月夜にバイクで駆ける
吐息は白く濁る。
空に浮かぶ月を見上げると、がらんどうの眼窩に浮かぶ美しい瞳に見つめられているようで、憧れながらも身震いする。擦り合わせた手はしもやけに覆われていたけれど、痛みは気にならなかった。
過ぎた月日も分からなくなる、冬の寒空だった。
――一人だ。暗がりの中に響く、火の中で割れる薪の音は悲鳴みたいで、でも私には気にならなかった。
張り詰めた静けさは、騒がしさを知っていてこそだ。ただ冷たいだけの乾いた空気は、何も与えてくれない。
逆に、私を傷つけもしない。昔から、そうだった。
何もない。
私は手作りの木の椅子に座り込んだ。だれもいないのだから、そうするしかない。
ぱきり。またしても、火の中で木が燃え朽ちてゆく。断末魔のような……いや、違う。木の割れる音だと思っていたその音は勢いを増し、もう記憶の中でさえも朧げな排気音と混ざり合って静寂を荒らし始める。
これは――750cc以上の、バイクの音。
そしてそいつは、木々の間をぬうように疾駆する眩い光の中から現れた。
黒いヘルメットに、全身を覆う黒いライダースーツ。少し目に痛い赤いバイクが、排気ガスを噴き出している。
バイカーだ。
「ここで何をしているんだ、兄弟?」
そいつは、実に気安く私にそう話しかけて来た。
翌朝、私はバイクの後ろに乗った。用意した薪、僅かに残った山菜や獣肉、年季が入って壊れそうな道具。そのほとんどを置いて、そいつのバイクに乗った。
「どこまで行くんだ?」
私がそう問うと、そいつはヘルメット越しに答えた。
「行けるところまで。お前も一緒だろ、兄弟?」
私はそれほど、バイクが好きではない。原因はバイクではなく、私自身だとは分かっているが。少し嫌な思い出が過った。
それでもバイクに乗ったのは、気の迷いかもしれない。
私は男の大きな背中を見た。分厚いヘルメットから漏れる吐息はない。男は私がしっかりと座り直したのを感じ取ったのか、ハンドルを握った。自信満々なのか、それとも嬉しいのかやけに力強く握られたその手に、私は淡々と返した。
「私はそうじゃない。どこに行けばいいのかも、何をすればいいのかも分からない。やりたいこともない」
「なら、付き合ってくれ。終着点はどこにだってある。場所は分からなくても、真っすぐ進むことは出来る。誰かを見送ることだって、できるだろ?」
そうかもしれない。ここでただその日を凌ぐことに、何の意味があるのか私には分からない。
意味がないのだとしたら、踏みとどまるのも、空白に向かって突き進むのも一緒だ。
それでも私は返事をしなかった。ただ、後部座席の端をより強く握った。
「それじゃあ、飛ばすぜ。風を切る時、何より万能になった気持ちになれるんだ。特に最初はな」
男は楽しげにそう言うと、木々の間を一気に突き抜けていった。
荒れた地面も、障害物も、嘘みたいに粉々になりながらバイクは前へと進んでいく。
私は生い茂った森からしばらく出たことがなかった。続く深緑は、劇の幕みたいに私を現実から隠していた。
それでも、劇の内容は変わらない。
私は、切るような風を受けて強く閉じていた瞼を開いた。
「何も……変わってないな」
折れ曲がった高層ビル。錆びて数字も分からない車のナンバープレート、道路だったものに広がる瓦礫の数々。
あえてあの日を思い浮かべる必要はない。
ただ、終わったのだ。
「ああ。変わりやしない。どこに行っても道は瓦礫で渋滞していて、そして俺が知る人間はあんた一人だけだよ、兄弟」
「……そうか」
私は小さく息を吐いた。思ったより、悲しみも驚きもない。胸に募る倦怠感は、こうなる前からあった。
「もっと速度を上げるぜ」
私の胸中を知ってか知らずかバイクは加速を始める。私と男は、かつてそこに何かが居た名残の上を踏み潰していった。
「覚えているか?あの地平線の先に、高速道路があったんだ。今や、無料で走りたい放題だがな」
男は、地面に座る私に声を掛けながら遠くを指さした。エンジンは止まっていない。先に音を上げたのはバイクではなく、私のお尻の皮だった。
「高速道路だけじゃない。高架橋の下にも歩道があって、そこを歩く人たちもいたんだ」
そう言ってから、私は口をつぐんだ。続けようとした道徳的な言葉は、出てこなかった。
私には、家族と呼べる人間はこうなる前にもいなかった。
すれ違う人々も、仕事で関わる相手も、テレビで見る有名な俳優も、全部等しく他人だった。
今や社会は瓦礫の中に埋もれ、文明は一人では維持できない。
でも、孤独だけは変わらない――
ふと、頭上から声がした。バイクから降りた男の声は、ヘルメットなんてないみたいにはっきりとしていた。
「そうかもな。けど俺は、こうなってから初めてオフロードを走ったんだ。最初は嬉しかったが、今では走り慣れた道が一つも思い出せねぇんだ。やるべき定めは、そいつと一緒に崩れちまったよ」
少しだけ、落ち着いた。このバイカーの言葉が、とてもきざったかったから。
「やたら大仰に言うな?」
「真似しても良いぜ。今や言葉は兄弟のものだからな。誰も居ない世界に、語るべき価値のあるものなんてあっても無駄だろ?だから茶化すんだ。せめて、そう思えるように」
「それに、感傷的だ」
「そうさ。感傷的じゃなきゃ、バイクのアクセルは固いままなんだ。なんとか回さなきゃ、進むこともできねぇ」
私は小さく頭を抱えた。一度は良いが、何度も聞くのはごめんだ。これ以上くさい台詞を聞かないために、空を見上げた。
月はうっすらと明かりを帯びている。私は、月が嫌いだった。こうなる前の世界でも、こうなった世界でも、見てくれる人なんていないのに、それでも自分を見つめているようで――また、見上げていた。
今は、バイカーのヘルメットが私に向いている。彼が全く取ろうとしないヘルメットは丸く、まるで月みたいだった。
……バイクの後ろに乗った時と同じく、嫌な思い出が頭の中に浮かんでくる。
あの頃の私には、孤独から目を逸らすことが出来る何かが必要だった。自分が、何でもいいから成したという何かが必要だった。
「この先にあった高速道路をいつも走っていたなら、こんな噂を知ってるか?」
バイカーは初めて何も言い返さず、私を見つめている。いや、見つめているのかどうかさえ分からない。
覆われた顔は、ちっとも覗けない。
私は、少し躊躇いつつも話を続けた。
「黒いライダースーツを着た怪異が、満月の夜に一人で運転している人間を追いかけ回すっていう有名な話。有名な動画共有サイトが出所のそんな怪談、聞いたことないか?」
「聞いたこと?ああ、勿論あるさ」
バイカーはエンジンを一度吹かせた。彼の言葉はブレーキなんてないみたいにすらすらと進んでいく。
「なら、こんなことも聞かなかったか?その怪異は、目的地の答えられない人間を狙うって。そして追い抜かなきゃ、逃れられない。もし追いつかれたら」
「追いつかれたら?」
私は軽く首を傾げて続きを促した。
「……大抵の怪異のやる事なんて、決まってんだろ?生み出したのは、人間だからな」
それっきりバイカーは黙ると、燃料タンクに腰を預けた。
バイカーの話した内容のいくつかに、私は覚えがなかった。といっても後から内容が増えていくことは、その手の怪談にはよくあることだ。
そして私は途中からその様子を見なくなった。ライダースーツの怪異につけ足されていく設定は、私が考えたものよりもずっと、秀逸だったから。
なんとなく視線をやった高速道路はもう影も形もなく、その上を走っていた車もバイクもない。
人間がほとんど居なくなった世界に怪異はいるんだろうか?そいつも、私と同じようにこうして凍えているんだろうか?
寒い。
手を、擦り合せる。
両手の指先は震え、掌は痺れている。バイクから降りてもこの冷たさからは逃れられない。
自作の火切り棒は森の中に置いて来た。火を点ける道具はマッチ一本しかない。
箱の腹でマッチを擦る。灯した火は、集めて来た枯れ枝をほどなく燃やした。
ゆらゆらとうねる頼りない火が、次第に勢いを増す。両手を火元に突き出して暖をとると、思わず口から吐息が零れた。
安堵すると、急に痛みが走った。細枝を無造作に素手で掴んだせいで、指の股の間や指先からは血が滲んでいた。
私が汚れた布を傷に巻いていると、バイカーが声を掛けて来た。
「痛いかい?兄弟」
私は頭を振った。
「それより寒い。でも、どうしようもない。お前は火にあたらないのか?」
「必要ない。バイクにもたれかかればいい。エンジンはいつでもふかしているからな」
バイカーは愛おしそうに何度か軽く、燃料タンクを叩いた。
「よく燃料が持つな。ガソリンの補給のあてはあるのか?切れたらどうするんだ?」
「さぁてな、限界まで進むだけだろ。一人でいる、誰かを見つけるまで」
実に軽く、バイカーは答えて続けた。
「まぁでも、俺にはもうガソリンは必要ない。目的地まで、すぐそこだからな」
私は頭を上げ、自然と高速道路だったものの名残を見た。
いや、その方向に顔を向けただけだ。遠すぎて見えやしない。
でも、このバイカーには見えているようだった。
「例え意味が無いとしても、それでも走るだけだ」
少し低い独り言が、寒空の中に吸い込まれていった。
満月の夜は何時だって不気味だ。
限界まで見開いた眼のようで、空に刺さった異物のようで、満月が浮かぶ夜には、私はできるだけ早く寝てしまう。
だが、バイカーはバイクを目的地へと飛ばす。ますます冷たくなった風の中で、私は必死に身を丸めた。
「こんな夜に、何で出発しようなんて!?」
抗議するように問うと、風の中にバイカーの声が混じった。
「それでもバイクに乗ったのは、何となく心当たりがあったからだろ、兄弟。だから俺たちはここに居るんだ」
私は黙るしかなかった。うすうす、感じていたことだったから。
さらにしばらく私が寒さに耐えていると、バイクはほどなく止まった。
「降りるんだ」
バイカーは私にそう言った。
かつてあった高速道路の名残の上で、そいつは抑揚なくそう言った。
「……お前は、黒いライダースーツの怪異なのか?」
私が問うと、そいつは静かに返した。
「俺と兄弟しかいない世界で、そいつを問う意味はあるのか?ただ俺は、こんな世界でもそうしなきゃならない。なぁ、そうだろう兄弟。あんたが決めたんじゃないか」
バイカーの顔は見えない。ただ、ヘルメットの丸みが鈍く光るだけだ。
私をどう思っているのか。本当に私が生み出した存在なのか。私はこれから何をされるのか、一つも分かりはしない。
「少しだけ、待ってやる。俺に追いつかれたら終わりだ」
やつは、そう言った。やはり芝居がかった、けれど本気の声色だった。
「だけど自分が造った怪異に殺されるなら、本望だろ?」
空回りしたエンジン音が、威嚇のように高鳴らされる。
黒いヘルメットに、全身を覆う黒いライダースーツ。少し目に痛い赤いバイクが、排気ガスを噴き出している。
でもそれは、バイカーではなかった。
孤独の中で私が作り出した願望だ。
"誰か"に彼を認めて貰えたことが嬉しくて――でも、その"誰か"が彼に物語を与える度に、自分の小ささに気が付かされる苦しみだ。
そいつはここまで、私を追いかけて来た。
こんな世界になってまでも。
「……随分余裕だな、兄弟。逃げないって言うならそれでもいい。誰も居ない世界で、自分のためにさえ逃げられないのなら、そうした方がいい」
私が動けないでいると、やつはそう言ってきた。
逃げる意味なんて、あるのだろうか。
遅かれ早かれ死はやって来る。悲しむ人も、嘲笑う人もいない。
瓦礫の山は足に絡んでくる。こんな道とも言えない道を平然と突き進んでいくバイクから、逃げられるはずもない。
私の葛藤は、けれど怪異にとっても同じだったようだ。
「くそっ、全く……困ったな。俺は逃げる者に追いつくバイカーだ。お前が俺を最初に創ったのなら、せめて必死に逃げて、俺に本分をまっとうさせてくれよ、兄弟!」
弾けるように、体が動いた。
この怪異に従う理由はない。逃げる者を追う怪異だ。逃げなければ、殺されないかもしれない。
でもこの寒い寒い月明かりの下、一人でこんな場所に残されることだって大して変わりはない。
例え森の中に戻れたとしても、きっともうこんな怪異さえこの世界にはいない。
……いや、そうじゃない。
ただ、応えたかった。そして同時に、逃げたくもあった。
自分が創り出した、けれど知らないものから。
私は走りながら、地面の暗がりの中を見下ろした。靴はとっくに裂け、足裏の感触はもうない。
「ぐうっ!」
足が何かにとられ、私は地面に倒れ込んだ。肌に無数の瓦礫が突き刺さる。流れる血の赤さは、どれだけ痛くても見えやしない。
背後からは、歓喜を示すようなエンジン音が聞こえてくる。バイクのライトが、転げた私を嘲笑うように照らしている。
――不意に、苛立ちが増していく。
逃げる奴を追いかけて"殺す"なんて役割、私は与えていない。
誰かがつけ足したそれで、どうして私が逃げなきゃならないんだ!?自分が生み出したならともかく、どうして他人のそれに殺されなきゃいけないんだ!?
もう世界には私しか居ないのに!なのに……知らない誰かが、勝手に付け足したものを恐れるなんてごめんだ。
私の手が、固く長い何かに当たった。私の足に引っ掛かったものだ。ざらざらと赤錆びた手触りがそれを覆っている。
細長い、金属の棒。
「行くぞ、兄弟!」
怪異はアクセルを回した。瓦礫を蹴散らし、真っすぐこっちに進んでくる。
そうだ。真っすぐだ。何も状況は変わっていない。ただ理由が分からなくても誰にだって、真っすぐ進もうとすることは出来る。
私は棒を強く握った。バイクの速度に比べると、遥かに頼りない突きを繰り出す。眩い白紙のようなライトの中に、新しい一文を添えるように。
黒いライダースーツの怪異はもう、私のものではない。
でも――結末だけだとしても、自分の最期の一行くらいは、自分の手で選びたい。
突き入れた棒の先から、静かに何か柔らかい物を抉る感触がした。
バイクが、私の横を勢い良く通り過ぎていく。呆気なく宙に投げ出された黒い怪異は、軽い音とともに地面に倒れ込んだ。
かつて彼が走っていただろう高速道路は、もうここには無かった。
「何だ兄弟……俺に、役割を全うさせてくれる気はなかったのか……」
突き刺さった金属の棒をなぞりながら、バイカーが言った。
「ここは、高速道路じゃない。もうただの、瓦礫の山だ」
「はっ……!酷いことを言うなぁ。でも……仕方ないだろ」
バイカーは、倒れたバイクへと頭を向ける。それから必死に、手を伸ばした。
「まだ、エンジンが鳴ってんだよ。もう走っていた道は思い出せないが、終着点はある。だったら俺は……孤独な誰かを追いかけなきゃならない。最初にお前がそう作ったんだ、兄弟」
そう言って彼は、起こしていた上半身を全て地面に預けた。
「それに俺がただ、走り続けていたかったんだ。創ったお前よりもずっと、真っすぐに」
伸びていた手が、力なく落ちる。
バイカーは最初から分かっていたのかもしれない。高速道路でもない場所で、相手を殺すことなど出来ないのだと。
それでも私を載せてここまで来た。ここまで走り続けてきた。
それだけで、いいのか?……もしかすると、それだけでいいのかもしれない。
私が黙ってバイカーの肩に手を添えると、彼は軽く舌打ちして返した。
「ガソリンの切れないバイクは……兄弟以外の人間がつけ足した俺の一部だ。お前の終着点に、俺は追いつけなかった。必要なら、勝手に持っていけ」
「ああ……そうさせてもらうよ」
結局、何かが変わったわけではない。両手両足から流れ出る血は、まだ止まらない。震える体は、寒さを克服したわけでもない。
私が創り出した怪異を、自らの手で消しただけだ。
それでも。
「……めでたしめでたしってか。はっ、下らない。本当にくだらねぇなぁ。一人で、走ってろ」
ヘルメットを通して聞こえる彼の声は、最後まで明快だった。
月が出ている。
私はバイクにまたがった。変わらず夜は寒い。ただ私はハンドルを握って、空をじっと見上げた。
相変わらず月は苦手だ。誰かが、見ている気がするから。
エンジンは吠えるように一つ、大きな音を上げた。
すぐ横に、バイカーが残した車輪の後が線のように残っている。
私は、真っすぐ走り出した。
アクセルを回す感触は、思ったよりも軽かった。
※aiに誤字脱字の確認だけ頼んでおります




