I.何でもない倖せ
「……んん」
遮光カーテンの隙間から漏れた陽の光が、容赦なく瞼を刺激する。ベッドで丸くなっていた少年が時計に手を伸ばすと、時刻は七時丁度。いつも通りの目覚めであった。
「んんぅ……?」
が、今日の朝に限って言えば、何やらいつもと違う気がする。少年は、両膝の間に頭を埋めて考える。――やはり、今朝方見た夢が原因であろうか。
「多分、違うよね?」
否定と覚醒を同時に行うかのように少年は首を数回、横に振り、そして確認に数度、頷いた。酷く悲しい、この上なく重い夢だった気がするのだが、その内容には靄が掛かっているかのように、全く思い出せない。ならば、気にするだけ時間の無駄というものだ。
少年は手早く着替えを終え、前日に今日使う分の教科書を詰めておいた、盗難防止機能付のレッスンバッグを左手に持ち、廊下に出た。
彼は近所の中学校に通う、十三歳の男子である。ブルーチェックの半袖シャツ、ネイビーの薄手のチノパンと、服装は見るからに私服であり、明らかに授業を受けるために学校へ行く体ではない。しかし、かの学校は、時代の流れと、若者のニーズをふんだんに取り入れ、中学校にして私服通学を認めているのであった。
「あら小唄、おはよう。もう少しでご飯できるから、先に顔を洗ってらっしゃい」
「おはよう、母さん。うん、さっさと洗ってきちゃうね」
当たり前の会話。されど、現在となっては、尊い応酬。
少年――織部小唄は、台所で朝食を作っていた母――紗夜香に笑顔で返し、洗面所に向かった。
泡立ちの良い洗顔料で顔を洗い、気分もこざっぱりした小唄がダイニングに戻ると、もうテーブルの上には、湯気の立つ朝食が並べられていた。とりわけ紗夜香は、素材にこだわる。今か今かと人々の口に入るのを待ちわびている朝食達は、今日も美味しいに違いない。
「いただきまーす」
「はい、召し上がれ」
胸の前で軽く手を合わせ、小唄は箸を取った。いずこかの信徒というわけではないが、聡明な両親による正しき躾の賜物だ。
スクランブル・エッグをカリカリのベーコンで囲み、まとめて口に放る。続けて狐色に焼けたホテル・ブレッドを一口かじると口の中で、卵の甘さと、油を切ったベーコンの濃厚な味わいと、トーストの芳醇な香りが、見事な三重奏を奏でた。
「そういえば、父さんはまだ起きてこないの?」
口にものを入れて喋るなど以ての外と、口内の食物を牛乳で流してから小唄は、いつもであれば既に起きているはずの父の姿について、紗夜香に問うた。好物のミルクティーが入ったカップをテーブルに置いた紗夜香は上品に笑い、
「まさか。お父さんは、軽くジョギングしてくる、って外に行ったわ。今頃は近くの河川敷でも走ってるんじゃない?」
と、小唄のコップに、牛乳のお代わりを注ぎながら言った。
父――晋吾の行動そのものにはさしたる興味もなかった小唄は、へえ、とひとつ生返事を返してからトーストをザシッとかじる。小唄、紗夜香――両者が思わず手を止めざるを得ない音声が耳に届いたのは、そんな時であった。
『――今朝未明、楢木町三丁目の路上で、四十代の男性が何者かに殺害されました。付近を通りかかった住民の通報により、発覚したものです。遺体は頭部から縦に切断されており、警察は近年、類を見ない残虐な殺人事件として、捜査を進めることにしています』
聞くだけで胸が悪くなりそうなニュースであった。ふたりは揃って眉をひそめる。
「嫌だ、酷い事件ね。隣町だから、なおさら恐ろしいわ」
楢木町はここ、楠町に隣接する町で最も近く、件の凶悪殺人犯が同様の事件を起こす可能性は、決して低くはない。
「うん……。早く犯人捕まるといいね」
遺体を半分にして道端に放置するなんて、正気の沙汰じゃない。手口がまるで悪魔じゃないか――小唄はそんなことを考えながら、しかし手早く朝食を口に詰め込んでいった。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
味気がしなくなってしまった朝食を終え、歯磨きを終えた小唄が戻ってくると、ドアベルが乾いた音を立て、来客を告げた。パタパタとスリッパを鳴らし、紗夜香が応対する。誰が来たのか、既に分かっている小唄は急ぐこともなく、レッスンバッグを持って玄関に向かう。
「おはよう、由梨ちゃん」
「おはよー、小唄くん!」
と、元気に笑顔で挨拶を返した、小唄の幼馴染の二色野由梨は、艶やかな黒髪をひとつにまとめたポニーテールがトレードマークの、元気娘である。トップスはTシャツ、ボトムスもスカートよりはキュロットやショートパンツを好み、現に今も、動きを妨げられるのを嫌う格好をしていた。
「それじゃ母さん、いってくるね」
「いってきまーす、小母さま!」
「はい、いってらっしゃい。ふたりとも、車に気を付けるのよ」
紗夜香に見送られ、小唄と由梨は錆が目立つ門から通学路へ出た。織部家は、『織部邸』と称しても差し支えのないほどの規模で、アンティークの西洋式の門が据え付けられているのもそのためだ。彼の両親が科学者であるがゆえの家――だが、何の研究をしているかは、小唄は存ぜぬのであった。
時季は、北の桜もとうに終わりを告げた五月の半ばというところ。陽気は過ぎ、厳しくなってきた日差しを太陽はふたりに照り付ける。
「小唄くん、昨日の『抱腹絶倒! 警察二十四時』見た?」
「うん、見た見た。まるで『プロ野球珍プレー好プレー』みたいだった。特に『取調べ中にカツ丼十杯を要求する恥知らずな犯人がいた!』が面白かったね」
「あははっ、あのシーン最高だったよねー。あたしもお母さんと一緒に大笑いしちゃったし!」
他愛もない話に花を咲かせながら、ふたりは歩を進める。由梨は今朝のニュースを見ていなかったのか、それは話さない。小唄とて、あんなグロテスク極まりない話は繰り返したくもなく、話題に上らせることはしなかった。
小唄と由梨では、由梨のほうが背が高い。とはいえ、その差は三センチメートル程度である。わざわざ見上げて話すほどでもない。
小唄はその背の低さをネタにされ、時折いじめられたこともあったが、全員が由梨の手によって、未だ夢に見るほどの憂き目に遭わされた。それ以来、彼をいじめようとする自殺志願者は格段に減り、余談ではあるがその数少ない者は、周りから『猛者』と呼ばれるようになったという。
「ん?」
微弱な変化。それを感じ取ったのは、小唄が流行のゲームについての話題に切り替えようとした時だった。由梨が彼の服の裾をつかみ、呼び止めたのだ。
「どうしたの? 由梨ちゃん」
「小唄くん、あの子……何だかこっち見てない?」
由梨の視線を追う。同じ学校に向かう学生、スーツ姿の女、犬を連れて散歩する老人――どの者を指しているのか、一概には分からなかった。
「どの子?」
「ほら、あの子……」
失礼なことと知っていながらも由梨は控えめに指す。
公園に植樹されたノッポな木を背景に、ワインレッドと黒の二色で構成された、クラシカルな衣装に身を包んだ金髪の少女が、気高いルビーの双眸を、ふたりに向けていた。
「あっ……」
小唄と金髪の少女の目が合う。するとその少女は、微笑みながらふたりに近づいてきた。――客観的に見ればそのようであったが、小唄の目は少女の微笑みの裏側に幾分かの悲しみを見ていた。
「ね、ねぇ……あの子、こっちに来るよ? もしかして、あたしが指なんか指しちゃったから、怒らせちゃったのかなっ!?」
「うーん、違うと思うよ。怒ってるような感じじゃないしね」
戦々恐々と余裕綽々――小唄と由梨の反応は到って対照的であった。そんなふたりを気にする様子など微塵もなく、金髪の少女は絹糸の如き金糸を微風に靡かせ、ふたりのすぐ横で立ち止まると、
「アヨー」
と、笑みのままに言い、会釈をして去っていった。少女が通り過ぎる際、小唄はその髪から、花の香水のような匂いを嗅ぎ取る。それは彼の記憶には刻まれていないが、どこか懐かしさを含んだ匂いであった。
(これは……バラ? いや、母さんもよくバラの香水を付けているけれど、こんなに重くない)
思考の海に没入しようとしていた小唄の意識は、由梨の安堵の声によって現実に引き戻された。
「び、びっくりしたぁ。あよー、なんて挨拶は初めて聞いたよ。どこの外人さんなんだろね~?」
「……アヨーはスウェーデンって国の言葉で、『ごきげんよう』だったかな」
彼はまだ、中学に上がったばかりの十三歳である。にもかかわらず、この国では馴染みのない異国の言葉を正確に言い当てたのだった。当然のように由梨は目を爛々と輝かせ、尊敬の眼差しで小唄を見る。
「すっごーい! 小唄くん物知りだね!」
「えっ? ああ……うん。テレビの外国語講座で知ったんだ」
手放しで賞賛を送る由梨に対し、小唄の表情は複雑であった。それもそのはずで、これも記憶から引き出したものではなく、彼の意識外――すなわち、無意識に飛び出たものだったからだ。
ふと由梨が辺りを見渡せば、ともに登校している者はもう既に疎らであった。左手首を返して腕時計を確かめた由梨が素っ頓狂な声を上げる。立ち止まっている間に、遅刻の二文字が背後から追いかけてきていたのだ。
「いっけない、もうこんな時間! 急ごっ、小唄くん!」
「うん……」
そう返しながらも、しかし小唄はその場から動かず、後ろを振り返る。根拠もなく、そこにあの少女の姿があるのではないかと期待したが、彼の目には見慣れた復路の光景が映し出されただけだった。
(あの子……また会えるかな?)
「なにしてんのっ? 遅刻しちゃうよっ!?」
「うん。今行くよ!」
由梨の呼び声に小唄はスタートダッシュをかけて追いつき、並んだふたりは速度を上げて走る。
――先ほどまで漂っていたバラの香りは、ふたりの姿が見えなくなった途端に霧散した。
全力疾走のかいもあり、小唄と由梨は始業のチャイムが鳴る五分前に、『楠中学校』の校門に滑り込んだ。が、当然ここで立ち止まることはなく、ふたりは昇降口で上履きに履き替え、一目散に彼らの学業の舞台である『一年四組』の教室を目指す。
ガラッとドアを開けて入って窓際に行き、そこで談笑していた特徴的な二人組に、小唄と由梨は挨拶する。
「おはよーっ! はぁー、疲れたぁ……」
「おはよう。聖歌さん、冥さん」
その声に、談笑していたふたりは顔を上げ、
「おはようございます。小唄さん、由梨ちゃん。今日はまた随分と遅い登校ですね。寝坊でもしてしまいましたか?」
「……おはよう」
ひとりは柔らかに、もうひとりは無愛想に、それぞれ挨拶を返した。
白陽聖歌、柩抒冥――どちらもふたりの友人かつクラスメイトであり、膝下丈の白いゴシック調のワンピースに、ふんわりとしたミディカールの橙灰色の髪色をした、見るからにお嬢様然としている少女が聖歌。それとは対照的に、あたかも喪服を想起させる、丈が足首までの黒いゴシック調のワンピースに、腰まで伸ばしたストレートロングの黒髪の少女が冥である。
ここ楠中学校では、銀以下の素材で作られたアクセサリーについては、一箇所のみであれば身に着けることを生徒に許可している。聖歌は薄橙色の石が填め込まれた、太陽を模したペンダント。冥は黒い棺のイヤリングを着けていた。小唄と由梨は取り立ててアクセサリーを身に着けることはしない性質で、学校に来る際は着けていない。
――ちなみに、金以上の素材で作られたものについては、例外なく着用禁止である。
「今日は朝のお話を楽しむ時間がありませんね。もう少しでホームルームが始まりますし、席についていましょうか」
「うん。ごめんね、聖歌さん。明日は遅れないようにするから……」
お気になさらず、と聖歌は微笑みを残し、由梨とともに自分の席についた。小唄のすぐ後ろが由梨、そのひとつ後ろが聖歌の席である。そして小唄の隣の席には冥が座った。しかし冥は教科書やノートを、これまた黒いレッスンバッグから机の中に移すこともせず、ただ小唄の顔をじっと見つめていた。
「うん? 冥さん、僕の顔に何か付いてる?」
「……」
それには答えず、ある種の威圧を持って冥は静かに椅子ごと小唄に寄り、訝しむ彼を余所に――その胸に顔を埋めた。
「ちょっ! 何してるの、冥さん!?」
当然、小唄は狼狽する。が、彼女の不可思議な性格を知っている周りは気にも留めない。由梨の眉が些少上がった程度である。
間もなく冥は彼の胸から離れ、高貴な黒真珠を髣髴させる瞳を小唄に向けて口を開いた。
「……小唄、薔薇の香りがする。薔薇園にでも寄ってきた?」
「ううん、違うよ。学校に来る途中で変わった女の子に会ってね。その子がバラの香水を付けてたから、匂いが移っちゃったのかも」
小唄は極めていつもどおりに言ったつもりであったが、冥は彼を見据えたままトランプを取り出し、
「……そう。でも気を付けて。それはあなたを螺旋の回廊へと誘うアルラウネ。与すれば茨の檻に囚われるだけでは済まない」
と、意味深長な忠告と、トランプの束から抜き出した三枚を裏向きに小唄に渡し、レッスンバッグに入っている教科書やノートを机の中に移し始めた。
「う、うん……とりあえず気を付けるよ」
相変わらず冥の言うことは抽象的過ぎて分からない、と小唄は思う。しかしこうなったら彼女はもう、何も話さない。小唄は大人しく担任の教師が来るのを待つことにし、渡された三枚のトランプを机の中に隠し、表返して見る。
毒々しい柄の表に描かれていたのは、ダイヤのジャックとスペードのクイーン、そして大鎌を構えた道化師のジョーカーであった。
[瑞]Adjo(アヨー)
ごきげんようの意。
少々古風な言い方であり、主に年配の方が使います。