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朝の光の中で
朝。
美咲が目を覚ますと、
あきおは枕元で丸くなっていた。
「おはよう、あき」
その声に、
胸の奥が温かくなる。
(……おはよう……)
言おうとした。
でも、やっぱり声にはならない。
美咲は気づかず微笑んだ。
「今日も一緒にいようね」
その言葉が、
胸に深く刺さった。
(……今日も……
今日“だけ”かもしれないのに)
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◆ 2 名前が遠くなる
午前中。
美咲は掃除をしながら、
あきおに話しかけていた。
「ねぇ、あき。
この前の友だちがね──」
(友だち……?
誰だ……?)
思い出そうとすると、
記憶が霧のように散っていく。
(……沙耶……
沙耶……?
どんな顔だったっけ)
胸がざわつく。
美咲は気づかず続ける。
「藤堂さんにもね、
“猫ちゃん元気ですか”って聞かれたよ」
(藤堂……
誰だ……?)
名前が、
意味を持たなくなっていく。
(……やばい……
本当に……消えていく)
怖かった。
でも、美咲の前では震えられなかった。
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◆ 3 美咲の気づき
昼下がり。
美咲はソファに座り、
あきおを抱き上げた。
「ねぇ、あき……
最近、ちょっと変じゃない?」
あきおは固まった。
「なんか……
前より“猫っぽく”なった気がするの」
胸が痛い。
(……そうだよ。
俺は……猫になっていく)
美咲は続けた。
「前はね……
もっと“考えてる”って感じがしたのに」
あきおは美咲の胸に顔をうずめた。
(考えてるよ……
美咲のことばかり……
でも……
言えないんだ)
美咲は優しく撫でた。
「……大丈夫だよ。
あきはあきだもんね」
その言葉が、
あきおの心を締めつけた。
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◆ 4 記憶の崩壊
夕方。
美咲が料理をしている間、
あきおは窓辺に座っていた。
(美咲……
美咲……
み……さ……)
名前が、
口の中で溶けていく。
(……嘘だろ……
美咲の名前まで……?)
思い出そうとすると、
胸が苦しくなる。
(……俺は……誰だ……?
なんで……ここに……?)
その時、
ふと視界に美咲が映った。
その瞬間だけ、
胸の奥が温かくなる。
(……この人……
大事な人……
それだけは……わかる)
名前も、
思い出も、
言葉も消えていくのに。
“好き”という感情だけが残っていた。
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◆ 5 美咲の涙
夜。
美咲は布団に入り、
あきおを抱き寄せた。
「ねぇ、あき……
最近、呼んでも来てくれない時あるよね」
あきおは目を閉じた。
(……ごめん……
名前が……聞こえないんだ)
美咲は続けた。
「前はね……
“あきお”って呼ぶと、
すぐ来てくれたのに」
その名前を聞いた瞬間、
胸が強く締めつけられた。
(あきお……
俺……
俺は……)
でも、
その先が出てこない。
美咲は涙をこぼした。
「……あきお……
どこに行っちゃったの……?」
あきおは美咲の頬に顔を寄せた。
(ここにいるよ……
ずっと……)
でも、
その言葉は声にならなかった。
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◆ 6 最後の記憶
深夜。
美咲が眠ったあと。
あきおは、
静かに美咲の顔を見つめた。
(……この人……
大事……
大事……)
言葉はもうない。
名前もない。
記憶もほとんど消えた。
でも、
美咲を愛した気持ちだけは残っていた。
それが、
最後の“人間としての記憶”だった。
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◆ 7 完全な猫へ
朝。
美咲が目を覚ますと、
あきおは足元で丸くなっていた。
「おはよう、あき」
あきおは顔を上げ、
小さく鳴いた。
「……にゃ」
その声は、
もう完全に“猫”の声だった。
美咲は微笑んだ。
「今日も一緒にいようね」
あきおは尻尾を揺らした。
(……にゃ)
その返事には、
もう“言葉”も“意味”もなかった。
ただ、
美咲のそばにいたいという
小さな本能だけが残っていた。
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エピローグ
数年後。
美咲は、
窓辺で丸くなって眠る猫を撫でながら微笑んだ。
「……あき。
あなた、本当に不思議な子だよね」
猫は目を細め、
喉を鳴らした。
ゴロ……ゴロ……
美咲は続けた。
「でも……
あなたがいてくれて、
私はずっと救われてきたよ」
猫は何も言わない。
ただ、美咲の手に頭を押しつけた。
その仕草は、
かつて“誰か”がしていたものに
とてもよく似ていた。
美咲は気づかない。
この猫が、
かつて自分が愛した人だったことを。
猫も気づかない。
自分が誰だったのかを。
でも──
二つの魂は、
静かに寄り添い続けていた。




