恋愛不信のご令嬢。婚約ギルド主催のラブ馬車で、王子様に拾われ溺愛される
【第1話】車輪の壊れた馬車
(実家に帰ったところで、お父様は顔をしかめ、お母様はため息をつき、親戚たちはひそひそと噂をするのでしょうね。半年で夫に逃げられた娘。出戻り。傷もの。――疫病神)
街道脇の石に腰を下ろしたまま、セシリアは灰色の外套ごと膝を抱えた。すぐ後ろでは、車軸ごと割れた古い馬車が、ぬかるみに斜めに沈んでいる。御者が修理を呼びに村へ駆けていってから、もうずいぶん経っていた。
(このまま、ここで日が暮れてしまえばいいのに)
そう思ったとき、街道の向こうから、がらがらと車輪の音が近づいてきた。
六頭立ての、やけに大きな馬車だった。車体は桃色に塗られ、側面には金文字が躍っている。
『婚約ギルド主催 ラブ馬車 ~運命の人は、旅の途中に~』
セシリアは、ゆっくりと膝に顔を埋めた。
(見なかったことにしよう)
しかし桃色の馬車は、よりにもよってセシリアの前で止まった。扉が開き、一人の青年が降りてくる。
金茶色の髪に、穏やかなエメラルドグリーンの瞳。仕立ての良い、けれど派手さのない旅装。背筋がまっすぐで、歩き方まできちんとしている。
「お困りのようだね。車輪か」
青年は傾いた馬車を見て、それからセシリアの前で片膝をついた。目線の高さを合わせてくれたのだと、少し遅れて気がついた。
「御者が修理を呼びに行っております。どうぞお構いなく」
「この先の村には車大工がいなかったはずだ。戻るのは明日になるだろう。よければ、私たちの馬車に乗るといい。王都へ向かっている。少し寄り道は多いが」
セシリアの視線が、思わず金文字へ向かう。青年もその視線を追い、少しだけ困ったように笑った。
「ああ、その。見た目はこうだが、中は普通の馬車だ。……たぶん」
たぶん、という一言に、嘘のつけない人柄がにじんでいた。
断る理由は見つからなかった。日暮れの街道に一人でいる危うさくらいは、セシリアにもわかる。それに、寄り道が多いというのは、正直なところありがたかった。親に合わせる顔を用意する時間が、少しでも欲しかった。
「……では、お言葉に甘えます。セシリアと申します」
「ルーカスだ」
家名はなかった。ラブ馬車では身分を伏せ、名前だけで呼び合う決まりなのだという。
御者への書き置きを古い馬車に残すと、ルーカスがセシリアの荷物を軽々と持ち上げて積み込んでくれた。礼を言おうと振り向いたとき、セシリアは気づいた。
車内の令嬢たちが、一斉にこちらを見ている。
射抜くような目だった。
* * *
その目の意味は、走り出して半刻もしないうちにわかった。
「ルーカス様、膝掛けをお持ちしましたの」
「ルーカス様、こちら、わたくしの手作りの焼き菓子ですのよ」
「ルーカス様ぁ、馬車が揺れて怖いですわ」
座席は男女交互の決まりのはずなのに、ルーカスの両隣と正面にだけ、令嬢がぎっしり詰まっている。隅の席に収まったセシリアの耳に、ひそひそ声が届いた。
「間違いないわ。第一王子のルーカス殿下よ。肖像画と同じお顔だもの」
「どうして殿下がラブ馬車なんかに?」
「ご存じないの? 殿下の縁談、続けて二つ駄目になったのよ。一つはお茶会の最中に、お城の東棟が溶けたんですって」
「溶け……?」
「もう一つは、求婚しようと跪いたら、目の前に雷が落ちたとか」
「どういうことなの、それ」
「知らないわよ。とにかく、千載一遇の好機じゃない」
セシリアは窓の外を見たまま、聞かなかったことにした。
ところが当の王子殿下は、ちっとも嬉しそうではなかった。
「心遣いに感謝する。だが、膝掛けはトマス君に回してくれないか。先ほどから寒そうにしている」
「焼き菓子は皆でいただこう。ハンス君、甘いものは好きか?」
「よく揺れるな。御者に少し速度を落とすよう伝えよう」
令嬢たちが投げる好意の球を、ルーカスはひとつ残らず丁寧に受け止めて、そのまま周りの青年たちへ回していく。
それがいちばんよく見えたのは、二日目の昼食の時間だった。
草地に敷布が広げられると、ルーカスは誰より先に立ち上がって取り皿を配りはじめた。そして、輪から外れてぽつんと座っていた眼鏡の青年――ハンスという内気な文官だった――の腕をとり、本の話が合いそうな令嬢の隣へ連れていった。
「殿下、それは私どもの仕事でございます……」
婚約ギルドから派遣された運営係のマダム・ロザが、取り皿の束を抱えて途方に暮れている。
「すまない、つい。皆に楽しんでもらいたくて」
「殿下も参加者でいらっしゃるのですよ?」
「ああ。わかってはいるのだが」
ルーカスは本当に申し訳なさそうな顔をして、また取り皿を配りに行った。ハンスの隣の令嬢が何か話しかけ、ハンスが真っ赤になって眼鏡を押し上げる。
セシリアは少し離れた木陰で、本を膝に開いたまま、それを眺めていた。自分は拾われただけの部外者だ。参加費も払っていないし、誰かと組になるつもりもない。
それに何より――色恋はもう、たくさんだった。
(大変そうな方ね)
抱いた感想はそれだけだった。王子という立場も、令嬢たちの熱気も、あの人の律儀さも、全部まとめて、大変そう。
ふと、ルーカスがこちらを振り返った。目が合う。セシリアは軽く会釈をして、また手元の本に視線を落とした。
* * *
その夜、宿の廊下ですれ違ったとき、ルーカスは少しためらってから言った。
「セシリア殿は、落ち着いているな」
「……そうでしょうか」
「ああ。皆がにぎやかな中で、あなただけが静かだ。とても慎み深い人なのだろう」
「ええ、まあ」
セシリアは曖昧に微笑んだ。
慎み深いのではない。うんざりしているだけだ。
それをわざわざ訂正する元気もないまま部屋に戻り、扉を閉めてから、セシリアは小さく眉を寄せた。
本当のことを言わなかったのは、疲れていたからだ。それは間違いない。
けれど――あの人の口から出た「慎み深い」という言葉を、ほんの少しだけ、手放すのが惜しいと思わなかったか。
誰かに褒められたのは、ずいぶん久しぶりだった。
(……ばかばかしい)
セシリアは灯りを吹き消し、寝台にもぐりこんだ。
【第2話】湖畔の身の上話
旅の四日目、馬車は湖のほとりで長い休憩をとった。
水辺では、青年たちが令嬢に石切りを教えている。ルーカスが最初に一つ投げて見せ、「あとは皆で」と輪を抜けてきたのを、セシリアは見ていた。
抜けてきたルーカスは、まっすぐセシリアのいる桟橋の端までやって来た。両手に湯気の立つ木の椀を持っている。
「香草茶だ。宿の者に淹れてもらった」
「……ありがとうございます」
「隣に座ってもいいか?」
断る理由は、やはり見つからなかった。
しばらく二人で黙って湖を眺めた。風が水面を撫で、遠くで誰かの石が五回跳ねて歓声が上がった。
「ハンス君が、少し笑うようになった」
ルーカスがぽつりと言った。
「彼には想う人がいるそうだ。けれど身分が違いすぎて、諦めるためにこの馬車に乗ったのだと」
「まあ」
「諦めなくていいと思うのだが、私が言っても説得力がないな。婚約が一度も続いたことのない男だから」
セシリアは思わず横を見た。ルーカスは苦笑していた。
「車内で聞こえていただろう。噂になっているから」
「……お城が溶けた、とか」
「ああ。あれは本当だ」
あっさりうなずかれて、セシリアは椀を取り落としかけた。
「母が心配して、たびたび縁談を持ってきてくれるのだ。最近の二人はちょっと変わっていて。一人は、魔界大帝だった」
「……はい?」
「魔界大帝だ。角が七本おありで、とても気さくな方だった。ただ、初めてのお茶会で緊張されたらしく、むせたはずみに火を吹いてしまわれて。城の東棟が半分溶けた」
セシリアは香草茶を吹き出しかけた。
「お、お怪我は」
「幸い誰も。大帝ご本人がたいへん恐縮されて、『人の子の城は柔らかすぎる』と、丁重に断りの書状をくださった。字がとても綺麗だった」
「そ、そうですか……」
「もう一人は、ヴィオレッタ嬢という、聡明で優しい人だった。ただ、神々に愛されすぎていて」
「神々に」
「私が近づくたびに、空が荒れるのだ。手を取ろうとすると豪雨。お茶に誘おうとすると雹。思い切って求婚しようと跪いたら、目の前の木に雷が落ちた。三回目で、ヴィオレッタ嬢のほうから泣いて『殿下の命が大事です』と」
こらえきれなかった。
セシリアは椀を膝に置き、口元を押さえて肩を震わせた。笑ったのは、いつ以来だろう。ずいぶん久しぶりな気がした。
「ご、ごめんなさい。笑いごとではございませんのに」
「いや。笑ってもらえて、私も救われる」
ルーカスは本当に嬉しそうに目を細めた。それから、ふっと声を落とした。
「だが、本当の問題はその前なんだ」
「その前?」
「それより前にも、婚約は何度かあった。皆、普通の、素敵な人ばかりだった。なのに続かなかった。ある人に言われたよ。『殿下とお話ししていると、ずっと試験を受けているような気持ちになります』と」
湖の向こうで、また歓声が上がった。
「私は、普通の人であればいいと思っていた。本当にそう思っていたんだ。けれど私の言う『普通』は、礼儀作法も、教養も、民への心配りも、王妃としてやっていけるかどうかを、知らず知らずのうちに全部量っていた。相手を一人の人として見る前に、未来の妃として採点していたのだ」
「……」
「魔界大帝とヴィオレッタ嬢のことがあって、かえってよくわかった。あの二人は、私が何をどう量ろうと関係のないところで駄目になった。量る余地もなかった。そうなって初めて、自分がそれまで何をしてきたのかに気づいたのだ。私が誰かを量っている限り、誰も私の隣では安らげない。だから決めた。もっと寛容な男になろうと。まずは、母の用意した縁談ではなく、自分の足で人に会ってみようと」
「それで、ラブ馬車に?」
「そう、ラブ馬車だ」
大真面目にうなずくルーカスを見て、セシリアはまた少し笑いそうになり、そして笑えなくなった。この人は、自分の欠点にきちんと向き合おうとしている。まっすぐすぎるほどに。
「君は?」
ルーカスが静かに尋ねた。
「なぜ、あの道に一人でいたのだ」
話すつもりはなかった。けれど、湖が静かすぎたのかもしれない。
「……十日前まで、私は伯爵家の妻でした」
気づけば、言葉がこぼれていた。
夫のジェラルドが、結婚から半年のあいだ一度もまともに目を合わせてくれなかったこと。ある朝「真実の愛を見つけた」という書き置きを残して、旅回りの歌姫と消えたこと。屋敷じゅうの騒ぎが収まると、義父母の怒りの矛先が、なぜか自分に向いたこと。
「夫を引き留められなかったのは、妻の落ち度だそうです。それで最後に、義母にこう言われました」
離縁の書状と、嫁いだときよりずっと少ない荷物と、屋敷でいちばん古い馬車。それが、半年の結婚の手切れのすべてだった。
「疫病神、だそうです。私が来てから、ろくなことがないと。実際、帰り道でも車輪が壊れましたし」
冗談めかしたつもりだった。けれどルーカスは笑わなかった。
「君の夫が去ったのは、夫が選んだことだ。君の罪ではない」
静かな、けれど揺るぎのない声だった。
「車輪が壊れたのも?」
「疫病神は人にたたるものだろう? それに――車輪が壊れたから、私は君に会えた」
セシリアは、言葉を失った。
ルーカスの顔を見る。口説いているつもりなど、少しもない顔だった。ただ思ったことを、思ったとおりに言っただけの顔。
(……だから、困るのよ)
セシリアは湖に視線を戻した。頬が熱いのは、香草茶のせいだと思うことにした。
色恋は、もうたくさんなのだ。
――そのはず、だった。
【第3話】告白の儀
湖を発ってからの三日間、セシリアはルーカスを避けて過ごした。
避けた、というと少し大げさかもしれない。休憩のときは木陰ではなく馬車の陰に座り、宿では夕食を早めに切り上げた。それだけのことだ。
ルーカスのほうも、相変わらず取り皿を配ったり、くじを作ったり、誰かと誰かを隣に座らせたりと忙しく、セシリア一人に構っている暇などなさそうだった。
それでも、ふとした拍子に目が合う。そのたびにルーカスは、何か言いたそうに口を開きかけ、令嬢たちに袖を引かれて連れていかれた。
(それでいいのよ)
車輪が壊れたから会えた、と言われた。あの言葉を思い出すたびに胸の奥がざわつくのが、セシリアには怖かった。半年前にも、自分は誰かの隣で、何かを期待していた。その結果が、書き置き一枚だったのだ。
旅の最終日の前夜、マダム・ロザがセシリアの部屋を訪ねてきた。
「明日の告白の儀ですけれど。セシリア様も、よろしければ列にお並びくださいませ」
「私は、拾っていただいただけの身ですから」
「途中から乗られた方も、参加者は参加者です。ギルドの規約にそう書いてございます。今、書き足したのですけれど」
マダム・ロザは真顔だった。セシリアは思わず笑い、それから首を横に振った。
「お気持ちだけ、いただいておきます」
マダム・ロザは何か言いたげにセシリアを見つめ、やがて「さようでございますか」と小さくため息をついて出ていった。
* * *
翌日の昼、ラブ馬車は王都の広場に着いた。
締めくくりの「告白の儀」には、物見高い見物人まで集まっていた。
広場の中央に令嬢たちが並び、青年たちが一人ずつ前に進み出て、意中の令嬢の名を呼んでいく。名を呼ばれた令嬢が頬を染めて一歩前に出るたび、見物人から拍手が起こった。
ハンスの番が来た。
彼は前に出たきり、しばらく黙って立ち尽くしていた。
眼鏡の奥の目が、旅のあいだ隣に座ることの多かった令嬢に向けられ、それから足元に落ちた。やがて彼はその令嬢に深々と頭を下げ、「申し訳ありません」とだけ告げて、静かに列へ戻った。
見物人がざわめいた。けれど、頭を下げられた令嬢のほうは、どこか納得したように小さくうなずいていた。
セシリアには、その理由がわかる気がした。湖のほとりで聞いた、身分違いの想い人。諦めるためにこの馬車に乗っても、結局、その人への想いを捨てることはできなかったのだ。
(諦めなくていいと思う、と殿下はおっしゃっていたわね)
列の端で、ルーカスがハンスの背中を見送っていた。その横顔が、少しだけ誇らしげに見えた。
そして、ルーカスの番が来た。
彼が一歩前に出た瞬間、令嬢たちの列が崩れた。誰が先に動いたのかはわからない。気づけば令嬢たちがルーカスの前に殺到し、我こそはと名乗りを上げはじめていた。
マダム・ロザが「お、お待ちくださいませ、順番に、順番に!」と叫び、見物人たちがどっと沸く。
その騒ぎに紛れて、セシリアは自分の小さな鞄を手に取った。
誰にも告げなかった。広場を抜け、馬車の陰を回り、大通りの人混みに紛れる。
振り返らなかった。振り返ったら、きっと足が止まってしまうとわかっていたから。
* * *
広場の真ん中で、ルーカスは令嬢たちの肩越しに、必死に灰色の外套を探していた。
「すまない、少し通してくれ。――マダム・ロザ、セシリア殿は?」
「それが、先ほどまでそちらに……」
マダム・ロザが指さした馬車の陰には、もう誰もいなかった。
ルーカスは広場じゅうを見回し、大通りの入口まで走り、また戻ってきた。いない。人の波に呑まれて、灰色の外套はどこにも見えなかった。
「マダム、彼女の家名は。どこの家の令嬢なのだ」
「存じません、殿下」
マダム・ロザは申し訳なさそうに首を振った。
「途中からお乗りになった方ですから、参加者の名簿にもお名前しか。それに、ラブ馬車では家名を伏せるのが決まりでございます」
ルーカスは、その場に立ち尽くした。
セシリア。灰色の外套。湖のほとりで、香草茶を飲みながら、私の話に笑った人。
自分が彼女について知っていることは、たったそれだけだった。
「……そうか」
ルーカスは小さくつぶやき、それから顔を上げた。そのエメラルドの瞳に、強い意志の光が宿ったことに、気づいた者は誰もいなかった。
ただ一人、マダム・ロザだけが、嫌な予感に胃のあたりを押さえていた。
【第4話】尋ね人
実家のアーデン子爵家は、思っていたとおりの温度でセシリアを迎えた。
「……伯爵家とのせっかくの縁を、よりにもよって、半年で」
父はそれだけ言って書斎にこもった。母は一日に三度ため息をつき、使用人たちは目を合わせないように廊下の端を歩いた。
セシリアに与えられたのは、嫁ぐ前の自分の部屋ではなく、北向きの客間だった。
十日ほど経った夕食の席で、父が切り出した。
「ベルトラン男爵が、後添えを探しておられる」
「……男爵様は、確か御年六十を」
「六十二だ。お前の今の立場で、贅沢を言える縁ではあるまい。それが嫌なら修道院だ」
セシリアはフォークを置いた。言い返す言葉は、どこにもなかった。
その翌朝のことである。
朝市から戻った料理番が、一枚の紙を握りしめて厨房に駆け込んできた。それが執事の手に渡り、執事の手から子爵夫人に渡り、子爵夫人が悲鳴を上げ、子爵が書斎から飛び出してきた。
騒ぎを聞きつけて階下に降りたセシリアの前に、その紙が突きつけられた。
王都じゅうの掲示板に貼り出されているという、尋ね人の告知だった。
『尋ね人。先日のラブ馬車に途中から同乗した、灰色の外套の令嬢。お名前はセシリア嬢。湖のほとりで香草茶を飲んだ。心当たりの者は、王城まで一報願いたい。――ルーカス』
最後の署名の下に、王家の紋章が堂々と押されていた。
「セ、セシリア。これは、お前か。お前のことなのか」
父の声が裏返っていた。
セシリアは紙を見つめたまま動けなかった。灰色の外套。香草茶。あの方は、こんなものを王都じゅうに貼り出したのか。真面目な顔で、一字一字、正確にしたためて。
(何を考えているの、あの方は……!)
そう思った瞬間、玄関の扉が叩かれた。
王城の近衛騎士が二人。そしてその後ろに、金茶色の髪の青年が立っていた。今日はお忍びの旅装ではなく、王家の紺の礼装を着ている。
「突然の訪問を許してほしい、アーデン子爵。ルーカス・エーレンフェルトだ」
子爵は、その場で膝から崩れ落ちそうになった。
ルーカスは子爵夫妻に丁寧に挨拶を済ませると、まっすぐセシリアの前まで来た。
「探した」
「……告知、拝見いたしました。でも、どうしてこの家が」
「告知を出して三日目に、一人の御者が城を訪ねてくれたのだ。街道で車輪が割れた馬車の御者だ。君の書き置きを見て、ラブ馬車に乗ったことを知っていた。それで、ようやく君の家名がわかった」
セシリアは言葉を失った。あの割れた車輪が、こんなところまで追いかけてくるとは思わなかった。
「騒がせてすまない。ほかに方法を思いつかなかった。告白の儀の広場で、君がいないと気づいたときには、もう」
ルーカスは息を整え、そして、片膝をついた。あの街道で、目線を合わせてくれたときと同じように。
「セシリア嬢。私と婚約してくれないか」
背後で母が小さく悲鳴を上げた。
「旅のあいだ、私は一度もあなたを量らずにいられた。あなたが妃にふさわしいかどうかを考える前に、ただ、あなたと話していたかった。そんなことは初めてだったのだ」
セシリアの胸の奥で、何かがきしんだ。
この人は誤解している、と思った。自分が自然体でいられたのは、何も期待していなかったからだ。慎み深いのではなく、ただ疲れていただけだ。
けれど、その誤解を正す前に、背中に二つの視線が突き刺さった。
父と母だ。
六十二歳の男爵か、修道院か、王子殿下か。言葉にしなくても、二人の目がそう言っていた。この家にもう居場所はない。それも、セシリアにはよくわかっていた。
「……私は、夫に逃げられた身です」
「知っている」
「疫病神と、呼ばれました」
「私は、そうは思わない」
エメラルドの瞳は、一度も揺らがなかった。
セシリアは目を閉じた。そして、自分でも驚くほど小さな声で答えた。
「……お受けいたします」
ルーカスが顔を輝かせ、父が天を仰ぎ、母が泣き崩れ、騎士たちが控えめに拍手した。
その輪の真ん中で、セシリアだけが、胸の奥に冷たい小石を一つ抱えていた。
――私はいま、この人を逃げ場にしたのだ。
【第5話】幕間 王妃と宰相
「出戻り、ですって……?」
王妃マルグリットは、扇を取り落とした。
「は。アーデン子爵家の長女で、ひと月前に嫁ぎ先の伯爵家から離縁されております。夫が歌姫と駆け落ちしたとか」
宰相ベルナールは、額の汗を拭いながら報告書を読み上げた。
「なぜ止めなかったのです!」
「止める間もございませんでした。殿下が王都じゅうに尋ね人の告知を貼り出し、ご自分で子爵家に乗り込み、その場で求婚なさったのです。陛下には事後にご報告があり、陛下は『そうか』と」
「あの人はいつもそれです!」
王妃は自分で扇を拾い上げ、ばしばしと手のひらを叩いた。
「わたくしの計画では、魔界大帝とヴィオレッタ嬢で、あの子の理想をほどよく下げて、そこへあなたの娘のクラリスを差し出すはずでしたのに。礼儀も教養も申し分のない、安心できる娘を」
「下がりすぎましたな、理想が」
「笑いごとではありません!」
しばしの沈黙ののち、王妃は扇を閉じた。
「……婚約は許してしまいました。あの子があんなに嬉しそうな顔をするものだから、つい。でも、婚約は婚約。まだ婚姻ではありません」
「と、おっしゃいますと」
「穏便に、あちらから辞退していただくのです。妃にふさわしくないと、誰の目にも明らかになれば、あの子だって目が覚めるでしょう」
「なるほど。では、まずは様子見を。クラリスを侍女としてお付けし、あちらの粗を探らせましょう」
「頼みましたよ、宰相」
二人が額を寄せ合っているところへ、廊下を国王が通りかかった。
「楽しそうだな」
国王はそれだけ言って、一度も足を止めずに去っていった。
【第6話】振られたい令嬢
王城に移ってひと月、セシリアは毎日少しずつ、罪悪感を積み上げていった。
ルーカスは、優しかった。
彼女が妃教育でへとへとになった日には、厨房に頼んで温かい牛乳を届けさせた。前の嫁ぎ先の噂を口さがない貴婦人がささやけば、穏やかに、しかし二度とその噂が上らないように話題を変えた。朝の散歩では必ずセシリアの歩幅に合わせ、ぬかるみがあれば先に立って板を渡した。
そのどれもが、セシリアの胸の小石を重くした。
(この方には、もっとふさわしい人がいる)
自分は逃げ場としてこの婚約を受けたのだ。父の決めた男爵からも、修道院からも、あの冷たい北向きの客間からも逃げるために。そんな女が、こんなにまっすぐな人の隣にいていいはずがない。
けれど、自分から婚約を辞退すれば、尋ね人の告知まで出したルーカスの面目を潰すことになる。
ならば――ルーカスのほうから、振ってもらえばいい。
セシリアは決意した。
作戦その一。王妃主催の茶会で、わざと紅茶をこぼす。
セシリアは手を震わせ、王妃の目の前で、上等な白いテーブルクロスに盛大に紅茶を広げた。王妃の目がきらりと光り、宰相が身を乗り出した。
「緊張したのだろう」
隣のルーカスが、さっと自分のナプキンで染みを押さえた。
「私も子どものころ、この茶会でよくこぼしたものだ。母上、覚えておいでですか。三回連続でこぼして、侍従長が泣いた日のことを」
「……覚えていますとも」
王妃の目の光が、すうっと消えた。
作戦その二。昼まで寝坊する。
セシリアは生まれて初めて、正午の鐘が鳴るまで寝台から出なかった。罪悪感でほとんど眠れなかったが、とにかく出なかった。
昼過ぎに扉が叩かれ、ルーカスが銀の盆を持って入ってきた。
「疲れていたのだろう。慣れない城で、無理をしていたんだ。朝食を温め直してもらった」
盆の上の卵料理は、セシリアの好物だった。いつの間に覚えたのだろう。
作戦その三。法外な宝飾品をねだる。
「殿下。私、南方の『暁の涙』という首飾りが欲しゅうございます」
小国の年間予算の何割かに相当すると噂される宝石だった。さすがにこれは、と宰相がほくそ笑んだ。
ルーカスは少し考え込み、真剣な顔でうなずいた。
「わかった。私の私費を三年ほど切り詰めれば――」
「やっぱり要りません!」
セシリアは悲鳴のような声で撤回した。宰相が膝から崩れた。
作戦その四。これが最後の手段だった。
夕暮れの庭園で、セシリアはルーカスに向き直り、まっすぐに告げた。
「殿下。私は、殿下のことを愛してなどおりません」
言ってから、胸が痛んだ。言いながら、それが半分は嘘だと、自分でもわかっていた。
ルーカスはしばらく黙っていた。それから、ゆっくり微笑んだ。
「正直に話してくれて、ありがとう」
「……え」
「構わない。私が寛容な男になると決めたのは、相手に何かを求めないためだ。愛してくれとは言わない。もしいつか、君が少しでもそう思ってくれる日が来たら、それで十分だ。来なくとも、私は君の隣にいたい」
セシリアは、何も言えなくなった。
庭園からの帰り道、侍女として付けられた宰相の娘クラリスが、半歩後ろで淡々と言った。
「セシリア様。殿下に嫌われたいのでしたら、もう少しお上手になさったほうがよろしいかと」
セシリアは足を止めた。
「……気づいていらしたの」
「一回目のお紅茶で」
クラリスは表情を変えずに続けた。
「ご安心ください。父にも王妃様にも申し上げておりません。わたくしは父から、セシリア様の粗を探すよう言いつかっております。そして、ゆくゆくは殿下の妃になれ、とも」
「それは……」
「ですが、わたくしにはお慕いしている方がおりますので」
クラリスは、ほんの少しだけ頬を染めた。セシリアが彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。
「ですから、正直に申しますと、セシリア様には殿下のおそばにいていただかないと、わたくしが困るのです」
その夜、セシリアは寝台の上で長いこと天井を見つめていた。
振られようとすればするほど、あの人の優しさが増えていく。罪悪感と、それとは別の何かが、胸の中で区別がつかなくなっていく。
同じ頃、王妃の私室では、王妃と宰相が頭を抱えていた。
「あの子、何をされても許してしまうのよ……!」
「寛容にも、ほどがございますな」
しばしの沈黙ののち、王妃が低く言った。
「……こうなったら、多少強引な手を使うしかありません」
【第7話】首飾りの行方
王家に代々伝わる首飾り「青い湖」が消えたのは、秋の夜会の三日前のことだった。
城じゅうが捜索され、そして首飾りは、セシリアの部屋の化粧台の引き出しの奥から見つかった。
その日の午後、王城の大広間には、王妃と宰相、侍従長、何人もの侍女たち、それに騒ぎを聞きつけた貴族たちが集まっていた。玉座には国王が座り、いつものように黙って頬杖をついている。
広間の中央に立たされたセシリアの前に、銀の盆に載せられた青い首飾りが差し出された。
「セシリア殿」
王妃の声は、悲しげでありながら、どこか安堵の色を帯びていた。
「わたくしは、あなたを責めたいのではありません。慣れない城で、魔が差すこともあるでしょう。ただ、王家の宝に手をつけた方を、王子の妃に迎えるわけにはまいりません。今ならまだ、静かにご実家へお帰りいただくことで――」
セシリアは首飾りを見つめていた。
自分は盗んでいない。それは確かだった。誰かが引き出しに入れたのだ。誰が、なぜ。考えるまでもない気がした。
そして、もう一つのことに気づいた。
(これで、終わりにできる)
紅茶をこぼしても、寝坊しても、愛していないと言っても、あの方は許してしまった。でも、王家の宝を盗んだ女なら。さすがにあの方も、もう庇いきれない。
あの方を、私の逃げ場という不幸から解放してあげられる。
セシリアは顔を上げた。
「……はい。私が、盗みました」
広間がざわめいた。
一番驚いた顔をしたのは、王妃だった。認めるとは思っていなかったのだろう。宰相も口を半開きにしている。
「美しい首飾りでしたので、つい。申し訳ございません。どうか、私との婚約は――」
「嘘だな」
静かな声が、広間を貫いた。
人垣を割って、ルーカスが歩み出てきた。いつもの穏やかな顔ではなかった。セシリアが初めて見る、怒りを押し殺した顔だった。
「嘘ではございません」
「セシリア」
ルーカスは彼女の前で立ち止まった。嬢、をつけずに名を呼ばれたのは、初めてだった。
「私はこれまで、君のすることを何でも許してきた。寛容な男になると決めたからだ。紅茶をこぼしても、昼まで眠っていても、首飾りをねだっても、愛していないと言われても」
セシリアは息をのんだ。
「気づいていたよ。君が私に振られようとしていたことには、最初から」
「……どうして」
「紅茶をこぼしたあとの君が、冷静に私と母上の顔色ばかりうかがっていたからだ。寝坊した日の君の目は真っ赤だった。眠れなかったのだろう。首飾りをねだった君は、私が承知した瞬間、泣きそうな顔をした」
ルーカスの声が、わずかに震えた。
「それでも許したのは、君が私を試しているのなら、どこまでも付き合おうと思ったからだ。だが、これだけは許さない」
「……」
「君が、君自身を貶める嘘をつくことだけは」
広間が、しんと静まり返った。
「君は盗んでいない。私はそれを知っている。証拠などいらない。私は、君を信じている」
セシリアの視界が滲んだ。言い返さなければ、と思うのに、喉がつかえて声が出なかった。
そのとき、広間の隅から、澄んだ声が上がった。
「僭越ながら、申し上げます」
クラリスだった。侍女の列から一歩踏み出し、まっすぐに王妃と、自分の父を見ている。
「その首飾りをセシリア様の化粧台に入れたのは、わたくしの父、ベルナール宰相です。王妃様のご指示によるものと、父の書斎で聞きました」
「ク、クラリス!?」
宰相が裏返った声を上げた。
「お、お前、何を」
「申し訳ございません、お父様。ですが、わたくしは殿下の妃にはなれません。なりたくもございません」
クラリスは一度だけ深く息を吸い、広間の後方、文官たちの並ぶ列に目を向けた。
「わたくしには、お慕いしている方がおります。財務局の文官、ハンス・エーベル様です」
文官の列で、眼鏡の青年が真っ赤になって硬直した。ラブ馬車で、ルーカスが令嬢の隣に連れていった、あの内気な青年だった。
ルーカスが、小さく「ああ」と声を漏らした。身分違いの想い人。諦めるために乗った馬車。
宰相がよろめいて柱にすがり、王妃は扇で顔を隠した。
その沈黙を破ったのは、玉座だった。
「マルグリット」
国王が、頬杖をついたまま言った。
「そういうことか」
たったそれだけの言葉に、王妃の肩がびくりと跳ねた。
「後で話そう」
国王はそう告げると、ゆっくりと立ち上がり、ルーカスの肩を一度だけ叩いた。
「よい目をしているな、お前は」
そして、いつものように誰も振り返らずに広間を出ていった。
騒ぎが収まり、人々が三々五々散っていく中で、セシリアは一人、広間の真ん中に立ち尽くしていた。
容疑は晴れた。ルーカスは信じてくれた。
なのに、胸の小石は消えるどころか、大きくなっていた。
(私のせいで、王妃様は陛下に叱責される。宰相閣下は娘に告発された。殿下は、お母上と対立してしまった)
自分がこの城に来なければ、誰も傷つかなかった。
(……やっぱり私は、疫病神なんだわ)
【第8話】嵐の夜
その夜、王都はひどい嵐になった。
夜会に招かれたヴィオレッタ嬢が、一足早く王都入りしたせいだと、侍女たちが噂していた。神々は、愛し子がかつての婚約者のいる街に来たことが、どうにもお気に召さないらしい。
セシリアは、その嵐を好都合だと思った。この雨なら、誰も城門の外までは気にかけない。
机の上に、短い手紙を置いた。
『殿下。信じてくださって、ありがとうございました。私は、殿下を逃げ場にしてこの婚約をお受けしました。そんな私は、殿下のおそばにいるべきではありません。どうか、殿下にふさわしい方と、お幸せに』
書き終えてから、もう一行足そうとして、やめた。足したい一行が何なのか、自分でもわかっていたからだ。
荷物は、ここへ来たときの小さな鞄ひとつ。裏門の番兵には、実家の母が急病だと告げた。城下で辻馬車をつかまえ、実家ではなく、北の修道院へと行き先を告げた。
王都を出て、川沿いの街道を進んで半刻。
増水した川に架かる古い橋の真ん中で、ばきん、と乾いた音がした。
車体が大きく傾く。セシリアは座席から投げ出され、扉に叩きつけられた。御者の悲鳴、馬のいななき、そして、車体が滑る音。
窓の外を見て、セシリアは凍りついた。
割れた車輪が橋の欄干を突き破り、車体の後ろ半分が、濁流の真上にせり出していた。御者は馬の手綱を切り、とうに橋のたもとへ逃げている。車体がぎしぎしと鳴るたびに、少しずつ、少しずつ、川のほうへ滑っていく。
(……ああ)
恐怖よりも先に、妙に静かな納得が来た。
(やっぱり、私はこういう運命なのね)
車輪が壊れて始まったものが、車輪が壊れて終わる。疫病神には、ふさわしい幕引きだ。
目を閉じかけたそのとき。
雷鳴の合間に、蹄の音が聞こえた。
「セシリア!」
稲妻が橋を白く照らし出した。ずぶ濡れの栗毛の馬から、誰かが飛び降りるのが見えた。金茶色の髪が雨に張りついている。
「殿下……!? 来てはいけません! 橋が――」
ルーカスは聞いていなかった。崩れかけた欄干に足をかけ、傾いた車体に飛び移る。馬車ががくんと沈み、セシリアは悲鳴を上げた。
扉がこじ開けられ、雨と一緒に手が差し伸べられた。
「手を!」
「だめです、殿下まで落ちてしまう!」
「なら一緒に落ちる!」
迷っている時間はなかった。セシリアはその手をつかんだ。
強い力で引き上げられ、車体から橋の上へ、二人で転がるように飛んだ。
直後、背後で轟音が響いた。振り向くと、さっきまでセシリアが乗っていた馬車が、欄干ごと濁流に呑まれていくところだった。
ルーカスは片腕でセシリアを抱え、もう片方の腕で橋の柱にしがみついていた。崩れた石の縁から、彼の両足が半分、川の上に出ていた。
しばらく、どちらも動けなかった。雨だけが、容赦なく二人を叩いていた。
「……どうして」
セシリアの声は震えていた。
「どうして、来たのですか。私といると、ろくなことがありません。わかったでしょう。私は――」
「ああ」
ルーカスが、荒い息の合間に言った。
「君と出会ってから、本当にいろいろあった。尋ね人の告知を出したのは生まれて初めてだし、母上とあんなに揉めたのも初めてだ。いま、橋から落ちかけているしな」
「だから――」
「魔界大帝のときより、ずっと大変だ」
セシリアは、泣きながら、思わず笑ってしまった。
ルーカスはセシリアを抱え直し、ゆっくりと橋の上に引き上げた。それから、彼女の濡れた頬に手を添えた。
「手紙を読んだ。逃げ場にした、と」
「……はい」
「それでも構わないと、言っただろう。君が逃げてくる場所でいられるなら、私はそれが嬉しい」
「でも、私は、疫病神で」
「セシリア」
エメラルドの瞳が、まっすぐに彼女を見た。
「車輪が壊れるたびに、私は君を見つける。何度でも――見つけたいんだ」
胸の中の小石が、音もなく崩れていく気がした。
逃げ場として受けた婚約だった。それは本当だ。けれど、あの湖のほとりで笑ったときから、この人の優しさに罪悪感を覚えるたびに、本当は、少しずつ別のものが積もっていた。わかっていて、見ないふりをしていた。
「……殿下」
「うん」
「庭園で申し上げたこと、撤回させてください」
ルーカスが瞬きをした。
「最初は、逃げ場でした。でも、今は違います」
セシリアは、震える手でルーカスの袖をつかんだ。
「殿下のことが、好きです」
その瞬間だった。
あれほど荒れ狂っていた空から、ふっと雨が止んだ。雷鳴が遠ざかり、厚い雲がゆっくりと割れて、その隙間から月が覗いた。
二人は呆然と空を見上げた。
「……ヴィオレッタ嬢の神々が」
ルーカスがつぶやいた。
「どうやら、認めてくださったらしい」
月明かりの下、ずぶ濡れの王子は、セシリアが今まで見た中で一番嬉しそうな顔で笑った。
【第9話・最終話】晴れの日
それから半年後の春、エーレンフェルト王国の空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。
あの嵐の翌朝、王妃マルグリットは、ずぶ濡れで帰ってきた息子とその婚約者の前で、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、セシリア。わたくしは、あの子が傷つくのが怖くて、あなたを一人の人として見ようとしませんでした。……誰かを量っていたのは、あの子ではなく、わたくしのほうだったのね」
それ以来、王妃の過保護は、なぜかセシリアにも向けられるようになった。
「セシリア、寒くはない? ショールをもう一枚。いえ二枚」
「母上、今日は春です」
「春でも冷えるのです!」
宰相ベルナールは職を辞して田舎に引っ込み、毎日釣りをしているという。意外なことに、本人は「肩の荷が下りた」と晴れ晴れしているらしい。
その娘のクラリスは、ハンス・エーベルと婚約した。ハンスの求婚の言葉は緊張のあまり三回噛んだそうだが、クラリスは三回とも「はい」と答えたという。
ついでに言えば、セシリアの元夫ジェラルドは、歌姫に空の財布ごと置いていかれて実家に泣きついたらしい。そこで両親から「お前が捨てた嫁は、王太子妃になるそうだ」と聞かされ、親子三人そろって三日寝込んだと、風の便りに聞いた。セシリアは、それを聞いても何とも思わなかった。本当に、何とも思わなかった。
そして今日。
大聖堂の鐘が鳴り響く中、純白の衣装に身を包んだセシリアは、ルーカスの腕に手を添えて、ゆっくりと祭壇へ歩いていた。
参列席は、なかなかの顔ぶれだった。
最前列で、王妃がもう三枚目のハンカチを濡らしている。その隣の国王は、相変わらず黙って座っていたが、いつもより少しだけ口元がゆるんでいた。
ハンスとクラリスが並んで手を振り、ラブ馬車で一緒だった青年や令嬢たちも――何組かは夫婦になって――顔をそろえている。
マダム・ロザは「当ギルド史上、最高の成果です」と感涙していた。
ヴィオレッタ嬢も来ていた。彼女の頭上だけ、雲ひとつない青空がひときわ眩しく輝いていた。神々も、今日ばかりは上機嫌らしい。
そしてその隣、聖堂の天井につかえそうな角を七本、窮屈そうに縮めて座っているのは、魔界大帝その人だった。
式が終わり、祝いの品が披露される段になって、魔界大帝は重々しく立ち上がった。
「人の子の王子よ。そしてその花嫁よ。我より、心ばかりの祝いを贈ろう」
従者たちが運び込んできたのは、黒く輝く、巨大な馬車の車輪だった。
「魔界の鋼で鍛えし車輪である。千年走ろうと、決して壊れぬ」
聖堂がどよめいた。
セシリアは、その車輪をしばらく見つめていた。それから、こらえきれずに笑い出した。
「セシリア?」
隣のルーカスが、不思議そうに顔を覗き込む。
「ありがたいお品ですけれど」
セシリアは、笑いすぎて滲んだ目元を拭いながら言った。
「壊れない車輪だと、少し困りますわ」
「なぜだ?」
「だって」
セシリアは、ルーカスのエメラルドの瞳を見上げた。あの日、街道の泥の上で、片膝をついて目線を合わせてくれた人の瞳を。
「車輪が壊れたから、私はあなたに会えたのですもの」
ルーカスは一瞬目を丸くし、それから、春の空よりも晴れやかに笑った。
魔界大帝は首をかしげ、ヴィオレッタ嬢の頭上で小さな虹がかかり、王妃は四枚目のハンカチを取り出した。
鐘の音が、いつまでも王都の空に鳴り響いていた。




