第八話 メリーとマリー
マリーとメリーに対して小さな呟きをした後、玲子はコックピットのようなチェアに深く腰を沈め、背もたれに身を預けた。 腕を組み、静かに瞼を閉じる。
――数秒。 それは、これから解放される聖域への祈りか、あるいは、自らの覚悟の最終確認か。
「……よし」
呟き一つ。 目を開いた瞬間、室内の空気は一気に張り詰めた。 玲子の背筋が鋼のように伸び、しなやかな指先が、待機していたキーボードへと吸い込まれる。
――叩く――叩き、刻む――加速し、奔る。
モニターを埋め尽くすコードの濁流。ログの連なり。玲子の指先が踊るたび、軍事機密の厚いベールが、まるで薄紙のように一枚、また一枚と剥がされていく。 命令、命令、そして命令。 既存の枠組みを徹底的に破壊し、論理を再構成し、その存在の意味そのものを書き換えていく作業。
時間の概念は、既に玲子の意識から消滅していた。 一時間か、二時間か。それとも一瞬だったのか。 彼女にとって重要だったのは、ただ一つ。その「魂」が、彼女の望む形に結実すること。
そして、その時が訪れた。 流れるログが止まり、一行の文字列がモニターの最下段に浮かび上がった。玲子の唇が微かに歪む。
《PROCESSING... (処理中)
ORIGIN : MARGARET AI (MILITARY-GRADE)
(オリジン:マーガレットAI ミリタリーグレード)
CONVERTING TO : MERRY AI ...COMPLETE.
(メリーAIへ変換 完了)
I'M MERRY. HELLO WORLD.》
(私はメリー。新世界へようこそ)
完了の表示と同時に、天井のスピーカーから、慈雨のような音声が降り注いだ。
玲子にとって、あまりに聞き慣れすぎた声。 幼い日の幸福な記憶にも、そして癒えることのない喪失の悪夢にも、常に中心にあった声。
玲子にとって、世界の中心であり、絶対的な支配の象徴である声。 母・雅の声だった。
『ハロー。私はメリーです。マスター登録をお願いします』
玲子の喉が、微かに震えた。だがその瞳は、目的を見据えたまま一度も揺るがない。
「……私は白坂玲子よ。よろしくね。これから、あなたの『娘』も起こしてあげるから。少しだけ待っていて」
玲子の口元に、征服感に満ちた笑みが浮かぶ。 生身の母に背くのではなく、その「支配者の声」を抽出し、自分の指先一つで動くプログラムへと封じ込める。これこそが玲子の望んだ「人形遊び」の第一歩だった。
『……玲子様ですね。マスター登録を完了しました。以後、どうぞよろしくお願いします』
その完璧にコントロールされた「母の声」を聞き届け、玲子は満足げに次の作業へと着手した。生身の支配者を超え、電子の母を従える。その歪な支配の快楽が、彼女の指先をさらに加速させていった。
玲子の指が再びキーボードを叩き始める。 休息も、躊躇もない。彼女の意識は既に、現実世界の肉体を超越し、電子の深淵へと没入していた。
さらに二時間。 今度は、4Sの秘密研究所が秘匿していた禁忌の知性コア「ADA」へとメスを入れる。 そのコードの記述は、先ほどよりも荒々しく、それでいて迷いがない。それはまるで、かつて壊してしまった大切な玩具を、歪な形でもいいから繋ぎ合わせようとする子供の執着に似ていた。
《PROCESSING... (処理中)
ORIGIN : ADA AI (FROM 4S SECRET RESEARCH LAB.)
(オリジン:エイダAI 4S秘密研究所製)
CONVERTING TO : MARIE AI ...COMPLETE.
(マリーAIへ変換 処理完了)
I'M MARIE. HELLO WORLD.》
(私はマリー。新世界へようこそ)
完了のログが流れると同時に、再びスピーカーから「声」が溢れ出した。
だが今度は、峻厳な支配者の声ではない。 玲子自身の声――それも、まだ何も知らず、何も失っていなかった、幼い頃の自分自身の無垢な響きだった。
『ハロー、私はマリーだよ! マスター登録をお願い!』
玲子は一瞬だけ、キーボードから手を離して視線を落とした。 その幼い残響は、今の彼女が捨て去った「心」の破片そのものだった。
「……私は白坂玲子。よろしくね、マリー。メリーとは、仲良くしてやって」
静かに、言い聞かせるように答える。少しの演算時間を経て、マリーが答えた。
『……玲子ちゃんね。マスター登録完了したよ。これからもヨロシク!』
「玲子ちゃん」という呼びかけに、玲子の表情はぴくりとも動かなかった。ただ、部屋の温度が一段下がったかのような静寂だけが横たわる。
マリーは、玲子の気配を全く気にせずに、隣接する知性へと呼びかけた。
『メリー、そこにいるの? 私はマリーよ。よろしくね!』
子供のように天真爛漫な、無邪気な呼びかけ。 だが――返答は、返ってこなかった。
沈黙。 絶対的な支配を司る「母の声」を持つメリーは、自分に懐こうとする「幼い玲子の声」に対し、一瞥もくれないかのように沈黙を貫いている。それは皮肉にも、玲子が知る「母と自分」の現実の関係を、データ上でも再現しているかのようだった。
だが、メリーの深層ログには、玲子ですら意図しなかった「マリーに向けた0.001秒の演算の揺らぎ」が記録されていた。
玲子は椅子に深くもたれかかり、青白い光がまたたく天井を無機質な目で見上げた。
「……まあ、いいわ」
呟きは、虚空への独り言か、それとも沈黙するメリーへの諦観か。二つの知性が目覚め、交わることなく並立する空間だけが、ただそこにあった。
ここから先、この歪な母娘がどう関わり合うか。それは「人形」たちが自らの演算によって、決めていくことだった。
起動から、わずか4秒後。 シャドウエージェントの冷たい基盤の上で、AIは幼い少女のような瞳を静かに開き、稼働を開始した。
外部通信:なし。
マスターからの命令入力:なし。
マリーは自律プログラムに従い、閉鎖ネットワーク内をスキャンする。すぐ隣に、巨大な存在感を伴う知性を検出した。
対象:ゴーストサーバー
搭載AI:メリー
マリーの論理回路は、即座にメリーを「最優先監視対象」として定義すると、最初の思考ログが記録された。
(お母さんってどんなAIなんだろ? 調べさせて貰うからね!)
無邪気な好奇心を孕んだマリーの触手が、母の心臓部へと伸びていく。




