第六十四話 クロサワの説得
――教授室の前。
クロサワが、ためらうことなく優雅に三度、扉をノックした。
しばらくの不自然な沈黙の後、内側から怯えたような手つきで扉が開いた。
「はい……どちら様でしょうか?」
そこには、憔悴をさらに深めたような、蒼白な顔の教授が立っていた。
「突然の訪問、失礼いたします。私、この大学でお世話になっております佐藤彩香の祖父、佐藤英司と申します……本日は、昨日の『実験』のことで、お話がありましてな」
『実験』という単語が放たれた瞬間、教授の肩が、目に見えてビクリと跳ねた。その瞳の奥を、彩香は逃さず見つめる。
(実験のことを忘れていた……さすがに言い逃れするのは難しいか……)
彩香の脳裏に、教授の悲痛な叫びが、混沌とした絶望となって流れ込んできた。
教授は激しい動揺を隠すように、震える手で部屋の中を指し示した。
「……そうですか。ご足労おかけしました。どうぞ、おかけください」
――教授室。
クロサワは深くソファーに腰掛け、にこやかな調子で教授を見つめた。
「まず、昨夜の『実験』のことですがな――どうぞ、シラを切ってくださって結構ですぞ」
「は、はあっ……? 何を言って……」
「実験の痕跡は、私の知人が『一切合切』、この世から消し去りましたので。今後、誰が尋ねて来ても『中止にしたはずだが』とだけ突っぱねてください」
教授は半信半疑のまま、震える手でスマホを操作した。大学の予約管理システムには、昨夜の実験室利用は【中止】の一文字。
「えっ……? 何故……」
驚愕に固まる教授。その静寂を、クロサワの落ち着いた声が切り裂く。
「さて、本題です……先生は、私の孫の『彩香』を必要としていたのではありませんかな? ――誘拐された、娘さんと交換するために」
「な、なぜそれを……っ!」
(『なぜ、それを知っているんだ!?』……言葉と思考が完全に一致していますね。嘘をつけない人っているんですね)
傍らで茶を啜る彩香――カタリストの目に、教授の剥き出しの動揺がダイレクトに流れ込んでいた。
「実は、私の知り合いにですな、法で裁けぬ案件の解決を専門とする者たちがおりまして。先生も、彼らに依頼をされてはいかがかと。娘さんを救うために」
「……まずはどこで、美咲、娘が誘拐されたのを知ったのか……どこから漏れたのか、教えてくれませんか?」
(『なぜ知っている? どこから漏れた?』……本当に裏表がないですね)
「この映像に映っている警備員から聞き出しました。大学が雇った方ではありませんでしたがな」
クロサワがそっと差し出したタブレットには、昨夜の衝撃的な映像が映し出されていた。そこには、鎖で実験室を封鎖する偽警備員の姿と、中の学生たちが死の恐怖に悶える様子が克明に記録されている。
「昨夜の実験の正体を教えしましょう……学生同士で生贄を選ばせ、液体窒素で窒息死させる。それは『選別』という名の処刑でした」
教授の顔が、液体窒素を浴びせられたかのように真っ白に染まる。自分が娘のために、これほどまでの惨劇に加担させられていたのかという事実に、彼の膝は震えだした。
対照的にクロサワは穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開く。
「ああ、それと。一連の出来事を映した大学内の監視カメラ映像はすべて、精巧なフェイクと差し替えてありますので、気付かれることはありません。なに、警察に嗅ぎつかれると、動きにくくなるものでして」
――一転。
鋭い眼光を放ちながら、教授に顔を近づける。
「ただ、このまま要求を呑み続ければ、いずれ死者が出ますぞ……ですが、私にお任せいただければ、『格安』で娘さんを助け出して差し上げましょう。先生がすべきことは、この書類にサインをして頂くだけです」
逃げ場はない。けれど、目の前の老紳士は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸そのものだった。
二時間後。震える手で、教授は依頼書にその名を刻んだ。
ボイド・ネットワークから教授という「駒」を奪い、玲子たちの正義の下へと塗り替えた瞬間だった。
――再び、移動司令部『シロ』の車内。
クロサワとカタリストがスライドドアから滑り込むのと同時に、待ちわびていたイカロスが身を乗り出した。
「よう旦那、遅かったじゃねえか! 首尾はどうだ?」
「上々です」
クロサワは短く答え、重みのある筆致で教授のサインが刻まれた契約書を、玲子へと手渡した。
「お疲れ様、二人とも……それで、何か掴めた?」
玲子は契約書をコンソールに置き、期待を込めて二人を見た。
「まずは私から説明いたしますぞ。教授が最後に娘さんと会話したのは二週間ほど前。『友達と海に行く』それが最後の言葉だったとのことです」
クロサワの報告に、カタリストが真剣な面持ちで補足を加える。
「教授は本当に裏表のない方で、思考の中に一切の嘘がありませんでした。娘さんの資料も、藁をも掴む思いで差し出してくれました」
カタリストは教授室で書き留めたメモと、預かってきた娘の写真を玲子に差し出した。
「仁科美咲――二十九歳、会社員……この世代なら、自分の足跡をネットのどこかに残しているはずね」
玲子は写真の顔立ちをスキャンしながら、キーボードへ指をかけた。
「メリー、マリー。彼女のSNSアカウントを特定。失踪直前の投稿から位置情報を割り出して」
『任せて! ネットの隅っこまで追いかけてあげる!』
『承知いたしました。ディープウェブも含め、全レイヤーを解析します』
静まり返った車内に、データの奔流が走る音だけが響く。わずか十秒後。マリーが弾んだ声を上げた。
『玲子ちゃん、ここじゃないかな!? モニターに映すね!』
メインモニターに映し出されたのは、人気のない浜辺。そこには、どこか寂しげな波を背に、屈託のない笑顔でピースサインを送る一人の女性の姿があった。
『玲子様、画像のメタデータからEXIF情報を復元。撮影地点の緯度・経度を特定しました。位置情報を地図に展開します』
モニター上の画像が地図へと切り替わり、詳細な周辺情報が次々とウィンドウで立ち上がる。
「ありがとう……きっとこれが最後の自由な時間だったのね」
玲子は瞳に鋭い光を宿し、イカロスを振り返った。
「よし、みんな。情報の精査は終わったわ――現地調査に行くわよ。車を出して」
「了解だ、お嬢」
シロがエンジン音を響かせ、特定された「始まりの場所」へと走り出した。




