美しい鳥
いつもの公園。その中央にある大きな池の前。父親の手を引きながら、黄色いワンピースに白のポーチを提げた女の子が物珍しげに声を上げた。
「パパ、見て! キレイな鳥がいるよー!」
「ああ、本当だ。白鳥かな? でも体が小さいなぁ。珍しいね」
ちょうどそこを通りかかったひなたは、二人のほうへ、自分と同い年くらいの少女が指差すほうへ目を向けた。
あっ、と息が止まりそうになった。
驚いた。
日頃は茶色の小さな水鳥しか見かけない池の真ん中に、たった一羽だけ色の違う鳥がいた。
雪のように真っ白な鳥。
太陽の光にキラキラと羽を輝かせて、すごく綺麗だと思った。
「そんなオシャレしてどこいくの?」
その黒く円らな瞳と目があった瞬間、鳥が喋った。ひなたはドキッとして、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。それからキョロキョロと辺りを見回して、さっきの親子がいないことに気づく。誰もいない。誰も……
(あたしにしゃべったの?)
もう一度、ゆっくりと視線を戻した。やはり目が合った。綺麗な真っ白い鳥。
ひなたの戸惑いが伝わったのか、彼は「そうだよ」と言うように、すいーっとそばまで寄ってきた。
近くで見ると、もっとそのキラキラが目に眩しかった。
手すりの向こう。あと少し手を伸ばせば触れられそうだった。
(ドキドキする……)
初めてお父さんが買ってくれた絵本『みにくいあひるのこ』を思い出しながら、ひなたは短く答えた。
「お出かけするの」
(あたし、やっぱりアリスみたいに穴へ落ちたのかな?)
絵本よりももっと美しいその鳥は人間の姿になって、池の前を離れようとしたひなたの後をついてきた。身長は大人と同じくらい。だから、歩く速さもそのくらい。
ひなたは彼と手をつなぎ、住宅街を、人気のある大通りへ向かいながら並んで歩いていた。
車が通る音がする。脇を人が抜ける気配がする。
ひなたは彼の脚がゆったりと動くのを、少し早足になりながら見ていた。
どうしても顔を上げることができなかった。
「もっとゆっくり歩いていいんだよ」
やさしい声が頭上から降ってきた。
「……イヤ」
ひなたは他に言葉を思いつけなかった。
ただ黙々と歩く。
なぜか胸がドキドキして、じっとしていられなかった。
すると、
(あ、れ?)
急に、彼に右手を握られていることが気になってきた。
掌をすっぽりと包む温かさ。
(知らない、人、なのに)
知らない人について行ってはいけない。
でもその温もりが、いつの間にかひなたの警戒を解いていた。
(この人は鳥。知らない人じゃ、ない)
そっと、ひなたは彼の顔を窺うように目を上げた。でもやはり眩しくて、まともに見ることができなかった。
「どうして一人でお出かけするの?」
まただ。やさしい声。
答えなくちゃいけないと、思ってしまう……。
「お母さんが、もう三人では行けないって言ったの。だから一人で行くの」
意地、みたいなものだった。どうしても一人でどこかへ行きたかった。
「でも、一人じゃ危ないよ」
「……」
ひなたは、なぜか悲しくなった。言葉にしたいことがあるはずなのに、それは彼の声を聞くたびに胸の奥から出てこなくなった。
(おかしいな)
ひなたは急に心細くなった。
まるで迷子になったかのよう――
「お母さん……」
「寂しいかい?」
ひなたは唇を引き結んで大きく頭を振った。
よく晴れた日曜日。仕事に忙しい両親と、今日こそは出かける約束だった。誕生日に買ってもらったお気に入りのピンクのワンピースを着て、ウキウキしながらリビングへ行った。
「ひなたは気が早いなぁ」
お父さんがいつものようにそう言って、お母さんがにこにこと笑うはずだった。
でも、その場には誰もいなかった。
お母さんは外に出て庭に水をやっていた。ホースから力なく出る水が、暗く地面を濡らしていた。
いつもは明るい花も、なんだか元気がないように見えた。
「お母さん?」
呼ぶと、お母さんはビクリと肩を震わせた。
「あ、ごめんね、ひなた。お母さん、ぼーっとしちゃって……。すぐに朝ごはん作る――」
不自然に言葉が途切れた。自分を振り返ったお母さんの目が固まっていた。
「……ひなた? どうして、それを着ているの?」
それ。大好きなピンクのワンピース。
ただ、可愛いって言ってほしいのに。
似合うねと、笑ってほしいのに。
「――だって、約束したでしょ? 今日は三人でお出かけするの」
「ひなた……」
みるみるうちに、お母さんの顔が変わった。
悲しくて、痛くて、どうしようもない顔。
頬を摺り寄せるように、ぎゅっと抱きしめられた。
お母さんの匂いが涙に濡れていた。
「もう、三人では行けないのよ」
こんなにも近くにいるはずなのに、声が遠くに聞こえた。
「……お父さん、まだ帰ってこないの?」
髪をなでられているのに、それさえも夢みたいだった。
「お父さんね、遠い遠い空の上に行ってしまったの。だから、ね、ひなた? お母さんと二人じゃダメかな?」
『ダメじゃ、ない』
ひなたは、そう言おうと思った。でも口にできたのは
「三人でなくちゃイヤ」
うん、と頷けば、何かが変わってしまうような気がした。
悪い夢が覚めないんじゃないか、そう思った。
だから、一人で家を出た。夢の出口を探して。
「ひなた」
呼ばれて、ひなたは我に返った。
そして、やっと確信する。
(そうだ、あたしが間違えるわけない)
その声が誰のものなのか。
ひなたは勇気を振り絞って顔を上げた。
すると、泣きたくなるくらいやさしい笑顔がそこにあった。
右手が、その温かく大きな手で力強く握りしめられていた。
「おとう――」
お父さん。そう、口にしようとした。
でも、大好きな笑顔が首を振った。
唇の先に指が触れた気がした。
今、呼んではいけないのだ。
「シャボン玉、好きだろう?」
そう言って、お父さんは右手に持った専用の輪の中にふーっと息を吹き込んだ。
ひなたが見つめる目の前で、大小いくつものシャボン玉が虹色に輝きながらふわりと風に舞い上がった。
枯れた木々の間を抜け、上へ上へと昇っていく。
しかし、途中でそれらは見えなくなった。
(空に消えたの?)
頭上には、青を遮るように分厚い白雲があった。
それはまるで大きな船だと、ひなたは思った。
視界の隅で、まだ建設中のビルの上にある赤いクレーンのワイヤーが風に吹かれて揺れた。ここには風は吹いていない。
空の近くにだけ、風は吹いていた。
「――空って遠いね」
ひなたは誰にともなく呟いた。
もう、そばには誰もいなかった。
これは、悪夢じゃなかった。
「こんなに近くに見えるのに、ほら、手よりもクレーンのほうが小さいのに、全然届かない。……あたしは行けないんだね」
ひなたは呼んだ。確かにあった温もりを逃さないように両手を固く組んで、心の中で、今は遠いところに行ってしまった大好きな人に呼びかけた。
美しい鳥は背に光を反射させながら、白く大きな船の向こうへと飛んでいった。
「ひなた!」
大通りへ出ると、後ろからお母さんの声がした。
振り向くと同時に、ぎゅうっと強く抱きしめられる。
「もうどこに行ってたのっ! 探したのよ!」
人目も気にしないでお母さんが怒鳴る。
どれだけ心配させたのだろうかと、何も言わずに出てきたことをひなたは後悔した。
「……お父さんがね、ここまで連れてきてくれたの」
お母さんごめんね、と小さく呟いた。
胸が詰まって、うまく声を出すことができなかった。
「……お父さん、遠いところに飛んでちゃった」
涙がぽとりと地面に落ちた。
「ひなた……」
あとはもう、何も言葉にできなかった。
お母さんも何も言葉にしなかった。
ただ、じっと目を見つめて。
……やがて、お母さんがやさしく微笑んだ。
ごしごしと頭をなでてくれた。
「――ねえ、ひなた。今から動物園に行こっか。お母さんと二人で」
一瞬、そこでならまたお父さんに会えるかもしれないと思った。
でも――
ひなたは、今できる精一杯の笑顔で首を振った。
「ううん。あたし、遊園地に行きたい。お母さんと一緒に」
二人、手をつないで歩いた。
お母さんの手はお父さんと同じくらい温かくて、でも少し小さくて、やわらかかった。
誰かが亡くなった話は書きたくないのにー……。
(以前書いたものだから仕方ない)
加筆修正したものです。
感想などありましたら、書いてもらえると嬉しいです。
読んでいただき、ありがとうございました!