第六話 ブラックな労働条件?
「馬車馬」という不穏な単語が、地下の冷気に乗って二人の鼓膜を打つ。彼らは覚悟を決めたように、同時に背中を強張らせた。
「まず」
玲子が白く細い指を一本、凛と立てる。
「通常業務は一日七時間労働。特別業務で長引く場合は代休を認める」
「休憩は一時間。挟む場所は好きにしていいわ」
「それ以上働くのは禁止……パフォーマンスが落ちるから」
クロサワとイカロスが、困惑したように顔を見合わせた。
「次」
立てられた指が二本になる。
「週に二日、お休み」
「残り五日のうち、一日は好きなことに使っていい」
二人は驚愕の表情を浮かべる。
「最後に」
立てられた指が三本になった。
「夏休みと冬休みは二週間ずつ」
「春休みは五日」
「有給は――全部消化すること……これは休みの少ない、あなたたちに与える慈悲よ」
カチャリ、とシンクの中で皿が重なる音がした。 クロサワとイカロスは、幽霊でも見たかのような顔で静かに沈黙した。そして――。
「……お、お嬢……」
「……お嬢様……っ」
二人は、その場に崩れ落ちんばかりに肩を震わせた。頬を伝うのは、紛れもない涙。 これまで〈4S〉という巨大組織の最前線で、不眠不休、命を削るようなデッドラインをいくつも越えてきた猛者たち。彼らにとって、玲子が突きつけた「馬車馬のような条件」は、この世の何よりも甘美で、奇跡に近い救いだった。
「あら、そんなに嫌だった?」
玲子は不思議そうに首を傾げたが、二人は首を振るのが精一杯だった。
「いや違う……」
「滅相もございません……っ!」
嬉しすぎる。ただ、それだけだった。
玲子は二人の震える背中を眺め、勝ち誇ったように口角を吊り上げた。
「どう? 逃げ出したくなるような『地獄』でしょう?」
彼女にしてみれば、これは単純な脅しだった。二人は弾かれたように顔を上げる。
「辞めるなら、今のうちよ。後から泣き言を言っても知らないわ」
一拍。
「辞めるなど、とんでもないことです!」
「冗談でも二度と言うな。縁起でもねえ!」
今度は声だけでなく、その必死な形相までもが完璧に揃っていた。 玲子は意外そうに、ぱちりと目を瞬かせる。
「え? だって、私が大学にいた頃は、冬休みも春休みも一ヶ月、夏休みなんて二ヶ月もあったのよ? それをこれだけ削って働かせるんだから、相当な重労働じゃない」
クロサワが天を仰ぎ、深く、震えるような溜息をついた。
「お嬢様……それは、特権階級の『学生』という生き物の基準です」
イカロスも、したり顔で深く頷く。
「社会人の現実ってのはな、お嬢。そんなに生易しいもんじゃないんだ」
「ええ……?」
玲子は納得がいかないように首を傾げた。
「でも私、お父様の会社に籍を置いてから、週に二日しか出社していないわよ? それでも十分、みんなと同じくらい働いているつもりだったけれど」
二人の視線が、無言のままクロサワへと集まった。〈4S〉の内情を最もよく知る老執事は、諦めたようにモノクルを拭い、静かに問いかける。
「……お嬢様。大学在籍中、あなたが気まぐれに出願された特許の数を覚えておいでですか?」
「十件くらいかしら? 出す度にお父様がすごく喜んでくれるから」
「では」
クロサワは一旦言葉を切り、喉の奥を整えてから、事実の重みを突きつけた。
「その特許のライセンス料が、4Sの口座に年間いくら転がり込んでいるか、ご存知ですかな?」
「知らないわ……明細を書き上げたら、あとは全部丸投げだもの」
「……年に、十億円近くです」
玲子の思考が、物理的に固まった。
その沈黙を縫うように、イカロスが肩をすくめて笑う。
「正人様は仰ってたぜ。『玲子は好きにしておくのが一番金になる。下手に縛り付けるのは、金の卵を産む鶏を絞め殺すようなもんだ』ってな」
「あと、これだ」
イカロスは誇らしげに目を細めた。
「社内では有名な伝説があった。『たまにしか現れないが、たった一日で十日分のタスクを片付けて消える、化け物みたいな新人がいる』って……気になって正体を洗ってみりゃ、お嬢だったってわけだ」
玲子は今度こそ、目を丸くして固まった。
「……え? 私、一日で十日分も働いてたの?」
「左様でございます」
クロサワが、静かに、そして少しだけ恨みがましく続けた。
「……私は執事として、日に十六時間働いて参りました。息子に職を譲り、相談役の椅子に逃げてからも、最低十二時間は拘束されておりました」
イカロスも、寂しげに視線を落とす。
「俺もだ。旅行に行く約束を破って、娘にふくれっ面されるのが……あれが一番、身体に堪える」
鉄人と呼ばれた男たちの告白は、あまりに切実だった。玲子の「おままごと」は、彼らにとって初めて手にする「人間らしい生活」への片道切符だったのである。
玲子はしばらくの間、沈黙して俯いていた。 やがて顔を上げると、何かを閃いたように手をポンと叩き、あっさりと告げた。
「わかったわ。じゃあ、あなたたちが望むなら今まで通り十二時間労働で――」
「「七時間でお願いします!!」」
食い気味の、凄まじい絶叫が重なった。 老紳士と巨漢の戦士による、人生で最も息の合ったコーラス。 玲子が一瞬だけ驚いたように目を丸くし、次の瞬間、悪戯に成功した子供のように楽しそうに笑い声を上げた。
「……決まりね。これ以上は、一分だって働かせないわよ」
こうして、この組織の労働時間は――一日七時間と定められた。
ひとしきり笑った後、玲子はまるで天気の話でも始めるような気軽さで、二人にタブレットを差し出した。
「はい、これ……私たちがこれからやる『おままごと』の台本よ」
イカロスがタブレットを受け取った。画面に踊る非日常な文字列を、顎に手を当てながら何も言わずにただじっと眺めていた。
やがて、その岩のような指先が、わずかに震え始める。
「……お嬢。これ、本気でやるのか?」
「ええ。これくらいやらないと、退屈は殺せないでしょう?」
玲子は優雅に脚を組み替え、まるで明日のランチの予定を語るように、さらりと告げた。




