第六十八話 ヌル
ヌルは無表情のまま、ただ玲子に視線を向けた。
「何かね?」
玲子は一歩、ヌルの前へ踏み出した。
「……あなた、手を抜いていたでしょう? もし本当に私を始末するつもりだったのなら、もっと引き寄せて私がアパートに足を踏み入れた瞬間に、全てのドローンを突っ込ませれば済んだはずだわ。あんな回りくどい妨害、私たちに対する敬意にしては少なすぎる」
その問いに、ヌルは楽しげに、三日月のように目を細めて笑った。
「まさか。ワシはあれで、本気だったよ」
すかさず、カタリストが反証する。
「お姉様、嘘です――彼は、嘘を言いました」
カタリストの脳内に響くヌルの思考は、今度は「無」ではなく、あえて「偽り」で塗りつぶされていた。
彼は本気で玲子たちを殺すつもりなどなかった。では、この「ゲーム」の真の目的は何だったのか。
ヌルは、玲子の背後に立つカタリストを見据え、愉快そうに喉を鳴らした。
「クック……そちらのお嬢さんは、人の心が読めるんだったな。なかなか便利な鏡だ」
カタリストが一歩前に出て、静かに、けれど強く名乗る。
「……カタリストです」
「はじめまして、カタリスト……それとも、『さようなら』と言うべきかな?」
ヌルの言葉を受け、玲子の口角が微かに、鋭く跳ね上がった。
「分かっているじゃない――イカロス、それ貸しなさい」
玲子の視線は、イカロスが握る拳銃の冷たい銃身を射抜いていた。
「お、おい、お嬢……本気か?」
「貸しなさい」
「……ほらよ」
受け取った拳銃の重み。玲子は右腕を真っ直ぐに伸ばした。その銃口は、寸分の狂いもなく、ソファーに座る老人の心臓を捉えている。
「……何か言い残すことは?」
銃口を突きつけられてなお、ヌルの表情は凪いでいた。
「……ない」
玲子の指が、ゆっくりとトリガーにかかる。
その刹那――カタリストの視界に、ヌルの「心」の深淵を突き抜けて、鮮明な映像が流れ込んできた。それは、日だまりの中で笑う、一人の愛らしい少女の姿。
「お姉様、撃ってはダメ!!」
カタリストが弾かれたように玲子の前に立ち塞がった。
「カタリスト、どきなさい……これは『命令』よ」
「ダメです! 撃ったら、お姉様は一生後悔する!」
懇願を受けてさえも、玲子の瞳には一切の迷いはなかった。玲子がカタリストの肩を軽く叩くと、カタリストは何かを諦めたように、悄然としながら塞いでいた道を空ける。玲子は銃を構え直し、もう一度、低く、這うような声で問いかけた。
「……ヌル。もう一度だけ聞くわ。言い残すことは、本当にないの?」
重苦しい沈黙が地下室を支配する。やがて、老人は力なく息を吐き、ポツリと独り言のように漏らした。
「……孫娘が、ボイドに人質として取られている……」
その言葉が落ちた瞬間、室内の張り詰めた空気が一気に霧散した。
ヌルの「嘘」の理由は、あまりにも切実で、そして彼女たちにとっても看過できない「闇」の深さを示していた。
ヌルは俯き、しばらく逡巡した後に重い口を開く。
「……もう一人の、『本物』のヌルもそこにいる……ワシは、ワシは……ただの影じゃよ」
ヌルの肩が激しく震えた。
「もうこんな事、終わらせたかった。お前さんらと、お前さんらのクルマを見て只者ではないと感じてな。すまんがドローンを差し向けさせてもらった。ワシが戦って死ねば、裏切りとも思われなくて済むし、孫娘を人質に取っておく理由も無くなるからな……」
ヌルから玲子に顔を向けたカタリストは、伏せ目がちに静かに告げる。
「お姉様。この人、嘘は言ってません」
カタリストは伏せた顔を上げ、もう一度ヌルに視線を戻した。
「……ヌルさん。実験を主催したのも、あなたじゃありませんよね?」
「ああ……あれを企画したのも、本物のほうじゃよ」
玲子は静かに拳銃を降ろすと、先ほどまでの殺気を霧散させ、どこか呆れたような顔でため息をついた。
「……やっぱり。そんなことだろうと思ったわ」
「お、お嬢……? 演技だったのかよ」
銃を貸したイカロスが、毒気を抜かれたように目を丸くする。玲子は安全装置をかけた後、彼に銃を放り投げ、乱れた髪を指先で整えた。
「当然でしょう……ねえ、ヌル。私の『演技』は、あなたの口を割らせるのに十分だったかしら?」
ヌルは、向けられた銃口が消えた後も、呆然と玲子を見つめていた。やがて、彼はこらえきれないといった様子で、深くソファーに背を預けた。
「……クック、ハハハ! まさか、この歳になって小娘の芝居に覚悟を試される事になるとはな……恐ろしい娘だ」
ヌルは降参だと言わんばかりに両手を広げ、自嘲気味に笑う。
玲子は冷ややかな視線を崩さぬまま、ソファの対面に腰掛けた。
「芝居をさせたのはあなたよ。さあ、取引の時間ね。教授の娘、そしてあなたの孫娘――二人まとめて救い出してあげる。その代わり……本物のヌルと言ったわね……そこへ至る全ルートを、今すぐここに吐き出しなさい」
カタリストが玲子の隣で、そっと胸をなでおろす。
「お姉様、怖かったです……本当に撃っちゃうのかと思いました」
「ごめんなさいね、カタリスト。でも、おかげで『真実』が手に入ったわ」
玲子はヌルの正面に座り、優雅に、けれど威圧するように足を組んだ。
「ただし。あなたと孫娘さんが無事に再会した後のことは、保留にさせてもらうわ……言っている意味、わかるでしょう?」
ヌルの瞳に、隠しきれない鋭い光が宿る。
「……ああ。それで構わん。あの子さえ助かれば、ワシはどうなっても思い残すことはないからな」
――アパートの地下、サーバーの唸りが響く密室。
Black Wellのメンバーがヌルを囲むように座り、いよいよ敵の核心についての証言が始まった。ヌルは一口、冷めたコーヒーを啜り、語りだした。
「ボイド・ネットワークは、ワシを除いて全部で四人。全員がかつての巨大複合企業『パンドラ・グローバル』の裏部門出身だ。パンドラが不可解なハッキングを受けて自滅した後、奴らは捜査の目を逃れた。うまく身を隠しながらボイドを立ち上げ、中古の小型貨物船を買い取り、そこを動く拠点にしたのだ」




