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昭和の子供たちはどの様に遊んでいたのか、下町の家族の物語

「しんちゃん、買い物お願い」 二階で積み木遊びをしていた信吉の部屋に設置されたスピーカーから母の声が聞こえた。 父ちゃんが秋葉原で買ってきた部品を組み合わせて作成した一階と二階をつなぐ内線電話からだった。インターフォンと電話が合体しているが、受話器を取らなくても、スピーカーからの声で用件はすぐにわかった。 「はーい」とスピーカーに設置されたボタンを押しながら元気よく答え、信吉は階段を滑り台を滑るように一階へ急いで降りた。降り着いた正面の壁には落下した時に身体を守るためのクッション代わりに座布団が設置されていた。 商店街の入り口にある小さな電気店を営む冨谷家の自宅は、一階が電化製品を扱う店舗、二階は住居として使用していた。 地方から出てきた住み込みの従業員が二人働いて、信吉の部屋と両親の部屋、従業員の部屋が狭いながらにある。各部屋に、スピーカー付き内線電話が取り付けてあった。 店が開店すると、父と従業員は配達に行ってしまう。従業員たちは配達がない時は、それぞれの部屋で休憩していた。休憩している従業員との連絡方法として部屋の内線電話が使用されていた。 父が従業員らと配達、母が店番をしている時には、夕飯の食材とかの買い物は一人息子の信吉が手伝っていた。 電機機器が得意な父は一階と二階を結ぶ電話やスピーカー通信m機を作り、「どうだ、便利だろう」と嬉しそうに信吉に話していた。 信吉はスピーカーから流れる呼び出し音とともに、母の声が聞こえることが不思議で、このような会話できる事が嬉しくてしょうがなかった。 一階の店と台所の境目の扉が開かれ、母が鍋を持ちながら待っていた。 「豆腐一丁買ってきて、いつもの絹ごし豆腐ね」 「うん、わかった。やわらかい豆腐だね」 信吉は鍋と五十円玉を受け取り、手に受け取った五十円をじっと見ている。 「今日の五十円玉は穴が開いていないね」 「あら、よく気がついたね、昨日穴の開いている五十円玉は、父さんがタコ糸で結び引き出しにしまっちゃったのよ」 「気がつくとも、だって穴が開いていないんだから、持った感触でもわかるし、見て見ればすぐにわかるよ」 「へりくつ言っていないで、お豆腐買ってきて」 「お客さんいないから、こっちから出ていいよね」 「大丈夫よ、気をつけて行ってきてね」 「行ってきます」 信吉は元気よくお客のいない店の方から出ていった。店にお客さんがいるとき、こんな風に店の中を歩いて外に出ることは父親から駄目だよと日頃より注意されていた。 豆腐屋は、歩いて三分くらいの場所にある。信吉は鉄砲玉のような勢いで豆腐屋へ向かった。 「こんにちは、絹ごし豆腐一丁ください」と元気よく豆腐店の中へ入った。その元気のよい声に、奥の畳スペースでごろりとしていた店主のおじさんが豆腐の入ったタイル張りの大きな水槽の前に来て 「いらっしゃい、いつもの絹ごし豆腐だね、大きく切ってあげるからな」 「はい、おねがいします」 信吉は豆腐の入った水槽に顔を近ずけた。冷水を張った水槽にランニングシャツを着たおじさんが、冷水の中に沈んでいる作り立てだと言う長い豆腐の塊を大きな包丁で一丁ぶんを切り、信吉が手渡した鍋に入れながら 「絹ごし豆腐はやわらかいから気を付けて持って帰るんだぞ」と手渡してくれた。 信吉の目は水槽の横に向いていた。そこには大きなバケツに水を吸って二倍以上に膨れた大豆が置かれていた。 「おじちゃんこれが豆腐になるの?」 「そうだよ、このふやけた大豆を煮込んで生呉状態にして、布で搾り上げ豆乳とおからに分けるんだ」 「あそこに干してある布で」 人一倍の観察力を持つ信吉は、店内のあちこちを見ていた。 「そうだよ、しんちゃんは観察力があるな」 「そのあとはどうすれば豆腐ができるの?」 「豆乳とにがりを微妙に組み合わせ、穴のあいた型箱に盛り込み、三〇キロほどの重石をのせ三〇分くらいでできるんだぞ」 「へぇ、今度作っているところ見に来ていい?」 「見せてあげたいけど、朝の三時から作り始めるから、ちょっと無理だな」 「そうなの、見たかったな」 「それより、今から油揚げを作るから見ていくか?」 「うん、見ていく」 スダレに事前に仕込まれていた油揚げの生地を低温の油鍋に入れ、生地がふくらんだところで、もう一つの高温の油鍋に移すとカリッとした油揚げが完成した。信吉はその光景を最後まで鼻の穴を膨らませながら見ていた。その間にも店には何人ものお客さんが来ていた。豆腐の水槽にはおじさんが油揚げを作り前に、一丁ずつ切った豆腐が在り、その豆腐をおかみさんが、お客の持参した鍋に丁寧に入れていた。水槽の水で濡れた手を手拭いで拭きながら 「しんちゃん、家へ帰らなくて大丈夫なの?」 四時過ぎに豆腐を買いに来た信吉だったが、豆腐屋の壁に掛かった時計は六時を指していた。 「そうだった、豆腐を買いに来たのだった。おじさん、またいろいろ教えてください。今日はありがとうございました」 油揚げを作る光景を思う存分に見た信吉は豆腐屋を後にした。豆腐屋を出て左方向へ向かう信吉、豆腐屋の隣には牛乳店があり、信吉の顔見知りの店主が店の扉を閉めながら信吉に向かい手を振って 「お使いか? 偉いな」 「こんにちは、あっ、こんばんわ」とぺこりとお辞儀をしながら家へ向かった。 「ただいま」豆腐鍋を両手でちゃぷちゃぷと、お客のいない店内から入り、そっと、買ってきた豆腐の入った鍋を渡した。母は呆れた、半分は心配していた顔をしていた。 「なにやっていたの、二時間以上も帰ってこないから、心配するじゃない」 「豆腐屋のおじさんが油揚げを作るのを見せてくれたんだ」 信吉の身体全体からほのかな油の香りがしていた。 北区滝野川六丁目の中山道沿いに「きつね塚商店街」の出入口がある。ここから約二百メートル先の旧中山道までを結ぶ小規模の商店街だ。 旧中山道まで向かう一方通行の左右には信吉の住まいでもある電気屋、せんべい屋、本屋、床屋、パチンコ店、八百屋、魚屋、豆腐屋、駄菓子屋などがあり、ここで生活に必要な物のほとんどがそろう。商店街で商いをしていると、なるべく商店街で買い物をするように両親は気を使っていた。スーパーや他店で同じものが安く販売されていても商店街で買うよう心掛けるようになっていた。 きつね塚商店街は、中山道側が入り口なのか出口なのかは定かでない、坂道のたとえと同じなのだろう。誰かが上り坂といい、誰かが下り坂というように、利用する人が入り口と思えばそこが入り口に、そこを進んだ終点が出口となるのだろう。 信吉の家は、国道一七号線に接する角にホーム電気という小さな電気店を営んでいる。店主の父と母と信吉の三人家族。それに従業員二人が住み込みとしてこの小さな店で働き生活している。 昭和三十八年、オリンピック景気で昭和三十九年十月のオリンピック開催までは、日本中が高度経済成長と呼ぶ好景気になっていた。東京オリンピックへ向け国民全体の期待が溢れかえっていた。 ホーム電気も、オリンピックに向け、多くの家庭ではテレビを持つ事など贅沢な時、カラーテレビが売れ出してきていた。 一九六〇年代当時の小学校教員の初任給が一万円に対して、カラーテレビは五十万円だった。これを考えればかなりの高額商品と言えた。 多くの家庭では、白黒テレビの画面に色のついた薄い色のついた下敷きのようなものを張り、カラーテレビの雰囲気を出すなどの工夫をしている。そんな中、ホーム電気のショーウインドウでは、カラーテレビを展示し、カラー放送を店の外に向け映し出していた。父は新聞のテレビ欄を隅々までチェックして「カラー」と書かれた番組に赤のペンで印をつけ、その番組が始まるとウインドウに横ばいになりカラーテレビのチャンネルに手を伸ばし画面をカラー放送している番組に変えていた。この時代のテレビ放送は、白黒放送がほとんどで、数少ないカラー放送は、新聞のテレビ欄を見なければわからなかった。 店の前の信号待ちをする人たちは、カラー放送をとてもうれしそうに見ていてくれ。その観衆の後ろに立ち嬉しそうにしている父は家族にも鼻高々でカラーテレビの話をしていた。 富谷家の一人息子の信吉は、家から車で五分ほどにある双葉幼稚園に通っている。幼稚園ではいたずらばかりしていて、毎回車で迎えに来てくれる従業員の小沢が、先生からの注意を受けるので、迎えに来るのに頭を抱えていた。 そもそも信吉は、家の近くの小鳩保育園に三年保育として入園したのだったが、いたずらばかりして、堪忍袋の緒が切れた園長先生に足を縛られて、二階の窓から外へ吊る下げられるお仕置きを受けた。その怖い思いをしてから両親に、もういたずらはしませんからと泣きつき保育園をやめた。 そんなことがあり、しばらくの間家で過ごしたあと、家から少し離れたこの双葉幼稚園に入園していた。幼稚園に入園してからは、吊り下げられた恐怖から立ち直り、わんぱくぶりは復活して幼稚園の先生を困らせる日々が続いていた。 信吉を迎えに来た姿を見て幼稚園のスタッフが小沢を引きとめた。 「信吉くんの家族の方ですね、園長先生から話がありますのでお待ちください」 「あっ、はい」と少し戸惑いながら、従業員の小沢は園長先生が来るのを待った。ほどなくして白髪の小柄な園長先生が小沢の元へきた。いつもなんやかんだと、このように注意を受けているので、小沢にとって園長先生の顔や声、足音でさえすぐにわかった。 「いつもすいません」 信吉が何をやったのかも聞かず、園長先生に頭を下げる小沢。 園長先生は、小沢の頭の上からジャングルジムに指を指し 「あのジャングルジムの頂上から、隣の木々に飛び移り外の塀に飛び乗り、また木へと野生の猿のような動きをして幼稚園の二階の私の部屋に飛び込んできたのですよ」 「本当に申し訳ございません」 小沢は信吉の後頭部に手を置き、一緒に園長先生に頭を下げた。その姿を見た園長先生は 「信吉くんを心配して言っているのですよ、万が一、木が折れて、塀から滑り落ち、地面に落下したら大変なことですからね」 「はい、これからは危ないことはさせないように注意し家に帰ったら、両親にも叱ってもらうようにいたします」 幼稚園の門を出ながら、乗ってきた軽トラックに乗り込んだ小沢は、信吉に怒るどころか 「すごいな、あのジャングルジムからあの部屋までスイスイと行けるなんて、大人になったらオリンピックの体操選手かアクションスターになれるぞ」と褒めた。 家に着いた信吉は、先程幼稚園で怒られたことなどすっかり忘れた様子、黄色い幼稚園鞄と帽子を玄関に投げ捨てるとすぐさま、玄関横に置かれた、めんこの入ったクッキーの空き缶を手に取り、家を飛び出していった。 白い青地のイラストが描かれたクッキーの空き缶の表面には信吉の大好きなマンガの絵が透明のビニールテープで張られていた。 家の近くにある稲荷神社の広場で友達たちと、めんこ遊びをするためだった。キョロキョロと周囲を見るが、めんこを一緒にやる友達の姿は見えず、その場所にはゴムとび遊びをする数人の女の子たちが信吉に目を向けていた。 「信吉くん。一緒に遊ばない」とその中の一人の子が声をかけてくれた。 商店街にある鈴木燃料店の一人娘のみつ子ねえちゃんだった。 信吉より一つ年上で、今は小学校一年生の優しい姉ちゃんだ。一人っ子の信吉にとって、本当の家族のような姉ちゃんだった。残りの子たちは、小学二年生から四年生でよくこの神社に遊びに来てみつ子とよく遊んでいた。 ゴムとびは、女の子たちのお遊びだったが、そんなことは気にせず信吉は楽しく無我夢中でゴムとびをしていた。 飛び跳ねたりするのが得意な信吉は、すぐにゴムとびに溶け込むことができた。それを見ていた一緒にいる上級生はみつ子に 「この子、お猿さんみたいだね」と笑っていた。 信吉は何を言われてもいつもニコニコとして憎めない性格。みつ子もそんな信吉が好きだった。 「信吉くん、これから斎藤商店へ行こうよ」とみつ子は信吉の顔を見た。 斎藤商店とは、きつね塚商店街の中ほどにある駄菓子屋で、信吉の行きつけの店だった。 「うん、僕も今あんこ玉食べたいと思っていたんだ」 二人はゴムとびをしていた子らに別れを告げ稲荷神社を後にした。 ごく自然に手をつなぎながら路地を歩く二人。他人が見れば仲の良い兄弟のように思うだろう。 「みつ子ねえちゃん。大人になったら僕と結婚して」 「なにバカのこと言っているの、信吉くんはまだ幼稚園児でしょう。わたしだってまだ小学一年生よ」 先月、商店街の慰安旅行で二人は、船橋にある温泉施設へ行った。その時、子供だからと一緒のお風呂に入り楽しく遊び、一人っ子の信吉は、みつ子に不思議な思いを抱いていた。 神社の裏道を七十メートルほど歩いた先を左に曲がると、正面にきつね塚商店街が見えてきた。右側にはお化け屋敷のような気味悪い建物の佐藤病院がある。信吉は病院を囲む大谷石の塀の上に飛び乗り塀の上を器用に歩きだした。 「みつ子ねえちゃんも、あがっておいでよ」 「駄目よ、危ないわ、落ちたらケガするよ」 「大丈夫だよ、ここは病院だから、もしケガしてもすぐに診て治してくれるよ」 「バカなこと言っていないで、早く降りてきな」 「はい」と素早く飛び降り、再びみつ子と手をつないで歩きだした。その突き当りに、四軒長屋が見えてきた。その手前右側が斎藤駄菓子屋だ。 正面にある四件長屋は、実に変わったデザインをしている。モルタル外装のファサードに施された三角と半角のデザインが何とも言えない。左からイナリ堂薬局、寿々松甘味処、焼き魚店、小林自転車店と並んでいる。信吉はいつもこの長屋を見ると、二階の部屋はどのようなつくりになっているのかな? と子ども心に思っていた。 斎藤駄菓子屋に入る時「ちょうだいな」と元気よく店番をしているおばちゃんに声をかけた。 「信吉くん、いらっしゃい」とおばちゃんは返事をしながら 「信吉くんも、来年の四月からは小学一年生になるのね」 「はい」と元気よく返事をする信吉に 「小学生になったらね、『ちょうだいな』は卒業『くださいな』と言うのよ」 駄菓子屋のおばちゃんとおじちゃんは子供たちの道徳の先生のように、子供社会のルールをさりげなく教えてくれる。 「はい」と返事をする信吉の後ろ姿をみて、みつ子はうなずきながら 「くださいな」と照れながら入店した。 店の入り口付近には駄菓子がたくさん並べられ、右に細長いスペースにプラモデルがたくさんつるされている。信吉がプラモデルを買うときは、父の機嫌がいい時に一緒にきて買ってもらう。先週には高価な戦艦ヤマトの模型を買ってもらった。ほとんど父が作成し完成した戦艦が信吉の部屋に飾られていた。 信吉は、開封したての駄菓子のあんこ玉の箱に目を向けた。 「あんこ玉ひとつください」とおばちゃんに告げた。 「わたしも」とみつ子が言ったが、信吉はみつ子になにやら耳打ちした。 「やっぱり、ふがし一本にします」とあんこ玉はやめ、砂糖がたくさんついたふがしを一本取り、五円をおばちゃんに渡した。 信吉は、あんこ玉を一個とり、五円をおばちゃんに渡すと同時に、あんこ玉を口に放おりこんだ。 きな粉を口の周りにつけながらもぐもぐと口を動かし嬉しそうにあんこ玉を食べている、その口に親指と人差し指を入れながら、白い玉を取り出し 「おばちゃん、当たりだ」と、あんこ玉の中に入っていた当たり玉を渡した。 おばちゃんはその仁丹を少し大きくしたような当たり玉を見て 「おめでとう」と通常の五倍くらいの当たりあんこ玉を手渡してくれた。 嬉しそうに店を出た信吉は、当たりの大きなあんこ玉を二つに割り、半分をみつ子に「半分あげるね」と手渡した。 「信吉くんすごいね」 「うん、箱の開けたては、どこに当たりがあるか研究して覚えたから、当たりをみつけられるのさ」 「どうもありがとう」とみつ子は、今買ったばかりのふがしを、半分に折り信吉にあげた。当たりのあんこ玉の半分ともらったふがしの半分を交互に食べながら、当たりで貰えるあんこ玉は、大きいのはうれしいのだけど、味が小玉と少し違うように思っていた。 「当たりの大玉は、きな粉とあんこのバランスが微妙に味に変化がでるみたいだ」と鼻の穴を膨らませながら話す信吉 「うん、小さい方が美味しいような感じがするよね」 「当たりのあんこ玉は、味が少し違うんだ」と言いながら、もぐもぐと口を動かしている。そんな信吉の嬉しそうな顔を見ながら、みつ子は 「当たりを引くことがすごいよ」と喜んでいる。 「当たりを引き当てるのは、箱の開けたてがチャンスなんだ」 「信吉くんはよくコリスのガムの一等賞の大箱を持っているけど、あれも当たり方法を研究したの?」 「そうだよ、あれも開封と同時に一番乗りで購入すれば、ほとんど当たりを引くことができるんだ」 コリスガムの一等賞は、大型のパッケージに何種類ものガムが入った特製箱。 「でもね、コリスガムは、噛んでいるうちに口の中で溶けてなくなってしまうんで、あんまり好きじゃないんだ。だけど、斎藤商店へ行ったとき、新しい箱を店頭に並べだしているのを見ると、ついつい買っちゃうんだ」 駄菓子屋を出た二人の目の前に、噴水型のジュース自販機が、二人を呼び込むように、美味しそうなオレンジジュースの噴水を作っていた。透明のヘルメット型の水槽の内部に冷たいジュースが吹き上げる仕掛けは子供の購買意識を高めていた。 「このジュースを買うとき注意しなければいけないことがあるんだよ」 「何、注意することって?」 「紙コップをちゃんと注ぎ口に置いてから、お金を入れてボタンを押さないと、ジュースが排気口にこぼれちゃうんだ」 「おっちょこちょいの人やせっかちの人は気をつけないとね」 信吉の言うように、噴水型のジュース自販機は左のコップホルダーから紙コップを引き出し、右の受け皿に乗せ十円玉を入れると冷たいジュースが注がれる仕組みになっていた。 「あのジュースって冷たそうに見えるけど、夏場はあまりの売れ行きで、補充したてのぬるいジュースの時があるんだ」 「ぬるいの飲んだことあるの?」 「そうなんだ、経験者は語ると、大人の人が良く言うだろう、このことを言っているんだね」 二人はそんな話をしながらきつね塚商店街を自宅がある中山道方向へ歩いている。みつ子の家は、中山道側商店街入り口から四件先の右側で鈴木燃料店を営んでいる。 駄菓子屋から三分位歩いたところの鍛冶屋の前に来た時二人の足が止まり作業スペースの中を見つめている、おじさんが溶接作業をして火花が作業場より火花を散らしていた。 「みつ子ちゃんタダで花火見られるよ」と溶接をしているおじさんの手元の火花を見ていた。 「うぁー、きれいだ」 「ほんと、きれいね」 その時、作業をしていたおじさんは目元にあてていたお面のようなものを外し、真っ赤な鬼のような形相で「コラ、見ているんじゃないぞ、目を悪くするぞ」と二人に向かい怒鳴った、その怒鳴り声に二人は慌てて逃げだした。鍛冶屋の隣にはパチンコ屋があるが、商店街の中にあるせいか、あまりお客が入っていなかった。信吉が頭を下げながら、店内をのぞき込むと、やはりこの日もお客の姿は見えなかった。 「せんべい屋のおじさんが、パチンコ屋の経営が危ないと言っているんだ」 「うちの店にも来てその話をしていたわ」 「パチンコ屋が廃業したら、大きなスーパーができるとも話しているんだ」 「スーパーが来たら、鈴屋商店は大変になるとも話していたよ」 鈴屋商店は、乾物や総菜を販売している個人商店だが、きつね塚商店街のなかでは大きな店舗で信吉もよくお使いでたまごなどを買いにいっている。 大人が話すような会話をしながら歩く二人、鈴木燃料店の前まで来ると、店の前でみつ子のお父さんが作業をしていた。信吉は手をつないでいたみつ子から素早く手を放し 「おじさん、こんにちは」と大きな声で挨拶して、みつ子には「バイバイ」と手を振り、二十メートル先の自宅へと向かった。 自宅のホーム電気前にきた信吉は、店の中を覗き、お客さんがいないことを確認すると、客用出入口から店内に入った。お客さんがいるときは、中山道沿いにある勝手口から家に入るよう父から言われている。店では母が一人で店番中で、父ら従業員は配達のため誰もいなかった。 「ただいま」 「おかえり」という母は、 「幼稚園から帰ってきたら、手をしっかり洗って、塩水でうがいしないと駄目よ」とあきれながら怒った。 「ごめんなさい。明日から気を付けます」と先ほど帰宅してそのまま遊びに行ってしまったことを反省している。 「お父さんには内緒にしておくからね、気をつけなさい」 父はとても気が短く怖い、機嫌が悪い時は、ちょっとしたことでも怒鳴られ、頭を叩かれてしまう。そんな父の怒りを軽減するおまじないは、何かを質問することだった。 「色々調べてみたけどどうしてもわからない」と父に聞くと、怒りの顔は優しい顔に変わり 「そうだ、なんでも疑問に思ったら自分で調べて、それでもわからなければ、こうやって質問をすることは、とても良いことだぞ」と褒めてくれた。 店の中で母とのんびりとしていると表通りからきびだんご屋の太鼓の音が聞こえてきた。いつも三時すぎに店の斜め前の歩道にきびだんご屋の自転車がやってくるのだ。自転車は改造されジョイントされた小型リヤカーにきびだんごの蒸し器を積み込んだ移動型店舗だ。 信吉は店番をする母に 「母ちゃん。きびだんご食べようよ」とねだった。 「そうね、父さんはまだ帰ってこないだろうから、食べようか」と信吉に五十円玉を渡した。 五十円玉は穴の開いていないタイプと穴が開いているのがあり、母から受け取った五十円玉は穴あきタイプ、その穴をきびだんご屋に向け覗いてみると、ハッキリと見えるのが不思議思いだった。つい先ほどあんこ玉を食べていた事など、すっかり忘れ僕の頭の中はきびだんごの世界になっていた。 「五十円全部買っていいの」 「ダメよ、ちゃんとおつりをもらってきなさい」 「はい、でも今日はきびだんごのほかに、わらび餅も買っていい?」 「しょうがないわね、いいわよ。お父さんには内緒だからね」 「わかった、父ちゃんには絶対に言わない」 「早く行かないと、きびだんご屋さんいなくなっちゃうよ」 「はい、じゃー、行ってくる」信吉はきびだんご屋のもとへ走っていった。 「飛び出すんじゃないよ、ちゃんと止まって左右見て行きなさい」そんな言葉を聞いているのか、信吉の姿はすでにきびだんご屋のリヤカーの前にいた。 「おじさん、きびだんご二十円分とわらび餅も二十円分ください」 「はいよ」と作業に入る前に、おじさんに五十円を渡して,十円のおつりをもらった信吉は、おじさんの作業をじっと見ていた。わらび餅は、最中の外側を器として、その中に手際よく冷えたわらび餅を入れ、プラスチック容器の中に入れられた黒蜜をリズミカルにかけ、その上に、きな粉をふるって、小さなスプーンをのせてできあがり。きびだんごは、蒸し器の中から、一人前三本を取り出すと、熱く湿気をもったまま、きな粉の容器の中へ躍らせできあがり。 きびだんごは冷めると味が激減するので、できあがるとすぐに「ありがとう」と受け取り家に戻った。 サラサラのきな粉がふりかけられたきびだんごを嬉しそうにほおばる信吉。大きく開いた鼻の穴からの息がきな粉を吹きとばしていた。 「美味しいね」ときびだんごとわらび餅を食べている二人。 外にいるきびだんご屋さんは太鼓の音を響きさせながら、きつね塚商店街へ吸い込まれるように走らせていった。 夕方仕事から戻ってきた父はあまり機嫌がよくなかった。信吉は子供ながらに、父の気の難しさを把握していた。住み込みの従業員たちもさぞかしこの父の気質には困惑していることだろう。 こんな時は、勉強机に向かい、ぶ厚い百科事典をペラペラとめくり、勉強している姿を父に見せるようにしている。 父は、信吉が勉強している姿を見ると、すぐに機嫌がよくなるのだった。 「とにかく、何か疑問があるときは、調べたり質問することだ」といつも口癖のように言っているからだ。 勉強をしているフリをしている信吉を見た父は 「ほう、何かわからないことでもあるのか」と上機嫌になり信吉の元へときた。 ほっぺと鼻の穴を膨らませながら 「父ちゃん、きつね塚商店街って、なんできつねなの? 百科辞典には書いていないんだ」とっさに思いついたことを聞いた。 「おう、そうきたか、それは百科事典には書いていないな」 「うん、きつねって、とても気味悪いと思ってきつねを引き出したけどきつね塚商店街の項目はないんだ」 「きつね塚商店街の名の由来はだな、中山道沿いにある消防署がここに引っ越してきたときに、狐塚というものがあったが取り壊され、そこに消防署が建てられた。塚を壊したためか、その後、事故や災難が続出、狐の祟りではないかと噂され、それを防ぐために滝野川伏見稲荷がつくられた。この今はなき狐塚があったことからきつね塚商店街と名前が付いたそうだ」 「そうだったんだ、きつねさんも後から来た人に、自分たちの生活の場を壊されてかわいそうだったんだね」 「あっ、それからだけど、来年の四月にはお前も小学一年生だ。これからの返事は、『うん』じゃなく『はい』にするんだぞ」 「うぅん、はい」と元気よく返事をする信吉を見ている父の顔は、優しい父親の顔に戻ってきていた。 一九六三年八月、東京オリンピックまであと一年と少しとなり、商店街を行き来する人々の姿にもワクワク感が感じられていた。 「信吉、信吉」と一階で信吉を呼ぶ父の声が聞こえ慌てて階段を降りると 「信吉、西武デパートが火事になった」 ホーム電気の店内に、店の斜め前にあるせんべい屋のおじさんが来ていて、火事のことを父に知らせにきたようで、確かに先ほどより中山道の反対側にある、消防署から大きなサイレンを鳴らして何台かの消防自動車が出動していた。空には何機かのヘリコプターの音がしている。 火事と聞いて、信吉の頭の中に、デパートの屋上にいる象やペンギンを心配した。 「象さんたち大丈夫かな?」 「何階で出火したのか、まだ詳しい情報はないので何とも言えない」 「ボヤで済めばいいんだが」とせんべい屋のおじさんが言うと、父は 「ちょっと見に行ってみますよ」と駐車場へむかった。 「父ちゃん、僕も連れてって」と信吉は父を追いかけ、車の助手席に乗り込んだ。 中山道を巣鴨方面へと車を走らせ、五百メートル先の明治通りを右折して池袋方面へと向かう車の横を、何台かの消防自動車が大きなサイレンの音を鳴らしながら追い抜いていく。 池袋駅に近くなり、川越街道を過ぎたところで、信吉の目に、西武デパートの七階付近より白い煙がもくもくと出ている光景が目に飛び込んできた。 「お子様ランチを食べるレストランの階あたりだな」と父は信吉に言うと、 「象さんたち、大丈夫かな?」何度も象の心配をしている信吉 「うまく避難誘導してくれればいいけど」 車の中から、前方に見える西武デパートを見ながら走行するが、その先は交通規制がされていた。 車をUターンさせ、走ってきた道をもどり自宅へ帰ってきた二人は、テレビのニュースの映像と、ちょっと前に見てきた光景を思い出していた。 翌日のニュース番組は、西武デパート火災についてかなりの時間放送されていた。 火災は七階の食堂から出火。店内にて消毒殺虫作業が行われていた。その休憩中の作業員がたばこを吸うためマッチをすったところ、噴霧中の殺虫剤に引火、さらに倒れた薬液缶に火が付き延焼が拡大した。この火災では、七人が死亡、一〇〇人以上の負傷者が出てしまった。この日は定休日だったため、防火扉、防火シャッターは施錠してあったため作動されず、消火に十時間近くかかってしまった。 幸いなこと信吉の大好きな象さんなどの動物には被害がなくすんだ。 十二月になりきつね塚商店街の色々なお店も活気ついていた。ただ鈴木燃料店よこにあったパチンコ店が閉店、その跡地に青札堂が開業することになっていた。店舗の工事は突貫工事で行われ一九六四年春にはオープンすると、喜ぶ住民もいれば、商売に影響が出てしまうと心配する店舗もあった。 十二月二十四日は信吉の誕生日、お店の忙しさも落ち着いていた。 「信吉、誕生日は金閣寺を見に行こう」 「えっ、金閣寺」 「大塚にできた金閣寺だよ」 この年に山手線の大塚駅近くに角萬という結婚式場ができ、そのビルの屋上に京都に金閣寺と同じ横十一、七メートル、縦八、五メートル、高さ十二、五メートルの大塚金閣寺ができた。この金閣寺で式を挙げたあと和洋割烹、中華の大小宴会を行える会館は、日本経済の高度成長の波に乗って順風満帆であった。テレビでは「おおつか~かどまん」とコマーシャルが日々流れ、子供たちの間でこのセリフを口ずさむほどの人気になっていた。 家族三人は、大塚へ行く前に巣鴨の地蔵通りで、四のつく日に行われる縁に日を見て歩き楽しんだ。縁日の好きな信吉には嬉しい誕生日プレゼントになった。 一九六四年になった。富谷家のお正月は、三人の従業員が正月休みで帰省しているため。お店の始まる一月七日までは休業になる。 家族三人だけの新年を迎えた。 「あけましておめでとう」父はよく冷えたビール瓶をてに取りうれしそうにしている。 信吉は、栓抜きを手に持ちビールのふたを「スポーン」と開け、ふたの裏面のコルクについているビールの泡をぺろりとなめた。 「大人はどうして、こんな苦いまずいものを飲んでいるの?」 「大人になればこの美味しさがわかるよ」と父とは毎回同じ会話をしていた。 「父さん、数の子」とビールを飲んでいる父に母は、黄色いしなびた玉子寿司のような、卵の固まりをお膳の上に置いた。信吉はその個体を始めてみた。不思議そうに見ている信吉に父は「数の子だ食べてみるか」信吉のアーンと開けた口に放り込んだ。 信吉は粒粒とした初めて食べる触感に不思議な顔をしている。そんな信吉は、急いで自分の部屋へ行き魚図鑑を抱えながら食卓へ戻ってきて 「父ちゃん、魚図鑑何回も見ているんだけど『数』という魚見つからないんだ」 「数? 何だよ、そんな魚は父さんも知らないぞ」 「うそだ、父ちゃんは今美味しいと言って数の子という黄色い卵のかたまりを食べてたよ」 「子を食べているんだから、親はいるはずだ」と鼻の穴とほっぺたを膨らませ言い放った。 そんな信吉をしり目に、父は本棚へ行き、国語辞典を取り出し、パラパラをめくり「ほれ、ここを読んでみろ」と信吉に手渡した。 そこには、「数の子」ニシンの卵が子宝に恵まれ子孫繁栄の願いにつけられた。 「かど」とはニシンのこと、その卵がかどの子→数の子となったと書いてあった. 四月、信吉は家から徒歩七分ぐらいにある。北区立谷端小学校に入学した。店の前では家族三人で記念写真を撮るなど新しい一歩を踏み出した。カメラを構えた従業員の小沢らも皆うれしそうに微笑んでいた。 「店番はわたしが行いますから、家族そろって入学式へ行かれてください」 と小沢が言ってくれたが、父はテレビの修理が途中なので、入学式へは母と信吉二人で向かった。 入学式を終え家に戻ってきた信吉と母に父は 「ちょっと遅い昼になるけど、池袋の西武デパートへ食事に行こう」 「お店どうするの」 「今日はもう配達もないから、小沢君らに店番を頼んだよ」 信吉は、西武デパート七階にある食堂のお子様ランチとクリームソーダが大好きだった。 「父ちゃん、早く行こう」と信吉は店の中を走り回っている。 父の服装を見ると、いつもの作業着を着ておらず、お出かけ用の服装をしていたので、二人の帰りを首を長くして待っていたようだ。 家から七分位で板橋駅に着き、大人二枚と子ども一枚の切符を窓口で購入した父が、母と信吉に分厚い切符を手渡し、三人は駅構内へと入場した。駅員は、切符を切る刃先のないはさみのような道具でリズミカルに動かし、手渡しで受け取った切符を「パチン」と切ってくれた。信吉はこの切符を切る作業と音が大好きで学校帰りに寄り道をして見に来ていた。 改札口を通ると、左手にある便所からは、独特の臭いを吐き出していた。便所の入り口やホームの柱の横などには、白い円柱型の痰壺が置かれている。信吉は以前それが何かわからず壺の近くへ行き中をのぞき込み父から 「汚いから、覗くんじゃない」と注意を受けていた。 その時にその白い容器は痰やつばを入れる壺だと教えられていた。 その時の信吉は、大人はあんな狭い痰壺の入り口につばを吐けるコントロールの良さに感心していた。そしてあれを掃除している人の苦労を子供心に尊敬していた。 「きっと心の優しい人が行ってくれているんだね、人の嫌がる仕事をしてくれる人に悪い人はいないんだ」と鼻を膨らませ両親に話していた。 階段を上りホームにはすぐ電車が来た。茶色の四両編成の赤羽線でドアが開き車内へ入ると、足元の気の床は、ワックスがかけられたばかりで油ぎっていた。 「滑らないよう気をつけろ」と父が言うが、信吉はすでに開いたドアより車内に入って、目の前あった銀色の柱に「ピョコン」とよじ登り電車の天井付近にまで上っていた。野生の猿のような動きで周りにいた乗客はその光景に目を丸くして見ていた。 「こら、公共の場ではそんなことしたら駄目だ」と父は怒り、あきれ顔で信吉を見て周りの乗客に「どうもすいません」と頭を下げていた。 池袋まではひと駅、電車が発車すると、進行方向左側にセメント工場があり、工場の敷地内には、大きな沙山が作られていた。その先右側に東武東上線の線路が並行して見えると「北池袋」の駅があり、その駅を過ぎればすぐ池袋駅に到着する。 池袋駅に着いた家族は西武デパートの七階食堂へと向かった。食堂入り口のサンプルウインドウを見ているが、信吉の注文するのは、お子様ランチとクリームソーダと決まっていた。 入り口で食券を購入しテーブルへ座ると係の人が食券を半分にちぎりオーダーを復唱確認してくれた。父はハンバーグ、母はエビフライを頼んでいた。 料理がくるまでテーブルに置かれたおみくじの機械を見て、信吉は十円を父からもらい、十円玉を投入口にいれると筒状になった紙が出てきた。そこにはいろいろと書いてあったが、その内容よりも、おみくじを買うというわくわく感が楽しかった。 すべての料理がテーブルに運ばれ父は改めて 「信吉、入学おめでとう」と涙腺の緩い父は涙をながしていた。 信吉は目の前にあるお子様ランチにワクワクして、まずチキンライスに立てかけられた日の丸の旗を紙ナフキンにはさみ母に渡した。 「母ちゃん、大切な旗なので、折れないようにしまっておいて」 「はい、はい」と母は信吉から受け取った旗を、テーブルに置かれた紙ナフキンにはさみ、持参したハンドバッグの中に大切にしまってくれた。信吉の顔は実に正直なもので、うれしいときには鼻の穴を大きくふくらましてニコニコしている。 お子様ランチには、エビフライが一尾乗っていたが、大好きなエビフライを先に食べてしまった信吉は、母の注文したエビフライ定食のえびをちらちらと見ていた。 「母ちゃん、エビ食べないの?」あと一尾皿に残っていたエビを欲しそうにみている。 「いいわよ、食べなさい」 「ありがとう、母ちゃん」と子供用ホークをエビフライに突き刺し嬉しそうに自分の手元にあるお皿にのせてエビフライを嬉しそうに鼻の穴をぴくぴくさせた。 食事を終えた信吉は屋上のミニ遊園地に行きたいと父に泣きついた。いつもなら駄目だと怒るのに、 「忘れ物はないか、屋上へ行こう」とテーブルと椅子の下を見ながら、レストランを出て屋上へ向かった。 屋上には、レストラン横の階段を上って出ることができた。階段を上ると目の前にはミニ遊園地が広がる。信吉はここ東京にあるデパートの屋上がこのような夢の空間になっていることが嬉しくてたまらない。 「父ちゃん、象さん見に行こう」と父と母の手を引っ張りながら、象のいるコーナーへと向かった。 このエリアは「なかよし動物園」と呼ばれ、象やペンギンなどが子供や大人を和ませてくれていた。象のコーナーへ着いた信吉は 「父ちゃん、十円ちょうだい」と父の元へ右手をのばした。 「象さんへあげるえさ代なんだ」と象と人間の仕切りカウンターの隅に、リンゴや野菜の入れられた金属のお皿が置かれている。 信吉は父からもらった十円を係員に渡しエサの皿を手にとっていた。 「象さん、おやつだよ」と野菜を象の目の前に差し出すと、長い鼻が信吉の手元に伸びてくる。手元はそのままだが、明らかに腰が引けびっくりした様子を見せる信吉を父と母は嬉しそうに見ていた。 えさをあげ終えた信吉は、いつものように、鼻の穴を大きく膨らませ 「象さんの鼻の中には、手が入っているみたいだ」と器用にえさをつまみ取る鼻について興味を抱いていた。 デパートの屋上から、父は空を見上げ十月には東京オリンピックが開催される 「今年の東京オリンピックの開会式の日には、この大空に航空自衛隊のブルーインパレスが五輪の輪を描くんだぞ」 「十月十日。待ちどうしいね」と信吉も、父の横に並び二人とも腰に手を置き、青空をとても楽しそうにしていた。 十月には、東京でオリンピックが開かれる。まだ半年先のオリンピックなのに、店の前にある中山道には、聖火ランナーが走る時の応援日の丸の旗を作ったり、ポスターをあちこちに張り、きつね塚商店街一丸となって、オリンピックを盛り上げようとしていた。 信吉の通う小学校は徒歩七分ほどの場所にある、きつね塚商店街を抜け、滝野川銀座通りにつきあたり、左に曲がり、焼き魚屋を右に曲がり、また左に歩くのだが、七分で行ける帰り道は、いつも三十分以上かかり帰宅している。多くの人たちはこの通りを当たり前のように銀座通りと言っているが、本当は銀座の上に滝野川をつける滝野川銀座通りが正しい。 銀座通りは旧中山道、江戸時代の五街道のひとつで江戸の日本橋と京都の三条大橋を結んでいた。江戸から数えて一番目の宿、板橋宿があり栄えた宿場町であった。 江戸時代、滝野川は、「滝野川ゴボウ」「滝野川ニンジン」などブランド野菜の産地として有名だった。参勤交代で通る大名たちが、この道沿いで種を買い求めるものが多かったため、全盛期には二十件ほどの種苗店があったこともあり「種子屋街道」と呼ばれていた。 父は滝野川銀座通りのことを今でも種子屋街道と言って話している。 寄り道が好きな信吉はまっすぐ家に帰ることはなかった。そのことを母にもよく怒られていた。 信吉は、小学校の裏手にある公園にたまに来る「カタ屋」が大好きだった。 粘土を詰めて型抜きをしたものに、色々な色を塗り作品を完成させて、それをカタ屋のおじさんの前に並べ品評会を行う。その成績によってポイント券をくれるのだが、型の大きなもの、色をたくさん使ったものが当然のように高得点を得る。小学一年生の信吉のこずかいでは、小さい型しか買えない、もちろん色も買える種類には限度があった。粘土は三回も使用するとパサパサになってしまい、新たに粘土を購入しなければならない。やっとの思いで集めたポイントで大きな型と交換してもらおうと思っていると、カタ屋のおじさんは突然来なくなってしまうのだった。昨年もそうだったと思い出すもあとの祭り。こども心に騙されるという小さな体験をして大人になっていくんだ。と信吉は納得してしまう。 そんなことを、みつ子ねえちゃんに話すと「男の子ってなんでそんなことが面白いの」と女の子はそんなカタ屋のおじさんなどには全然興味を見せなかった。 カタ屋のおじさんがいなくなった公園では、紙芝居屋のおじさんの周りに信吉や子供たちがあつまり人気者になっていた。 紙芝居屋は一年を通して天候が悪くなければ来ている。信吉は、黄金バットの紙芝居が大好きで、途中クイズコーナーがあり、それに正解するとソースせんべいに、梅ジャムやオレンジジャムをつけたものをプレゼントしてくれる。こずかいが少なくなってきた月末には、とてもうれしいコーナーであった。ただある程度商品を買ったりしていないと、紙芝居屋のおじさんも手を挙げても指さしてくれない。そんな大人の世界をこども心に勉強できる紙芝居屋さんだ。先頭で嬉しそうに紙芝居を見ている背中から「信吉くん」と呼ぶ声がして、振り向くとみつ子が手招きをしていた。 「しんちゃん今日は縁日の日だよ」 「そうか、今日は縁日の日だ」 きつね塚商店街では、毎月ゼロのつく日に、商店街の道に縁日が出る。 十日、二十日、三十日と月三回実施される縁日はとてもにぎわい。大人も子供も楽しめる。 旧中山道までの二百mほどの商店街の道で縁日が開催さていた。こどもにとって縁日がある日は遊園地へ行くワクワク感のような思いがあった。あんずあめや、ソースせんべい、バナナのたたき売り等色々な屋台が出店され、信吉はお好み焼きの屋台の店に毎回足を運び、そのお店のメニューの中で一番安い「パンかつ」を購入していた。 食パンを水溶きされた小麦粉につけ、鉄板に落とし、そこに青のりをふりかけ、屋台のおじさんが、両手に持った返しベラで手際よくひっくり返す。ほどよく焦げた面にヘラの角を「チョンチョン」と絶妙な手さばきで硬さを確認。再度ひっくり返すと、青のりがパンのほんのり焦げた面に調和されている。そこへ店自慢のウスターソースをかけて出来上がりだ。 二つ折りにされ紙に包まれたパンかつを手に渡され、口元へ持っていくと、ソース、青のり、蒸れたパンと小麦粉の絶妙なバランスの香りがする。これが実に美味しいのだった。 縁日の日の時間は、あっという間に過ぎていく。次の縁日が來るまで、十日待たなければ、またパンかつを食べれない。縁日が来た日に、母の手を取り屋台のお好み屋へ行き、母に屋台のおじさんが作るパンかつの作業方法を見てもらった。縁日がない日、母にパンかつを作ってもらうためだった。縁日がない日のおやつにと、母にパンかつを作ってもらったが、屋台のおじさんの味を出すことができなかった。 「俺が作ってみる」と父も参戦したが味が違う。材料はほとんど変わらないのに不思議な魔法の粉でも入っているのだろうと子供心に感心していた。 そんな楽しみなパンかつを、今日は食べられるんだ。 信吉とみつ子は紙芝居屋の来ている谷端公園を後にして仲良く手をつなぎながら歩いている。信吉は嬉しそうに鼻の穴を膨らませニコニコしていた。 「僕たちは恋人のように見えるのかな?」 「またバカなこと言って、仲のいい兄弟としか見えないよ」とポコリと信吉の頭を叩いた。 いつものようにとんちんかんなことを言う信吉の手を強く握りしめ、おかっぱ頭のみつ子も嬉しそうに歩いている。 旧中山道口から、きつね塚商店街に入り込むと、六メートルほどの道の片隅では、露店商の人々が縁日の準備をしている。商店街に入りまもなく右手に、昭和初期に建造されたキリスト協会が見え、その前ではバナナのたたき売りのおじさんが開店準備におわれていた。 信吉は、縁日の日には,必ずバナナ売りのおじさんの元へきているのだった。 おじさんは長い棒を「パンパン」と地面にたたきながらの販売の掛け合いをして販売する。信吉はその掛け売りのセリフがとても好きだった。 「おじちゃん、こんにちは」と信吉は素早くバナナ売りのおじさんの元へ走り寄った。みつ子はその素早さに、信吉くんはお猿さんみたいと思い、そういえば、猿の好物はバナナだもねと、ぶつぶつと独り言を言いながら信吉の背中を見ていた。 バナナ屋のおじさんは信吉の新しいランドセル姿をみて 「小学校へ入学したんだなぁ」と言いながら、バナナの房を選び 「これ入学祝いにあげるよ」とひと房のバナナを新聞紙につつんで信吉にくれた。 「おじちゃん、ありがとう」と嬉しそうに頭を下げみつ子と商店街を二人の自宅のある中山道方面へと歩いていった。 みつ子の家の前に着いたところで、信吉はもらったバナナの半分をみつ子に 「半分あげるね」と手渡した。手渡されたバナナをみつ子は嬉しそうに受け取り店の中へと入り、振り向きながら「ありがとう、バイバイ」と信吉に手を振った。 自宅であるホーム電気の前に着いた信吉は、店内に人影が見えたので、中山道沿いの勝手口から「ただいま」と元気よく帰宅した。店にいたのは、おばあちゃんだった。 「おばあちゃん、こんにちは」と信吉はおばあちゃんの元へ駆け寄る。と言うのもおばあちゃんは、来れば必ず信吉に必ずおこずかいをくれるからだ。月末のおこずかいが底をついた時の、おばちゃんの訪問はうれしくて心が踊っていた。 いつもの定番だが、信吉はおばあちゃんの背中にまわり、肩もみするねと小さな手をおばあちゃんの背中にかざし、首下から肩にかけ十分ほどもんだり、とんとんとたたき「おばあちゃん気持ちいい」と鼻を膨らませ聞く「ありがとう」とばあちゃんは、信吉に「今日は縁日だから特別ねと」五百札をくれた。 「おばあちゃん、どうもありがとう」と信吉は、もらった五百円札を「母ちゃん、おばあちゃんに五百円もらった」と報告をした。それを遠巻きに見ていたばあちゃんは信吉を呼び寄せ 「しんちゃん、おせんべい買ってきてくれる」おばあちゃんが信吉にせんべいの購入を頼んだ。 「父ちゃんの好きなみそせんべいだね」 「そうよ、お父さんが大好きなみそせんべいね」 おばあちゃんは、父の好物であるみそせんべいをいつも手土産で持参しているが、この日は違う道を通って来たので購入できなかったようだ。 みそせんべいは、家から二百メートル先の国道一七線に面した「栗山せんべい店」で販売されている。ここの店は信吉の同級生のお店でもある。 きつね塚商店街の入り口から三件先の右手、ホーム電気の左斜め前にせんべい屋があるので、父はなかなか栗山せんべい店には行くことができなかった。 でも栗山せんべい店で販売しているみそせんべいが大好きだった。 信吉は違う意味で栗山せんべい店が好きだった。それはこのようにお使いに出かけると、店番をしているおじいちゃんが、「特別だ」とこわれせんべいの小袋を信吉にくれるのだった。 ホーム電気は、五時に三人の従業員の終業になり、それから八時閉店までは、父と母とで店を切り盛りしている。父はばあちゃんが来ているせいか機嫌がいい、というか気を使っているのだろう。 ばあちゃんは、母のおかあさん。父のおかあさんはもうすでに他界しているので信吉にとってのばあちゃんは一人しかいない。両親の父である二人のおじいちゃんは信吉が生まれたときには、この世にいなかったので信吉にとっては、この世にたった一人しかいないかけがえのないおばあちゃんであった。 母の故郷は静岡県であることから、おばあちゃんが来るときは、母に美味しいお茶を持ってきてくれる。母も静岡からの新鮮なお茶には涙が出るほど嬉しそうで、信吉はばあちゃんが持ってきたお茶を 「僕がいれてあげるよ」と少しひび割れた急須を棚の後ろから取り出してきた。 「信吉、それはひびが入ってきたからしまっておいたのよ、思い出のつまった急須なのよ」と母がその急須を信吉から取り上げようとした時、手が滑り、急須は床に落ちて粉々になってしまった。 その音に何ごとかと駆けつけてきた父が、床に散らばっていた急須の破片を見て一言「急須だけに、万事休すだ」 おばあちゃんは、父のこの一言にクスクスと笑っていたが、急須を落としてしまった当事者の母と信吉は、何でおばあちゃんが笑っているのかわからず。 母はおばあちゃんに「どうして笑っているの」と聞いた。 「お父さんは、急須だけに万事休すって言っていったのよ」 「そうだったのね、思い出の急須だったけど、まあしょうがないですね」 信吉は、意味が分からなく、「万事休す」の意味を父に聞いた。 「もう施すべき手段がなく、すべて終わりである。何ごとも全く見込みがないしようがないことなんだけど、休すと急須を掛け合わせてしゃれてみたんだよ」とキョトンとしていた信吉に説明した。 父はそのあと「今日の夕食は金秀軒でそばを出前してもらおう」と母にいった。 金秀軒は、きつね塚商店街の中ほどにある中華そばやで、信吉は金秀軒のもやしそばが大好きだった。商店街には何件かの中華そば屋があったが、金秀軒のもやしそばの具は、他店とは違い片栗粉でとろりと仕上げられている。 「義母さんは、何を食べられますか?」と聞きながらメモ用紙に書く父は 「信吉、これを注文してきてくれ」と伝えた。 「父ちゃん、隣の肉屋のコロッケ買ってきていい」信吉は、この肉屋のコロッケが大好きだった。よく学校の帰りに、買い食いを楽しんでいた。一個十円で買えるコロッケは子供にとってのちょっとした贅沢な食べ物であったのだが、コロッケを作る工程を見るのも楽しかった。作業台の下段に大きな引き出しがあり、そこにはたくさんのパン粉がいれられ、小麦粉、タマゴと順番に付けられたコロッケをパン粉に放り、それを大きな油のプールのようなフライヤーに落とすのだ。何回見ても飽きがこないのだ。 店を出て金秀軒へ向かう信吉を父が追いかけてきた。 「なんだい、父ちゃん」 「あのな、店主のおじさんに伝えてもらいたいことがあるんだ」 ちょっと言いにくいことなどは、愛嬌のある憎めない社交性のある信吉が言えば、相手も変な気持ちにならず聞いてくれると父は思っていてのお願いだった。 「出前のお兄さんなんだけど、おかもちからラーメンなどを取り出すときに、どんぶりの中に指を入れながら取り出すんだよ、いつもスープに指が入り込んで、それを母さんが気持ち悪がってさ」 確かにそのことは、母から聞いたことがあった。どんぶりに指が入り、スープで指が濡れているから、その兄さんに 「あなたスープに指はいっているわよ」と言ったら 「熱くないから大丈夫です」と答えられ、あきれたわと話していたのを思い出した。 出前のその兄さんは、中学を卒業して修行のためだと、田舎から上京してきた親戚の子供だと言っていた。店主もそこまで丁寧にいろいろと教えられないから仕方なかったのだが、信吉から何気なく店主に言ってもらえば、角も立たたないだろうと、父は信吉にこのことを頼んだのだった。 三十分くらいで、注文したラーメン類が届けられた。母は勝手口の床にお盆を置きそこに、ラーメン類を置いてもらうように頼んだ。父の春雄と信吉は、出前の兄さんがラーメンどんぶりに両手をかざし丁寧にお盆に置く姿を見て 「やったな、信吉。これで母さんも、どんぶりに入る指の心配をしなくてすむ」と二人は喜んでいた。 富谷家の今晩の夕食は、おばあちゃんを囲み、笑いに溢れた時間を楽しんでいた。信吉は時々思いもよらぬことをいう。 「父ちゃんニワトリはなんでコケコッコと鳴くかしっている」と訳の分からないことを言い出した。 「どうしてだ」 「最初は庭にいる鳥だから,にわとりとなずけられ、毎日、庭でかけっこしていて、かけっこするときに、かけっこ、かけっこと走りまわっていたら、いつの間にかコケコッコと鳴くようになったんだって」 「うーん、そうだったのか、そんなことだれから教えてもらったんだ」 「とり屋のぼくちゃんからだよ」とり屋とは、きつね塚商店街の鈴木燃料店前にあるとり屋で、そこに信吉より五歳年上のぼくちゃんと呼ばれている子供がいる。集団登校の時、リーダー役として、信吉、みつ子たちを小学校へ連れていってくれる。信吉とよく遊んでくれるぼくちゃんは優しい兄さんだった。でも時々このような嘘だかほんとだかわからないことを信吉に教え、今日のように信吉は鼻の穴を膨らませながら力説するのだった。そんな信吉を見て、父は嬉しそうに富谷家の食卓は笑いで溢れていた。 信吉は、学校が終わり自宅に着くなり、玄関にランドセルと放り投げ、運動靴と靴下を脱いだ。一九六四年の夏はとても暑く、足が蒸れるからと、昨日母ちゃんが商店街の下駄屋でサンダルを買ってくれた。 そのサンダルを手に取り、足を滑り込ませ「行ってきます」と遊び道具の入ったかばんを持ち玄関を飛び出し、家の近くのお稲荷さんへと向かった。おもちゃかばんの表面には、大好きなのらくろの絵が描いてありその絵を見ながらニコニコしている。 お稲荷さんの境内には、子供たちが、めんこをしたり、ゴムとびをしたりすることができる、狭いが広場と呼んでいる場所がある。 信吉はこの稲荷神社の広場には毎日遊びに来ている。ほかの子供たちも、ほとんどが商店街の店の子供たちで、彼らは店の商売の邪魔になるからとお稲荷さんの広場に集まって来ていた。 先客のこどもたちが、ゴムとびをして遊んでいた。その中にみつ子を見つけた信吉は、「やっこさん」遊びしようと言い、持ってきたおもちゃカバンから、ロウ石をとりだして「やっこさん」の図柄を地面に書き出した。 頭の部分に三角型を二つ書き、その内側に九と十の数字を書く。その下にも長方形の線を書き数字の一まで書いて出来上がりだ。やっこさんが手を広げているような絵になる。 遊び方は一の枠に石を入れ、二から五へは片足で跳び、やっこさんの手を描いた六と七には両足を地面につき、九と十でUターンするといった遊びだが、石をけりながらの微妙なバランスのとり方が結構難しかった。ましてこの日は、おろしたてのサンダル履きでの挑戦だったのでなおさらだった。 そんな時「ヒューッ」と冷たい風を身体に感じ「ジージー」「ミンミン」と鳴いていた蝉の鳴き声がパタリととまった。そして遠くの空から黒いくもがじわじわとこちらに向かってきている。 ポツリとほほに雨が落ちた。その数分後には大粒の雨が、地面にロウ石で描いた「やっこさん」の絵柄が無残にも消え流れ落ちていく。遊んでいたみつ子以外の子らは、蜘蛛の巣を散らすように広場からは逃げ帰ってしまった。 「夕立は三十分も待てばやむんだよ」と信吉とみつ子は、屋根のある賽銭箱前の階段に座り込み、みつ子のポケットに入っていたあやとり遊びをしながら、黒い雲と大粒の雨が過ぎ去るのを待った。時折、黒い空に大きな稲妻が足り、大きな雷音が鳴りみつ子を驚かせる。雷に怯えて身体を信吉に寄り添う姿は恋人同士のようだった。 二十分程で夕立は遠くへ行ってしまい。空も明るくなってきた。 「帰ろうか」と座っていた階段をぴょこんと飛び降りた信吉だったが、履いていたサンダルと足が、先程の雨でぬれていたため、サンダルの足裏部分が「つるり」と滑った。新しいサンダルだったので、地面と接地する溝はしっかりと地面に食いついている。足だけがアッパー部分をすり抜け足首までサンダルが通り抜けてしまった。それに気がついたみつ子は目を丸くして驚いていて、すぐに信吉の足首まで入り込んでしまったサンダルを引き抜こうとしてくれたが、足からサンダルを抜き取ることはできなかった。とてもじゃないが歯が立たないと思ったみつ子は信吉の手を自分の方に置かせ家まで送ってくれた。 「おじさん大変だ」とみつ子は父を呼んでくれ。玄関に何事かと飛び出してきた父は、信吉の足にはまってしまったサンダルを見て腹を抱えて笑っていた。父はバケツに石鹸水を作りサンダルにはまった足を入れ滑り出す方法を考えてくれ、悪戦苦闘をしたが、痛がる信吉の顔をみて諦めろ 「切り落とすしかないな」とぽつりとつぶやいた。 近くにいたみつ子は、切り落とすの言葉に驚いた。 「信吉くんの足を切り落としちゃうの」父は申し訳なさそうに 「そうするしかないんだよ」と言いながら、涙を流しているみつ子に 「サンダル、サンダルだよ、切り落とすのは」と言い直し、二人はその言葉にホッとしていた。 店から大きなカッターナイフを持ってきた父は「足動かすなよ」と言いながら、おろしたてのサンダルのアッパー部分を切り取り、足首にはまってしまったサンダルを足から外してくれた。 新品のサンダルは無残にもわずか一日で命を落としてしまった。寂しそうな顔をしている信吉に父は、空を指さし「きれいな虹が出ているぞ」と呼んだ。 先ほどの夕立が去り、まん丸と輝く太陽が大空にきれいな虹を描がいていた。 翌日、みつ子とその友達たちが信吉の家にきた。 「プリズム探しにいこう」 「うん、じゃなかった。はい」 信吉は、店内で店番をしていた母に「遊びにいってきます」と母からの返事を聞くこともなく、国道一七号線上の横断歩道を渡っていた。 渡った先の右側の緩やかな坂道を下っていくと、たまに遊びに来る八幡神社を右手に見ながら、音無し川方面へと歩いていた。皆は音無し川と呼んでいるが、石神井川とも呼ばれる川沿いに目的のレンズ工場がある。 その工場で不良品などが出ると工場前の川の土手に廃棄していた。その廃棄されたプリズムや虫めがね用のレンズを拾いにいくのだ。 潮干狩りのように、土を掘り出しお目当てのレンズを探す。子供たちにとってとても楽しい作業だった。 この日も四人それぞれ持ちきれないほどのレンズを掘り出しウキウキ気分だった。レンズ類は、ほんの少し傷があったりするが、家に持ち帰り父に見せると「このレンズはなかなか上物だな」と感心していた。 「父ちゃんにひとつあげるよ」 「そうか、では一つもらうよ」と父はぶ厚いレンズを手に取った。 「信吉に面白いものみせてやるよ」とそのレンズとメモ用紙と黒マジックを持ってきた。 紙の中央にマジックで黒く塗りつぶして、父は店の外に出て信吉があげたレンズを人差し指と親指でつまみ、太陽の光をレンズに集め、紙の黒い部分に光線のように当てた。 そして、その光が当てられた部分から、もくもくと煙が出てきたのだ。 「すごい、父ちゃん」 「これは、これから小学校高学年の科学の授業で教わるぞ」 「いい勉強のなったよ」 「信吉、これを見てわかったと思うが、レンズで太陽を見たりしたら絶対だめだからな」 「どうして」 「眼球がこの紙のように焦げちゃうんだよ」 「わぁー、怖い」 「気をつけて遊ぶんだぞ」と言いながら父は店の中へ戻っていった。 その後ろ姿の父に信吉は「はい、気をつけて遊びます」とレンズを持って、自宅近くのお稲荷さんへ走っていった。 この日は広場には誰もいなかったが、このレンズで見たかったものがあった。 アリの巣の様子を研究したかった信吉は、アリの巣の元へ行き、うつぶせになり、ぶ厚いレンズを巣の出入口に近づけ、アリの出入りを観察していた。いつものように鼻の穴を大きくふくらませ、興奮してアリがその鼻息で、飛ばされる姿や、アリの身体と同じくらいの餌を持ちながら巣へ入って行く光景などを観察する信吉は、うつぶせの状態で眠ってしまった。 信吉が眠っている近くに、いつものめんこ仲間がやってきた。その中のひとりが「人が倒れている」と信吉の寝ている姿を指さしている。そこにいる仲間の一人は、信吉の家の近くに住む同級生のマーボーだった。 「あっ、信吉だ」と鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。 少年たちが騒いでいる近くを、たまたま往診帰りの内科医院の先生が自転車で通りかかり「どうしたんだ」とうつぶせに倒れている信吉の姿を見て、びっくりしている。本当は寝ている信吉のまわりには、たくさんのやじ馬が集まってきた。 「前のめりに倒れる病状はかなり危ないんだ、だれかこの子の家を知っているか」 マーボーが素早く手をあげ「僕、家の人呼んできます」とマーボーは信吉の家へすっ飛んでいった。 「おじさん大変だ。信吉くんが広場で倒れている」とあせっていた。 そのころ神社の広場では、やじ馬らが集まり騒いでいた。その声に寝ていた信吉が目を覚まして「みんな、どうしたんですか」と寝起き顔で膝をつきながら起き上がった。 内科医の先生は「身体を動かしたりしたら危険だよ」と信吉の肩を支えている。 その時、マーボーと父が駆けつけてきた。父は青ざめた顔をして信吉を見つめていた。その顔に驚いた信吉は「父ちゃん、どうしたの。アリさんの穴みていたら居眠りしてしまった」と答える信吉に、やじ馬の人々は安心したように一人二人とその場を後にしていった。 「倒れているっていうから心配したよ」 「ごめんなさい」と信吉はみんなに頭を下げた。 そんな信吉を見て父は「お前が死んじゃったかと思ったよ、死んでしまったら、東京オリンピック見れなくなっちゃうぞ」 倒れていると聞いた時には、青ざめていた父は信吉の手を取り家へと向かった。 小学校へ入ってからも信吉は相変わらずのいたずらばかりして毎日をすごしていた。きつね塚商店街は、十月に開催される東京オリンピックのことで、舞い上がっている。 学校から帰った信吉は、ランドセルを玄関に放り投げ、お稲荷さんの広場へと向かった。広場にはみつ子たちが、ゴム飛び遊びを終えどこかへ行くところだった。みつ子は、信吉の姿を見るなり「これから、もんじゃ焼き食べに行くの。一緒に行かない」と信吉を誘ってくれた。 「うん、行く」と言いながら、信吉はポケットに手を入れ、小銭を確認している。五〇円はあるので安心して、みつ子たちの後ろを歩きついていく。 みつ子は、運動会のバトンリレーのように、信吉の手を取り、いつものように仲良く手をつないでくれた。 もんじゃ焼き屋は、信吉の家から百メーター先の中山道沿いにあるが、もんじゃ焼きを食べると、いつもお腹をこわしてしまう信吉は、母からは、もんじゃ焼きは食べたらだめだと日ごろから言われていた。そんなこともあり、家の前を通るとき、みつ子の友達たちの後ろに隠れるように、家の前を通って行った。もんじゃ焼きは、この近辺には、三件あるが、ここのもんじゃ焼き屋が一番安く食べることができた。店は畳で言うと六畳ぐらいの大きさで、焼き台は一台だけしかない。この日は、運よく先客が帰った後ですんなり焼き台に座ることができた。みつ子の友達は三人、信吉とみつ子はちょっと窮屈であったが狭い椅子に並んで座った。信吉にとっては、その方が嬉しくニコニコしていた。 みつ子の友達は「お猿さん笑っているよ」とみつ子をからかっていたが、当の本人は自分のことを言われているとも思わず。何を注文しようか、もんじゃの具を考えていた。 信吉は十円コースのもんじゃ焼きを注文して、ラムネが置かれている冷蔵庫へ行き、ラムネのラベルをじっと見ていた。そしてたくさんあるラムネの中から一本を選び購入した。もんじゃ焼きのテーブルに座りラムネの口元についている紙ラベルをはがし、ラベルの裏面に赤い丸印がついていることを確認して 「おばちゃん当たりだ」と鼻の穴をふくらまし、もう一本のラムネを手に入れた。そのラムネはみつ子にあげた。 「信吉くん、すごいね。なんでも当たりを引いて」 「運がよかったよかったんだ。もうこの冷蔵庫には当たりは残っていないよ」 「信吉くん当たり見えるの?」 「そう、訓練したんだ。えっ、へへ」とみつ子に褒められた信吉は嬉しそうだった。 翌日学校の帰り道で近所のマーボーから蝉取りに誘われた。 信吉が家に帰ると、めずらしく父が店番をしていた。二組のお客さんが店内にいたので、国道沿いの玄関から家に入り信吉は下駄箱横に置いてある虫取り網とかごを取り出して 「父ちゃん、マーボーと蝉取りに行ってくる、あいつ蝉が沢山いる秘密の場所を見つけたんだって」 「どこまで行くんだ」という父の問いかけに 「父ちゃん、クマゼミって知っている」 「南国の方にすんでいるセミだろ」 「うん、そのセミがそこにいるんだって」 「気をつけて行けよ」と言ったが、その声を聞かずに信吉は玄関の外にでていた。 玄関を出るとちょうどマーボーが玄関前に来ていて、二人はマーボーが見つけた蝉の沢山いる秘密の密林へ向かった。 国道一七号線沿いの陸橋から線路内へ降りれる小さな隙間があって、そこは草でおおわれているため周囲からは見えにくく秘密の抜け穴になっている。 そこを二人は、尻滑りで斜面をすべるようにして降りた。下りきったところの右手前方には大きなガスタンクがそびえ立ち、すぐ横は線路で二百メートル先に石神井川を跨ぐ鉄橋がある、そこまでを匍匐前進で進み、途中電車が来ると二人はうつぶせのまま息を忍ばせ電車が行くのをやり過ごした。 電車は池袋と赤羽を往復する赤羽線、焦げ茶色の四両編成の車両がガタゴトと音を鳴らせ走っていく。 鉄橋の手前まで来て右手を見ると小高い丘の様な密林があり、丘の頂上から尾根沿いに大きな木が何本も谷間に向け生えていた。マーボーはそこを指さし 「見ろよ、あそこが蝉の沢山いる密林だ」と誇らしげに信吉を見た。 確かにその密林からは「ミンミン」「ジィジィ」「ツクツク」と蝉の合唱が聞こえる。 その中に「シャ、シャ、シャ、シャ」と聞いたことのない蝉の鳴き声が、二人は顔を見合わせ、クマゼミ? 南の方に住んでいる関東ではほとんど見られないクマゼミの鳴き声だ。信吉はクマゼミの鳴き声のする木に野生の猿のように素早くよじ登っていく、かなりの高さまで行ったところで横に伸びた枝の先に六センチぐらいの大きなクマゼミを発見、静かに網をクマゼミに伸ばしながら枝の上を歩く信吉。 横に長く伸びた太い枝の下は崖になっており、下まではかなりの高さだ。細い枝につかまり野生の猿のように蝉に近づく信吉だったが、突然つかまっていた頭の上の細い枝が折れてバランスを崩してしまった。 その瞬間、足元の枝から靴を滑らし信吉の身体は真っ逆さまに落下した。信吉の歩いていた木の上から下まではビルの四階ぐらいの高さになる。 「父ちゃん、母ちゃん」と叫ぶ信吉 マーボーの信吉と叫ぶ声がだんだん遠のく、身体全体に民家の屋根の上の天窓のガラスがあたり落下していく。スローモーションのように色々な映像が信吉の頭の中を駆け巡る。父がよく言っていたことがあった。 「人間が死ぬ瞬間、事故とかにあったとき、数秒の間に色々な映像を見るんだ」父が話していたことはこれなのかな? と思いながら東京オリンピック見たかったと思った」 そこで映像は終わりガシャンという音とともに耳が濡れる感じでだんだんと意識が遠のいていく。 信吉の身体は民家の天窓を破り、その下で食事をしていたテーブルに大の字に落下した。頭は食卓の冷や麦が入っていたボールにすっぽりはまり意識がない状態。テーブルで食事をしていた家族は箸をもってポカリと口を開けている。テーブルの上には、突き破って砕けたガラスと冷や麦が散乱している、それが信吉の見た最後の映像だったのだろうか。 家族四人で冷や麦の昼食中の家族のど真ん中に落ちてしまっていた。その家族らは、目の前に突然落下してきた子供にびっくりしていた。食事中の家族みんなで横たわっている子供に声をかけるが、もう意識はなかった。すぐ救急車の手配をしてくれ信吉は病院に搬送された。 警察から知らせを受けた父は、受話器を握りしめ、口を噛みしめ「はい」と返事をしながら、声は出せず嗚咽とともにうなずくばかりであった。 両親は従業員の小沢に警察から連絡を受けた病院へと車で送ってもらった。 警察からの電話では、大きな木の上から、枝が折れ真っ逆さまに、木の下にある民家の屋根の天窓を突き破りテーブルに叩き付けられたれ、意識のない状態で救急病院へと搬送されたとのことであった。 病院受付で信吉が入室した病室を聞くと、三階のナーステーション近くの病室。個室ですからと聞かされた母が 「個室だって父さん。かなり重篤なのですかね」 「とにかく姿を見なければ何とも言えない」と二人は小走りに階段を上って病室へと向かった。 息を切らせて駆けつけた病室のベットに信吉の姿はなかった。 整頓されたベットの頭部分の手すりには、富谷信吉と書かれたプレートがゆらゆらと揺れている。先ほどまで使用していたのだろうか、空っぽになった点滴の用具が寂しそうに置かれていた。 「間に合わなかったか」と二人は信吉の温もりのあるベットに顔を押しつけて、号泣した。窓の外では、暗闇の中聞いたことのない「シャ、シャ、シャ」とセミの鳴き声が、父の春雄はその鳴き声を聞き、信吉が捕まえたかった「南国のセミ? クマゼミか」とポツリとつぶやいた。 病室には信吉の両親の嗚咽が大きく響き渡っていた。 「東京オリンピックをあんなに楽しみにしていたのに」 「信吉、たくさん遊んであげられなくごめん」 信吉の両親は信吉の寝ていたベットにこぶしをたたきつけ泣き叫んでいた。 病室に廊下の遠くの方から子供の声が聞こえた。 「先生、弁慶の泣き所って、弁慶が生まれる前はなんて呼んでいたの?」 「それは、なんて言っていたのか先生もわからない」 廊下に響くその会話は、足音とともに病室に近ずいてきた。 病室のベットに頭をつけ泣いていた信吉の両親は子供の声がする方向を見ると、そこに医師と信吉がニコニコしながら病室に入ってきた。 信吉は死んでなんかいなかった。いつもはすぐに叱る父は、信吉に 「大丈夫なのか?」と優しい言葉をかけてくれうれし涙を流している。 「父ちゃん、ごめんなさい」と小さな声で答えた信吉。 父の春雄は一緒に来た担当医に 「先生治療していただきありがとうございました」 「いえいえ、骨折もなく大変丈夫なお子さんでびっくりしましたよ」と医師は感心していた。 「ケガは弁慶の泣き所を擦りむいたぐらいで、ご心配ありませんが、頭を少し打っているので、大事をとって今日一日だけ入院していただき様子をみてみます」と医師が説明をしてくれた。 「父ちゃん弁慶の泣き所って何なの? 先生にも聞いたんだけど」 「それはな、鎌倉時代に活躍した豪傑の弁慶でも、足の脛を攻撃されることが弱点だったから、この脛のことをそう呼んだんだよ」と擦りむいた信吉の脛を軽くたたいた。 「痛いよ、父ちゃん」と痛がる信吉を父、母は安心したように見つめていた。 「父ちゃん 弁慶さんが生まれる前には、ここはなんて呼んでいたのかな」とさっき廊下で先生を困らせていた質問をして擦りむいた脛を触って見せた。 「そんなことは、弁慶が生まれる前にいた人しかわからないよ」と答えるだけだった。 一九六四年十月十日、東京オリンピックの開会式が行われた。 北区滝野川の上空に航空自衛隊「ブルーインパレス」によって五輪の輪が描かれた。五輪の輪をみながら、富谷家の家族三人が肩を寄せ合い青空に描かれた五輪をみて喜んでいた。 「信吉、オリンピック観れてよかったな」 「はい、よかった、日本の選手たちいくつのメダルが取れるかな?」 「開催国だからな、みんな頑張るだろう」 「それよりも、二度あることは三度あるということわざがあるんだ」 「どういう意味なの」 「同じようなことが、二度続けてあった時は、必ずもう一度繰り返される。物事は繰り返されるってことだよ」 「もう危ない事やらないよ」 「絶対だぞ、もうあの場所へ行ったら駄目だからな」 「約束します」と信吉は父と指切りげんまんした。 東京オリンピックが終わり、街中には平穏な日々が戻ってきていた。 この時期「3C」と呼ばれる、自動車、カラーテレビ、クーラーが急速に普及し、信吉の家は相変わらず忙しい毎日だった。 信吉は転落事故後、あの場所への虫取りは一切駄目だと、父から釘を刺されていた。信吉も父の言うことはしっかりと守り安全な公園などで遊ぶようになっていた。ただ虫取りにはそぐわない公園なので、その中で虫を探すのには苦労していた。 小学生二年生になった信吉は、夏休みの宿題である工作の作成に一生懸命だった。夏休みがあと三日で終わろうとしていた。幼稚園時代では考えられないくらいのたくさんの宿題は早々と終わらせていたが、自由研究で制作していた『昆虫の家』はもう一つ物足りなさがあった。昨年蝉取りで転落事故を起こした事で、蝉がたくさん撮れる赤羽線の陸橋近くへ行くことが禁止されていた。 家の周りには多くの昆虫を採集することができないので、通常の昆虫採集標本はあきらめ、少ない虫でも絵になるような段ボールの家を作成していた。段ボールの家の周りに採集した虫とか蝉の抜け殻などを飾って作った家の横の木に、蝉の抜け殻を設置したものの、肝心の蝉はまだ捕まえることができず、段ボールの中には虫の数が少ない。それを補う為、信吉は公園に咲いていたタンポポの花を摘みとり飾り付けしていた。その時だろう綿帽子になっていた綿毛がはじけ飛び、信吉の背中や髪の毛に纏わりついていた。 「しんちゃん、こんなところにいたの」父と車で買い物に出かけていた母が公園にいた信吉に気がついて乗っていた車から降りてきた。 重い食品などの買い物があるときは、店番を小沢らに任せ、父と母は車で滝野川七丁目にある飯田市場へ買い物に来ていた。市場と言って五~六件の個人商店が寄り集まった何でもそろう市場だった。父は日頃から商店街の店を極力利用するよう心掛けていたが、たまにこうして母との買い物を楽しんでいた。 信吉の通う小学校の裏手に市場があり、その横にある公園で少ない虫を探していた信吉は「あぁ、母ちゃん」 「何やっているの? 頭などにタンポポの綿毛がついているわよ。それ、耳に入ると耳が聞こえなくなっちゃうのよ」 「えっ、耳が聞こえなくなっちゃいやだよ。取ってよ、母ちゃん」 「しょうがない子ね、耳を塞いでいなさい」 母は信吉の背中をハンカチを使って綿毛を払いのけた。 「母さん。ありがとう、見てこれ僕の作った虫の家」 信吉はほとんど出来上がっている昆虫の家を母に見せたところ、母は「きゃー」と大きな声をあげ信吉の顔を変な目で見ていた。母の悲鳴で駆けつけた父が虫の家を見て「なんだこれは」とあきれ顔で、車に戻り軍手を手に着用し段ボールの家の周りに、信吉がせっかく飾った虫をつまみ出しごみ袋にいれた。 「信吉、この虫はかめむし、これはダンゴムシと言って、みんなが嫌がる虫だぞ」 「やっと見つけた虫なのに」 「発想は面白いけどな、このカメムシはへっこき虫と言って、とても臭い虫なんだぞ」 父はつまんだカメムシを信吉に確認させた。 クンクンと臭いを確認していた。「わからないよ、僕には臭わないよ」 「とにかくこの虫たちは捨てるぞ」 「わかった、違う虫をさがしてみる」 信吉は虫かごと網を持って公園の奥の方へ行った。公園の木々からはたくさんの蝉の鳴き声が聞こえ、音の聞こえるあたりの幹をじっと見つめ、やっと見つけた蝉だったが、網を近くに差し出したところで逃げられてしまうといった悪戦苦闘をしていた。いつの間にか公園には子供たちが集まっていた。砂場に何かあるのだろうか? 子供たちが「きゃー」「汚い」「えんがちょ付けた」「逃げろ」と騒ぎながら公園の外へ走り出して行ってしまった。最後まで砂場に残っていたがき大将的な少年が、手に持っていた棒で何やら黒いものを突っついていた。公園の外からは、先程逃げていった子供たちから「ネズミの死がい怖いよ」「汚いから、触るなよ」と声がかけられていた。 信吉はその会話のやり取りから、棒で突っついたものはネズミの死がいと察した。皆が去ったあと信吉は砂場に放置されたネズミの死がいの元へ歩いて行った。 信吉はネズミの死がいを見つめながら 「死んでからも、みんなに気持ち悪がれてかわいそうだね」と声をかけ、砂場に忘れ去られたスコップを手に取り、公園の花壇の隅に穴を掘った。穴の周りにはタンポポの花が咲いている。死んでスコップにそっとネズミの死骸を乗せ、掘り起こした穴に埋葬した。 タンポポの花に囲まれた素敵なお墓が出来上がった。信吉はそのお墓に手を合わせ 「遠い未来ネズミがアイドルになる日が来るかもしれないね、その時代に生まれていたら、こんな無下にされることはなかったのにね」と涙ぐんでいた。 信吉が家に帰ると、父からタンポポの綿毛について再度注意を受けた。耳に入るのも怖ろしい綿毛だが、誤飲したりするのも危険なんだ。白いフワフワは綺麗に見えるけど、一本一本も小さな棘がいっぱい付いているから、もし目に入ったら失明することもあると聞かされ信吉は頬を震わせ怖がっていた。 「綿帽子になる前は食べられるんだよね」 「食べれないよ」 「うそだよ、お刺身の飾りに使われているの知っているよ」 「あれは、たんぽぽみたいだけど、食用として栽培されている菊だよ」 「そうなんだ。僕はてっきりタンポポだと思っていたよ」 「たんぽぽもキク科で食用菊と同じ菊の仲間ということになり、似ているのも当然と言えば当然なのかもしれないよな、たんぽぽは花びらが細長い、食用菊は花びらの幅が広めなんだぞ」 「今度、じっくり見て見るよ」 「ちなみに、昔は冷蔵庫のような食べ物を冷凍保存する技術がなかったので、刺身を食べたときの食中毒対策として滅菌効果のあるグルタチオンを含んでる食用菊と一緒に食べていたんだぞ」 「へぇー、父ちゃん何でも知っているんだ。あっそうだ、クラスの友達が菊には耳があるって言っているけど、花弁のどの辺に耳がついているの?」 「それは聞き間違いだよ、よく『私は聞く耳を持っています』といっている人がいるんだよ。クラスの友達はそれを聞いて間違えたんじゃないのか」 「そうだよね、僕も菊に耳が付いているなんておかしいと思っていたんだ」 「そうだよ、菊には耳なんて付いていないからな」 翌日、信吉は稲荷神社へ行くが、遊んでいる子供たちの姿はなかった。夏休みもあと二日で終わってしまうので、みんな宿題に追われているのかもしれない。信吉はみつ子の家に行ってみた。裏口にある呼び鈴を鳴らすと、みつ子が嬉しそうに出てきた。 「今稲荷神社へ行こうと思っていたのよ」 「神社には誰もいなかったよ」 「そうなの、みんな宿題やっているのかな?」 「僕は、七月中にほとんどかたずけちゃったからね」 「しんちゃんは、そういったところは真面目だからね」 「えへっ、褒めてくれるのうれしい、特にみつ子ねえちゃんからだともっと嬉しい」 信吉はいつものように、鼻の穴を膨らましながら喜んでいた。 「しんちゃんプラッシー飲む?」 「うん、いゃ、はい」 「待っててね、今持ってくる」 一人になった信吉は、窓から外を眺めていた。この前まであったパチンコ店が閉店して、その跡地に建てる工事していてみつ子の家が微妙に揺れていた。商店街のおじさんたちは、ここにスーパーができたら、その先にある惣菜等を扱う鈴屋商店の経営が大変になるとも話していた。 信吉も鈴屋には毎日のようにお使いを頼まれ卵等を買いに来ていた。卵は店のおじさんが、ひとつずつ、特殊な電球に卵照らし、血の混ざった卵を取り除き販売してくれた。 「プラッシー持ってきたよ」みつ子はプラッシー一本とグラスを二つ持ってきた。 「ありがとう」「どういたしまして」 みつ子は信吉の花のふくらみで喜んでいてくれる実感をプラッシーとともに味わっていた。 一九五八年に販売されたプラッシーはお米屋さんで販売されていて、普通のジュースよりビタミンCが豊富に取れると飲んでいる家庭があった。ビタミンCを摂取すると風邪にかかりずらくなると美味しい薬のような感覚で健康に気を使っているようでもあった。 「みつ子ねえちゃん、いつも編み物みたいな事しているけど、あれは何なの? どこで売っているの?」 「あれねリリアンといって、斎藤商店で売っているよ、女の子たちの間で流行しているのよ」 「僕でもできるかな?」 「もちろんよ、プラッシー飲み終わったら買いに行く?」「もちろん行くよ」 縄跳びの持ち手のようなものに一センチほどの釘のような突起が円状につけてあるブラスチックでできた器具に耳かきのような棒で糸を編み込んでいくと筒状の器具の下方より蛇のように太い綺麗なひもが出てくる。大好きなみつ子ねえちゃんが賽銭箱横の階段に座りこの器具で黙々と編み込んでいた。信吉は、いつも興味津々でその作業を見ているが、それが何という物なのか照れ臭く聞くことができないでいた。 二人は手をつなぎ斎藤商店まで歩いていた。お店に着くといつものように明るく 「こんにちは」と店内にはいり、そのすぐ後ろに、みつ子はピタリとつき「おばあちゃん、こんにちは」 キョロキョロとしている二人に店番をしていたおばさんが「いらっしゃい、何か探しているの?」 みつ子は嬉しそうに 「はい、信吉くんがリリアンを買いたいと言っているの」 「あらぁ、ごめんなさい。リリアンは昨日から品切れなのよ。入荷にニ~三日かかるそうよ」 信吉はその言葉を聞き、残念そうに駄菓子屋の床を見てしょぼんとしていた。その姿を見ていたおばさんは「梅木駄菓子屋へ行けばあるかもしれないわよ」梅木駄菓子屋はここから歩いて五分位の場所にある。ここの駄菓子屋の前の広場では、高学年の男児がいつもベーゴマ遊びをしている。信吉の年代よりも上の少しガラが悪い男児が多いので、両親からはここの場所へはあまり近寄らないように言われている場所でもあった。それでもこの日はみつ子と二人でリリアンを買いに行く目的があり、二人仲良く手をつないで梅木駄菓子屋へきた。駄菓子屋に入店した二人は店内をキョロキョロと見回し、購入目的のリリアンを探している。普段来ない店なので、商品の配置が違う為戸惑っていた。 「いらっしゃい」と店内奥のもんじゃ焼き台横に座っていたおばちゃんが二人に声をかけた。みつ子はこんにちはと元気よく 「リリアンを買いたいのですが、どのあたりにおいてあります」 「ちよっと待っててね、今出してあげるから」おばさんは二メートル程の、木の棒を手に取り、沢山のおもちゃやお菓子が山積みとされた中へゴソゴソと差し込んでいる。棒の先には人差し指を曲げたような金具がついており、リリアンが薄いボール神に貼り付けてある一式を取ってくれた。 「お嬢ちゃん選んで」と二人に商品を見せてくれるおばちゃん。 「しんちゃん、どれがいい? 好きなの選びなよ」 「なんだ、弟さんが欲しいのね」 「はい、僕弟じゃなく恋人です」 「あら、ごめんなさいね、てっきり兄弟だと思ったわ」 「僕たち将来結婚するんです」 「しんちゃん、バカなこと言っていないで、リリアン選びなよ」 はい、と信吉はボール紙にくくり付けられていたリリアンを指さし 「おばちゃん、これにします。あと、これもください」と信吉が先ほど目にとめていた紙のお菓子を購入した。店を出たところで、今購入した紙のお菓子の袋を開封し、中から二枚の紙を取り出し、その一枚をみつ子にあげた。 「なにこれ?」「食べれないけど、口の中にいれて舐めてニッキの味を楽しむんだよ」 「初めて見たよ」「斎藤商店には最近置いていないんだ。さっきリリアンを探しているときに天井から吊るしていたのを見つけてつい買ってしまったよ」 絵が描いてある紙にハッカ味のする砂糖が塗ってあってニッキの香りと甘さを楽しめる駄菓子屋ならのお菓子である。 二人はペロペロと紙菓子を舐めながら、店に背を向け左方向へ歩き始めた。五十メートル先突き当たりが、二人がよく行くもんじゃ焼き屋の裏口で、表口は国道一七号線が通っている。ここを左に曲がると、よくお使いに来る豆腐屋、その隣に牛乳がある。そして突き当りにみつ子の家、きつね塚商店街にぶつかるのであった。 「わたしの家に着いたらリリアンの使い方を教えてあげるからね」 「ワクワクしちゃうな。すぐ覚えられるかな?」 「しんちゃんならすぐできるようになるよ」 その時、二人の後方より「しんきち」と叫ぶ声が聞こえた。振り向くとマーボーの姿が、その後ろにはあまり関わりたくない不良少年二人がいて、三人は信吉の元へ走って来た。 「クマゼミのいる場所知っているんだって?」 マーボーがこの二人に話してしまったのだろうか? マーボーは地面を見ているだけで、信吉の顔を見ようとしない。 「知っているけど、あの場所へ行くことは禁止されているんだ」 「そんなの関係ないよ、一緒に行ってクマゼミ捕まえてくれよ」 「僕は行かないよ」 「行こうぜ、お前とマーボーが行けばクマゼミたくさん捕れるからな」 その時信吉は、みつ子に先ほど買ってきたリリアンを預け「先に帰っていて」と告げた。みつ子は信吉がら受け取ったリリアンと紙菓子を大切に抱え、自宅である鈴木燃料店の方向へ歩き始めた。みつ子の後ろ姿が自宅前に到着するのを確認して、信吉は、右手巣鴨方向へ逃げていった。それを追いかける二人とその後ろを走るマーボー。 みつ子は自宅へ帰り、信吉の来るのを待っていたが、一時間を過ぎても信吉の訪問はなかった。その後、家の外が複数のサイレンの音が鳴り響き騒がしい、きつね塚商店街の店主たちが集まり何やら大騒ぎしている。みつ子は聞き耳をたて、その話を聞くと 「赤羽線の列車に子どが衝突した」 「子どもの怪我は? 命は大丈夫なのか?」 「それが……」 「その子どもはどうした」 複数人の子どもが音無し川の上に架けられた鉄橋を渡っていた時、一人の子どもが電車が近ずいて来るのに恐怖からだろうか、線路の上に棒立ちになってしまい、そのまま電車に衝突してしまった。その子どもは音無し川に転落してしまい、消防や金城の消防団員らで川の中を捜索中、事故にあわなかった他の少年はどこかへ逃げてしまい、落ちた少年の身元などはわかっていない。電車の運転手が少年と衝突したとき、川へ転落する姿を見ていたので、怪我をした少年が川に落ちたことは間違いない。その話を聞いていたみつ子は、先ほどの信吉の事を思い浮かべ、もしかしたら? と不安な気持ちになっていた。そしてみつ子の父に先ほど信吉の身に起きたことをすべて話した。 「それは大変だ、信吉くんのお父さんに知らせないと」 みつ子と父は信吉の自宅へ行き、すべての経緯を信吉の家族に話した。信吉はみつ子と別れた後、自宅には戻ってきていない。二時間以上も帰ってきていない。信吉の両親は最悪のケースを考えているようで落ち着かない様子だった。不安な空気が立ち込めていたところに色々な情報が飛び込んでくる。その時、ホーム電気店内に駆け込んできた金秀軒の主人が「男の子二人が警察に保護された」と情報を持ってきた。ヤマトマサアキ、カナザワタダシと名前はわかったが、恐怖心の為か、誰が電車にぶつかり川に転落したか、あと他に仲間がいたのかなどを聞いても答えられる状態ではないようだ。 「ヤマトマサアキってしんちゃんと仲良しのマーボーと呼んでいる子だよな」 「ヤマトテーラーの次男坊と同じ名前だな」 みつ子はその話に入り込み 「そうなの、わたしとしんちゃんが梅木駄菓子店から出て、家に向かっている時、ヤマトくんと悪そうな二人がしんちゃんを強引に蝉取りに連れて行こうとしていたの」 「しんちゃんは連れていかれちゃったのか?」 金秀軒の主人は、信吉の父の前で、平気で心配するような事を話していた。 「しんちゃんは、先に家に帰ってと言ってくれたの、そのあとどうなったか」 「じゃぁ、電車に衝突した子供は、しんちゃんなのか?」 「おじさん、ダメよしんちゃんのお父さんが心配しているんだから、そんなこと言わないで」 店の奥でその会話を聞いていた信吉の母は目頭を押さえていた。 「信吉には、あそこの場所へは行っては駄目だと、口を酸っぱくして言っていたのに」 信吉の父も目頭を押さえ店の外へ出て行った。それを追うように店内いたみつ子らも店 の外へ出た。中山道沿いの歩道には商店街の店主たちが、二百メートル先の赤羽線の線路がある方向を見ながらなんやかんやと電車事故について話していた。 そんな現場の情報が次から次と入る中で、 「子どもの死体が見つかった」と消防団の法被を着た青年が走ってきた。 息を切らしながら話す内容は、落下した鉄橋から四百メートル先の観音橋の下にうつぶせになって浮いていた少年を発見、すぐに引き上げたが、すでに息がなくその場で死亡が確認された。ただ顔や体がパンパンに腫れ上がり、現在身元の確認ができない。少年に心当たりがある親族を探している状況だということで、消防団の青年がもしかしたら? と信吉の両親に確認依頼に来た。信吉の両親は傷心し歩道にしゃがみ込んでしまっていた。従業員の小沢が両親の元へきて 「信吉くんじゃないですよ、あそこへは絶対に行かないと言っていましたから」 「そうだと良いのだが……」目に涙を浮かべながら小沢と観音橋へと確認に行こうとしていたところへ、西巣鴨方面から歩道を台車を押しながら歩いてくる人がこちらに向かい手を振っていた。丸い黒縁メガネをかけた老人はどこかで見たことが、小沢が「栗山せんべい店のおじいちゃんですよ」と春雄に告げた。 「こんな時に何の用なんだろう」 「何か荷物を台車に積んでいますね」 「何を運んでいるのだろう」 台車はホーム電気の勝手口の前に止められ、栗山せんべい店のおじいちゃんがすまなそうな顔で「いゃー、遅くなってごめん、ごめん」と信吉の両親に頭を下げている。 「あのぅ、何も注文していませんが」 「注文なんて、そうじゃないんだよ、段ボールの中を見て欲しい」と信吉の両親に告げた。二人は恐る恐る段ボールの中を覗いてみると、そこには信吉のスヤスヤと眠る姿があった。 「これって、どういうことですか?」 「信吉くんが悪い連中に追われて、うちの店に逃げてきたんだよ、わしはその時、店の中に隠れろと信吉くんを招き入れたんだ」 栗山せんべい店に逃げ込んだ信吉は、せんべいの香りに酔いしれ、焼き場横の畳部屋でスヤスヤと寝入ってしまった。栗山のじいさんがせんべいを焼き終えてから、信吉を起こしてみが、深い眠りに入ってしまい、全然起きなくてこんな時間になってしまった。仕方なくバスタオルで包み込んだ状態で段ボールの中に入れられ自宅へと運ばれてきた。 信吉の両親は段ボールの中で眠っていた信吉の顔を優しく包み込み 「信吉、起きて」と母が呼びかけると、ゆっくりと目を開きキョトンとしている。 「父ちゃん、母ちゃんどうしたの? ここどこ?」 「お前�

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