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II.日常の皹




「こうして六百四十五年に、中大兄皇子と中臣鎌足らは、大化の改新を成し遂げ――」

 四時間目の歴史の授業。あと一時間で昼食の時間とあらば、授業など身に入らないのは、この教室の生徒達も同様で、真剣に聞いている生徒は限りなく少ない。ライトノベルを読んでいたり、はたまた携帯電話やスマートフォンを弄っていたり、酷いものになると、携帯ゲームで遊んでいる者もいる。

 そんな中、小唄は隣で実に楽しく落書きに興じている冥に呆れ返りながら、自身はぼんやりと窓の外を眺めていた。歴史担当の教師の熱心な声だけが、右耳を通って左耳から抜けていく。

 まるで学校を護るかのように周りに植樹された針葉樹のひとつに視点を固定し、小唄は思考にふける。むろん、それは今朝に出会った金髪の少女のことだ。ボルドーで生地を煮詰め、黒酸塊くろすぐりを潰してレースを染めたような、薔薇のブローチが付いたヴィクトリアン・クラシカルロリータワンピース。ワインレッドの花弁の縁のみヴァイオレットが入れられた特徴的な薔薇を一輪あしらった、黒エナメルのドールシューズには確かな既視感があった。

 だがそれでも、そのことに関しては記憶の引き出しを漁り切っても欠片すら出てこない。あの時に嗅いだ薔薇の匂いについても、やはり『知っている匂い』程度。いずれにせよ、結論に到るまでには未だ三千里はあろう。

(バラの香水については後で母さんに聞いてみるとして、あの一度見たら絶対忘れないと思うお洋服は、テレビか何かで見たのと勘違いしているだけなのかな……)

 そこまで思ったところで、小唄は心の中で首をぶんぶんと横に振った。ワンピースは、中世を舞台した英吉利映画や書籍で、似たような形のものを確かに見たことはある。が、靴に関してはとりわけ、この世に存在するものとは思えないあの薔薇は、映画でも書籍でも見た覚えがないのだ。となれば件の金髪の少女は、小唄の記憶領域外に在る何か――ということになる。

(……これ以上は考えても分からないや。そろそろ先生に気付かれそうだし――)

 大人しく授業を受けよう――と、小唄が黒板に視線を移そうとした時であった。

「ん……?」

 小唄は思わず視線を戻す。周囲の緑に似つかわしくない色が映ったような気がしたのだ。彼の視力は2.0以上。隈なく視線を動かせば、特異な点を発見するまでにさほどの時間も掛からなかった。緑の中にたたずむ深い紅を――。

(あれは……、あの子は)

 この距離では、さすがに仔細までは分からない。だが、見て間もないワインレッドとゴールドの組み合わせは、忘れようもない。間違いなく今朝の少女であった。樹と樹の間に佇み、校舎を覗き見ている、端から見ればそんな様子にも見える。

(……もしかして、誰かを探している?)

 しかし小唄は、ある方向においてはやや尖った人間だった。額面のとおりに受け止めず、あるいは呑み込み、自分なりの考えや思いに組み替えてゆく――それを無意識の内に実行していたが故の思考。即ち、解答――。

 同時に彼は微かに、その少女の口元が揺らめいているような気がした。三通りの揺らめき。それは単純に考えれば、『三文字の言葉を口にしている』。小唄はさらに身を乗り出し、より目を凝らそうとしたがそこまでだった。ポコンと小気味良い音と、軽すぎる衝撃が彼を駆け抜け、間抜けな声を上げさせる。

「あいたっ!」

「こら、織部! お前にとっての黒板は窓ガラスか!」

 途端に教室中が、ドッと笑いの渦に包まれる。教材を丸めてはたかれた頭頂部をさすりながら小唄は、ばつの悪そうな顔を見せた。周りの生徒が不躾に囃し立てる中、どこまで行ってもマイペースな冥は、その男性教師を抑揚に乏しい声で振り向かせる。

「……先生」

「ん、なんだ? 柩抒――」

 楽しそうに口の端を吊り上げながら冥は、描き上げた落書きを見せる。すると、青信号へと変わった信号のように、独身男性教師の顔が瞬時に青褪めた。

「ひ、ヒイィ!」

「……すごく力作、です?」

「…………こ、これで勝ったと思うなよおおおぉぉぉぉ――!!」

 歴史担当の独身男性教師は風を起こす勢いで、脱兎の如く教室から去っていってしまった。去り際に、眼尻に透明な粒が浮かんでいたのは気のせいではないだろう。

 重低音を響かせる足音が聞こえなくなると、

「さすが柩抒さん! 俺達のできないことをポンとやってくれるぜ!」

「きゃー、柩抒さん素敵ー! 抱いてぇー!」

「ドーモ、ヒツギノ=サン。タダノ・クラスメートです」

 などと、野太いやら黄色い歓声やら、果てはニンジャのような何かまで、教室中が歓喜に沸いたのだった。中には、拳を握り締めて中履きを踏み鳴らしている者さえいる。まるで、ノリの良い軍隊の閲兵式のようだ。

「……ふっ、卑小なひと

 冥の顔がサディストのそれになると同時に、四時間目の授業終了のチャイムが鳴った。直ぐ先まで沸いていた教室は別の意味で喧騒に包まれ、それぞれ歓談しながら教室を出て行く。中学校にしては稀少な施設――学生食堂に向かうためだ。

「……さ、小唄。お昼、食べよう。連れていって」

「う、うん……。それじゃ、行こうか」

 特に疑いもせず、小唄は差し出された冥の手を取り、ゆっくりと引いた。ふとした拍子に、彼女の描いた落書きが小唄の視界に入る。――なるほど、これであれば四十代独身男性教師が悲鳴を上げながら逃げ出すのも、無理はない。

 彼は自他ともに認めるスプラッター嫌いで、冥の描いたものが、『無数のゾンビに食われている人間の絵』だったのだから――。



 冥の行動にややむくれたままの由梨を、一応はなだめた小唄達が学生食堂に着くと、そこはいつも以上に大盛況であった。空席は十分にあるが、閉口したくなるような熱気が四人を出迎える。ホワイトボードには、『少し早いですが冷やし中華はじめました!』と、これ見よがしに書かれていた。

「あー、そういえば今日から、冷やし中華はじめるって言ってたっけ。皆で並んでも仕方ないから、由梨ちゃんと冥さんは席を取っといて。僕と聖歌さんが持ってくるよ。それでいい?」

「ええ。私は構いませんよ。お二人とも、何を食べますか?」

「うーん……あたしは、ペペロンチーノにしようかな」

「……焼き魚定食。サイドメニューにオクラ納豆を付けて」

 大好物のオクラ納豆を、絶対に付け忘れない冥であった。

「オーケー。それじゃ、行ってくるね」

 小唄と聖歌は適当な会話を交わしながら、食券売り場へと向かっていった。残された由梨と冥は全員分の席を確保し、座って待つ。この混みようではどこに座ったのかすら分かりにくいが、周りから浮き過ぎる冥の服装は一目瞭然だ。

 しかし冥と聖歌に言わせると、これでも抑えているとのこと。学生に相応しく華美になりすぎぬよう、付属のケープや付け襟などは外しているのだった。

 ――さて、この学生食堂には一点のみだが、特筆すべき点がある。それは、学校に設けられた食堂にもかかわらず、明らかに学校関係者ではない集団――スーツや作業着の男女が食事を摂っている区画があることだ。

 彼ら、あるいは彼女らは見ての通り、普遍の会社員。だが、楠中学校の学生食堂は一定の条件を満たしていれば、学校外の人間も利用することができる。主な利用者は、社員食堂を持たない近くの会社に勤める社員。それと、昼食を作るのが億劫な、怠惰な主婦達である。

「……」

 未だに機嫌が直らない由梨は、じっと冥を睨むように見ている。対する冥は、向けられている視線など感じないかのように文庫本を読んでいたが、いい加減鬱陶しくなってきたのか、顔を上げて大きな黒い瞳を由梨に向けた。

「……なに? 由梨」

「むーっ、なんでもないっ!」

「……そう」

 顔を河豚ふぐのように膨らませてそっぽを向いた由梨に、冥は素っ気無く返して再び文庫本に視線を落とす。そのうちに小唄と聖歌が四人分の食事を持って戻り、それぞれの作法に則って食事を始めた。小唄は売り切れ寸前だった冷やし中華を選び、聖歌は無難に海老天そばを選んだのだった。

 学生食堂とは思えないまでに美味なペペロンチーノに由梨はすっかり機嫌を良くし、談笑しながら進む食事のたけなわ――冥による授業テロの原因となった件について、聖歌は小唄に問いかけた。

「そういえば小唄さんは先ほど、何を熱心にあんなにも外を眺めていたのですか?」

「ああ、うん……。今朝に話した女の子が、あそこの林にいたんだ」

「えっ? あの子が!?」

 当事者の片割れである由梨は、当然のように反応する。

「ん~、学校に用事でもあったのかな? 誰かの妹さんとかだったりして」

「それは分からないけど、目を窓ガラスに向けていたし、誰かを探しているよう感じだった。あと、何かつぶやいていた気がする。遠すぎて全く分からなかったけど……」

 そこまで言ったところで、その会話には参加せずに、一心不乱にオクラ納豆ご飯を食べていた冥は、箸と茶碗を置いておしぼりで手を拭くと、何故か隣の聖歌の髪を指でさらにカールさせてから口を開いた。

「……読唇術」

「冥。おしぼりで拭いたとはいえ、納豆を食べていた箸を持っていた手で他人の髪に触るのはやめてください。それはさておき、読唇術ですか……なるほど」

「冥さん。読唇術って何? 心を読む超能力のこと?」

 聞き覚えのない言葉に、小唄のみならず由梨も興味津々であった。お冷を一口飲み、冥はいつもの調子で言う。

「……それは読心術のほう。読唇術は、唇の動きから相手が言っていることを知る術。聾唖ろうあの人とコミュニケーションを交わすのに必要な程度のもの……」

 例題として、幾つかの言葉を冥が口にして見せると、確かに母音の口の形は同じだが、子音によって唇の動きが微妙に異なるのが分かる。その心得があったなら、あの時に口にしていた三文字が理解できたかもしれない――と、小唄は思いながら感心したように手を合わせた。

「へぇー、そんな便利な術もあるんだね。時間があったら習ってみようかな」

「はーい! あたしも小唄くんと一緒に習う!」

「でしたら、皆で習ってみるのも一興かもしれませんね。それはさておき冥、そろそろ先生いじめはやめてあげなさいね。あの先生、毎回職員室で泣いているみたいですよ……」

「……善処する」

 ああ、これは聞く気ないな――と、聖歌はため息をひとつ吐き、やや冷めてしまった食事を再開した。

 その後は他愛もない話で盛り上がり、小唄達は概ね楽しい昼食を摂り終えたのだった。



* * *



 楠中学校から北西へ、およそ二キロメートル。楠と楢木の町境に、老朽化した建物が墓石の如く立ち並ぶ区画がある。

 ここはかつて『堅木かたしぎ商店街』と呼ばれ、ふたつの町の中心として栄えていた。が、栄枯盛衰の理に漏れず、時代が進むにつれて両町はそれぞれの町に、より大きな――複合商業施設を求めるようになった。結果、立樹たちき市街から近い楢木町のほぼ中央に一昨年、最新のショッピング・モールがオープンしたのだが、いずれにせよ、それまで商店街で商いをしていた者達にとっては面白くないことであった。商店街で買い求めるよりも安く、しかも何でも揃うとあれば、わざわざ割高な場所で買う道理はない。やる気の失せた者達は次々と、自身と同様に冷めてしまった鉄の幕を下ろし、次第にゴーストタウンと化していったのである。

 そんな場所であるから、態度から手弱女たおやめだと思って舐めてかかった哀れな男達が、火刑に処された魔女のような絶叫を上げようとも、それに気付いてわざわざこんな路地裏まで確かめに来る者は稀有だろう。もっともこの場合は、断末魔を上げる間もなく黒灰と化していたのだが――。

「ふん、下衆が。何が、情報提供よ。最初から私の身体が目当てだったんじゃないの」

 一糸の乱れもないストレート・ロングの金髪をひるがえし、気が収まらずに憎悪を込めて人間だったものを蹴り上げたのは、先まで校舎を覗き見ていたクラシカルゴシックの少女であった。靴越しに醜悪な感触が全身を駆け巡る。ルビーの瞳を元凶に向ければ、焼け残ったピンク色の臓物が、裂けた箇所から黄色の液を滲ませていた。

「……デネャーヴェン!」

 少女は異国の言葉で吐き捨て、薔薇の刺繍が入ったハンカチーフで靴に付着した液を拭き取ると、それを灰の上でギチギチと蠢いている黒蟲に投げ捨てた。

「なんて醜く、穢らわしいのかしら。そのおぞましい蟲がお前達の心よ。それははなむけにくれてやるわ。お前達は天国にも地獄にも行かせない、未来永劫に彷徨いなさい」

 と、少女の手から放たれた炎は、一瞬にして男達の名残を焼き尽くし、後には無機質なアスファルトとコンクリートが残るのみであった。新しく取り出したハンカチーフで額の玉汗を拭いながら、少女は左腕に提げていたビニール袋に入っている物を見て、残念そうにつぶやく。

「全く……無駄に時間を遣わされてしまったわ。折角のタコヤキが冷めてしまったじゃない……」

 少女の他には、誰の姿も見えない。しかし――

『――威力を下位にまで落としたとはいえ、あのような輩に虎の子の“煉獄の炎柱群”を振舞うとは。ならず者にはいささか、過ぎた餞だったのではないですか?』

「冥土の土産という奴よ。もっとも、あいつらはどちらにも行けないから誰かに渡すこともできないけれどね。ふふ……」

 脳に直接響いてきた声に少女は確かに答え、口元を歪ませた。周りに誰もいないのだから、遠慮をする必要などない。

『まぁ、良いのですけれどね。それで話は変わりますが、やはりここは私達の知る世界とは全く異なる世界のようです』

 もうひとりの自分と言うべき存在からの報告に、少女は静かに瞼を伏せる。

「でしょうね……。ひとつ、この世界には『コワレ』が存在しない。ふたつ、あれはほぼ小唄で間違いないのにもかかわらず、あの人は私のことを覚えてはいなかった。そして三つ……。ヴァンゲルーデ、そして――シュルト・オッペンハイムに対する憎悪と復讐の遺志が、私の全てにおいて無いわ」

 顔を上げてコンクリート壁の隙間から空を見上げる少女の言葉には、紛れもない悲しみが溢れ出ていた。ここに来て、はや半年。ようやく大切な人を見つけても、初めて会ったかのように接されたのだ。落胆もひとしおだろう。

『それで、これからどうしますか?』

「…………選択の余地などない、か。盤上この一手ね。まだあの子が小唄と確定したわけではないし、影から見守りながら少しずつ接していくことにしましょうか。幸い、時間はたっぷりありそうだし、ね」

『分かりました。では、そのようなヴェルローズ様にこの言葉をお贈り致しましょう。クオ・ヴァディス――』

「……貴女も大分性格が変わったわね。正直あまり嬉しくはないのだけれど、ありがたく受け取っておくわ、“闇薔薇の姫”」

 赤薔薇と金髪の少女――ヴェルローズは、彼女の反転格である“闇薔薇の姫”に頬を緩ませて言い、路地裏から去る。これから近くの公園にでも行き、冷めても美味しいかもしれないたこ焼きを堪能するのだろう。

 誰もいなくなった路地裏に一陣の風が吹き、とうに役目を終えた商店街は再び静寂に包まれたのであった。

[瑞]Den javeln(デン・ヤーヴェン!)

ろくでなし! 野郎! の意。

ここでは、「くそ!」あるいは「くそったれ!」の意で使っています。


[羅]Quo vadis(クオ・ヴァディス)

「どこへ行くのか」の意。

ラテン語の中でも、ペルソナ・ノングラータに並んで有名な言葉です。

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