第十五話 薄れていく言葉
第十五話 薄れていく言葉
朝。
美咲はコーヒーを淹れながら、
あきおに声をかけた。
「おはよう、あき。
今日はゆっくりしようね」
あきおは「にゃ」と返した。
……はずだった。
(……あれ?
“おはよう”って言おうとしたのに……)
口から出たのは、
猫の声だけだった。
(……まあ、いつものことか)
そう思おうとしたが、
胸の奥に小さな違和感が残った。
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◆ 言葉が出ない
美咲がソファに座ると、
あきおは隣に飛び乗った。
「ねぇ、あき。
昨日の沙耶、面白かったね」
(そうだな、あいつ昔から──)
言おうとした瞬間、
頭の中で言葉が霧のように消えた。
(……え?
“昔から”……何を言おうとしたんだ?)
美咲は気づかず笑っている。
「沙耶、あきのこと気に入ってたよ」
(沙耶……沙耶……
あれ?
沙耶って……誰だっけ……?)
名前が、
一瞬だけぼやけた。
すぐに思い出したが、
その“遅れ”が怖かった。
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◆ ケンの言葉がよみがえる
(……魂は器に引っ張られるんだよ)
ケンの声が、
頭の奥で響いた。
(……まさか、本当に……
俺の記憶……薄れてきてるのか?)
胸がざわつく。
美咲はそんなあきおの変化に気づかず、
優しく撫でてくれた。
「どうしたの、あき。
元気ない?」
あきおは美咲の手に頭を押しつけた。
(大丈夫だよ……
大丈夫……
俺はまだ……俺だ)
でも、
その“俺”がどこまで続くのか、
わからなかった。
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◆ 美咲の不安
夕方。
美咲は仕事の書類を広げながら、
ふと呟いた。
「……最近、変な夢見るんだよね」
あきおは耳を動かした。
「誰かが私の名前を呼ぶ夢。
すごく懐かしい声で……
でも、思い出せないの」
あきおの心臓が跳ねた。
(……俺だ。
俺が呼んでるんだよ、美咲)
でも声にはならない。
美咲は続けた。
「なんか……
“あきお”に呼ばれてる気がするの」
あきおは胸が締めつけられた。
(美咲……
俺はここにいるのに……
言えない……)
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◆ 夜、ケンの影
美咲が寝静まった頃。
窓の外から、
軽い声が聞こえた。
「よっ。調子どうだ?」
ケンがベランダに座っていた。
あきおは睨んだ。
(……お前の言った通りになってきてる)
ケンは肩をすくめた。
「だから言ったろ。
魂は器に馴染むんだよ。
お前、もう半分くらい猫だぞ」
(ふざけるな……!
俺は……俺は……)
言葉が出ない。
ケンは静かに言った。
「そろそろ決めろよ。
猫として生きるのか、
人間に戻る方法を探すのか」
あきおは震えた。
(……まだ……
まだ決められない……)
ケンはため息をついた。
「時間は無限じゃないぞ。
忘れたくないなら、急げ」
そう言い残し、
夜の闇に溶けるように消えた。
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◆ 美咲の寝顔
あきおは美咲の枕元に戻り、
そっと寄り添った。
美咲は眠りながら、
小さく呟いた。
「……あきお……」
その声に、
あきおの胸が熱くなった。
(美咲……
俺は……
どうすればいいんだ……)
答えはまだ出ない。
でも、
選ばなければならない時が近づいている
ことだけは、
はっきりとわかっていた。




