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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

エアウイング

掲載日:2026/06/17

初短編です。

 第1章:銀翼の初陣

 ジェット燃料の匂いと、張り詰めた静寂。それが千歳基地、第2航空団のアラート待機室を支配する空気だった。 甲斐守かい まもる二等空尉は、フライトスーツに身を包んだまま、パイプ椅子に深く腰掛けていた。壁のデジタル時計が刻む秒針の音が、妙に大きく鼓膜を叩く。「緊張しているな、甲斐」 向かい側でコーヒーカップを傾けていた編隊長の真壁まかべ一等空尉が、鋭い目を少しだけ和らげて声をかけてきた。真壁は百戦錬磨のベテランだ。その顔には、いつ鳴るかもわからない警報を待つ者の、特有の落ち着きがあった。「……いえ。万全です」 甲斐は短く答えたが、膝の上に置いた手袋を握る拳には、わずかに力が入りすぎていた。 航空自衛隊の戦闘機パイロットになってから、訓練は嫌というほど積んできた。F-15J戦闘機の操縦なら、身体の一部のように馴染んでいる。しかし、ここにあるのは訓練ではない。日本の領空を守るため、実弾を装填した機体とともに、24時間体制で待機する「本物の最前線」だった。 ――ウーーー、ウーーー、ウーーー。

 突如、待機室のスピーカーから、鼓膜を裂くようなサイレンが鳴り響いた。 赤い回転灯が激しく部屋を照らす。それと同時に、機械的なアナウンスが室内に轟いた。

『スクランブル、スクランブル。千歳、F-15、2機、速やかに発進せよ。方位1・8・0、高度3万。ターゲット、北の空より接近中』「来たぞ。甲斐、遅れるな!」「了解!」 椅子を蹴るようにして立ち上がり、二人は部屋を飛び出した。 通路を駆け抜け、重い防火扉を押し開けると、冷たい北海道の空気が肌を刺す。ハンガーの中では、すでに整備員たちが血相を変えて動いていた。主翼の下に白く輝く空対空ミサイル(AAM)が、これが訓練ではない現実を突きつけてくる。 タラップを駆け上がり、F-15Jのコックピットへ滑り込む。 ヘルメットを被り、ハーネスを締め、無線を接続する。整備員が力強く親指を立ててタラップを引いた。

「キャノピー・クローズ」 重厚なアクリル製の天蓋が閉じ、外の音が遮断される。代わりに、自身の荒い呼吸音と、無線のノイズが耳を満たした。「エンジン・スタート」 スイッチを押し込むと、背後からツイン・ターボファンエンジンが咆哮を上げ始めた。キーンという高い金属音が、やがて大気を震わせる重低音へと変わる。

『千歳コントロール、こちらタイガー01(マルひと)。タキシングを開始する』 真壁の冷静な声が無線から流れる。甲斐もすぐに続いた。

『同じくタイガー02(まるふた)、追従します』 2機のF-15Jが、巨大な銀の鳥のように格納庫から滑走路へと這い出ていく。 目の前に広がるのは、まっすぐに伸びたアスファルトの滑走路と、その向こうに広がる灰色の空。

『タイガー編隊、離陸を許可する。フォーメーション・テイクオフ』

『タイガー01、了解。行くぞ、甲斐。アフターバーナー、オン!』 真壁の機体が先行し、凄まじい爆音とともに滑走路を疾走し始める。

 甲斐もスロットルレバーを限界まで押し込んだ。背中を座席に強烈に押し付けられるG(重力加速度)が襲う。エンジンの排気口から巨大な炎のマッハダイヤモンドが吹き出し、世界が急速に後ろへと流れていった。 時速300キロ。機首がふわりと浮き上がる。 次の瞬間、2機の戦闘機は重力を振り切り、北の空へと垂直に近い角度で突き抜けていった。 雲を突き抜けた先には、どこまでも深いコバルトブルーの空が広がっていた。だが、甲斐の心にそれを美しいと感じる余裕はなかった。

『タイガー02、こちら管制バッジ。ターゲットは国籍不明機。レーダーロストせず、真っ直ぐこちらへ向かっている。速度450ノット。現在の進路を維持せよ』「タイガー02、了解……」 甲斐は操縦桿を握り直し、計器の画面を見つめた。緑色のレーダースクリーンに、点滅するひとつの光点ターゲットが映し出されている。 その光点は、真っ直ぐに日本の領空を目指して、冷たいロシアの空から南下してきていた。 これが、甲斐守にとっての、初めての空の戦いの始まりだった。 (第1章・了)

 第2章:冷たい空への上昇F-15J戦闘機のツイン・エンジンが叩き出す圧倒的な推力は、甲斐守の身体を容赦なく座席へと押し付けていた。耐Gスーツが自動で膨らみ、下半身を強く締め付ける。脳から血液が落ち、視界が狭まる「ブラックアウト」を防ぐための機構だ。甲斐は呼吸を意識的に短く強く吐き出しながら、操縦桿を握る右手に神経を集中させていた。 厚い雲の層を突き抜けた瞬間、視界が爆発するように開けた。 下方に広がるのは、どこまでも平坦に続く純白の雲海。そして頭上には、地上のそれよりも遥かに深く、宇宙の闇を予感させるコバルトブルーの空が広がっている。太陽の強烈な光がアクリル製のキャノピーに反射し、甲斐のヘルメットのバイザーを黄金色に染めた。 美しい世界だった。しかし、ここには生命を拒絶するマイナス五十度の極寒と、希薄な空気が満ちている。そして何より、この美しさの向こうから「脅威」が迫っていた。

『タイガー02、こちらタイガー01。フォーメーションを維持せよ。これより巡航速度に移行する』 無線から響く真壁一等空尉の声は、まるで書斎で本でも読んでいるかのように平坦で、冷静だった。

『タイガー02、了解。フォーメーション・ルーズ(間隔維持)』 

 甲斐はスロットルレバーをわずかに引き、アフターバーナーをカットした。機体の加速が落ち着き、マッハ〇・九の巡航速度へと落ち着く。すぐ左前方には、太陽の光を浴びて鈍く輝く真壁のF-15Jが、まるで一卵性の双子のように並んで飛行していた。主翼の下に懸吊された実弾のミサイルが、時折、翼のロールに合わせて白くきらめく。

『タイガー編隊、こちら千歳管制バッジ。ターゲットの最新データ。方位〇・二・〇、速度四百五十ノット、高度二万八千。依然として我が国の領空へ向けて直進中。接触まであと三分』 耳の奥で、地上のレーダーサイトからの音声が響く。「あと、三分……」 甲斐はヘルメットの酸素マスクの奥で、小さく生唾を飲み込んだ。 コックピットの正面にある統合ディスプレイ(APG-63V1レーダー画面)に目を落とす。緑色のスクリーンの上部、そこには確かに、一つの光点が点滅していた。 訓練ではない。あの光点の中には、実弾を積み、国境を越えようとしている本物の「敵」がいる。 甲斐の脳裏に、航空学生時代の教官の言葉が蘇った。

『戦闘機パイロットってのはな、空に上がれば一人だ。誰も助けちゃくれない。レーダーの点を見るな。その向こうにある、鉄の塊と人間の息遣いを感じろ』 

 当時の甲斐には、その言葉の本当の意味が分からなかった。ただ計器の数値を合わせ、シミュレーターの敵を撃破すれば合格だと思っていた。だが、今は違う。自分の指先ひとつ、操縦桿のわずかな角度ひとつに、国家の安全と、自分自身の命がかかっている。 ジワリと、手袋の内部が嫌な汗で湿っていくのが分かった。心臓の鼓動が、ツイン・エンジンの振動とシンクロするように、速く、激しくなっていく。

『甲斐、呼吸が荒いぞ』 

 突然、真壁の声が無線に割り込んできた。

『あ……すみません。少し、緊張を』

『気にするな。最初のスクランブルでビビらない奴は、ただの命知らずか馬鹿だ。お前は馬鹿じゃない。だから、その恐怖をそのまま集中力に変えろ』 真壁の言葉は短かったが、甲斐の強張った肩の力を抜くには十分だった。

『了解です、班長。……前方に視認ビジュアルを試みます』『よし。目の前の雲の切れ間、時計の十一時の方向だ。目を凝らせ』

 甲斐はバイザーの位置を調整し、キャノピー越しに北の空を見据えた。 まだ何も見えない。あるのは、吸い込まれそうな青と、白い雲の境界線だけだ。しかし、レーダーの距離表示は確実に縮まっている。 三十マイル、二十マイル、十五マイル――。

『タイガー編隊、ターゲットが領空外側線アウター・ラインを越えた。これより対領空侵犯措置に移行せよ』 地上からの指令が、冷酷に通告された。 それは、相手がこれ以上進めば「領空侵犯」になるという、最終秒読みの開始を意味していた。 その時だった。 はるか前方の雲海の上、きらりと光る小さな金属の破片のようなものが、甲斐の網膜に引っかかった。「――見えた」 それは最初はゴマ粒ほどの大きさだったが、相対速度マッハ一以上の猛烈なスピードで、またたく間に巨大なシルエットへと変貌していく。 灰色の迷彩塗装。長く伸びた主翼。そして、空気吸入インテークの禍々しい形状。 間違いない。ロシア空軍の主要戦闘機――Su-35、フランカーE。 地上のモニターの中の「点」が、ついに命を持った「鉄の凶器」として、甲斐守の目の前に現れた瞬間だった。(第2章・了)

 第3章:赤い星との対峙

 灰色の巨体が、甲斐の視界のすべてを覆い尽くさんばかりに迫ってきた。 ロシア空軍、Su-35「フランカーE」。機動性と格闘戦能力において世界屈指とされる、双発の大型戦闘機だ。その不気味なほど洗練された曲線美を持つ主翼の下には、何発もの空対空ミサイルが牙を剥くように搭載されている。

『タイガー02、こちらタイガー01。左から回り込んでライト・ウィング(右翼側)につけ。俺がレフト・ウィング(左翼側)からコンタクトする』

『タイガー02、了解!』 甲斐は操縦桿を右に傾け、機体を滑らかにロールさせた。F-15Jの鋭い機首が、ロシア機の右側へと回り込んでいく。 時速一千キロを超える超高速の世界。わずか数メートルの操作ミスが即座に空中衝突ミッドエアー・コリジョンを意味する極限状態の中、甲斐は慎重にスロットルを調節し、ロシア機と完全に「速度」を同期させた。 距離、およそ三十メートル。 すぐ隣を飛行するSu-35の垂直尾翼が、甲斐の目に飛び込んできた。そこには、赤地に白の縁取りがされた「赤い星」――ロシア軍の国籍マークが、鮮烈に描かれていた。 さらに目を凝らすと、アクリル製のキャノピー越しに、ロシア人パイロットのヘルメット、そして緑色のフライトスーツ姿までもがはっきりと視認できた。相手は微動だにせず、真っ直ぐに前を向いて飛行している。まるで、すぐ横に自衛隊の戦闘機がいることなど、最初から気にも留めていないかのように。

『千歳管制、こちらタイガー01。ターゲットと目視接触ビジュアル。機種はSu-35、機番は〇一二。これより、第一段階の通告を開始する』 真壁の冷徹な無線が地上へと飛ぶ。

『千歳管制、了解。タイガー01、国際緊急周波数での警告を許可する。相手に引きトリガーを引かせるなよ』 ピリピリとしたノイズが、甲斐のヘルメットのレシーバーに混ざる。真壁が国際緊急周波数ガード・チャンネルに無線を切り替え、英語での警告を開始した。

『Unknown aircraft, this is Japan Air Self-Defense Force. You are approaching Japanese airspace. Alter your course immediately.(国籍不明機に告ぐ、こちらは航空自衛隊である。貴機は日本領空に接近しつつある。速に進路を変更せよ)』 空を切り裂くような真壁の警告。しかし、ロシア機からの応答はない。 Su-35は、まるでレールの上を滑るかのように、一ミリのブレもなく北海道の本土方向へと機首を向け続けている。「……無視しているのか?」 甲斐の心臓が、再び激しく鐘を打ち始めた。 冷戦時代から続く、いわゆる「東京急行」と呼ばれる挑発飛行か。自衛隊のスクランブル能力や、レーダーの周波数を探るためのデータ収集。いつもなら、この警告を数回繰り返せば、相手は不敵な笑みを浮かべるようにして機首を北へと戻すはずだった。 だが、今回は何かが違った。 計器のナビゲーション画面の上で、日本の「領空線(国境)」を示す赤いラインが、恐ろしい速度で自機へと迫ってくる。

『ターゲット、領空線まであと三十秒。……二十、十九……』 地上からのカウントダウンが始まった。この線を一歩でも越えれば、それは「領空侵犯」という、国際法上の重大な主権侵害となる。

『Unknown aircraft! Turn left, or you will be intercepted!(進路を左に変えよ、さもなくば対領空侵犯措置を行う!)』 真壁の警告の声に、初めてわずかな険しさが混じった。

『――十、九、八……』 甲斐は操縦桿を握る手袋の中で、親指を武器管制スイッチへと滑らせた。いつでも安全装置マスターアームを解除できるよう、心の準備をする。もし相手がこのまま我が国の領土へ突入し、攻撃の姿勢を見せたら――自分は、本当にこの引き金を引くことになるのか。初めて直面する「本物の戦争」の可能性に、甲斐の全身から血の気が引いていく。

『……三、二、一。――ターゲット、我が国領空に侵入! 領空侵犯発生!』 地上の管制官の叫びと同時に、甲斐のコックピット内で「領空侵犯ボーダー・イン」を示す警告灯が赤く点滅した。 その瞬間、甲斐の目の前で信じられない光景が起きた。 真横を飛んでいたロシア機のパイロットが、ゆっくりとこちらを向いたのだ。バイザーの奥にある、青い目。その目が、何事かを激しく訴えかけるように、甲斐を真っ直ぐに見つめていた。 そしてロシア機は、警告を完全に無視したまま、さらに速度を落とし、まるで力尽きた鳥のように高度を下げ始めたのだ。(第3章・了)

 第4章:異常な挙動

「タイガー01より各機、および千歳管制。ターゲットは領空侵犯を維持したまま、進路を維持。高度を二万五千まで下げている!」 真壁一等空尉の鋭い声が、緊迫した無線を支配した。 領空を侵犯した航空機が、さらに高度を下げて日本の本土へと近づいている。これは防衛的観点から見れば、自衛隊の基地や民間の都市への「自爆テロ」や「強襲」をも予感させる、最悪のシナリオの一つだった。『千歳管制よりタイガー編隊。防衛省、および航空総隊司令部より緊急指示。――全機、マスターアーム(武器安全装置)を解除せよ。ターゲットがこれ以上の敵対行動を見せた場合、撃墜も辞さない構えをとれ』 レシーバーから流れたその言葉に、甲斐の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。「マスターアーム、解除……」 甲斐は震える右手の親指を動かし、操縦桿の上部にある赤いカバーを跳ね上げた。その奥にあるトグルスイッチを上へと押し込む。 ――カチリ。 小さなプラスチックの音が、コックピット内で妙に大きく響いた。 正面のヘッドアップディスプレイ(HUD)の表示が切り替わる。『SIM(訓練)』の文字が消え、実弾の空対空ミサイル(AAM-5)が発射可能状態であることを示す『ARMED』の文字が、不気味な緑色の光で点滅を始めた。 あとは、操縦桿の裏側にあるトリガーを引くだけで、数億円のミサイルが前方のロシア機を木っ端微塵に破壊する。『甲斐、敵機から目を離すな! 相手が旋回してこちらに機首を向けた瞬間、あるいはミサイルの誘導レーダー(ロックオン・シグナル)を発してきたら、迷わず撃て!』『タ、タイガー02、了解……!』 甲斐は必死に声を絞り出したが、視界は極度の緊張で狭くなっていた。喉はカラカラに乾き、ヘルメットの中の汗が目に入ってしみ渡る。 自機と並走を続けるロシアの最新鋭戦闘機、Su-35。 しかし、トリガーに指をかけた甲斐の目は、ある「違和感」を捉えていた。 戦闘機が敵地へ突入し、攻撃を仕掛けるのであれば、速度を上げて有利な高度ポジションを取るのが鉄則だ。だが、このロシア機は先ほどから速度をさらに落とし、今や時速六百キロ近くまで減速している。戦闘機としては、墜落ストールの一歩手前と言ってもいいほどの低速だ。 さらに、機体の後部にあるツイン・エンジンの排気ノズル(ノズル・ペタル)が、不規則に開閉を繰り返していた。アフターバーナーの激しい炎は見えず、時折、黒い不完全燃焼の煙が細く吹き出している。「……おかしい」 甲斐は呟いた。「タイガー01、こちら02! ターゲットの挙動が異常です! 速度が低下しすぎています。これは攻撃体勢ではなく、機体に重大なトラブルが発生しているか……あるいは、戦う意思そのものがないように見えます!」『バカ言え、甲斐! 敵の罠かもしれないだろ!』 真壁の厳しい叱責が飛ぶ。『領空を侵犯している以上、いかなる言い訳も通用しない。相手が機首をこちらに振ったら、その瞬間に俺たちの命はないんだぞ!』 真壁の言うことは正論だった。空の戦いは一瞬で決まる。一瞬の油断が、自衛隊の最新鋭機とパイロットの命を奪う。 だが、甲斐は諦めきれなかった。 もう一度、キャノピー越しにロシア機のコックピットを見る。 すると、相手のパイロットが突然、右手を大きく上げたのが見えた。彼はヘルメットを被った頭を激しく横に振り、自衛隊機に向けて、まるで「撃たないでくれ」と懇願するかのように、何度も両手を振っている。 さらに、相手の主翼のフラップ(揚力を高める板)が限界まで下げられた。これは戦闘を行う姿勢では絶対にない。着陸を行うための姿勢だった。『――タイガー編隊、こちら千歳管制! ターゲットの無線機から、国際緊急周波数にノイズ混じりの発信を感知! 英語だ、解析中!』 地上の管制官の声が、上ずった音で無線に割り込んできた。 甲斐は耳を澄ませた。ザーザーという激しい大気電熱のノイズの向こうから、信じられないほど必死な、若い男の声が聞こえてきた。『……Mayday, Mayday! This is Russian Air Force... No ammo, no fuel! Repeat, no fuel! I am not an enemy!(メーデー、メーデー! こちらロシア空軍……弾薬なし、燃料なし! 繰り返す、燃料がない! 私は敵ではない!)』 その言葉を聞いた瞬間、甲斐の心臓が跳ね上がった。「燃料がない……? 弾薬も……?」 ロシアのパイロットは、戦いに来たのではなかった。彼は命からがら、何かから逃れるようにして、この北の空を越えてきたのだ。(第4章・了)

 第5章:亡命のシグナル

『……I want to land... in Japan. Request political asylum!(日本に着陸したい。亡命を要求する!)』 ノイズまじりの無線から聞こえたその言葉は、コックピット内の空気を凍りつかせた。「亡命……」 甲斐守は、酸素マスクの奥で息を呑んだ。 ただの領空侵犯ではない。これは国家間の重大な政治問題、いや、国際事件そのものだった。かつて冷戦時代、ソ連の最新鋭戦闘機ミグ25が函館空港に強行着陸した事件の歴史が、一瞬にして甲斐の脳裏をよぎる。それが今、自分の目の前で起きようとしていた。『タイガー01より千歳管制! 聞いたか! ターゲットは亡命を要求している。燃料が枯渇寸前だ。指示をくれ!』 真壁一等空尉が地上へ叫ぶ。しかし、地上の管制バッジシステムからの返答はすぐには来なかった。当然だ。一パイロットや現場の判断で受け入れていい事態ではない。防衛省、総理大臣官邸まで巻き込んだ超法規的な政治判断が必要になるからだ。

『千歳管制よりタイガー編隊。現在、上層部が対応を協議中。それまでターゲットを領空外へ押し出すか、あるいは……現状を維持せよ。許可が出るまで着陸の誘導は認められない』 無情な命令だった。国家としては当然の保留。しかし、空の上には「待つ」ための時間など残されていなかった。 ガガッ、と不快な金属音が甲斐の左側から聞こえた。 隣を飛ぶSu-35の右側エンジンから、一瞬、激しい黒煙が吹き出した。直後、そのエンジンの排気口ノズルが完全に閉じる。――片肺シングル・エンジンになった。燃料が完全に底を突きかけている証拠だった。 ロシア機の機首が、ガクンと下を向く。パイロットが必死に操縦桿を引いて機体を立て直そうとしているのが、キャノピー越しに見える。

『Mayday... Engine failure. No time... Please...(メーデー、エンジン停止。時間がない、頼む……)』 ロシア人パイロットの無線は、今にも途切れそうなほど弱々しかった。 このまま政府の判断を待っていれば、彼は北海道の山林か、あるいは民間人の住む街の上に墜落することになる。それは、この若いパイロットの死を意味するだけでなく、地上の人々をも巻き込む大惨事になることを意味していた。

「班長! 待っていられません!」 甲斐は無線を開いた。自分の階級を忘れ、必死に言葉を叩きつける。

「相手の燃料はもう数分も持ちません! 政治がどうであれ、このまま見殺しにすれば墜落します。民間人に被害が出るかもしれない。僕が……僕が彼を誘導します!」

『甲斐、規律を破る気か!』

『規律より、命を守るのが僕たちの仕事のはずです!』 一瞬の静寂。無線のノイズだけが二人の間に流れる。 やがて、深く重い溜息とともに、真壁の声が響いた。

『……千歳管制、こちらタイガー01。ターゲットの墜落による地上被害を防ぐため、緊急措置として最寄りの滑走路へ誘導する。責任は俺が持つ』「班長……!」

『甲斐、お前が前に出ろ! 相手の風よけ(ウェザー・ビジョン)になって、千歳の滑走路まで引っ張っていけ!』

『了解!』 甲斐はスロットルを押し込み、F-15Jの機首をロシア機の正面へと回り込ませた。 相手の視界のど真ん中、およそ五十メートル前方に自機を位置づける。そして、甲斐は機体をゆっくりと左右に傾けた。 ――ロッキング・ウイング(翼を揺らす)。 それは航空国際ルールで「我に従え(Follow me)」を意味する、最大のシグナルだった。 甲斐はヘルメット越しに、バックミラー(バックビュー・ミラー)を確認する。 片方のエンジンを失い、フラフラと高度を落としていたロシア機が、甲斐の銀翼の動きに応じるように、ゆっくりと機首をこちらへ向けた。

『I see you, Tiger... Thank you...(見えている、タイガー……ありがとう)』 ロシア人パイロットの声が聞こえた。「しっかりついてきてくれ」 甲斐は操縦桿を握る手に力を込めた。言葉は通じなくても、二人の間には今、確かに「生きて帰る」という一つの目的が共有されていた。 雲の切れ間から、遥か下方に千歳基地の長い一本の滑走路が見え始めていた。だが、ロシア機のもう片方のエンジンが、不気味な悲鳴を上げ始めていた。(第5章・了)

 第6章:強制着陸

 千歳基地の滑走路が、フロントキャノピーの向こうに、細い一本の灰色の線となって見えてきた。 しかし、喜びの時間はなかった。甲斐のバックミラーに映るロシア機、Su-35の挙動が明らかに狂い始めていた。『――Flame out! Engine stop!(フレームアウト! エンジン停止!)』 無線から、ロシア人パイロットの悲痛な絶叫が響いた。 残されていたもう一発のエンジンからも完全に火が消えた。白煙すら出ない。それは、機体のすべての推力が失われ、Su-35が完全な「鉄のグライダー」になったことを意味していた。戦闘機は、その重い機体をエンジンの圧倒的なパワーで強引に飛ばしている。動力を失えば、あとは重力に従ってまっ逆さまに落ちるだけだ。「甲斐! 相手の高度が下がりすぎている! このままだと滑走路の手前の誘導灯に激突するぞ!」 後方を追従する真壁一等空尉の鋭い警告が飛ぶ。「させません……!」 甲斐は操縦桿を強く引き、自機の速度をロシア機に合わせるため、限界までフラップを下げた。F-15Jの機体が激しくガタガタと震え、空気の壁が牙を剥く。 甲斐はロシア機のわずか数十メートル斜め前方に位置をキープし続けた。「俺を見ろ! 操縦桿を離すな! 滑空グライドだけで滑走路へ滑り込ませるんだ!」 日本語の叫びは相手に届かないかもしれない。だが、甲斐は自らの機体そのものを「生きた教科書」として、着陸への正確な角度グライドアベニューをその背中で示し続けた。 高度五百、三百、百フィート――。 地上が恐ろしい速度で迫ってくる。基地の周囲の防風林が、まるで生き物のように迫り上がってくる。 ロシア機は車輪ランディング・ギアこそ出しているものの、油圧が低下しているのか、機首が左右に大きくブレていた。「上がれ、上がれ、上がれ……!」 甲斐は祈るように叫んだ。 ――ズズンッ! 強烈な衝撃音が、甲斐のF-15Jの機体を揺らした。 甲斐の機体が滑走路にタッチダウンしたのではない。バックミラーの中で、ロシア機が滑走路の手前、わずか数メートルの草地を削り取りながら、猛烈な勢いでアスファルトの上へと滑り込んできたのだ。 白煙が爆発するように上がる。タイヤが悲鳴を上げ、ゴムの焦げる臭いが大気に満ちる。 ロシア機はブレーキ油圧が効かないのか、激しく機体を左右にスピンさせながら、滑走路をまっすぐに突き進んでいった。「止まれ……止まれ!」 甲斐も自身の機体を着陸させ、緊急ブレーキとドラッグシュート(減速用パラシュート)を展開した。 キィィィィィン――。 長い、あまりにも長い数秒間の後。 ロシアの最新鋭戦闘機Su-35は、千歳基地の滑走路の終端手前、わずか数十メートルのところで、完全にその動きを止めた。 主翼から陽炎のような熱気が揺らめいているが、火災は起きていない。墜落は防がれた。一人のパイロットの命、そして地上の安全は、完全に守られたのだ。「……タイガー02より千歳管制」 甲斐は、酸素マスクを外した。口の中がカラカラに乾いていた。「ターゲット……無事に強制着陸、完了しました」『……こちら千歳管制。よくやった、タイガー02。……いや、甲斐二尉。見事な誘導だった』 無線から、地上の管制官たちの安堵の、そして興奮した声が漏れ聞こえてきた。 キャノピーを開けると、北海道の、突き抜けるように冷たい風がコックピットに流れ込んできた。全身の汗が、一気に冷やされていく。 滑走路の向こうでは、すでに武装した警備犬を連れた自衛隊の警備隊や、化学消防車がロシア機を取り囲んでいた。 甲斐がタラップを降りると、隣に着陸した真壁が歩み寄ってきた。真壁はヘルメットを小脇に抱え、不敵な笑みを浮かべていた。「規律違反だな、甲斐。後で始末書が何枚必要になるか分からんぞ」「覚悟の上です、班長」「……だが、お前があそこで前に出なければ、あの男は死んでいた。俺もお前を誇りに思う」 真壁の大きな手が、甲斐の肩を力強く叩いた。 ふと見ると、ロシア機のコックピットから、一人の若い男が自衛隊員に付き添われて降りてくるところだった。 彼はフライトスーツの胸元をはだけ、ひどく疲弊した様子だったが、ふと甲斐の方へと視線を向けた。 男は立ち止まり、自衛隊員の手を制して、甲斐に向かって真っ直ぐに右手を額へと掲げた。 美しい、完璧な敬礼だった。 言葉はなくとも、その目には「命を救ってくれてありがとう」という、深い感謝の念が満ちていた。 甲斐もまた、背筋を伸ばし、その敬礼に全力で応えた。 西の空から、燃えるような夕焼けが千歳基地を赤く染め上げていく。 甲斐は、夕日に照らされて鈍く輝く自分の戦闘機の主翼――『エアウイング』を見つめた。 これが、自分の守るべき空だ。 初めてのスクランブルを終えた新米パイロットの胸には、本物の翼を手に入れた者だけの、確かな誇りが宿っていた。(第6章・完)


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無敵丸さんこんにちはKiroeです。無敵丸さんは自衛隊が好きなのですか?新しい話楽しみにしてます!
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