第五十六話 参加希望
助手の勧誘に対し、カタリストが真っ先に手を挙げた。
「私、参加します!」
それに触発されるように、周囲の学生たちも次々と声を上げ、五人の枠は瞬く間に埋まった。
助手は満足げに頷き、現金の入った封筒を配り始める。
――実験当日の朝、データセンターのダイニング。
玲子はキッチンで軽やかな鼻歌を交えながら、彩香の弁当を仕上げていた。その手つきはいつになく楽しげだ。
彩香はそんな玲子の背中に、深々と頭を下げる。
「お姉様、いつも本当にありがとうございます」
「気にしないでいいわ。自分のお弁当を作る時だけだし、イカロスやクロサワにも作ってあげているのよ……はい、今日は卵焼きを少し多めに入れておいたわよ」
手際よくおかずを詰め、蓋を閉めた玲子が、慈しむような微笑みを彩香に向けた。その温かな空気に誘われて、彩香はつい昨日の「幸運」を口にした。
「お姉様、実は今日、心理学の実験に参加することになったんです。今後の勉強にも役立ちそうですし」
「え、そうなの? 随分と早いわね。入学したばかりなのに」
「アルバイトのようなものです。前金として、もう現金で二万円いただいたんですよ。それで昨日、指定された通りに防寒着を揃えました」
「……現金と、防寒着?」
玲子の手が止まった。春の陽光のような微笑が、一瞬で訝しげな眼差しに切り替わる。
「冬でもないのに、わざわざ防寒着を買わせてまで……一体、どんな実験なの?」
「極低温下での心理実験だそうです。今日の十八時に、学内の低温実験室で行うみたいです」
「……そう」
玲子の声色が、目に見えて低く、不審のトーンに染まっていく。その場に漂う空気が急速に冷え込むのを感じて、彩香は慌ててフォローを入れた。
「大丈夫ですよ。怪しい筋からの依頼じゃなくて、ちゃんと大学の助手の方からの勧誘でした。それに……何より、その方の『心の中』も確認しましたから。本心から、学生のための有益な実験だと思ってくれていました」
「……あなたがそこまで言うなら、とりあえずは分かったわ。気を付けてね」
(……怪しいわね。現金前払いとか、大学の正規バイトの勧誘を直接行うなんてあり得ないわ)
玲子はそれ以上、言葉を重ねなかった。
けれど、彩香を送り出した後のキッチンで、彼女は手元のタブレットを静かに起動すると、イカロスとクロサワに緊急招集メッセージを送る。
玲子はデスクに置かれたマリーとメリーの頭をそっと撫でた。
「二人とも、彩香の大学へ行くわよ。とりあえず、実験室周りの情報が欲しいわ」
『玲子ちゃん、任せて!』
『玲子様、了解しました』
――午後。大学キャンパスに隣接した駐車場。
シロの車内で玲子はマリーたちが吸い上げた調査報告を、猛烈な速度で査読していく。
「……今のところ、おかしな点は見当たらないわね。ただ、低温実験室の予約目的が何も記入されていないのが気になるわ」
運転席で腕を組んでいたイカロスが、ミラー越しに玲子を見た。
「なあ、お嬢。もし何かあったら俺がひとっ走り行ってくるぜ。実験室の強化ドアだろうが何だろうが、物理的にぶち壊してやる」
玲子はイカロスの案を否定しなかった。
「……もし本当に彩香の命に危険が生じた場合は、迷わずお願いするわ」
助手席のクロサワも、顎に手を当てながら慎重に提案する。
「大学側に直接掛け合い、実験そのものを中止させる手もありますが……」
「それは駄目よ。あの子、本当に楽しみにしていたから。もし私の取り越し苦労だったら目も当てられないわ……」
玲子は何かを思いついたように、長い髪を素早く結んでパーカーの中に隠すと、深めにキャップ帽を被り、伊達メガネをかけた。
「念のため、実験室とその周りにドローンを数機配置してくるわね」
――リュックを背負い、軽やかな足取りでキャンパスへ足を踏み入れる。
行き交う学生たちの喧騒。玲子はその「日常」の空気を眩しそうに、けれどどこか寂しげに眺めた。
(……懐かしい雰囲気。私も卒業してそんなに経っていないのに、ずいぶん遠い世界に来てしまった気がする)
玲子が実験棟に近付こうとした、その時。
不意に、背後から声をかけられた。
「……おい、君。見かけない顔だね。この先の棟は今、立ち入り制限がかかっているはずだが?」
振り返ると、そこには腕章を巻いた「大学の警備員」が立っていた。
平和な日常を勤務する警備員特有の「隙」がない。腰に下げた無線機の位置、視線の配り方、動作一つ一つが特殊訓練を受けた者のそれだった。
(……この男、きっと偽物ね)
玲子の直感が、そう告げていた。
「あの……私は今日十八時の実験に参加する学生なんです。私は立ち入り制限の対象外ですよね?」
玲子はあどけない表情を作り、慌てたふりをしてリュックから学生証を取り出し、警備員に見せた。そこに書かれていたのは、『佐藤彩香』という名前だった。
「……確かに参加リストにはあるが。開始前に来るようにしてくれないか。今は設備の検査中なんだ」
「ごめんなさい! 実験棟のラウンジに忘れ物をしてしまって……もしどうしても駄目なのでしたら、私の『知り合い』の警備員さんに、直接お願いして取ってきてもらうように連絡しますけど……」
玲子がスマホを取り出そうとすると、男の瞳に一瞬の動揺が走った。
「……分かった。ただし、忘れ物を取ったらすぐに建物から出て行ってほしい」
「ありがとうございます、助かります!」
玲子は茶目っ気たっぷりに笑うと、訝しんだ男の脇をすり抜け、建物内へと消えていく。
残された「警備員」は、忌々しそうにその背中を見つめた。
「……ガキが。余計な手間をかけさせやがって」




