩中ファックしてた!」

 汗をかいた上に擦ったせいで滲んだ口紅の範囲を更に拡大させるよう、メレディスの固まっていた唇がぽっかり開いた。

「掘りまくってたよ! これで満足か」

 完膚なきまでに崩壊した忍耐に引きずられるまま、メレディスはその場に崩れ落ちた。もちろん、最大級の悲嘆はいつまでもその場に残っていたが。

「満足なんだろ、開けろよ」

 ほんの少し熱の引いた声は、もちろん泣き声にかき消される。フレディは散らばった長靴とクロックス・サンダルの間に蹲るメレディスへ手をさしのべた。薄暗い玄関で、フレディなどとても太刀打ちできない気風を持った女性は、乱れた髪の間で泣き喚いている。


「泣けば良いって思いやがって」

 萎んだ声と、ぶつかる額が覗き穴にぶつかる黒髪が、玄関を覆う暗さを更に濃くしたのはほぼ同時だった。

「馬鹿野郎」

 引きずるようにして立ち上がらせたメレディスはひたすら身を震わせ、普段は華やかなその顔を涙で無茶苦茶にしている。肩を抱き、フレディはドアを睨みつけた。

「落ち着いて」

 ポロシャツに垂れ落ちた涙がじわじわと染みてくる。力の篭った顎から言葉にならない呻きが途絶える事もない。縋りつくフレディの腕に爪を立てることで、彼女は辛うじてその場に立っていた。

「もういいから」

「いいわけないでしょ」

 台詞は余りにも必死だったので、嗚咽の中からでも浮き出てくる。豊かな亜麻色の髪が首筋にこすり付けられたのが最初で、メレディスは一歩足を踏み出すごとにフレディの体へ身を押し付けた。

「もういやよ。別れる」

 押さえつける腕の中で必死に身を捩り、もう一度陰惨なドアに向かって大声を出す。

「もう絶対に許さないから! この変態! 短小!」

「黙れスベタ!」

 ドアを平手で叩きながらリンも言い返す。乱暴な会話の結びを譲り合う心は、お互い一切持ち合わせていないらしい。また一段と悲鳴のトーンをあげ、メレディスはフレディの肩に顔を埋めた。

「いや。もういや」

 鼻をシャツに押し付け、咳き込む。

「あんな奴」



 何とかリビングまで連れてくると、メレディスは足を縺れさせながらソファの上に座り込んだ。背凭れに顔を伏せると、甲高い声は途端に涙に変わった。全身を押し付け、悶えるようにして、彼女は身を固くくねらせた。

「どうする」

 窪むほど食い込んでいた爪痕を撫でながら、フレディは僅かに身を屈めた。もう一度縋られたら手は届くが、彼自身が怖気づいたなら身を捻ることが出来る距離に立ったまま。ソファの向こう側にあるジャッキーの部屋のドアは、玄関程ではないが厳重に閉まったままで、薄い扉の向こう側から微かに音楽が流れてくる。

 去年の冬、リンがジャッキーに与えた壊れかけたラジオの中で、ジョン・レノンが歌っていた。『All Need Is Love』、その通り。けれど、今この曲をリンが聞いたら、時空を飛び越えてマーク・チャップマンより先にレノンへ銃弾を撃ち込みに行きかねない。家庭内反戦主義者を貫いているジャッキーの下へ行きたいと思ったが、今はそう、目の前で悲嘆にくれるメレディスを見捨てる事など到底出来ない。どれほど困難な事態であろうとも。

「追い出して」

 ひたすらむせび泣く中で、メレディスは必死に声を絞り出した。

「ねぇ、あいつをこの建物から追い出して。見えないところに叩き出してよ」

 触れようとする非力な手を言葉だけで振り払い、真っ赤になった目を腕から覗かせる。

「お願い、フレディ」

 大人しく頷くことしか出来なかったフレディは、結局泣き崩れる彼女に背を向け、散らばった靴を拾い上げた。釈然としない感情は相消えないが、他に考え付く手段が何一つとして見つからない。



 金属と金属が密やかにぶつかる音は到底気分の良いものではなかった。ドアノブを握れば、軽く引いただけなのに手の中で揺れる。チェーンを外す音でリンが身を引いたのは、反対側から掛かる圧力がなくなることですぐ分かる。刑事ドラマよろしく、最初に開いた数センチの隙間を身でふさぐようにし、フレディは立ち上がって汗を拭うリンに視線を這わせた。

「何やってるんだ」

「すぐ直すって」

 今にも外れそうな取っ手に注意しながら、できるだけ狭いスペースから身を押し出す。すぐさま後ろ手で扉を閉めると、リンはがっかりして整髪剤の溶け出した頭を振った。幾房か降りた前髪が、部屋の中よりも風があるだけ少し涼を感じられる空気に乗って気休めに動く。

「メレディスは?」

「今入ったら、とんでもない事になるぞ」

「これは俺たちの問題なんだ」

 寝起きに飛び出してきたのか、洗濯し過ぎてよれた綿のハーフパンツの下から、こればかりはやたらと高そうな白い革靴を、なんと裸足のまま引っ掛け、小さく爪先を踏み鳴らしている。

「あの馬鹿、つまらないことでギャーギャー」

 突き出した手の中で転がるマイナスドライバーの先端が、背後から差す外の光で鈍い色を発している。

「メレディスは、しばらく一人になりたいって」

「おまえ、どっちの味方だよ」

 工具箱を足で避けながら、リンは充血した目を瞬いた。

「まさか、あいつの話を鵜呑みにしちまったんじゃないだろうな」

「どうかな」

 腰の後ろで手を組み合わせ、フレディはドアに凭れかかった。

「とにかく、おまえの前近代的な罵り文句のおかげで、僕もジャッキーもしばらく外へ出られそうにない」

「ああ」

 色の落ちかけたシカゴ・カブスのTシャツで顎の下を乱暴に拭い、リンは首を振った。

「聞こえやしないよ。爺さんばっかりなんだろう」

 顰蹙の色を増したフレディの目つきなど一向に気にすることはない。未練がましくドアのほうに眼をやるリンの視界から、意味があるわけでもないのにドアレンズを遮る。ほぼ押すような感覚で肩に手を置き、フレディは疲れ気味の表情を浮かべた。

「とにかく、ちょっと外に出よう」

「ああ、ったく」

 錆びた工具箱を担ぎ上げる。思ったよりもあっけない退却に、拍子抜けした肩がすとんと落ちる。

「篭城覚悟か。上等じゃねぇか」

 踵を踏んだままの靴と、安っぽいコンクリートの靴が重なるたびに、ぺたぺたと間抜けな音が細長い廊下に響く。それにしても、酷すぎる。こんな格好の男と一緒に歩いているのを昔の同僚に見られたりしたら、最近考え始めた職場復帰への望みは確実に吹き飛ぶ。

 むしろ、もう洒落にならない。4件隣で一人暮らすリューマチを患った老婆の部屋は、ドアがほんの少し開いている。訪問看護すら入れるのを嫌がり、料理もろくに作らないと聞く彼女は、おそらく近所の噂を糧にして生きている。通ったとき、隙間から眼が合ったらどうしようか。恐怖で歩幅が縮まる前に、リンが手を出した。

「人の家庭事情に首を突っ込むと、痛い目見るぜ」

 呟きと罵声の中間の声を通りがかりにかけながら、乱暴に足でドアを蹴飛ばす。ばたんと大きな音に飛び上がりかけたが、少し、気が晴れた。



「嫌になる」

 奇跡は起こり、ポンティアックはヒマワリの花を一本としてなぎ倒してはいなかった。毎日直射日光に晒されすっかり劣化した煉瓦が砕けている事は、もう諦める。右前輪に挽き潰れた赤茶色の粉を見下ろし、リンは小さく舌打ちした。

「何てこった、また修理に持ってかないと」

 しゃがみ込んでホイールキャップを撫でるリンのつむりを見下ろし、フレディはポンティアックに背中を預けた。車体の揺れるたび、ひびの入った煉瓦から欠片が転がり落ちる。

「おまえ、反省してるのか?」

「反省?」

 リンはいぶかしげな表情でフレディを見上げた。実際よりも若く見える強面の下、反らされた首筋だけが年齢を感じさせる。

「メレディス?」

「他に何が」

「けど、ありゃあいつも」

 言葉を遮るよう唸り、フレディは額を押さえた。

「自分のこと棚に上げて言うが」

 何せ結婚して以来、一度としてポーリーンと喧嘩をすることが出来なかったのだから。

「別れる気がないのなら、今すぐ」

 蛇のように身を捩って泣いていたメレディスの背骨のラインを思い出し、首を振る。

「いや、少し落ち着いてからのほうがいいな。今日の夜にでも、謝りにいけ」

 返事はかえってこなかったが、ゴムを押す指先の動きが止まっていることを確認し、言葉を続けた。

「絶対に言い訳するなよ。謝り続けろ」

 腰に当たるボディは日陰になってまだ耐えられたが、腕を当てたルーフは洒落にならないほどの熱を持っている。昼が近づき、太陽は更に角度を上げる。もう滲んできた汗と、黙り込んだままのリンに辟易した。

 文句の一つも零したくなったが、口に出す事は憚られた。去年、行方の知れない妻を想って泣き暮らしていたフレディを根気よく慰め続けたのは、両親でも誰でもない、まさしく目の前にいる男だけであった。



「妙にムカつくな」

 顔つきも、口調も、言葉とは裏腹に情けない。腰を落としたまま、リンは俯いた。

「おまえにそんなこと言われる日が来るとは思いもよらなかった」

「しょうがないじゃないか」

 フレディは腕を組んだ。

「僕だって、こんな事言いたくない」

「巻き込んで悪かったよ」

「思ってもいないくせに」

「頼むよ、女房と同じ事言わないでくれ」

 見えた唇は不機嫌に尖っていた。

「俺だって悪かったって思ってる。でもこれって」

 ふっと息を吐き出し、頭を引っかく。

「病気みたいなものだからなぁ」

「最低だよ、おまえ」

 一直線にリンを見下ろし、フレディは言った。

「どれだけメレディスを傷つけてると思ってるんだ」

「分かってる」

 そのまま頭を抱え込んでしまったのは一旦休止の印だった。意味のない呻きが途絶えるまでの間、フレディは自らの部屋を見上げた。開けっ放しの窓は彼の部屋だけだった。鮮明にそのプリーツの陰影を見せるカーテンは一向に揺れない。生々しいのに、現実離れして見えた。

 あの奥、ソファの上ではまだ、メレディスが涙を落としている。いや、気丈な彼女のことだから、そろそろ泣き止んでいるかもしれない。

 『あいつをこの建物から追い出して。見えないところに叩き出してよ』。様子を窺っている気配は感じられなかったが、顎をそらし、あえて言い訳する。追い出したいのはフレディとてやまやまだった。けれど、妻に逃げられた過去をもつ男が、痴情の縺れで興奮したプレイボーイを動かすのは、至難の業としか言いようがない。


「バレなければ、良いって思ったんだ」

 寝言でも言っているような生声で、リンはぽつりと呟いた。

「誰も傷つけなきゃ」

「無茶なこと」

 思わず天を仰ぎ、フレディは呻いた。

「お前みたいなドジに、そんな器用な芸当出来るわけない」

「ひでえな」

 ようやく立ち上がり、尻についた砂粒を叩き落とす。口ぶりに相反して、責める様子は全くと言っていいほど見受けられなかった。

「だがその通りだ」

「ちゃんと謝れよ」

「分かってる」

 触れることで今更ながら自らのひどい格好を自覚したらしい。眉を顰めて伸びきったシャツを引っ張る。

「何てこった」

 伊達男というには及ばないが、リンは昔から自分流のドレスコードをしっかりと制定していた。少なくとも、パジャマで町を闊歩するのは彼の流儀に思い切り反する。

「動顚してたから」

「喧嘩をする前からそれくらいのしおらしさがあれば」

「違う、あいつ」

 カブスのロゴで鎖骨に溜まった汗を擦り取り、じれったそうに唇を噛む。しばらく逡巡してから、結局リンはポンティアックのドアを開いた。

「乗れよ。ちょっと走ろうぜ」

 面食らうフレディを助手席へ押し込み、溜息を漏らす。考えることを放棄したと自ら豪語する男が作るにしては、口元はどこか固い。青い瞳が影の中で色を濃くし、表情らしい表情を消していた。目を合わせたとき、フレディは一瞬言葉を飲み込んでしまった。それは間違いなく、フレディが見てはいけない、見られることを望んでいない目だった。


 ハンドルをめいいっぱい切ることで、車体はアパートの壁に対し双曲線を描くようにして前進した。この道を進むと、リンの家へ行くためには遠回りになってしまう。ドライバーは一向に気にすることなくアクセルを踏んでいた。先ほどフレディの肝を冷やした瞳は、すっかりピントを緩めてフロントガラスを見つめていた。

 振り返りざま、手を振るように揺れるカーテンへ謝りながら、結局フレディはシートベルトを締めた。



 休日の10時過ぎで、通りは車で溢れかえっていた。何でも先週、ショッピングモールに新しい衣料品店が入ったそうで、恐らくバーゲン目当ての連中だろう。入り口のところで誘導を続ける警備員は、日も高いのにすっかりくたびれきっているようだった。

「メレディスの奴、何か持ってこなかったか」

 渋滞がようやく緩和されてきた頃、リンはようやく口を開いた。運転手の眼差しは、モールを境に寂れていく道路脇のことなど気にも掛けない。郊外へ向けてまっすぐ伸びた道のはるか先へ、視線を延ばしていた。

「その、茶色の包み。ペーパーバックの半分くらいの大きさだ」

 フレディは素直に、起き抜けから今までの記憶を辿った。途中、凄まじい怒鳴り声とメレディスの涙に心はかき乱されたが、それを打ち消す記憶の符合はない。首を振ると、リンは低い声で四文字言葉を発した。

「あいつが持って出たことは確かなんだ。中身、知ってたからな」

「まずいものなのか」

 咄嗟に想像したものは映画などでよく見かける、油紙に包まれた拳銃だった。作家の癖に、この発想は余りにも貧困すぎる。自分でも情けなくなった。

「まずいもまずい、とんでもないもんだ」

 リンの言葉は吐息交じりで、彼の方にばかり向けられた空調に押し返されて後部座席へ消えた。

「前に、俺とワットとマイルズでシカゴの事務所に忍び込んだんだ。屑ダイヤを専門に扱ってる会社に。工業用じゃない、ちゃんと宝飾に使う奴だ。それこそ塵も積もればって、多分100カラットはあったんじゃないかな。それをこの一月、ちょっとずつ捌いてたんだよ」

 手柄話となると、無意識のうちに声が明るくなる。対してフレディの心は、鉛でも飲み込んだかのように重く沈んでいくばかりだった。

「それで」

「ああ。今まで入ってきた分で、4万ドル近くになったよ」

 助手席の様子などお構いなしで、リンは胸を張った。

「情報を持ってきた奴は副社長の女で、そいつと俺は半年前」

「そのメレダイヤを彼女が持ってるのか」

「そういうことだ。最後の分なんだ」

 リンは頷いた。

「どれくらい」

「10カラット。時価で言うと、5000ドルくらいだな」

 自らが教師をしていた頃貰っていた月給の2倍くらい。比べることすら恥ずかしいのだとは分かっていたが、思わず舌打ちを漏らしてしまう。

「正直、あいつのことなんかどうでもいいから、ダイヤを取り戻したいんだ」

「ふざけたこと言うんじゃない」

「普段のルートに持ち込むんなら問題ないんだよ。だが今回は違う。厄介すぎる」

 公園が近付くにつれ路肩に緑が増え、車道にまで影を作る。

 今日は天気もいいから、家族連れが多いのだろう。パーキングに入りきらなかったらしい自家用車がそこここに止められていた。

「その10カラット分は、もう既に引き渡す確約ができてる。屑ダイヤ専門にアクセサリーを作ってる奴がいてな。上手いんだよ。本当に屑みたいな代物を使ってても、あいつが作ったネックレスはティファニーで買ったみたいに見える」

 暑苦しい紺の制服を着た警備員が、満車の看板をこちらに差し向ける。まるっきり無視し、車は深緑を区切るかのように敷かれた道をひたすら走る。

 フレディは何度かこの道を通り、自然公園の向こう側にある芝生のレクリエーション広場を訪れたことがあった。ポーリーンとジャッキー、バスケットケースを携えて。タイヤのブランコに乗っていたジャッキーが地面へ頭から落下し、額を擦りむいて泣き叫んでいるビデオテープは、今でも家にあるはずだった。慌てて抱き上げるポーリーンの姿は、振り回されたビデオカメラの中においては残像でしか残されていない。


「そのコーチってじじい、とてつもなく昔気質の野郎でさ。一々難癖つけやがるんだ。気が向いたときにしか仕事は引き受けない、受けた時だって、何粒以上はだめだ、以下はだめだ、何時に持って来いだの……何年か前、あんまりギャンギャン言いやがるもんだから、とっ捕まえて車のドアで思い切り脚を挟んでやったけど、それでも言うこと聞かないような頑固一徹だぜ」

「それで」

 公園を半周する道から離れていくにつれ、感傷も掻き消される。魔物でも潜んでいるかのような色濃い広葉樹林を名残惜しげに見やったまま、フレディは相槌を打った。自分でもやる気のない返事だとは分かっていたが、悪いことだとは思えなかった。これ以上隣の男を増長させるのは、あまりにも腹立たしい。

「その職人を怪我させた?」

「そう。だからもう、俺の注文なんか聞きやしないよ。ワットが辛うじて仲も悪くないから、持って行くって段取りにしたんだけど。じいさん、また時間指定を掛けてきやがったんだ」

「何時に」

「今夜7時、ハルバスタムで」

 車で一時間ほどの場所にある工業地区の名を出したリンの顔には、らしくもない苦渋の色が刻まれていた。

「ただ売り飛ばすだけならこんな手間、掛けやしないさ。だけど出来上がった首飾りは、ヘッセンって奴に渡す約束がしてある。こいつは組合のちょっとした顔で、シカゴにある洗剤や石鹸の卸業者は全部牛耳ってるんだよ。ちょっと最近揉め事を起こしたから、宥めるために首飾りをやるって約束してて」

「とにかく、時間までにダイヤモンドを見つけなけりゃいけないんだな」

 遮るようにフレディは呻いた。無理やりたたき起こされ、まるで現実感を持たない現実の中で目が冴えてしまう。せっかくいい夢を見ていたのに、再び侘しい商店を大写しにしたフロントガラスが、差し込む光線をぶつ切りにして幾つもの丸い円に変えている。白い陽光はダイヤモンドとよく似ていた。宝石と違って俗物的なものではなかったし、触ることもできないが。

「それはメレディスが持ってる」

「間違いない」

 ハンドルを人差し指で叩きながら、リンは頷いた。目線だけが不機嫌そうに頭上へ向かっていた。30分近く走り続けて、初めて信号に捕まった気がする。同じ鬱陶しさを共有する車が身を震わせながら、続々と後部に付く。


 不意に顔を向けたリンの前髪が、額でふわふわと跳ねた。

「なあ、メレディスのこと説得してくれないか」

「僕が?」

 様々な否定的感情で声が裏返りかけても、リンは真面目な顔を崩さなかった。

「そう。お前の言うことなら聞くだろうよ」

 クラッチを踏んで、車の絶えた道路全速前進。軽やかにギアチェンジをこなしていくリンの手つきは荒々しいが愛情がこもっていた。メレディスの背中を撫でるときと何一つ違わない。

「あいつ、お前のこと尊敬してるんだぜ」

「無茶だよ。彼女の感情を逆撫でするだけだ」

「そんなことないって」

 動揺も去りきらず首を竦めたままのフレディを覗き込み、リンは必死に阿った。

「俺の家から電話するだけでもいい。頼むよ。ヘッセンはかなりの上得意なんだ。ここで約束を破る男だってことになったら、他の取引にも差し支える」

「約束ならもう、とっくに破ってるじゃないか」

 メレディス、と舌先に乗せる。商売に関しては、昔のギャング気取りで掟だ何だと言い張るくせに。案の定、リンの眉は情けなく下がった。

「もうしないよ、こんな真似は。俺だってあいつが傷つくのは嫌なんだ。だって彼女を愛してる」

 甘えたようにloveなんて言葉を口にする目の前の男へ、無性に腹が立った。言い聞かせる相手がいる幸せを、こいつは本当に分かっているのだろうか。自らの声が虚しく部屋に響く恐ろしさを、絶望を。少なくとも自分は知っている。その分こいつより馬鹿じゃない。


「何回言っても無駄か」

 独り言のような呟きを聞きつけると、今度は臍を曲げる。軽く突き出された下唇は、ジャッキーでも近頃は浮かべないような代物である。その中へばつの悪さを巧妙に隠すことで、自らの罪をも消してしまったつもりなのだろう。逸らされた眼は、気にも掛けていないバス停の標識に向いていた。

「反省してる」

 ひなびた大通りに後から付け足された住宅街は完成してから20年ほどで、最初期からあつらえられていた住居と増改築されたものが半分ずつ混ざり合っていた。でこぼこと灰色の空の中に突き出す屋根の中で、一際鮮やかな緑色の屋根を持つ建物がリンのものだった。新築でこそなかったが、近隣では評判の建築業者に手がけられ、2階建ての住宅は並びでも一等綺麗なものだった。

 「大人になったら」野球ボールを両手で受け止めては放り投げるを繰り返しながら、半ズボンを履いて走り回っていた頃のリンはよく言っていた。「床が沈んだり通るたびに風呂場のドアが外れて倒れてこないような、大きくてぴかぴかの家に住むんだよ。それでナイト2000に乗って、デブラ・ウィンガーとデートするんだ」。

 おとぎ話なら願った夢は全て叶って、ハッピーエンドで終わる。いや、現実でも、リンの願いは全て達成されたはずだ。家は間違いなく大きくてぴかぴかだった。人工知能こそ付いていないが愛車は間違いなくトランザムだし、デブラ・ウィンガーよりずっと若い美人の妻もいる。でも、まあ、仕方ないことなのかもしれない。カポーティですらも実感していたことだ。「叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される」。

「僕が言っても解決なんかしない」

 すっかり諦めきった顔を振り、フレディはシートに身を投げ出した。

「僕は電話を掛けるだけだ。あとはお前がやれよ」

 男らしく謝って、彼女の傷を癒してやらないと。もしも機会さえあれば、フレディ自身がポーリーンに向かってすべきことを。

 ぱっと明るくなった表情は、20年前から何一つとして変わることがない。音もなくブレーキを入れ、リンは詰めていた息を吐き出した。

「恩に着るよ」



 元大きくてぴかぴかの家。中はノーコメント。床は沈まなかったがバスルームの扉が外れ、壁へ寄りかかるようにして立てかけてあった。

「一体何があったんだ」

 行く手を塞ぐドアを両手で掴んで押しやり、リンはああ、と頷いた。

「昨日から掃除してるんだよ。パッキンにカビが生えてる」

 普段言われたならば信用できる言葉も、今は疑心の種になる。もっとも廊下などまだマシなほうで、夫婦の寝室は惨憺たる有様だった。

「全部ひっくり返して探したんだけどなかったんだ。絶対あいつが持ってるんだって」

 腰に手を当て、自らが行った無体に眉を顰めている。流石に入るのが居たたまれなくてドアの傍に突っ立っていたら、何をしてるんだと喚かれた。

「電話しろよ……そこらにコードレスがあるから」

 クローゼットから放り出したらしい服の山に手を突っ込むが、見つからなかったらしい。自らのスーツは床に投げつけてあるくせに、妻のスカートは乱雑とはいえベッドの上に積んであるのだ。メレディスの嘆きも分かる。彼女にとって一番厄介なリンの性質は、気ままと浮気性ではない。

「おかしいな。今朝使ったのに」

 全て開けたままにしてあったメレディスの鏡台まで確認し、リンは頭を掻いた。

「先に着替えてから探すよ、待ってろ」

 リンが生き残っていたコム・デ・ギャルソンの真っ黒なシャツをクローゼットから引き出している間に、フレディはダマスク模様が織り込まれた絨毯の領域に一歩だけ踏み込んだ。普段はメレディスの手で綺麗に片付けてあるはずの部屋だが、荒らされていることでほんの少しだけ申し訳なさが薄れた。そう思うことにする。


「彼女……メレディスはまだお前に恋してるんだ」

 ハーフパンツを膝の辺りまでずり下げながら振り向いたリンが、訝しげな表情を浮かべた。

「惰性でお前と暮らしてるんじゃない。あんなにも情の深い女性、まずいないぞ」

「そうかい」

 唇を捻じ曲げるために用いられた感情は、肩に隠れて見えない。

「言われなくても知ってるよ。俺だって」

 次に浮かべた笑みと、リンの考えは流石に丸分かりであったが、それは見ないふりをしてやった。

「馬鹿、これ以上何を言わせる気だ」

「毎日自分と彼女に言い聞かせればいいさ」

 こんなことを口にする人間として一番相応しくない己を、醒めた眼で見つめている自分がいる。二つに分かれてしまった心が語る言葉は薄い。誰かこう言ってくれる人がいたら。未だに泣いて愚痴る羽目になるほどの歯がゆさだけが一分の一で感じられる。

「愛してるって」

「お前ら先生がお書きになるものとは違ってな」

 いい加減リンも呆れているようだった。

「普通の人間は、クソ真面目な顔で愛してるなんて言わないんだ」

「知ってるよ」

 そんなことだろうと思った。物悲しい顔でジーンズを引き上げているリンの横顔を見つめ、フレディは嫌味なほど大きな歎息を漏らしてみせた。

「それでも、やっぱり彼女は」

「何だって」

 聞こえなかったのか、ホックを止め終わったリンは振り返って尋ねた。聞かなくてもいい。聞かないほうがいい。虚しい独り言でしかない。不甲斐なさを噛み締めたまま、フレディは首を振った。

「何でもない。電話、掛けるよ」

「ああ。にしても本当に、どこ行ったんだか」

 ベッドの上に積み重ねた服を一枚ずつ捲っていき、リンは首をかしげた。

「今朝使ったんだ。電話掛けただろ、お前の家に」

「そうだったか?」

「声も聞かずに切りやがって、よく言うぜ」

 恐らく眠りこけている間にベルは鳴っていたのだろう。休日は寝汚くベッドで丸くなっているフレディを気遣い、電話を寝室に設置しなかったポーリーンの配慮も、彼女がいないと意味がない。

 子機だけでも持っていくべきか、そろそろ真剣に考えるべきかもしれない。今までも何度か実行しようとしていた考えに再び思い至る。だがフレディは、彼女がいなくなって1年も経った今も、彼女のパジャマを衣装かごから追い出せずにいる。

「多分メレディスか、ジャッキーが取ったんだよ」

「誰でもかまやしないよ、この際」

 敬うような手つきで服を移動させたリンの視線は、もう鏡台のあたりに漂っている。

「携帯電話は最近解約したし」

「そうなのか」

「ああ、仕事の都合で」

 それ以上は口にしようとせず、結局リン苛立たしげに首を振って部屋を飛び出した。

「ああくそっ、親機から掛けるから探してくれ」

「そんなことしなくても、僕が親機を使って家に電話するよ」

 足音高く居間に向かう後姿を、フレディは慌てて追いかけた。

「落ち着け」

「落ち着いてる!」

 癇癪を爆発させ、リンは上擦った声を上げた。振り返った目が薄暗い中でも分かるほど血走っている。ひやりと背中に走る感覚は下に降りていったように感じたのに、何故か冷えたのは頭の中だった。何で平和なはずの日曜日、こんな目に。

 本当なら今日は、ジャッキーを連れて近所の川原へ行くつもりだった。最近飼い始めた金魚の水槽に落としてやる石を拾いにいこうと、昨日確かに約束した。子供らしく自分のして欲しいことは絶対に忘れないジャッキーは、約束などすっかり忘れて情けなく押し黙っていた父親のことをどう思っただろう。リビングへたどり着くまでに、フレディの繊細な感情はすっかり悲壮感に染まっていた。



 脱ぎ捨てたジャケットがそのまま丸まっているカウチにどすんと膝をつけ、リンはテーブルに乗っている受話器を背凭れ越しに鷲掴んだ。コードに引かれた本体が落下しそうになる。無言でボタンを押しているとき、台の上でかたかたと機械が揺れた。

「説得する自信がない」

 カウチの背凭れに尻を乗せ、フレディはおずおずと告白した。

「聞いてくれないよ」

「いいからやってみろってば」

 言葉を遮るようにリンは受話器を突き出し、そのままの背凭れへ格好で肘を付いた。

「やってみなくちゃ分からない」

 事の次第を見届ける気満々の上目遣いに怯えながら、仕方なくフレディも受話器を耳に当てる。こんなにも憂鬱な発信音を聞くのは、先々月に原稿をなくした担当者に連絡を取って以来だった。結局見つかったらしいが、一回限りの縁と割り切っていたらしい出版社はあれ以降一度も連絡を遣さない。


 16回目のコールに入りかけた頃、ようやく電話は繋がる。聞こえてきたのは耳慣れたか細い声だった。息を一つ吐き出し、フレディは汗の滲んだ掌で合成皮革のカウチを撫でた。

「メレディスおばさんは?」

「洗面所で化粧してるよ」

 内緒話をする要領で声を低め、ジャッキーは言った。

「パパ、今どこ?」

「おじさんの家だ」

「僕たち、今からKマートに行くよ」

 恐らく今回の騒ぎに関連している人物の中では一番冷静な声が、熱っぽい耳にじんじんと響く。

「メレディスがね、金魚の水槽に入れるんだったら石よりマーブル(ビー玉)の方が綺麗だって。だから今から買いに行くんだ」

「出かけるのか?」

「うん」

「出かけるそうだ」

 様子を窺っていたリンに告げると、彼は思い切りよく身を起こした。

「その隙に探そう」

「彼女、持って歩いてるんじゃないか?」

「聞けよ」

 フレディが再び通話に戻る前に、もう機嫌を戻したリンが乱暴に尻を叩く。フレディは肩を竦め背凭れに座りなおした。

「ジャッキー。おばさん、今日何か荷物持ってこなかったか?」

「荷物?」

 しばらくの無言は、フレディ自身が一番身に染みている感情によるものだろう。永世中立国は、片方だけに加担してはならない。

「わかんない」

 やがてジャッキーは、歯切れの悪い口調で返した。

「手ぶらだったよ」

「何も? 包みとか、持ってなかったか?」

 またもや沈黙。こんなことを訊ねなければならない自分が死ぬほど情けなかったし、息子を同じ目に合わせているとなるともう、涙が出そうになる。今すぐ受話器を放り出してリンの横っ面にパンチを食らわせるのが一番いい方法なのではないか。ジャッキーの呼吸音かノイズか、不快な音に耳を澄ませ、フレディは目を閉じた。


 不意に伸び上がったリンの手が受話器をもぎ取る。

「ジャーッキー、ちょっと聞きたいことがあるんだ」

 先ほどまでの罵倒を聞かれていた事実など全く考慮に入れず、リンはいつもどおりの猫なで声を出す。顔には笑みさえ浮かんでいた。

「メレディスおばさんには黙っとけよ」

 今頃息子はどんな表情を浮かべていることだろう。眼を瞬かせるフレディなど気にすることなく、リンはいたずらっ子のような表情で言葉を続ける。

「茶色い包み。ああ。掌に乗るくらいの」

 ジャッキーが何か言葉を返す。ふむふむと間抜けな相槌を打ちながら、膝の下で皺を作っているジャケットを引っ張り出す。染みでも見つけたのか、じっと見つめていた目が微かに眇められる。

「ああ、だってガラス玉の方がカラフルじゃないか。金魚も喜ぶ」

 その後もリンは何らかの相槌を打っているだけで、話の内容までは分からない。だが喋るペースでわかる。騒動を起こした本人を、ジャッキーはもう許し始めていた。リンの甲高い声の向こうに、呼応する笑い声まで聞こえる気がする。父親というハンデを用いてもなお、フレディには真似できない芸当である。


 リンは昔から、デートしたい女の子に対しても、年上のゴロツキに対しても、非常にまめな気配りができる男だった。猫の顎を擽る要領で、相手の琴線を巧みに見分ける。見えているくせに敢えて無視してしまうからこんなことになるのだ。ずうずうしいにも程がある。今もフレディは、そう言ってやりたくてうずうずしていた。だが残念なことに彼の強固な理性は、自らの怒りがこの場ではあまりにも唐突過ぎることも痛いほど理解していた。

「しょげるなよ。心配しなくても、ちゃんと仲直りするからさ」

 終いにはこんなことをしゃあしゃあと言ってのける邪気のない横顔を睨み、フレディはカウチの上で指先を弾ませる。結局リンは最後まで知らん顔のまま、伸び上がって受話器を本体に戻した。唇にはもう、会心の笑みが浮かんでいる。

「よし。お前はKマートでメレディスを足止めしてくれ。俺はその間に家捜しするから」

「Yes sir, Sergeant」

 眉を吊り上げ、フレディは自らが出せる限りの皮肉を呟きに込めた。そのとき初めてリンは、いぶかしげに首をかしげた。

「何だよ。ちょっと計画が狂っただけだろう」

「ジャッキーに誓って」

 じっと見ているとまた腹が立ちそうで、フレディは先に玄関へ向かって歩き出した。

「見つけたら、すぐ仲直りだ」

「分かってる、分かってる」

 まるで子供を宥めるような口調でリンは言った。

「取り返して、時間にもよるけど、とにかくダイヤの件がひと段落したらちゃんと謝る」

「僕は本気だぞ、もしもほったらかしておいたら」

「そうだろうとも」

 リン本人は、ジャッキーよりもずっとずっと小さな子供に言い聞かせているつもりなのだろう。もしくは、子供が子供に喋っている。ふんと鼻を鳴らしたのは聞こえた。恐らく肩も竦めているはずだった。

「お前は心優しいパパだからな」

 掌の中で車のキーをガチャガチャ言わせながら、するりとフレディの横に並ぶ。フレディは彼にそれ以上の皮肉をいう冷静さはおろか、一発ひっぱたくほどの興奮すら体に残していない。あるのはただ、そのうち勝手に消えるがこの瞬間は不愉快極まりない不定形のもやもやだけだった。


 玄関の鍵を掛けるとき、リンはふと夢から醒めたかのように表情を曇らせた。

「それにしても変な名前の金魚だな。ペチコートだって?」

「ペチコート?」

 思わず眼を剥けば、神妙な顔での頷きが返ってくる。

「ちょっとユニークすぎると思うぞ、ネーミングセンスが」

「お前が教えたんじゃないのか」

「まさか」

「そんな下品な名前じゃなかったと思うが」

 小さな水槽の中で泳ぐ金魚は親指の半分ほどの大きさだが、目が覚めるほど真っ赤で元気だった。アパート暮らしの悲しさで、これまで動物を飼ったことのなかったジャッキーは、今のところ毎朝きちんとエサをやって可愛がっている。

 そう言えば何だかんだと名前を考えていた気もするが、そこのあたりは子供の自主性に任せるべきだと、確かにフレディは嘴を挟まなかった。おかげで、思い出せない。だが一つだけいえる。

「違う、絶対に。そんな下品な子に育てた覚え、ないぞ」

「いーや、確かに聞いた」

 リンはあくまでも真顔で、自らの意見を譲らない。

「ま、いいけどな。たかが金魚だ。俺の知ってる奴は、犬にバンディって名前付けてたぞ」    

 もう何も答えず、フレディは大人しくポンティアックに乗り込んだ。



 父親を見つけたジャッキーの手には既にビニール袋が握られていた。自動ドアから入ってくる人影を見つけた途端、こちらへ一目散にかけてくる。後ろめたさと大いなる安堵で言葉を発することができぬまま、フレディは飛び込んでくる身体を捕まえた。

「買ってもらった」

 掲げた袋の中にはおもちゃのガラス玉に、幾つかの菓子。身をぶつけるようにしてくっ付いてくる頭を撫で、フレディは恐る恐る辺りを見回した。急ぎ足の中年男が視界から消えた先には、幸か不幸か目当ての人物はいなかった。

「おばさんは?」

 幾ら潰れかけている店とはいえ、休日にはそこそこ人が多い。レジで並ぶ列、柱の傍での暇つぶし。動く影に気を取られるせいか、目的の人物は見当たらない。ジャッキーは音が鳴るほど強く袋を握り締めた。見上げる目は、大人と秘密を共有する子供特有の、どこか誇らしげな色を以って鈍い蛍光灯の明かりを反射していた。

「トイレに行った。またお化粧直してる」

「一体どこ行ってたのよ、フレディ」

 言い終わるまでに後ろから声を掛けられ、親子ともども飛び上がる。父親に強く頭を押さえつけられて上がったジャッキーの声は悪戯が見つかったときと同じ無邪気なものだったが、フレディの方は発した声が裏返る情けなさ。振り返った先にいたメレディスはもう、怒りを通り越して呆れているようだった。

「メレディス」

  決まり悪げにまばたきするフレディの前で、メレディスは壁のように立ちふさがっていた。追い詰められたねずみの如く身を竦ませる親子に刺す視線の根源は、化粧で誤魔化してあるもののやはり少し腫れている。揺れていた心はあっさり彼女の方になびき、残ったのは今頃家に忍び込んでいる友人への恨みと、自らへ向ける不甲斐なさだけだった。

「全くもう。ジャッキーったら」

 いつもはつらつとした彼女には相応しくない、心底くたびれきった声が喧騒の隙間を縫ってこちらに届く。

「さっき電話で喋ってたの、やっぱりあいつなんでしょう」

「僕だよ。気になって」

 しょんぼりと父親のズボンを掴むジャッキーを引き寄せ、フレディは慌てて答えた。

「出かけるって聞いたから、こっちに駆けつけた」

 信用するという言葉に不信感を抱く目が、じろりとこちらに向けられる。

「リンは?」

「家に」

 一度ふっと息をつき、やっとのことでフレディは腹を括る気になった。

「僕の家にね。君、リンのところから何か持って来たんだって?」

「ダイヤモンドでしょう」

 ふてくされた女子高生そのもの、恐らく10年前から何一つ変わらないようなふくれっ面で天を仰ぎ、メレディスは吐き捨てた。

「そんなことだろうと思ったわ。どうせ、よその女にプレゼントするんでしょ。あの安っぽいイミテーション」

 エントランスのど真ん中で向かい合う男女とおまけの子供が一人。この店で買ったのであろう派手で薄っぺらい花柄のブラウスを着た中年女が、ちらりとこちらに視線を投げかける。

「違うよ。あれは本物で、仕事で使うんだそうだ。賄賂か何かに」

 横柄な好奇心にただただ気まずさを覚え、睨み返すべき視線は代わりに入り口へ流れる。新たな客を飲み込もうと自動ドアが開く。同時に入ってきた生ぬるい風が、早速挫けそうになっている決意を自動販売機横のベンチへ押しやっていった。ちょうど3人ほどが腰を掛けられそうな空白が手を差し伸べている。ジャッキーの掌を掴み、フレディは目だけでベンチを指し示した。

「頼むよ。ちょっとでいいから話を聞いてくれないか」

 メレディスはしばらくの間、フレディではなく、彼の腰までしかないジャッキーの顔へ気だるげな視線をむけていた。掌の中の小さな指に力が篭る。

「メレディス」

 館内放送の機械的な声へ被せるようにして、フレディは哀れっぽい嘆きを発した。

「話せば分かるとは言わないよ。けれど」

「分かったわ」

 溜息と共に押し出すような口調を後に残し、メレディスは踵を返した。

「聞くだけよ。どうせ変わらないでしょうけど」



 変わらない。ベンチに腰掛けてから10分の間に、メレディスはその言葉を4回口にした。

「別に私だって、彼をスーパーマンに仕立て上げたいわけじゃないのよ」

ダイエットコークを啜りながら、目はエントランスを行きかう買い物客をぼんやりと眺めている。反対にジャッキーは俯いたまま、先ほど買ってもらったガラス玉をベンチの溝に沿わせて転がしている。表情は前髪のせいで影になっていることを差し引いたとしても、あまり明るいものではない。


 間に挟まれたフレディは、精一杯冷静な顔でメレディスの言葉に相槌を打ち続けていた。これ以上途方にくれているという態度を見せるわけには行かなかった。

「フレディ、あなたリンに弱味でも握られてるの?」

 自販機に収められて間もなかったらしい。3人が啜るダイエットコークはひどく生ぬるかった。汗をかくことすらない缶の淵を熱っぽい瞼に当て、メレディスはまずこう切り出した。

「何だかあなたたちの関係って……そうね、兄弟みたい。兄さんの使い走りをしてる弟って感じ」

「そんなことは」

 鈍い言葉なのに刺されば痛い。フレディは動揺を表さないよう、できる限りゆっくりと言葉を発した。

「でも僕は、彼の妹を追い詰めた。その事実は変わらない」

「実際のところ、あいつ、そんな気にしてないのよ」

 聞いているほうが心配になるほど、メレディスははっきり断言した。

「即物的だから。子供と一緒よ。眼の前に綺麗な女がいたら追いかける。あなたが落ち込んでたら慰める。自分がそのときしたいことをやったら、後のことなんか考えもしないんだから」


 薄々分かっていることを指摘されるのは辛い。口にされた言葉は、頭の中で駆け回らせておくよりもずっしりとしたリアリティを以って心に響く。

「けれど」

 けれどフレディは、心の奥底で淀んだ悲壮感の底を何かが突き破った時、それを抑えることができなかった。

「君の言いたいことは尤もだよ」

 唇から飛び出てリアリティを持った言葉は、悲しい。虚しい。嘆かわしい。それをフレディはよく知っていた。だから結局、お茶を濁すしかなかった。コーラの缶をだらりとぶら下げ、溜息をつく。

「どうしたらいいだろうね?」

「私が聞きたいわよ」

「君自身はどうしたい?」

「それを説きに来たんじゃなかったの」

 メレディスは鼻の先で笑った。女性が行う中で、フレディが最も苦手とする仕草を。けれど彼女が小さく尖った鼻をぴくりと動かす動作は、不思議と心の中に安堵を送り込んできた。


「僕は……君がどういう行動を取ろうとできる限り応援したいと思ってるよ。だって、今回は全面的にあいつが悪いんだから」

 アルミ缶にぶつかっては砕けるリズムでタイミングを計りながら、フレディはゆっくりと言葉を探していった。やかましい有線放送や雑踏のせいで音は聞こえなかったが、濡れた指先に液体が波打つ感触が伝わってくる。

「もちろん、包丁で刺すとかなら別だけどね。ほとぼりが醒めるまで少し距離を置くのもいいかもしれない。あいつはダイヤモンドが見つかり次第、謝りに来るって言ってたけど……ジャッキー、やめなさい」

 ガラスとガラスがぶつかる硬い音がしばらく聞こえないと思ったら、緑色の螺旋模様が入ったマーブルはジャッキーの唇の間にあった。ぶらぶらと揺れる足の忙しなさとは裏腹に目はぼんやりと駐車場を映し、飴玉でもしゃぶるかのようにマーブルをしゃぶっている。いきなり声を掛けられてびっくりしたのか、小さな前歯がかちんとガラスを噛む。

「汚いだろう。それに、そういうガラスについてる色は、身体に悪いんだぞ」

 ジャッキーはガラス玉を吐き出し手の中に握りこんだ。焦点を結んだとき、その目にははっきりとむずかりの色が浮かんでいた。

「お腹すいた」

 フレディは黙ってポケットから財布を出すと、5ドル札を一枚、ガラス玉を包むようにして息子の手に握らせた。

「アイス買ってもいい?」

「晩御飯が近いから、半分だけしか食べちゃ駄目だぞ」

 駆け足の後姿を嗜めようと口を開く前に、平均より幾分小さめの身体はレジの横をすり抜けていってしまった。

「そういえば、お昼食べてないものね」

 溜息交じりの穏やかな声に含まれた感情にフレディが気付く前に、メレディスは改めて彼に向き直った。

「本気で謝ると思う?」

「君が言ったじゃないか」

 缶を口元に持っていき、フレディは微笑んだ。しつこく揺らしたせいで、すっかり炭酸が抜けている。

「あいつは即物的だ。悪いと思ったら、ちゃんと反省する」

 甘ったるいばかりの液体は生ぬるさも手伝い、口腔から喉に掛けてねっとりと纏わり付く。だがメレディスは、絡め取られ縺れている言葉にもしっかりと耳を傾けてくれていた。そして言った。

「フレディ、そこが貴方のだめなところだと思うの」

 思わぬ反論に当惑するフレディを、ヘイゼルグリーンの眼がじっと見据える。

「あなた、優し過ぎるのよ。誰に対してもね。自分がないみたい」

「優柔不断ってことかな」

 この瞬間、自らの顔が強張っているのをフレディはしっかりと自覚していた。口角が僅かに吊り上がる、まるで笑んでいるような形で。耳が火でも付いたかのように熱くなり、一瞬世界の全ての音が遠くへ引き剥がされる。


 ふと彼は、ハイスクールの頃授業で教師から付されたコメントを思い出した。「たかがディベートでそんなに気張らなくてもいいんだよ。批評は否定じゃないんだから」

「そうじゃないの。ただ、もっと思ってることをはっきり言っても良いんじゃないかなって」

「自分のことを」

「そうよ」

「難しい」

 氷解するにつれて視線に耐えられなくなり、フレディは抱えたコーラに目を落とした。

「一度失敗してるから」

 原稿だけど、このセンテンス、どう思う? そうだよ、出版社の人は確実に売れるって。とうとう夢が叶うんだ。

 はしゃいでまくし立てるフレディを、いつでもポーリーンは微笑んで見つめていた。今の自分と同じように。そして数倍優しく、数倍巧みに相槌を打ちながら。


 自らの声に耳を聾され、フレディは訊ねることはおろか、メレディスのように気付くことすらしなかったのだ。もし気付いていたら。

 こんなにも細やかな妻を置いて遊びまわるなんて。フレディは今更ながら、リンの身勝手さに腹を立てた。

 俯いて誤魔化し笑いのフレディに、メレディスは中身のある、本当の悲しみをその顔に浮かべて見せた。

「フレディ」

「今は僕のことは脇へ置いておこう」

 言うことを聞かない口元を手で覆い、フレディは目だけを上げた。

「君はどうしたい?」

「私は、そうね」

 急にメレディスの声が遠慮がちなものになる。

「とりあえず一発引っぱたくかしら」

 ジャッキーが早足でこちらに戻ってくる。どかりと元の位置に腰を下ろすと、そのまま無言でアイスの蓋を開けると、ねっとりした茶色にプラスチックのスプーンで掘削を始める。1クォーターのパックを横目で見ながら、フレディはもう一度釘を刺した。

「半分だけだぞ」

「分かってる」

ジャッキーは顔を顰めた。スプーンを更に深く突き刺し、尻の下に手を突っ込む。先ほど弾いて遊んでいた赤いガラス玉を取り出すと、無表情で袋の中に放り込んだ。後はもう、大人しくクリームを舐め続けるのみである。



 コーラを両手で包み込んだまま押し黙っていたメレディスが口を開いたのは、生ぬるい空気とアイスクリームが、溶かすか溶かされるかの競り合いを始めてしばらく経ってからのことだった。

「さっきも言ったけど、私、分かってたのよ。あいつがどんな奴か」

 何度目か分からない自動ドアの開閉が、傾き始めた昼の太陽を剥がれかけた店内のタイル上に誘導している。形を変える模様に侵食されないよう、メレディスはずるずるとつま先を引っ込めた。

「でも最後は私のところに帰ってくるって。馬鹿みたいでしょ」

「そんなこと」

 フレディは強く首を振った。

「絶対ない。それに事実だよ。彼は君の事、愛してる」

 この言葉を言ったとき、話題に上がる男が浮かべていた表情を思い浮かべることで、冷静を呼び戻す。

「大切だと思ってる癖に馬鹿なことをするんだから」

「フレディ、あなたはポーリーンがいたとき」

 パックへ屈みこむようにしてスプーンを動かしているジャッキーに視線を向けたメレディスは、それ以上口にしようとしなかった。

「断じてしてない」

 身を乗りだし、フレディは言った。

「それだけはね。他には、数え切れないほどしたけれど」

「でしょうね」

 飲みきるのを諦めたらしい。缶をベンチに置き、メレディスは微笑んだ。

「傍から見てても、あなた、とっても一途だったもの。おとぎ話の騎士みたいに」

 白雪姫の衣装を身につけ、ちょこんと切り株に座っているポーリーンの姿を想像する。実際幼い頃、ハロウィンの仮装パーティでそんな格好をしていたような気がする。自分はバットマンだったか何だったか、カウボーイの格好をしたリンが玩具の銃を振り回していたことは覚えている。

 彼はしゃなりしゃなりと歩いていた妹のお下げを引っ張って泣かせ、フレディに林檎をぶつけた。闇の騎士は残念ながら、姫を守ることはできなかった。それどころか大人になってからは、自分の手で傷つける始末だ。


「どうしてこうなったんだか」

 メレディスは答えなかったし、隣のジャッキーは言わずもがな。ただ、息子の方は白いスプーンが折れそうなほどたっぷりとアイスクリームを掬い、父親に向かって掲げた。

「一口あげようか?」

 口を開くと、いささか乱暴な勢いで突っ込まれる。プラスチックから拭い取ったチョコレートとミルクの冷たさが舌の上でじわりと広がり、溶けるときには甘みを増す。べたつくそれは、もっと粘つき熱かった口腔内を中和した。

「本当にね」

 やがてメレディスも呟いた。ジャッキーはもう一度匙を満たし、今度は彼女に差し出した。彼女は微笑んで首を振った。

「どうしてこうなっちゃったのかしら」

 知る方法は一つしかない。フレディにはまだ機会が訪れておらず、メレディスには今からでも可能な方法が。


 自分のものになったアイスを口に収めたジャッキーの頭を撫で、フレディは苦く笑った。

「そこまで。後は晩御飯の後に」

 ちょっと拗ねたような表情を浮かべたようなものの、ジャッキーは素直にパックの蓋を閉じる。忘れ去られていたコーラの缶をゴミ箱に放り込んでから、フレディは立ち上がった。

「メレディス、リンに話してみるか?」

 一回、肩が上下するほどの吐息を漏らしてから、メレディスも缶をゴミ箱に入れる。中身はまだたっぷりと入っていたらしく、山積みの缶の中で一際重い音が上がる。

「そうね」

 ヒステリーはどこかへ消え、瞳にはいつもの彼女らしい、挑戦的な色が浮かんでいた。

「話すのもいいけど、一発浴びせてからよ」

 彼ら以外誰のためでもない自動ドアが、滑るように左右へ口を開けた。



 先ほど覗いたリンのベッドルームの惨事再びという訳ではなかったものの、侵入者が手をつけたのだとはっきり分かる程度の乱れ方はしている。斥候として派遣されたフレディとジャッキーは、リビングに向かうまでの間に少なくとも三回は何かを踏ん付けた。

「リン」

 呼びかけに応じたリンが篭っていた場所は、ジャッキーの寝室だった。

「悪かったな、勝手に部屋に入って」

 言葉の割りには全く悪びれていない口調で、リンはジャッキーに詫びた。

「別に変なもの隠してないし」

 しれっと言い放ったジャッキーは洗面所へ入っていく。父親の助言に従い、ガラス玉を水洗いする気らしい。陶器のシンクとぶつかる幾つもの硬い音が、こちらにまで聞こえてきた。

「一体どこにあるんだ。聞き出してくれたか?」

「いや」

 フレディが首を振ると、リンはあからさまにがっかりした表情を浮かべた。

「ヤバいんだ」

ちらりと壁の時計へ走った視線には余裕の欠片もない。

「途中でワットを拾わなきゃならないから、そろそろ出発しないと」

「どうやら、順番が逆になりそうだな」

 新聞が床に広がり、クッションが全てひっくり返ったリビングを横切り、フレディは窓を開け放った。

「メレディスに謝って、ダイヤの場所を教えてもらえ」

 車の前に立っているメレディスに手を振れば、遠目にも彼女が笑顔を浮かべているのがはっきりと見えた。緩やかな風がリンの呻き声を背後へ押しやり、一層気弱な響きに変える。

「ああもう、分かった。負けたよ」

 唇を尖らせているのであろうことは見なくとも分かる。窓から身を乗り出し、勝ち誇った女王が階段に消えたのを確認したフレディも、先ほど彼女が見せたのと同じ笑みを唇に浮かべた。



 部屋に入ってきたメレディスの笑顔は、遠景で見たときよりもずっと挑発的なものだった。恐らくフレディ自身がそんなものと対峙したら、即座にたじたじとなるような。だがリンは相変わらずふてくされたままで、妻の大きな緑色の眼を見ようともしない

「やってくれるぜ」

「自業自得よ」

 ジャッキーが車の中に置き忘れたらしいアイスクリームのパックをテーブルに置き、メレディスは腕を組んだ。

「それで、見つかったの?」

 リンは唇をもぐもぐと蠢かせたものの、言葉は発しなかった。

「あれ、模造ダイヤだと思ってたわ。小さかったし、形もいびつ。それに変な色も付いてたし」

「偽装してあったんだよ」

 吐き捨てるようにリンは言った。

「サツに睨まれたときと、誰か素人が変な気を起こして欲しがったりしないようにな。木工用ボンドを塗ってある」

「細かいな」

 フレディの呟きに鋭い一瞥を与えてから、リンは芝居がかった仕草で両手を持ち上げた。

「残念だったな、あれは正真正銘のダイヤモンドだよ」

 メレディスの片眉が吊り上がるのを見計らっていたかのように、両手いっぱいのカラフルなガラス玉を掲げ持ったジャッキーが洗面所から姿を現す。すぐさま水槽に沈めるのだから、タオルで拭く手間は省かれる。雫は赤くなった指を垂直に流れ、手の甲を伝って華奢な手首の骨から絶えることなく滴り落ちていく。

「いいじゃないか、それ」

 リンがわざとらしい声をあげ、掌の中を覗き込む。

「金魚も喜ぶぞ」

 ジャッキーは最近身につけたらしい無感動な薄い笑みを浮かべ、軽く頷いただけだった。

「そうよ、喜ぶわ」

 メレディスも、自室に引っ込む後頭部へ晴れやかな言葉を投げかけた。

「あとで私にも見せてちょうだいね」

 リンがいくら睨みつけようともびくともせず、ふんと鼻まで鳴らす余裕をもっている。形勢は明らかだった。なのにリンは壁に凭れかかり、口を噤むばかりである。


 対峙する時間が続けば続くほど、場外で見守るフレディはやきもきとしていた。窓枠に尻を預けるようにして、息すら潜めて見守り続けること数分と言ったところだろうか。焦らすためだけの持久戦は嫌いだった。チェスをやっても、相手がわざと時間を掛けて考えるふりでもしようものなら、すぐに苛立って手を間違えた。

「時間、ないんだろう」

 日暮れ前の最後の光と、そろそろ涼しさを含み始めたそよ風にじりじりと煽られ、結局フレディはリンに助け舟を出した。

「デザイナーとの待ち合わせ」

「おまえ、どっちの味方だよ」

 リンも負けずと尖った口調を返した。

「さては懐柔されやがったな」

「今回はお前が悪い」

 こちらを見つめるメレディスの眼に励まされ、フレディは臆することなくそう言うことができた。

「さっさと謝ったらどうだ、男らしく」

 途端、リンはこちらがたじろぐほど傷ついたような表情を浮かべた。だがそれはすぐさま消え、次の瞬間、見開かれた薄青色の目には怒りが燃え盛っていた。

「裏切り者!」

 子供の癇癪以上の意味を持たない憎悪を爆発させこっちに向かってくるリンに、フレディもとうとう腹を据えた。場数は違う。引き分けに持ち込めるとは思っていない。けれど、青痣の一発くらいは残すことができるはずだ。拳を固めたフレディは、窓際から一歩踏み出した。



「パパ、パパ!」

 熱が体の隅々に行き渡るまでに、ジャッキーの叫び声が耳をつんざく。部屋にいた大人全員が、半分閉じかけた子供部屋の扉を振り返った。勢いよく開いたドアへぶら下がるような格好のジャッキーが、顔を真っ赤にして声を張り上げる。

「金魚が、ピチカートが死んでるよ!」

床から生えたように動かない足と裏腹に、唇はわなわなと震えている。それをフレディが確認する前に、真っ黒な瞳に涙が膨れ上がった。




「この金魚は生前、非常によい金魚でした」

 できる限り厳かな声で、フレディは便器に向かって語りかけた。切れかけて点滅する蛍光灯の下、真っ白な陶器の中で、真っ赤な金魚は黒ずんで見える。生気を失うとはまさしくこのことだ。項垂れた息子の頭を撫で、溜息をつく。

「天国へ迎え入れられますように」

 すっかり腫れてしまった眼を瞬かせ、ジャッキーは腹を見せる格好で浮いている愛魚をじっと見つめていた。父親が即興で考え出した祈りの文句の最後に掠れた声でアーメン、と付け足す以外は、一度も口を開かない。

 金魚と過ごした期間は一ヶ月にも満たなかったにも関わらず、この落ち込みよう。感受性が豊かなのは、自分とポーリーンのどちらに似たのだろうか。空腹でしっかりと動かない頭の隅で、フレディは考えていた。



「魚の水槽に入れてたのか?!」

 リンが眉尻を下げて叫ぶ。

「くそっ、盲点だったな」

「ボンド、溶けちゃったのね。ごめんなさい、ジャッキー」

 差し伸べられたメレディスの手を払いのけ、ジャッキーはフレディのところに駆け寄った。腰へ体当たりするようにしてしがみつき、ズボンに爪を立てる。くぐもった呻き声しか上げないのは目の前のポロシャツに噛み付いているせいだとは分かっていたが、フレディは叱責しなかった。唾液と涙が服に染み込んで、ぬるく腹を濡らした。

「でも木工用ボンドは無毒性のはずだぞ」

 一気に汗ばんだ眼下の頭を撫でながら、フレディは首をかしげた。

「病気かも」

「だって水槽の水、無茶苦茶に濁ってる!」

 父親の腹に顔を埋めたままジャッキーは怒鳴った。

「今朝まで元気だったのに!」

「ああ、そういやボンドにマニキュアも混ぜたから」

 納得したといわんばかりに一人頷くと、リンは開け放たれたドアの向こうに入っていった。

「一瓶まるまる使ったからなあ」

「リンなんか嫌いだ!」

 金切り声は、父親に向かって吐き出される。

「リンのせいで、ピチカートは死んじゃったんだよ!」

「また新しい奴、買ってやるよ」

 丸い金魚鉢を抱えながら、器用に肩を竦める。確かに水は薄桃色に濁っていた。よくよく目を凝らせば、底の方にはきらきらと輝く透明の石たち。上の方には揺れる水面に力なく身を預け、ガラスを擦る赤い尻尾。

「洗う手間が省けたよ」

呻き声は一層大きくなり、しがみつく力もまた強くなった。

「この金魚、どうする」

キッチンへ持っていく前に、リンは睨みつけるフレディの顔に最後の追い討ちを掛けた。

「三角コーナーに放り込んどきゃいいか」


 ぱちん、と間抜けな音が上がる。フレディが瞬きをする間に、メレディスはもう一回手を振り上げ、今度は手の甲で乱暴にリンの頬を張り飛ばした。水槽から水が飛び出し、フローリングに零れる。

「ごめんなさいでしょ、リン」

 目を見開いている夫に向かって、メレディスはひどく冷静な声で言った。おかしな話だが、フレディには彼女の唇が微かに微笑んでいるように見えた。


 何か言おうとリンが口を開きかけたが、メレディスは黙って、の一言で彼の口を完全に封じた。またもや水を撒き散らしながら夫の手から水槽をもぎ取ると、目だけで泣きじゃくっている甥を示す。

「ダイヤモンドは私が洗っとくから。あなたは謝ってきなさい」

 彼女がキッチンの簾の向こうへ姿を消すまで、リンは薄く唇を開いて彼女の後姿を見送っていた。

 そしてフレディも、恐らく叩かれた男と全く同じ顔で、一部始終を見つめていた。


 「男らしい」

 ぽつりと零した言葉にリンが怒りの眼を向ける。だがフレディには、そうとしか表現することができなかった。リンの顔を見据え、もう一度、今度ははっきりと言う。事実なのだから、何も憚る必要はない

「お前よりずっと、男らしいよ」

「もう黙れ」

 大きく息をつき、リンは渋々とこちらに近付いてきた。その場にしゃがみ込み、頑として顔を見せようとしないジャッキーの頬をつつく。

「ジャッキー、悪かったよ」

いやいやをするように捩る頭を撫で、己の妻にはあれほど言うのを拒否していた言葉をすらすらと吐き出す。

「犬でも何でも、また飼ってやるからさ。機嫌直せってば」

「いらない」

 ジャッキーが腹に顔を押し付けたまま一言喋るたび、吐息がくすぐったい。フレディは優しく身体を引き離し、力の抜けた身体をリンに向かい合わせた。慌ててジャッキーは涙と鼻水を拭い、少し高い位置にある青い眼を睨み上げた。今日初めて、リンの相好が僅かに崩れる。

「な。何が欲しい」

「魚」

 しゃくりあげ、途切れ途切れの言葉に、リンは辛抱強く耳を傾けた。

「魚がいい」

「分かった」

 立ち上がりざま、最後にもう一度だけ甥っ子の頭を軽く叩く。身を硬くしているものの、ジャッキーは拒絶しなかった。

「時間、大丈夫なのか」

「車飛ばしたら大丈夫だろ」

 フレディの問いかけに、リンはうんざりとした顔で言った。見上げた時計は5時を回っている。

「言うこと聞かなかったら、また足の骨でも折るさ」

 ポケットに手を突っ込んで背中を丸めた様子はまるで、鼻を真っ赤にしているジャッキーよりもよっぽど子供だった。そのままぶらりとキッチンに入った後の声は漏れてきたが、フレディは聞こうとしなかった。正直、拍子抜けする。だが文句を言う筋合いはないし、機会もない。

「馬鹿らしい」

 テーブルの上でひっくり返っていたティッシュを何枚か引っ張り出し、フレディはジャッキーの顔を拭った。

「いい迷惑だ、本当に」

 意味が分かっているのかいないのか、眼をぎゅっと瞑ったままのジャッキーも強く頷いた。

 

 

「川に戻るんだね」

 そろそろ水を流すべきかと迷っていたフレディに、ジャッキーは静かな声で訊ねた。

「本当に、大丈夫だね」

「ああ」

 洗浄ボタンから指を離し、フレディは頷いた。

「魚だからな。燃えるごみにするよりずっといい」

 それだけ聞くと、ジャッキーは黙って先ほどまで父親が触れていたボタンを押した。水が渦を巻き、金魚はあっという間に穴の奥へ引きずりこまれていった。


「水槽とガラス玉は取っておこう」

 渦が消え、音が消え、便器の中に平穏が戻るまで俯いているジャッキーの肩に手を乗せ、フレディは言った。

「また飼うんだろう」

「もうしばらくはいいよ」

 意外なほど冷静に、ジャッキーは首を振った。

「もうちょっとしてから。リンとメレディスが仲直りしてからでいい」

「とっくに仲直りしてるよ」

 苦笑し、洗面所から身体を押し出す父親を見上げ、ジャッキーは不思議そうに首を傾けた。

「そんなにすぐ?」

「大人だから」

 夕食の準備は全くと言っていいほど整っていない。今日は外で食べることにしようかと、フレディはさっさと算段を始めた。

「ちゃんと謝らなけりゃならないときは、謝るんだ」

「どうだか」

 大人びた仕草でジャッキーは肩を竦めた。

「メレディス、水槽に入れる前に、一番大きなダイヤモンドを一つ隠したんだよ」

 父親の顔色が変わるのがよっぽど面白いらしい。さっきまでベソを掻いていた顔は、もうすっかり子憎たらしい笑顔に変わっていた。

「あれが本物のダイヤだって、ちゃんと知ってたんだよ。僕たちずっと持ってたのに、リン、最後まで気付かなかったね」

 キッチンのテーブルに鎮座する水槽のそばにすっ飛んでいき、詰め込まれたガラス玉へ手を突っ込んだフレディは、その固く、重く、冷たい感触の中から確かに発見してしまった。唇は強張り、殴られたかのように胃はずしりと痛み、そして圧迫される場所から熱が奪われていく。



 ダイヤモンドは女の親友であって、男になど味方しない。ガラス玉より一回り小さいだけの粒をつまみ上げ、フレディはただただ歎息を漏らすしかなかった。



 ―了―

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