第六十一話 玲子の涙
――地下低温室。
静寂が戻った室内に、二機のドローンが静かに舞い降りた。それはまるで、迷える子供を迎えに来た妖精のように、二人の目の前で静止する。
『彩香、無事なの!? どこか痛むところはない? 体は冷え切っていない!?』
スピーカーから溢れ出したのは、先ほどまでの氷のような冷徹さが嘘のような、過保護なまでに必死な玲子の声だった。
カタリストは込み上げてくる熱い感情をぐっと堪え、凛とした声で答える。
「……はい。無事です、お姉様。助けていただき、本当にありがとうございました」
その言葉を聞き、ドローンたちは安堵したように上下に大きく揺れた。
一方、傍らにいたメガネの学生は、今起きている非現実的な光景を、夢でも見ているかのような表情でただ見つめていた。
ふと、一機のドローンがレンズを彼の方へ向けた。
『……ねえ、そこの君。今ここで起きたことは、他言無用よ。約束を守れるなら、君のこれからの安全と平穏は私が保証してあげる』
学生は机から降りると、ドローンに向かって深く一礼した。
「……分かりました。それから、僕たちの命を救っていただき、本当にありがとうございます」
ドローンは満足げに小さく揺れ、一瞬の沈黙の後、少しだけトーンを和らげて付け加えた。
『それと……彩香を守ろうとしてくれて、ありがとう。君、格好良かったわよ』
不意に投げかけられた直球の称賛に、学生は耳まで真っ赤にして絶句した。
隣では、なぜか自分のことのようにドヤ顔を浮かべたカタリストが、机を降りて彼にそっと歩み寄る。
「……誇ってください。お姉様に褒められるなんて、滅多にないことなんですから。それと、私からもお礼を言わせてくださいね……私を助けようとしてくれて、ありがとうございました」
カタリストがメガネ学生を見つめるその瞳は、どこまでも優しかった。凍てついた実験室に、春のような柔らかな空気が、二人を包んでいた。
……この事件の後、講義で彼女が彼の隣に座るようになり、やがて共に昼食を摂る姿が見られるようになるのは、また少し先の話となる。
――クロサワが呼びだした掃除人であるブルームとダストパンに、拘束した偽警備員を引き渡した後、三人は夕闇に包まれた駐車場へと向かっていた。
そこには、移動司令部『シロ』を離れ、祈るように実験棟の方角を見つめる玲子の姿があった。
三人の姿を認めた瞬間、玲子は弾かれたように駆け出した。
カタリストもまた、堰を切ったように玲子のもとへ走り、その細い体に抱きついた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……お姉様の役に立つどころか……ご迷惑をおかけして……っ!」
涙が溢れ、震え続けるカタリストの後ろ髪を、玲子は優しく撫で続ける。
「……ねえ、カタリスト。あなたがBlack Wellに来る時に言ったことを覚えているかしら……決して道具として使い潰さないって……約束を果たしただけだわ」
その言葉に、カタリストの涙が深くなる。そして低温室の中で、一人でずっと我慢してきたその思いが決壊した。
「私、怖かったんです……人の……利己的な、あの悪意が。私、どうして人の心がわかるのでしょう……こんな力、最初から無かったらよかったのに……!」
能力の呪縛に打ちひしがれるカタリストを、玲子はそっと引き離し、春の木漏れ日のような優しい声で諭した。
「……彩香。他人の心に惑わされては駄目……それに、あなたのその力があったからこそ、私たちは出会えたのよ」
その言葉にカタリストが涙で濡れた顔を上げた、その時。カタリストの瞳が驚愕で大きく見開かれた。
背後にいたクロサワとイカロスも、まるで時が止まったかのようにその場で固まった。
なにより、玲子自身が一番驚いていた。
頬を伝う、一筋の温かな感覚。
それを指先でそっとなぞると、拭った指先は透明な雫で濡れていた。
「……変ね。意味のない涙が流れてくるなんて。これ、不具合かしら?」
玲子は、困ったように少しだけ眉を下げ、優しく、けれどぎこちなく微笑んだ。
その光景を静かに見守っていたイカロスが、少しだけ鼻を高くして、隣のクロサワに呟いた。
「なあ旦那。俺の『名付け』、すげえだろう?」
クロサワもまた、モノクルの奥の目を細め、深く深く頷いた。
「……ええ、確かに。カタリストは、玲子様の凍てついた心を溶かす、唯一無二の触媒になられました」
キャンパスを抜けるそよ風が、寄り添い合う二人の影を優しく包み込んでいた。




