第六十話 選手交代
――同時刻。移動司令部『シロ』。
ハッキングの目途を付けた玲子は手を止め、モニターに映る学生達の姿を無言で見つめていた。その瞳は極北の氷海のように冷たかった。
メリーが静寂を破り、誇らしげな様子で報告をした。
『玲子様、制御系を完全に制圧しました。窒素の元栓も特定。制御信号を送信し、バルブを閉鎖しました』
「ありがとう……本当に助かったわ、メリー」
『玲子ちゃん、実験室の換気システム、強制起動しておいたよ! ついでに液体酸素も「ぴゅー」って出しといたの……酸素計は誤動作させたままだけどね!』
「ふふ……マリーったら、いい仕事をするわね」
玲子は立ち上がり、二体のフランス人形を優しく抱き上げると、再びシートに深く腰を下ろした。膝の上でマリーとメリーの髪を愛おしそうに撫でる。
「……そうだわ。彩香を切り捨てた学生たちには、『お灸』を据えないとね。マリー、廊下側の酸素濃度計も誤動作させて……彼らが扉の外に出た瞬間、そこが『死の空間』だと錯覚するように」
――地下低温室。
机の上で死を待っていた二人は、奇妙な感覚に包まれていた。
焼けるようだった喉の痛みが消え、いくら吸っても満たされなかった肺に、冷たくて甘い「空気」が満ち溢れていく。
「……息ができる!? ねえ、そこのあなた、大丈夫ですか?」
カタリストの問いかけに、メガネの学生も驚いたように自分の胸に手を当てた。
「……ああ。急に呼吸が楽になった。どうして……濃度計の数字は下がったままなのに」
メガネの学生はほっとした様子で、カタリストに向き合う。だが、その目は真剣だった。
「……犠牲は僕一人でよかったのに。どうして君は、こんな無茶をしたんだい?」
真面目な調子で問う彼に、カタリストは少しだけ頬を膨らませ、ムッとしたように言い返した。
「犠牲なんて、一人も出させません……それに」
カタリストの脳裏には、大好きな玲子の笑顔が浮かんでいた。
「……私の大切な人が、絶対に助けてくれるって、信じていましたから」
その言葉に応えるように、室内の換気扇が力強い回転音を上げ、白い霧を一気に吸い込み始めた。
――低温実験室前の廊下。
南京錠が外される鈍い音。扉が開くと同時に、三人の学生が這い出すように廊下へ転がり込んできた。警備員の男は冷淡な手つきで即座に扉を閉め、再びロックをかける。
助かった――その安堵が彼らの脳をよぎった刹那、轟音が廊下に響き渡った。
「ガラン、ガシャン!」と実験室を囲むように、二つの防火シャッターが猛烈な勢いで床に叩きつけられた。
何事かとシャッターを呆然と眺めていた三人の耳に、清廉な女性の声が降り注ぐ。
「選手交代――あなたたち、まだ終わっていないわよ?」
ただ、スピーカーから響くその声には、一切抑揚がなかった。
「実験室にいた女の子はね、私の大切な友達なの。だから、あっちの窒素は止めてあげたわ」
――一拍。
玲子の声に、さらに深い闇が混じる。
「だけどね。今あなたたちがいるその廊下の酸素濃度……下がり続けているわよ?」
三人が反射的に壁のモニターを見れば、酸素濃度計が異常な速度で数字を削り続けていた。
「……ねえ。先ほどと同じように、合意の上で誰か一人を決めなさい。『その子だけ』は、助けてあげてもいいわ」
三人は、凍りついたようにお互いを見合わせた。
「まともな思考ができるのは、あと五分くらいかしら。早く決めなさい。決めたら、床に額を擦り付けて土下座すること。『誠意』を感じられたら、実験室に戻してあげる」
真っ先に動いたのは、先ほど「みんなで助かる方法はないの?」と叫んでいた女子学生だった。
「私がやる。私を助けて!」
言うが早いか、彼女は床に膝をつき、激しい音を立てて額を打ち付けた。
「お、おい、待てよ! 俺だって……!」
前髪で目を隠した学生も、パニック状態でその横に並び、必死の土下座を始める。
数秒の遅れ。リーダー格だった背の高い学生も、肩を震わせながら膝を折った。
「俺を……俺を選んでくれ……っ!」
先ほどまでの「合理性」や「将来性」といった傲慢な理屈はどこへやら。三人の若者は、ただ自分一人の命を乞うために、無様な姿で床を這った。その様子を、酸素マスクをつけた警備員の男だけが、不気味に静観している。
「……『合意』って、言ったわよね?」
玲子の問いかけに、答える者はいない。ただ、床を叩く鈍い音が虚しく響くだけだ。
「……まあいいわ。ねえ、あなたたちって友達同士じゃなかったの? どうして助け合おうとしないのかしら」
――誰も何も答えられない。
「実験室の中の彼女はね、私の大切な友達なの……私なら、どんなことをしても、手段を選ばずに助けるわよ――ほら、こんな感じで」
ゆっくりと、防火シャッターが上昇を始める。
シャッターの音に土下座した三人は、顔を上げた。上昇していくシャッターをただ呆然と見上げることしかできなかった。
酸素濃度計の数字が瞬時に正常値へ跳ね上がる。酸素濃度計の数値低下はマリーが見せた「虚構」だった。
――シャッターが開いた瞬間、偽警備員の男は影のように逃走を図った。だが、その行く手を、巨木のような体躯の男――イカロスが塞いでいた。反対側で待機していたクロサワも、後ろを塞ぐように忍び寄る。
「よう。俺の可愛い弟子を、随分と可愛がってくれたみたいじゃねえか。たっぷりお礼をさせてもらうぜ?」
ニカッと凶悪な笑みを浮かべたイカロスが、丸太のような腕を男の首に巻き付ける。
「が、はっ……」
男は抵抗一つできず、頸動脈を締め上げられて数秒で崩れ落ちた。




